【再録】フェアリーテイルの亡骸



  四.</4>
 携帯端末が着信を報せた。ピリリ、と甲高いその電子音が妙に耳障りだ。コールを停止させる目的で、通話釦をタップする。
『中原さん! 善かった、樋口です! 今何処に居ますか⁉ 突然連絡が取れなくなったので心配だったんです! 先程から異能力を暴走させてテロ集団と化したグループが――』
「――樋口」
 遮るように云った。怒涛の勢いで話し込もうとしていた声が、通話口の向こうで堰き止められたようにぴた、と止まる。
 中也の体は自室にあった。
 目が覚めたら、寝台の上に横たえられていたのだ。太宰治の姿は其処には無かった。
 あるのはただ、左の眼窩に残された空洞だけ。
 淡々と、血で汚れたシャツを脱ぐ。新しいシャツを取り出そうと開いたクローゼットの中には誰も潜んでいない。
「そっちには当分戻れそうにねえわ。悪ぃが俺無しでやってくれ」
『……何かあったんですか』
 それには答えなかった。樋口には関係の無いことだ。あの男以外の人間は凡て関係が無い。他人に云って如何なるものでもなかった。
 カシャ、と拳銃に弾を装填する。途中、何だか霧でも掴むかのように距離感が測れずにばらばらと弾を取り落とした。舌打ちをして拾い直すのも一苦労だ。平衡感覚を取り戻そうと洗面所の鏡の前に立って色々動いてみていると、如何にもグロテスクな傷の残る切除の痕が気になって、何時の間にか机上に置かれていた眼帯を付けた。
 これで取り敢えず、奇異の目は避けられるだろう。
 鏡の中から、じっと此方を見詰める隻眼の男。
『……判りました。暴動は此方で何とかします。けれど、我々だけでは矢張り戦力不足は否めませんから、用事が済んだらどうか、早めに戻ってきて下さいね』
「善処はする」
 戻るとは何処へだろう、とぼんやりと思いながら答える。戻る処など無かった。何も失くなった首に手をやる。今や制御装置と云う鎖からは解き放たれたのだ。
 それは詰まり、中原中也は何処へでも行けると云うことで。
 何処にも帰る場所が失くなったと云うことでもある。
「……」
 電源を切った端末を上着の懐に捩じ込み、鉄格子に覆われた窓の前に立った。
 この程度なら、赤子の手を捻るくらいには訳もない。
 初めての感覚だ。
 何の制限も受けず、己を解放するのは。
「異能力」
 ぎぎ……と鉄格子が軋んで飴細工のように歪む。加重に耐えられなくなって、窓硝子が先に粉々に砕け散る。
 陽光を浴びて散る硝子の粉。
「……汚れつちまつた悲しみに」
 バキ、と箍の外れた鉄格子が吹き飛ぶ勢いで外れた。室内に一気に風が吹き込む。其処からひらりと身を踊らせると、空がきな臭く焼けていた。眼下の街では樋口の云っていたテロ集団の仕業だろうか、煙が其処彼処に上がっている。その一つ二つ大きい処に目を向ければ、嗚呼、あの辺りが前線だ。今から向かえば、この制限の無くなった力をもってして鎮圧は容易だろう。そう予測が付いた。

 然し何もかもが如何でも善かった。
 あの男を殺すこと以外。

 失くなった筈の左目が痛んだ。
 本来であれば、眼球を奪われた件は直ぐ様上層部に報告し、中原中也の権限を凡て停止させるべきだった。何せ太宰本人が堂々と宣言している――網膜認証のセキュリティを掻い潜るのに使用する、と。
 侵入されないよう対策をすべきだった。
 然し中也はそれをしなかった。
 携帯端末で未だ残っている自分の所属データを呼び出す。中原中也。危険異能力者。異能犯罪対策課捜査官。閲覧するのは自分の記録だ。自分が何時何処の生体認証をパスしたかのその履歴。
 コツン、と土瀝青で舗装された地面が靴音を鳴らす。
 突然空から現れた男に、驚きの目を向ける者も居た。然し大半はそれどころではないようだった。まるで爆撃でも受けたかのような様子の街の中、留まっているのは怪我を負って動けない者か死んで動けない者かだけだ。死体の方が幾分か此方に目を向けないので鬱陶しくはなかった。近くに呻き声が、遠くに悲鳴が、痛みと恐怖を折れんばかりに突き立てるように幾重にも空気を震わせている。と、目の前では一体、巡回ドローンが機械らしい涼し気な無表情で転がった死体を回収していく。
