【再録】ダブルキャストにはなれない


一.



 ぱちりと目が覚めた。すん、と鼻を利かせる。酒の匂いはしない。自分以外の人間の匂いも。強いて云うなら、清潔な朝の香りが漂っていた。
 随分と懐かしい夢だ。
 寝台から体を起こす。薄っすらとカーテンを透かして届く陽光は、夜の気配を綺麗に拭い去っていた。けれどあの夜のことは今でも良く覚えている。俺達が相棒になったばかりの頃だ。今ではもう、あの男があんな顔を自分に見せることは無いのだろう。あんな、溶けた砂糖菓子のように頬を緩めた間抜け面。
 あれは彼奴の失態だった。あの頃は互いに嫌悪感を剥き出しにして、気に食わないと罵っていた。そうするのが暗黙の了解だった。破ったのは太宰だ。だから何時か、引き合いに出して誂ってやろうと記憶の底に置いていたのだ。結局、記憶だけを残して本人はふらりと居なくなってしまったが。
 じりり、と遅れて鳴る目覚まし時計。それを止める拍子に机上の暦が目に入り、ああと納得する。ああ、道理であんな夢を見た訳だ、と。
 今日は珍しく仕事の無い日だった。後少しだけ寝ていても善かったが、どうも昔の影が脳裏にちらついて仕方が無い。少しだけ記憶を紐解いてみるかと、筆記具と手帳を取り出す。万年筆は手に馴染むものだ。もうかれこれ四年来の付き合いだったから、相棒みたいなものだった。さら、と元相棒とは違った癖の無さで洋墨が紙に吸い付く。
 俺は俺なりに、元相棒の居ない日常に折り合いを付けていた。
 あの男は、上手い折り合いの付け方を見付けたのだろうか。
 俺の元相棒――太宰治と云う男。

     ◇ ◇ ◇

「友達が、出来たんだ」
 思えばその日が、太宰にとって最大の転機だったのだろう。
「友達が出来た」
「……だから?」
「うーん、いや、別に……?」
 時期としては、龍頭抗争の後だった。本部から近い部屋を二人で借りて住んでいた。利便性の為だけだ。それ以上の理由も関係も、俺達の間には無かった。
 俺はソファに仰向けに体を沈めていて、太宰は玄関を抜けて居間に入ってきた処だった。俺の声からは、興味と云うものが尽く抜け落ちていた。
 太宰も俺に報告をすると云うよりは、口にすることに依ってその現実を留めておこうとするような――形を確かめるような慎重さで唇を窄めて言葉を辿った。「ともだち」そう呟く姿はまるで地球に初めて降り立った宇宙人のようで、いいから疾っとと外套を脱いで風呂にでも入って来いと思った。太宰から漂う、泥と血の匂いが濃かった。
 どうせまた、碌でもねえ『お友達』なんじゃねえのかよと思ったが、様子を見るに如何やらそうではないらしい。いや、マフィアなんて組織の中で作る人脈なのだから、碌でもないことに違いはないだろうが、短絡的に、ヤクの売買だとか体の関係だとかそう云うもので繋がってる訳ではないらしい。驚きだった。太宰に友達を作るなんて能力が有ったことも驚きだったし、この男に付き合う奇特な人間がこの世に存在していると云う事実も信じ難かった。騙されてんじゃねえの、と一瞬思う。騙されて、壺でも売り付けられてんじゃねえの。
 然しどちらかと云えば太宰が壺を売り付ける側である方がしっくりくる。
「嫌だな。初めて出来た、大事な友達なんだ」
 ふうん……と頷く俺は、そのとき何を思っていただろうか。半信半疑……いや、1:9の割合で疑いを持って聞いていたから、正直よく覚えていない。ただ初めて見る種類の太宰の顔に、「気色悪い、」と一言、手元の雑誌を投げ付けたことを覚えている。

