【再録】ダブルキャストにはなれない


二.



 織田作之助と云う男は、太宰治の友人としては少し出来過ぎのきらいのある男だった。
 調べた訳ではなかったが、その存在を認識すれば、成る程男の評価は方々から耳に入ってきた。例えば傘下の商店街のひどい雨漏りを直しただとか、雨天時に増水した川に取り残された犬を救出しただとか。伝え聞く任務はどれも凡そマフィアの構成員のものとは思えなかったが、如何やらそれでも一応ポートマフィアの所属らしかった。しかも位置付けは最下級構成員だと云う。俺は首を傾げた。あの男が、その程度の位置に留まる腕前の持ち主だとは思えなかったからだ。勿論戦闘の腕だけで伸し上がれる世界ではないが、太宰が友人と認める以上、要領が悪い訳でもあるまい。そう思っていたが、見誤っただろうか。
 然しその理由は直ぐに知れた。
「何で手前が此処に居やがる 」
 怒鳴る。抗争の最中だった。銃弾の飛び交う中で、織田がふらりと俺の下に顔を出したのだ。俺の下、詰まり最前線だ。如何やって此処まで来たんだ。と云うか何故今来た。莫迦か。その全部を込めて怒鳴った。男は一応の武装はしていたが、銃撃と爆音の渦巻く中ではそれはあまりに軽装備に思えた。以前に見たままのラフな格好と銃の二丁で抗争の最中に飛び込んでくるなど、正気の沙汰じゃあなかった。
 だのに、それが幹部の名を出して落ち着き払って云う。
「指示書を届けに、」
「おい、伏せろ!」
 ガン、と障害物を排除した敵が突入してくる。短機関銃を所構わず撃ち尽くす音。部下がそれに応戦する。俺は反射で片ッ端から銃弾を弾き、その辺の敵に撃ち込んで殺しながら、唯一、無防備に立ち尽くす男の下へ走った。
「織田ッ!」
 然しその重力操作が一歩、織田に届かない。
 守ってやれねえ。
 織田の体を無数の銃弾が貫く、その光景を目にすることになるだろうと腹を括ったその瞬間。
 織田が数歩、すっと下がった。
 何だ、と思う間も無くぱん、と何発かの銃声。織田の手元から昇る硝煙。止む短機関銃の鳴き声、倒れ伏す敵の音。
 銃を抜く手は見えなかった。
「……おいおい。最下級構成員、だと?」
 敵を難無く仕留めた後、落ち着き払って指示書を差し出してきた男の様子に、感心を通り越していっそ背筋の冷えたのを覚えている。あれは決して戦えないからその位置に居るのではない。戦えるからこそ、敢えてその位置を選び、其処に収まっているのだ。
 聞けば、この男は、その銃で一度も人を殺したことが無いと云う。 
 こんな組織に居ながらそれが出来る人間を、俺は他に知らなかった。

 一度だけ、飲み屋で鉢合わせたことが有る。
 ばたりと、それは本当に偶然だった。互いに目を見開いた。相手の姿を視認し、ああ、あのときの、と思い至るまで数秒。あの、太宰が溺れていたときの。
 先に動いたのは織田だった。黙って一礼し、去ろうとする。呼び止めたのは俺だ。何時もなら黙って送り出していただろうが、酔いが回って思考が散漫になっていた。
「待てよ。飲めねえ訳じゃねえんだろ」
 織田も少し考えて、黙って俺の隣に座った。お互いにちびちびと酒を飲んで、けれど共通の話題など持ち合わせていなかったから、自然、太宰の話に流れた。
「手前、善く彼奴の友達なんかやってられるよなァ……」
「俺も、太宰の相棒を務める貴方のことは凄いと思っている」
「嫌味か?」
 俺の呂律の回らない言葉に、織田はいや、目元を和らげて笑った。
「俺が云うようなことではないが――彼奴は賢い。それ故に、孤独なんじゃあないかと思っていた。誰も、彼奴に寄り添うことなんて出来ないんじゃあないかと」
 だから、太宰の側に居るのが、貴方みたいな人で良かった、と。
 俺も――そして織田も。その日はひどく酔っていたに違いなかった。だからやけに饒舌に、言葉を零してしまっていた。
「貴方なら、太宰を陽の当たる場所に引き摺り出せるのかも知れない」