 地獄の一角のような光景には、然しあまり興味が無かった。
 周囲の焦げたような臭いと瓦礫の山を器用に避けながら目的地に向かおうとして――徒歩じゃあ面倒だな、とその辺に乗り捨てられていた車のドアを乱暴に開ける。中からごろりと転がり出た持ち主の死体を引き摺り下ろして乗り替わる。
 足を向けるのは端末の記録、それが最後に示す場所。
 即ち、異能力者の死体処理施設だ。

     ◆ ◆ ◆

 一つ目のロックは網膜認証だった。
 入り口付近に積まれた、異常な量のコンテナの山――恐らく中身は処理待ちの死体の山だろう――の脇を擦り抜けて、作業員用の通用口の前に立つ。
 確かに、あの男の云っていた通り壁に埋め込まれる形で網膜認証の機械があった。それを覗き込んで自分の目を認証させる。中原中也、異能犯罪対策課登録捜査官。通行を許可します。無機質な電子音声が響き、自動扉が音も無く開いた。
 捜査官には一定の捜査権限が与えられているから、例えその施設の職員でなくても浅い階層までなら立ち入りを許されることも多い。
 中は無人だった。外の混乱は及んでいないらしく、規則的な機械の稼働音に重ねるようにカツカツと、人一人居ない通路を通り抜ける。均等な直方体の形をした通路は壁も床も一面のっぺりと白い。白色以外に何も存在しないその空間を進むにつれ、余計な感情さえも削ぎ落とされるようだった。
 中也の心中は奇妙に凪いでいた。
 この先に居る、あの男を殺さなければならない。
 それだけが中也の心を動かしていた。きっとあの男もこの先で中也を待っているのだろうと云う確信すらあった。中也の獲物を目と鼻の前で殺してみせた男。中也の目を抉り取って奪った男。中也を首の枷から、解放した男。
 死にたがりの男。
 与えられた痛みが、脳に焼き付いたように鮮烈に離れない。
 二つ目のロックはパスコード式だった。
 然し扉はもう既に開いていた。あの男が無効化していったのだろう、小さなディスプレイには何の表示も映っていない。
 中也の首に嵌められていた、制御装置と同じように。
 中也は今、この上無く自由の身だった。
 何をしても、害獣を処分するように殺されることが無い。意のままに異能力を使うことも。感情を昂ぶらせることも。何も中也を害し得ない。
 だから己の欲のままに、一番したいことをする。
 一本道だった。業務用昇降機に乗ると、階数ボタンを押す間も無くぐんと下降が始まる。表示盤には地下四階までしか表示されていない。にも関わらず、四フロア分の移動を過ぎても昇降機は止まらず、その更に地下へとどんどんと落ちていく。軈てこのまま地獄にまで到達するのではないかと思い始めた処で、チン、と軽い音を立てて昇降機が目的のフロアへの到着を報せた。
 降り立つと、薄暗い中で最後の扉があった。然しこれには生体認証機器も、パスコードを入力する機器も無い。
 と、音がして振り返る。
 中也が乗ってきたのとは別の昇降機で、人間の――恐らく異能力者の死体がドローンによって運ばれてきた処だった。ドローンはその運搬のみに能力が特化されているのか、中也のことを侵入者として認識した様子は無い。
 その後に随いて最後の扉を潜る。

 目の前に広がるのは、巨大な円柱状の空間だった。

 部屋と云うよりは、塔の中にでも迷い込んだようだった。見上げれば何処までも空間が上へ伸びていて、視力の限界を超えた辺りで先が暗闇に覆われていた。タラップから目の前の巨大な空洞を見下ろせば、これも暗く床の所在が明らかでない。中也は少し考えて、小銭入れから十円玉を出して放る。地面に落ちる音は聞こえなかった。うっかり足を滑らせて落下すれば、地面に叩き付けられるより先に落下時間の長さに気が狂って死ぬに違いない。