 然しその日を境に、太宰に少しずつ変化の兆候が見られるようになった。と、少なくとも俺は思っていた。敵味方への仕打ちの残虐さは相変わらずで、自殺趣味も常時顔を覗かせている。組織の誰に訊いても、そんな事象など生じていないと云っただろう、それは些細な変化だった。
 例えば、瞳の色だとか。
 言葉の端々に滲み出る、喜色だとか。
「早く帰ろう」或る日などは、銃弾の雨の降る中を、両手を広げて大仰な仕草で歩きながら太宰は嘯いていた。「今日はこの後、行きたい処が有るんだよね」
 誰がその銃弾を叩き落とすと思ってんだ。俺は間髪入れず太宰と銃口の間に滑り込み、鉛弾を弾き返す。太宰を傷付けないように。周囲で血煙が上がり、篭った匂いが立ち込める。戦場に張り詰めた剥き出しの殺気が、その中に在って自身を無防備に晒す太宰の存在を異質なものとして際立たせていた。
 一通りの銃撃が止む。然し気を緩める暇も無く、太宰がふらりと俺から離れる。莫迦野郎と止めようとした瞬間、太宰の足元に転がり落ちる黒い紡錘形。
 ――手榴弾だ。
「太宰ッ!」
 反射で突き飛ばそうとして――はっと我に返った。太宰に触れれば異能の発動が出来ない。重力操作で遠くへ跳ぶことが。然し手榴弾を拾って何処かへやる時間は無い。
 如何する。
 迷いは一瞬だった。どん、と次の瞬間に聞こえた爆音は、予想されていたよりも遥かに小さいものだ。咄嗟に周りの重力を捻じ曲げたのだ。汚れつちまつた悲しみに。太宰と俺の周りの重力を歪め、爆弾の周りの重力を歪め、爆破の衝撃を最小限に留める。後に残ったのは、そよ風程度の爆風。
 唯一、吹き飛んだ帽子を捕まえる。
「足元を疎かにすんな、莫迦」
「……君の異能、此方が食らうダメージも抑えられるんだ?」太宰が物珍しさ半分、呆れ半分の声を上げる。「折角死ねると思ったのに、何で君はそう何時も邪魔ばっかりする訳」
「俺だって手前に異能が無きゃ今頃は疾っくに殺してんだ」
 今だって、こんな面倒なことをして守らなければならないくらいならさっさと放置して帰りたかった。云い返しながら俺は、はたと太宰の瞳の中に或る光を見付ける。
 あは、私のこと殺したいのに殺せないなんて中也可哀想、と細められた太宰の目に宿るのは微かな生気だ。何時もと違う。鳶色が閃いて、何処か先のことに想いを馳せている。
 この状況を楽しんでいるのだ、この男は。何時もなら、自殺未遂に失敗した後は纏わり付く泥のように死に切れなかった後悔ばかりを湛えるくせに。死ねなかったその後のことを考えて、今日の太宰は心底楽しそうに笑っていた。
 ――この後、行きたい処が有るんだよね。
「……手前、この後どっか行くのかよ」
「うん、ちょっと」随分と浮ついた調子が耳に付いた。「バーにでも」太宰は俺の知る限りでは、好き好んで量を飲むほど酒に強くはない筈だった。
 『友達』とやらが太宰に与えた変化と云うのは、存外大きいように、俺には思えた。