     ◇ ◇ ◇

 然し、俺がそれ以上織田作之助に近付くことは無かった。俺にとって、織田は飽くまで『太宰治の友人』だった。それ以上の交友を築く積りは無かった。例えあの男が、どれほど人間的に好ましくても、だ。
 それは俺と太宰の間の不文律だ。
「……ねえ、織田作と何か有った?」
 太宰の口から、俺に対して織田の名前が出たのも、その一度きりだった。彼奴にしては随分と慎重に言葉を選んでいたように思う。
「何かってなんだよ」
「……別に」
 素っ気無い返答に反して、友人を傷付けたら幾ら相棒でも殺すとでも云いたげに、ぎら、と殺気の篭った黒い瞳に笑う。
 ――貴方なら、太宰を陽の当たる場所に引き摺り出せるのかも知れない。
 無理だと思った。手前の友人に関することでさえこんな目をしやがるんだ。そんな明るい場所では、此奴はきっと生きられない。
 だから、俺にそう云うことを望まれても困るんだ。
 太宰には太宰のプライベートが有り、俺には俺のプライベートが有る。相棒なんて、所詮仕事上の関係だ。俺達は互いにその領域を土足で踏み荒らさないよう、適切な距離を保っていた。
「……ん?」
 任務の後だった。夜風が随分と涼しくて、上機嫌で居ると外套の内側が震えた。携帯の着信だ。
 取り出して見ると、液晶に浮かぶ、『青鯖』の文字。

 俺達は、互いに適切な距離を保っていた。
 先に破ったのは太宰だ。

     ◇ ◇ ◇
 
「……邪魔をするぜ」
 静寂を壊さないように、俺はその酒場に足を踏み入れた。
 中を窺い見ると、初めて見る客の顔に静かに頭を下げるバーテンダー。そしてその前に、見知った二人の男が居た。
 一人は太宰だ。カウンターに突っ伏して、俺の来訪には気付きもしない。元が白い所為で、その肌が今は真っ赤に染まっているのが目に見えて判る。それがふにゃりと表情筋を緩め、ついでに涎を垂らしながら、阿呆面を晒して寝息を立てていた。おいおい正気かと俺は痛む頭を押さえる。こんな、何時誰に襲われるかも判らない場所で、選りにも選ってマフィアの幹部様が眠りこけているなんて正気じゃない。
 そしてもう一人は。
「夜分遅くに、済まない」
 俺を前にして、織田はひとつの動揺も見せず、礼儀正しく一礼した。飲みの席での会話としてではなく、上司と部下としての態度だ。俺も合わせてちらりと一瞥するに留めた。其処には堅苦しいマフィアの上下関係しか無かった。
 だから気が進まなかったし、この酒場に立ち入るのは嫌だったんだ、と俺は一つ嘆息する。俺には俺の、太宰には太宰のプライベートが有る。そして此処には、組織の立場を超えて育まれた何かしらの関係が在るのだろう。俺が入り込むことでマフィア内での関係を持ち込んで、それを壊してしまうのは忍びないと思っていた。太宰の為ではなく、飽くまで太宰に友人として付き合ってやるなんて精神力を持ち合わせている人間に敬意を表して、だ。
 それなのに此奴は、人の気も知らねえで。呆れて太宰を再び見遣ると、その手に握られた携帯端末に浮かび上がる『なめくじ』の文字。俺の携帯に着信が在ったのは半時ほど前だ。酔い潰れた太宰の言葉は何一つとして意味を成してはいなかったが、バーの名前だけを聞き出して何とか此処まで来たのだ。
 まさか本当にあの遣り取りで俺が迎えに来るとは思わなかったろうな、と心底同情してちら、と織田を見遣った。誰だって階級の上の者が突然来れば硬くなりもするだろうと。然し織田はそんな素振りは見せず、臆すること無く興味深そうにじっと此方を見ていた。その表情に反して、立ち姿には一分の隙も無い。
 俺が太宰を害そうとすれば、直ぐに動けるくらいには。
 はあ、と溜息を一つ吐いて瞑目する。
「……手前と太宰が居るなら、あともう一人も居ると思ったんだが?」
「安吾なら、所用が在ると云って先に」
「チッ、あの狸野郎」
 その姿は脳裏にありありと思い浮かべることが出来た。「え、あの人が来るんですか? 嫌だなあ、あの人と鉢合わせるの。織田作さん、太宰君をお願いしても善いですか?」そうしてするりと帰っていったに違いない。
 どいつも此奴も。いら、として未だに寝こけている太宰のスツールをがん、と乱暴に蹴る。
「オラ太宰、手前何酔い潰れてやがる」
 ぐに、と頬を抓ると、「ふへへ織田作ぅ……」と意味不明な呟きが漏れ出て思わず「……阿呆だ」と呟く。試しに銃を抜いて額に宛ててみるが、何の反応も無い。
 ここまで酔い潰れる太宰は久し振りに見た。あの夜以来だ。
 夜風の涼しい中、肩を貸してやると酒臭い息を漂わせて。手前何を酔い潰れていやがる、と海に落ちそうになった処を引き上げて怒鳴った俺に、太宰はにへ、と笑って云い放ったのだ。
 ――中也が居るから、善いじゃない。
 多分、あの夜のことは覚えていないんだろう。仮に太宰が覚えていたなら、その後嘸や自殺が捗ったに違いなかった。
 そうだな、と俺は独り言ちる。
 あのときは俺が居たから善かった。
 けど今此処に、俺は居なかったんだぜ、太宰。