 そして、その空洞を超えた向こう側――ぐるっと壁側に張り巡らされたタラップ、そのどれからも独立した中央だ――には、一本の柱のように一際大きな電脳がその存在を主張していた。一見すると大樹のように見えるそれは、上から下までケーブルの枝を茂らせて、それぞれ空中に配された周囲の小型の電脳が接続されている。
 腹の底から不気味に響く振動は電脳の稼働音だ。
 カン、と中也は躊躇いなく、中央に続く鉄製の橋を渡る。中心に近付くにつれ、その電脳の全貌が明らかになる。
 大樹のようにと形容した中也の直感は間違いではなかった。演算が走っているのか、電脳の表面は皮膚呼吸をしているように光り、無数のケーブルは生きているように蠢いている。
 然し葉の部分に繋がれ、カプセル状の容器を有したそれは、ただの小型の電脳と云うにはあまりに人に近い。
 繋がれているのは"人の脳"だ。
 無数の脳が溶液に浸され、中央の電脳に接続されているのを眺めながら、中也は最近善く似た光景を目にしたなと思った。あれも地下施設でのことでだった。随分と遠い記憶のことのように思える。
 あれは異能力を人為的に発症させる研究の為らしかった。
 ならこれは。

「――そうか。これが手前の狙いか」
 橋を渡りきり、その電脳の下に二人の男の姿を認めてその名を呼ぶ。
「太宰治」
 二人の男が振り返った。一人は緩慢に。もう一人は素早く。中也から太宰を庇うように、黒外套の男が前に立つ。此奴は何だっけ。まあ邪魔なら殺すだけか。ぶわ、と周囲の重力を解放し、殺意を向けた処で「善い、芥川くん」と太宰が口を開いた。男は中也から視線を逸らさないまま、三歩後ろへと後退る。
 中也と太宰の間に、邪魔なものが無くなる。
 太宰治。
 追い求めていたその男の姿を見て、中也は何か云い知れない感情が自分の裡から湧き出てくるのを感じた。思わず口を抑える。気を抜けば漏れ出てしまいそうだったからだ。心臓の奥から、鼓動と共に止め処無く溢れるそれが、憎しみなのかそれ以外の何かなのか、中也には判別が付かなかった。失った筈の片目が疼く。その姿を、視界半分でしか捉えられないことだけが今はただ惜しい。
 太宰は常と変わらず涼し気な風貌をしていた。それはこの、異様な人工物の下でも損なわれることは無い。
「早かったね、中原中也。もっと立ち直るのに時間が掛かるかと思っていたよ」
「は。時間を稼ぎたきゃあ両目を抉っていくべきだったろ」
「違いない」
 太宰はくつくつと喉を鳴らして笑う。挙句、自身の右目の包帯を指差して、私達、お揃いだねえと無邪気に笑う。その仕草に、思わず拳を握り込む。
 太宰は構わず続ける。
「中也、君はさあ」
 目線で示すのは背後の巨大な電脳だ。
「不思議に思ったことは無かった? 何処も彼処も異能力によるシステム化がされているけれど、そもそも異能技術とは何なのかと云うこと。異能力者がその場に居ないのに異能力が発揮される、その仕組みを」
 そう淡々と語る太宰の目は薄暗く闇を孕んでいる。同じだ。異能力なんて無ければ善かったと思うことは無いかと、そう口にしたときと。太宰治が異能力を疎む、その理由。
「"それ"が"これ"か?」
「そう。何の事はない、システムに異能力者の脳を組み込んでいたって訳――彼処にある脳は皆、回し車に押し込められたハムスターみたいにぐるぐると走り続けて我々に異能力を提供し続けているのだよ。便利な異能社会は、其処に囚われた哀れな異能力者達の犠牲の結実だ」
「……へえ」云われてみれば、電脳に繋がれた無数の脳は各々カプセル内で忙しなくぐるぐると回っているようにも見える。
「……あまり驚かないのだね」
「何だ、サプライズの積りだったか? それとも俺に人間を機械に組み込んで使うことに対してまともな倫理観でも求めたか」残念ながら、人間に首輪を付けて檻の中で飼い殺し、その能力だけを治安維持に充てる組織があることを知っている。脳だけならば生きた人間に首輪を付けるより余程心理的な抵抗は無いだろう。「それに、あの教授宅でも似たようなもんはあったろう」