 然し芥川への仕打ちだけは、相変わらずのようだった。
 芥川、と云うのは、太宰が拾った異能持ちの少年だ。そう、犬猫のように貧民街から拾ってきたのだ、あの男は。
「太宰。行くぞ」
 その日は鉛色の雲が空に垂れ込め、今にも雨の降りそうな天気だった。俺が先頭に立って、「今から行けば増水に間に合うと思わない 」と巫山戯たことを抜かして自殺しに川に走ろうとした太宰を捕らえて引き摺っていた。芥川はその後を追ってこようとしていた。していた、と云うのは、途中でがくりと地面に膝を突いて叶わなかったからだ。げほ、と罅割れたような咳をする。先程の敵の襲撃で攻撃を食らったのか、それとも病が傷んでいるのか、直接見ていなかった俺には判別が付かなかった。
「――だからさあ、そのポンコツな異能を、防御にも回せと何時も云っているでしょう」
 何時の間にやら俺の手をするりと抜けた太宰が、芥川の痩躯を蹴り飛ばした。その云い振りだと、如何やら前者のようだった。苦鳴の声が響く。けれど芥川は、痛い、苦しいと喚くことはしない。それを太宰が好まないことを知っていたし――何より、それをした処で如何なることでもないと判っていたからだ。だからじっと悲鳴を噛み殺して耐えていた。
 けれど太宰はそれさえ気に食わない、と云った風に芥川を蹴っていた。喚いたって煩いと蹴り飛ばしただろうし、黙っていたってもっと牙を剥いてみろと蹴り飛ばしたことだろう。曰く、「この程度、防げるようになって貰わないと困る」。
 俺はその是非を問わない。興味も無かった。芥川の教育は太宰の領分であったし、芥川も乳飲み子じゃあねえんだから嫌なら自分で逃げ出すだろうと思っていた。芥川が哀れだとも思わなかった。
 ただ、教育であるなら――芥川が動かなくなってなお手を上げ続けるのは時間の無駄だ。
「太宰」
「……もういいや。中也、私先に行くね」
 ばさ、と黒の外套が翻った。かと思うと、太宰は振り返りもせずにさっさと遠ざかってしまう。薄情な奴。其処には、先日目にした喜色の気配は無い。
「手前は嫌になんねえのか」
 ぽつ、と頬に水滴が中った。雨粒だ。湿った匂いがする。この様子だと、直ぐにでも大雨になるだろう。そうなる前に、この場を離れたかった。
 芥川は、不思議そうに顔を上げる。
「……嫌?」
「毎日毎日、太宰にいいように蹴られて殴られて。手前マゾなのかよ」俺からしてみれば、太宰からの暴力を無抵抗に受け入れるなど在り得ない。「太宰の奴を殺してやりてえとか、思わねえのかよ」
「僕に太宰さんを殺すことは出来ません」そう芥川は答えた。ごほごほと、するだけで肺に毀損を与えそうな咳をしながら、ゆっくりと頭の中で俺の質問を反芻したのか――もう一度口を開いた。「僕はマゾではないです」
「説得力が無えな……」
 芥川は首を傾げた。痛みよりも疑問が上回ったのか、黒々とした目をぎょろりと左右に振り、それから少し考える素振りを見せた。ぽつり、ぽつりと雨が降り始める。
「例えば中原さんは」病的に白い指先が、黒い空をつっと一筋なぞる。「あの雨雲を殺したいと思ったことは有りますか? 或いは、その奥に隠れる太陽を殺したいと思ったことは」
「? 思う訳無えだろ、そんな殺せねえもん」
「僕も」げほ、と咳を一つ。「そのようなものです」
「ふうん……」
 若しかしたら、俺が芥川のことをおかしいと思うように、芥川も俺のことをおかしいと思っていたのかも知れなかった。太宰を挟んで、俺達は全く別の側から太宰を見ていた。俺がさっさと死ねと毒づきながら便宜上死なせられないでいることは、芥川からしてみれば滑稽に映っていたのかも知れない。
「お帰りになられた方が善い。降りますよ」
 雨の地面に打ち付ける音が、はっきりと聞こえ始めていた。視界が烟る。外套に、雨粒が強い勢いで打ち付けられる。その強さに、傘下の古い施設が雨漏りしないだろうか、なんて場違いな心配が頭を過った。川も濁って増水するし。
 はっとそこで顔を上げた。先程の太宰の言葉を思い出す。
 先に行くね? 何処へだ。
「太宰、彼奴……!」
 何となく、予感のようなものが有った。俺は芥川にはもう目も呉れず、気付くと川の方へと駆け出していた。