「……織田」
「ああ」
「お前、此奴の家は知っているか」太宰を指差しながら訊く。「セーフハウスでも何でも善いが。今の家は知っているか」
「……いや」
「ふぅん」
 俺はにこ、と笑う。未だ教えてねえのは好都合だった。
 懐から手帳を取り出し、ぺりっと一枚破いて其処へ簡易な地図を書く。セーフハウスは俺と太宰の共有だったから、それを教える積りは無かった。太宰を連れて仲良く帰宅するなんざ御免だった。書くのは太宰の拠点だ。
「此奴を此処へ輸送しろ。此奴の家だ。……ああ、多分鍵は其奴の」メモを渡しながら太宰の体を顎で示す。「懐ん中に入ってる。キーケェスの右から二つ目」
「……いや。然し」
 織田はすっと目を伏せる。ここで初めて迷いの表情を見せた。太宰のプライバシーを慮ってのことだろう、二言目には消極的な拒否の言葉が出る。織田は太宰が、自分のことを勝手に知られるのを善しとしないと知っている。勝手に縄張りに踏み込まれるのも。それ故の拒絶だった。
 だから、敢えてそれをさせる。
「何を勘違いしてやがるのか知らねえが、これは上長命令だ。手前に拒否権が有ると思ってんのか」
 織田が渋々、了承の意を示して頷いた。俺はその返答に満足し、最後に太宰をもう一度殴って、その酒場を後にした。

 太宰が次に目を覚ましたときを想像して、口の端が自然と持ち上がる。
 これは、細やかな嫌がらせだった。

     ◇ ◇ ◇

「最低」
 次の日の昼、セーフハウスに帰ってきた太宰の機嫌は最悪だった。いい気味だ。俺の機嫌は太宰のそれに反比例して上向く。
 それが余計に癪に触ったのか、太宰はドスドスと腹に拳を入れてきた。痛くねえっつうのに。
「最低。如何して織田作に私の家教えたの。て云うか何で君が来たの」
「手前自分の端末の履歴見たのかよ」
「は……?」
 胡乱げな目を向けるものだから、太宰の衣囊から端末を抜き取って操作し、発信履歴の一覧を突き出してやった。ずらっと並ぶ『なめくじ』の文字に、太宰の顔がみるみる内に引き攣る。ざまあ。
「うわ……首吊ってくる……」
「これから任務だろうが」
 ふら、と何処かへ行こうとする太宰の首根っこを捕まえ、そのぐしゃぐしゃの襯衣を着替えさせようと釦に手を掛ける。脱がせようとして、そうして気付いた。何時ものシャンプーの匂いに混じる、別の匂い。煙草と、硝煙と、香水と。まあ、そうだろう。
「寝たのかよ」
 その瞬間の太宰の顔は、随分と見ものだった。さっと頬を紅潮させ、それからぎりっと俺の不躾な問いに対する怒りを露わにし――然し云い募るのは得策でないと、奥歯を噛んでその感情を沈めるのに、僅か数秒。
「……黙秘権を行使するよ」
 ふうん、と俺は笑った。詰まんねえの、と。寝たなら寝たで誂ってやろうかと思ったし、寝ていなかったなら寝ていなかったで、あの太宰が、と嘲笑ってやろうかと思っていた。別にどっちでも構わなかった。ただ、その日一日は事あるごとに頬が緩んでいたのが間抜けだった。 

 この頃の太宰は、ひどく満たされていたように見えたのだ。



 ――織田作之助が死ぬまでは。
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