「そう、それだ」太宰がぽん、と思い出したように手を打った。「この一連の計画で、あの場に君達が来たことだけが想定外だった。まあ、計画に支障が出るほどのものではなかったのだけれど……正直驚いたのだよね。如何してあのタイミングで来ることが出来たのか」
 何故だったか、と中也は思い返す。そう、あれは坂口が云い出したことだった。専門家へ話を聞きに行け、と。それが偶然だったのか、将又何かを意図してのことだったのかは中也には判らない。
「それに、こっそり異能力者化を実験して経過観察していたのに、直ぐに駆け付けられるのも鬱陶しかったね。あれも妙にタイミングが善かったなあ」
「ああ、それは予知能力だろ」
「予知?」
 其処で初めて太宰の秀麗な顔が曇った。まるで自分の知らない事実のあることが、この世界の致命的なエラーだとでも云いたげな表情だった。
 この男でもこんな顔をするのか、とその表情にどこか物珍しさを感じながら云う。
「坂口は確か、その異能技術を『テンイムホウ』と云っていた」危機的な状況を予知する、など果たしてそんなことが本当に可能なのかと最初は釈然としなかった。然し或るときを境に、予知する異能力を持った異能力者がこの群れの中に加わったのだとしたら納得が行く。「それ以外にも、色んな奴等の脳が此処に格納されてるんなら、急にそんなトンデモ技術が使えるようになんのも説明が付く……か」
「……ああ、そう。そう云うこと」太宰の声が一段と冷える。目にひらりと殺意が宿ったのは、予知をするような異能力があると、予測の出来なかった苛立ちからだろうか。「そうだよ、異能力を制御しているのは人の脳の部分だ――だからその異能力を持った異能力者の脳が取り込まれれば、此処で異能技術にして昇華されて社会に還元される。君のそのドミネーターが如何して三百以上を殺害する設定になっているか知っている? そのくらいあればこの中に放り込んで有用に使えるからだよ」
 その言葉に自分の腰に差した特殊銃をちらと見る。確かに携行型のこのシステムは、ある程度異能力が強い者にしか反応しない。異能係数が三百以上の人間の生命活動を停止させ、"脳を仮死状態にする"仕組みだ。
 そうして、死体は此処に運ばれてくる。
 異能力統括管理システムの下に。
 太宰の手が、黒い電脳の筐体の上を滑る。
「私はそれを、壊しに来たんだ」
 それは太宰の望みの在処だった。異能力者を増やし、態々人を殺す映像を見せてまで殺し合いをさせ、横濱の街を壊滅へと追い込んだ。それもこれも、凡てシステムの破壊の為だ。
 然し破壊を目論む程に異能力を憎んでいるのに、異能力者を増やす必要はあったのかと問えば、太宰は。
「だって、生身だと中々入りにくかったんだもの」
 ほら、と太宰が指を指した先で、電脳近くまで運ばれていた死体がスキャンされ、その異能係数の低いものから順に下へと無造作に棄てられているのが見えた。行き着くのは奈落の底だ。死体の落ちた音は聞こえてこない。
 制御装置を付けられたままであったら、何れ中也もこの有象無象の脳の仲間入りをしたことだろう。或いは死体の山と積み上げられていたか。嫌悪感は無かった。ただ、こんなものの為に、自分の人生の大半が檻に押し込められ与えられた職務を熟すだけのものに成り果てていたことが、少し莫迦らしくなっただけだ。

「……却説、お喋りはこのくらいにしようか。芥川くん」
「承知」
 ズッ、と目の端で呼ばれた男の黒外套が変形した。中也も身構える。男の異能力――羅生門は空間をも切り裂くと樋口から報告を聞いている。
 けれど重力操作は空間に働く力さえも捻じ曲げる。
 視界が狭くなってはいたが押し負ける積りは無かった。男の外套がずるりと鎌首を擡げるのをじっと捉えながら異能力を解放する。煩わしい首輪は無い。ふわと上着の裾が浮く。
 然し黒外套が目にも留まらぬ速さで貫いたのは、中也の脇にあった一つの小型の電脳だった。