 結果的に云えば、俺の勘は的中した。太宰は川で自殺を図ろうとしていた。
 想定外だったのは、太宰の他にもう一人男が居たことだ。
 河原に着いた俺が見たものは、横たわる太宰に赤毛の男が覆い被さっている光景だった。咄嗟に木陰に身を隠す。隠れた後で、別に隠れる必要は無かったんじゃないかと気付くが、何となく出るに出られなくなりそっと様子を窺うに留めた。
 男は太宰よりも体格が良く、襯衣にズボンとラフな格好だった。見慣れた黒スーツではない。然し武装をしているようで、外套を脱いだその脇からはちらりと拳銃嚢が見えていた。二丁。使い古されている。背を向けているにも拘らず、その身のこなしには隙が無い。
 そして全身、ずぶ濡れだ。それが、如何やら入水直後らしくぐっしょりと濡れた体を横たえる太宰の脇で、膝を突いて「太宰、太宰」と呼び掛けていた。
 すわ追い剥ぎかと思ったが、如何やらそうではないらしい。男の行う処置を見るに、太宰は未だ息が有るようだった。低く滑らかな声が、太宰の名を繰り返し呼ぶ。
 然し太宰は目を覚まさない。
 暫くすると、赤毛の男がふいと体を起こした。何をするのかと見ていると、ただじっと川の方を向き、それから声を張り上げる。
「頼みが有る」
 朗々とした、よく通る声だった。雨音の中でも光る灯台の灯りのように、それははっきりと届いた。
 俺の方まで。
「太宰を連れて帰ってやって呉れないか」
 その頼みは明らかに俺に向けられたものだった。男は相変わらず背を向けていて、此方を一度も見ていないにも拘らず、だ。俺は僅かにその身を揺らした。無論、気取られないように気配は消している。けれど男は、当然のように俺が背後に居ることを受け入れていた。俺が気を抜いていたか、或いは男が余程の手練れか。
 木陰から歩み出る。
「……手前で連れ帰れよ」
「生憎と、俺は太宰の家を知らないんだ。……それに、貴方は太宰を迎えに来たのだろう」
「は」
 太宰に施した処置の適切さとは逆の、とんだ見当違いの言葉を鼻で笑う。別に迎えに来た訳じゃあない。死んでねえか如何か確かめに来ただけだ。そして死んでいないなら、もう用は無い。
「俺はそこまで暇じゃねえんだ」
「待って呉れ」
 踵を返した俺を引き留めようと、赤毛の男が漸く振り返った。俺は男を一瞥し、そこで初めて男の目を見た。その瞳に湛える雰囲気はひどく柔和だ。其処には、身のこなしから想定していた凶悪な雰囲気などはまるで無かった。マフィアっぽくねえな。それが第一印象だった。
「頼む。……俺は、未だそこまでしてやれないんだ」
 然しそれ故に、この男か、と確信する。
 太宰の自殺未遂にも狼狽えずに処置を行い。
 幹部である太宰のことを、親しげに呼ぶ様子。
 太宰治の、お友達。
「手前、名は」
 ――然し、俺がその名を直接聞くことは叶わなかった。
 もぞり、と水濡れた雑巾のようだった太宰の腕が上がった。それが赤毛の男の裾を掴む。心配そうに、慌てて太宰の体を支えに掛かる赤毛の男とその脇に居た俺の見る中で、太宰の目がぱちりと開いた。
 その鳶色の瞳に、赤毛の男を映す。
 そして、あの夜みたいな緩み切った――至極安心しきった顔で、太宰はふにゃりと笑ったのだ。
「あれえ、織田作だあ……」

 その日、俺は二つの事実を確認した。
 一つは、太宰の友人が織田作之助と云う男であること。
 そしてもう一つは、その織田作之助に――太宰治が、恋をしていると云うことだ。
2/5ページ
スキ