 ごぽ、と嫌な音を立ててカプセルの中を満たしていた溶液が溢れる。てらてらと不気味に濡れた脳が、色を失くして固くなっていく。
 拍子抜けをして異能力の遣り場を失っている中也を尻目に、芥川と呼ばれた男は、その容れ物を一つずつ外套で捉え、繰り返し刺し貫いていった。何度も、何度も、何度も。
 差し詰め脳の大虐殺だ。
 子機と接続が切れた電脳が悲鳴のようなエラー音を上げる。それを聞く管理者は果たして未だ生きているのだろうか。此処には無慈悲に笑う殺人者しか居ない。
「ねえ、止めないの?」
「……止めて欲しいのか?」
「さあ。如何思う?」
 太宰が笑う。中也も笑った。異能力者を人とも思わず利用するシステムと、普段そのありたがみを知りもしないで享受していた人間達の日常が壊れされている今この瞬間、太宰と中也は確かに同じ思いを共有していた。
 ざまあみろ、と。
「……俺も一つくらいぶっ壊してやろうかな」
「おやおや、捜査官にあるまじき発言だ。善いのかい? 君は私を止める為に此処に来たんじゃあないの?」
「システムの狗としてじゃあなく、俺の、醜悪な、救いようの無い憎悪で殺されたい――じゃなかったか?」
 目の前の男の言葉をなぞってそう云うと、太宰はぱちりと瞬いた後、まるで甘味のビュッフェを目にした少女のような満足げな笑顔を浮かべた。
「じゃあ好きにする」
 そう云って、太宰は中也に背を向けて虐殺現場に駆け寄っていってしまった。機能を停止した小型の電脳、その一つに手を伸ばす。そしてその中身を大事に抱えた後、太宰は暫くじっとその手の中のものと見詰め合っていた。
 まるで愛しい恋人に相対するかのように目元が綻ぶ。
 その行動の意味は判らなかった。興味も無い。だから太宰が懐から何か液体を取り出してその臓器に掛け、火を点けてから棄てたことに対しても、何も云わなかった。
 傍らでは、小型電脳の凡てを壊し尽くした黒外套の男が、肩で息をして太宰の指示を待っている。
「……芥川くん」そう云って向けられる太宰の笑顔は、最早慈悲深い聖母のそれだ。「善いよ、君の役目は終わった。此処まで付き合って呉れて有難う」
 そう云いながら、太宰は芥川に向かって銃を構えた。
「おい」
 驚いて思わず一歩を踏み出した。けれど太宰も芥川も動揺した様子は無く、まるでそれが予定調和であるかのように、至極落ち着き払って振る舞う。
「その者の排除は宜しいのですか」
「うん。……ねえ、本当に善いのかな」
 問われた芥川の、太宰を見る目は揺るがない。
「構いません。元より承知の上です」
「……そう。何時も苦労を掛けるね」
「おい、善いのか」
 流石に口を挟んだ。だってその男は今までも、太宰の指示で動いていたのではなかったか。何時かの地下施設での献身的な様子を思い出す。何も殺すことはない。
 そう云い掛けた中也を、芥川の冷たい視線が制する。
「邪魔をしないで頂きたい」
 狂信者か、と思った。太宰を盲信するあまり、太宰の手で殺されることに喜びを見出すタイプの。
 然し芥川の瞳は冷静だった。狂気に染まってもいなければ恐怖のあまりに理性を失った訳でもない。
 ただ夜の湖面のように静かだ。
 それを太宰に向けて促す。
「太宰さん」
「うん。じゃあね、芥川くん」
「はい、太宰さん。……太宰さんもどうか、壮健で」
 ぱぁん、と銃声が響いた。頭を撃ち抜かれた芥川の体がふらりと蹌踉めいて、フェンスを越えて底の見えない下へと落ちる。落ちる寸前にちらりと垣間見えたその横顔は、いっそ安らかでさえあった。
 理解出来なかった。
 ただ、その選択を受け入れたのは、彼が太宰の従者であったからなのかも知れなかった。
「……蛙の子は蛙、か」
「? 何か云った?」
「いいや」
 首を振る。中也が太宰を追ってきたように、芥川も太宰に随いて来ていた理由があった。ただそれだけの話なのだろう。

「……それで、君は如何する」
 太宰が振り返った処で、中也ははっと我に返った。
 本当に、二人きりになってしまった。外の音は何も聞こえない。電脳はその本体を残して停止してしまった。地上はひどい有様だろう、何せ暴走する異能力を止める手段がもう何も無いのだから。残してきた同僚の顔を思い描こうとして、上手くいかないことに気付く。
 世界でこの場所だけが静寂に満ちていた。
 太宰と中也の間だけ。
「もうシステムは壊してしまったよ。本体は残してあるけれど、それもこの手でシャットダウンさせてしまえば異能技術の供給は途絶える。外の異能力の暴走も止められない。私を殺しても、結果は何も変わらない。それでも――」太宰は一旦呼吸を置いた。中也の顔色を、何処か探るように訊く。
「――それでも未だ、私を殺したい?」
 太宰を見る。そうだ。太宰を殺した処で何も変わらない。それに中也はもう太宰の手によってシステムの鎖からは解き放たれている。中也が太宰を殺す理由は何も無い。
 自分の私情でする以外は。
 何でも無くなってしまった自分の執着は、今や凡て目の前の男に向けられていた。
「……ああ」
 応えると、太宰は嬉しそうに笑って――手元に持っていた手榴弾を此方へ向かって放り投げた。
 そのピンは抜けている。
 咄嗟に直接キャッチしてそれを背後へとぶん投げる。爆発が起きて閃光が閃くが振り返る暇は無い。一気に距離を詰め足払いを掛けて崩しに掛かる。と、ぱん、と目を失った死角側から聞こえた銃声に勘だけで銃弾をナイフで弾く。異能力は使わなかった。どうせ対策をされている。「嘘」と太宰が瞠目して呟いた瞬間、がっと利き腕を蹴って銃を弾き飛ばし、その体を勢い良く引き倒す。
「痛ぁ……!」
 がん、と頭を床に打ち付ける音を尻目に荒げた息を整える。何が立ち直るのに時間が掛かると思った、だ。しっかり準備してんじゃねえか。
 今度こそ逃げられないよう床に押さえ付ける。
「君っ……何時もお腹に穴開けてたから、弱いのかと思ったら……っ」
「んな訳無えだろ」太宰の腹に馬乗りになって笑う。何だか清々しい気持ちだった。殺される恐れも無く、己の自由意志の下で異能力を使用出来ることが、こんなにも心踊るものだとは思わなかった。
 この開放感は、或る意味では太宰が齎したものとも云えた。
 この男は中也から目を奪っていった男で。
 異能無効化なんて云う無茶苦茶な異能力の持ち主で。
 此奴さえ居れば。
 此奴さえ居なければ。
 いざこの男を目にすると、相反する感情に掻き乱されて如何にも冷静になれなかった。
 それでも一つ、判っていることがある。
「俺ァあのときの答えを云いに来たんだ」
「こた、え……?」
 太宰が呻くように云った。中也に馬乗りになられ、首を絞められているこの状況でさえ、太宰は薄っすらと笑っていた。
 私は何か、君に問うたっけ。
「俺の望みは何処にあるか」
「ああ……そんなことも訊いたね……」
「手前だ」
 ぎり、と首を絞める手に力が入る。う、と太宰が苦しげに眉根を寄せる。
「手前なんだよ。心の寄る辺を何処に置いているか。俺の原動力は何だ? 何かに執着したことはあるか。何かに対し、心から怒ったり泣いたりしたことは」
 太宰がぶつけてきた問いを反芻する。
 全部諦めて生きてきたのだ。枷を嵌められ檻に押し込められ、生きる為に自由も感情を露わにすることも全部。
 そんな中也が、全身全霊で追い求めた存在。
「全部手前だよ、太宰治」この男の存在を願ったのもこの男の死を願ったのも全部。「俺の望みは手前だ。太宰」
「……熱烈だ。なのに君は、私を殺すの」
 そうだ。理屈で云えば中也のおかしなことだった。目の前の男に興味があった。目の前の男に執着があった。ならば生かすべきだと、頭の理性の部分がそう告げている。
 けれど殺さなければならない。
 殺してやらなければならない。
 それだけは、二度目に出会ったときから変わらない。
 だってそれが、"太宰の望み"だ。
「……ねえ、中也」
 その太宰の声は、死と対面しているとは思えないほどに穏やかだった。
 押さえた革手袋の下で、喉仏が上下する。
「一つだけ、街を元に戻す方法がある。私の脳を、あのシステムに繋ぐんだ。電網を通じて人間失格を――異能無効化を発動させれば、それで市民の異能力者化は解除される。このまま首を絞めてしまっては駄目だよ。この」太宰の手が、そっと中也の胸の辺りを撫でていく。「銃で殺さなきゃ。……瀕死なら、あのシステムは"治せる"んだから」
 その提案に、表情の歪んだ自覚があった。失われた片目の空洞が引き攣れて痛む。己の感情によって殺せと、云ったのは太宰だ。なのにこの期に及んで未だ、中也が街を救う為なんて正義で動いているような物云いをする。
「システムの狗じゃねえっつったぞ……」
「それでも君は生きていかなきゃいけない」太宰が喘ぐように口をはくはくと動かして云う。「可哀想に、私を殺した後も、君はこの如何しようも無く色褪せた世界を、生きていかなきゃあいけないんだから……」
 だから異能力者化を解除しろと、そう告げる太宰の目に閃くのは死にたがり特有の哀れみだった。気付けば手が云われた通りに銃を抜いていた。銃口を太宰の胸に押し当てる。
 心臓の上辺りを躙ると、黒いベストが少し沈んだ。
「一つ訊きてえんだが」そこでふと、疑問が首を擡げた。生きるのに膿んだこの男は、システムを壊し、システムに支配された世界を壊した後も、自ら死を選ばず生きる積りだったのだろうか。それとも。「若し俺が居なければ、或いは手前は横濱の街ごと心中してたのか……」
 そのことを思うと、少しだけ息苦しいような気分になる。太宰が中也と出会わなかった可能性。胸を焦がすその感情が、嫉妬だと気付くのにそう時間は掛からない。
 中也の心を見透かしたようにふふ、と太宰は笑う。
「いいや。心中するにも相手を選ぶさ。……私が試したかったのは、そう、自殺だ」
「……同じじゃねえのか」
 眉根を寄せる。行き着く先はどちらにせよ死だ。中也にとっては、どちらも同じに見えた。
 なのに太宰は首を振る。
「若しこのまま凡ての人間が死んで、世界に私だけが残ったら。誰も私を認識する人間が居なくなったら。それは逆説的に、自殺と云えると思わない……?」
 そう、私は死にたかったんだ、とうっとりと死を語る太宰の瞳に揺蕩う夢を見る。
 死ぬなら疾っとと頭に向かって引き金を引くなり首に縄を括って高所から飛び降りるなりすれば善い。
 然しこの男はそれを、全市民を滅ぼしてすると云う。
「だってこれは、復讐だから」
 然し判らないでもなかった。死に救いを見出しながら、死ぬことが出来ずに生きることがあることを知っている。
 誰か終わらせて呉れないだろうかと願いながら生きることを。
 けれど。
 手に力が篭もる。ガチ、と胸に当てた銃の撃鉄を起こす。
「安心しろよ、俺が手前を殺してやるから」
 この男の死を、願いを、誰にも譲る積りは無かった。
 これは中也自身の、醜悪で、救いようの無い執着だ。
「そう……」
 太宰が委ねるように目を閉じる。それは眠りに就く前に、瞼を下ろす動作に似ていた。

 一つの沈黙が流れた後、太宰が空気越しに中也の髪を撫でるように、穏やかな様子で口を開く。
「ねえ、一つお願いがあるの」
「何だ」
 素っ気無く応えると、まったく君は情緒が無い、と太宰は微かに笑ったようだった。
 静かな声が、無音の地下に響く。
「若し君が、私をあの電脳に接続して、街中の異変を解除したとして。そうして使い終わった後は、私の死体を、如何か土に埋めて呉れないかな……」太宰は少しだけ口元を緩め、はにかむようにその細やかな願いを口にした。「あの莫迦げたシステムの一部になったまま、生き永らえるのは嫌だからさ……」
「ああ」中也は頷いた。「約束する」
 それを聞くと、太宰は安心したように中也の手を手放した。
 引き金に指を掛ける。
「矢っ張り、君を選んで善かった……」
 太宰は微笑んでいた。
 中也の弾丸が心臓を貫く、その瞬間まで。 

4/6ページ
スキ