【再録】フェアリーテイルの亡骸
三.
端的に云えば、地獄の釜の蓋が開いたような騒ぎだった。
街が表層の平穏を保っていたのは数日だけだ。
謎の男によるセンセイショナルな全市民異能力者化宣言の動画は、その残虐なシーンを除いて繰り返し報道され、或いは残虐さそのままに有志によりアップロードされた異能電網上で多数閲覧された。軈て一つ、二つと恐怖に駆られた異能力者による暴力事件が明るみに出始め――或る日、昼日中のスクランブル交差点のど真ん中で、異能力で生み出されたと思しき黒獣による通り魔殺人事件が起こったことを皮切りに、各地で異能力の暴走、およびそれによる犯罪件数の増加が見られるようになる。
私怨による暴行、強盗、強姦、殺人。
街を凶悪犯が闊歩している、と云うのではない。つい先日まで普通に会社へ行き、学校へ行き、社会に溶け込んでいた一般市民がそれを行っているのだ。
まるで街全体が、追い立てられ、歯止めの効かなくなった草食獣の群れだった。
それはそうだ――今まで異能力は限られた者にしか使えず、厳正な法規制を受けて管理されていると思われていた。
けれど実際は、カメラの前で人を殺して見せた異能力者の男達は未だ逮捕どころか未だ所在の判明にさえ至っていない。
すると市民はふと或ることに気付く。
『異能力を行使しても、如何やら罰せられないらしい』。
それは誘惑でもあり、恐怖でもあった。歯止めの効かない群集心理により、今や横濱は未曾有の危機に瀕していた。
「はっ、手前等っ、大人しく、しやがれ……!」
通行人を襲っていた異能生命体を、勢いを付けて蹴り潰す。と、後ろから金属バットで殴り掛かってきた男の腹に肘鉄を食らわせ、その後も向かってきた集団を片っ端からパラライザーで撃って気絶させる。金目当てだろう、「警察が怖くて強盗が出来るかよ!」等と喚きながら鉄パイプのようなものを振り回してくるのだから堪ったものではない。いや、ステゴロ勝負であれば中也は大歓迎だが、今や目に入る人間全部が異能力者なのだ。相手がどんな異能力を持っているかも知れない。迂闊に接近戦に持ち込んで異能力で不意を打たれては敵わないと、一々ドミネーターを通しながら殴り倒していくのがひどく面倒だ。
異能力と一言に云っても様々だ。物を発火させる異能力から物質を別の物質へと変換する異能力、異能生命体を使役する異能力、身体能力を強化する異能力まで。見渡せば異能力者の手を離れて顕現した異能生命体――人や獣の形をしたものから輪郭の無い影のようなものまでだ――があちらこちらで暴走し、人を襲い建物や設備を破壊している。住宅からは火の手が上がり、道路では車の追突が原因で其処彼処で渋滞が起こっている。怒号や悲鳴が断続的に響く。
異能力の特性はこの際関係が無かった。どんな異能力であれ、強大な出力を伴えば人間には手に負えない凶器と化す。本来旋風を起こす程度の異能力は人を容易に切り裂いたし、傷を治す筈の異能力は白血球が異常に増加し体の方が耐えられない。
人が力を与えられた、今がその成れの果てだった。
異能力なんて本当に――碌でもねえ力だってのに。
「いや……っやめてえ……!」
微かな女の悲鳴が耳を打った。振り返れば、今まさに複数の男女が一人の女を路地裏に連れ込もうとしている処だった。その集団からも、微かに異能力発動時に見られる燐光が見て取れる。
「あーっもう次から次へと面倒臭えな! 吃驚異能博覧会じゃねえんだぞコラ!」
飛び込んで片端からパラライザーで撃ち倒す。どいつも異能係数二百オーバーだ。一人、二人、三人、四人。
五人。
「たす、たすけて……」
最後の一人は連れ込まれた女だった。がちがちと歯の根を震わせ、着衣の乱れた自分の体を抱くようにして怯えた目を向ける女に向けて特殊銃の照準を合わせる。
映し出された異能係数は四百五。
エリミネーターが起動する。
「あー……そうだな……」
頭を掻く。
このまま撃てば、女は綺麗にその体を残したまま生命活動を停止させるだろう。
そして市内の巡回ドローンに拾われて運搬される。
異能力者死体処理施設に。
それこそ中也の果たすべき職務だった。異能力を無闇に街中で暴走させない為に。
女は此処で殺すべきだ。
逡巡の末、中也は一息に距離を詰め女の後ろ首に思い切り手刀を落とした。異能力を暴発させる間も無く女の意識がガクンと落ちる。
規則など何でも善かった。ただ死人は少ねえに越したことは無えだろ、と云い訳のように呟き、女の体を大通りまで引き摺り出して緊急車両に放り込む。一度落ち着いて異能係数の上昇が収まるならセラピーで回復出来る。暴走状態が収まらないようならそのときに処分すれば善い。
然し中也のように制圧に余裕のある人間ばかりではない。係数が三百を超えた人間は他の捜査官に容赦無く撃ち殺されている筈だ。それに他の異能力の犠牲になった者だって多い。乗用車の墓場と成り果てた道路に点々と飛び散る血を見遣る。死体が転がっていないのは、都度巡回ドローンが回収しているからだ。異能力者の死体は、そうして厚生省の異能力者死体処理施設に秘密裏に運び込まれて処理されると聞いている。中也も施設の詳細は知らない。その処理方法だとか、処理出来る死体のキャパシティだとか。こんなに一度に大勢の死体が出て、パンクしなけりゃあ善いが。施設の外に山積みになる死体の山なんてぞっとしない。
ピッと携帯端末に通信が入る。
『中原さん、近隣の銀行が異能力者の集団に襲われているとの情報が』
「判った。マップ送れ、直ぐ向かう」
汗を拭って応じる。次から次へとまるで収まる気配が無い。
それもこれも、全部あの男の所為だ。
「……太宰治」
あんな放送をした以上、あの男にこの騒動の予想が付かなかった筈は無いのだ。あの男が、皆が異能力を使えれば便利で善いよねなんてお花畑思考で上水に薬を混ぜたとは思っていない。手間に対するメリットが薄過ぎるし、それに何より。
――異能力など無ければと思ったことは無い?
あれは紛れも無く異能力を厭っている者の目だった。憎しみに膿んだ目。怨嗟の篭った問い掛け。
太宰治は、異能力を憎んでいる。
「――それが何で、こうなる」
異能力を善く思っていないくせに、逆に異能力者を増やすなど。御蔭で街は酷い有様で捜査官は無休労働を強いられている有様だ。怒りに思わずぶわ、と外套が舞い上がり、ビーッと制御装置が係数の上昇を警告する。無為に異能力による被害を増やす愚行に苛立ちが募る。
それとも、あの男は世界の滅亡を願っているとでも云うのだろうか。
はたと立ち止まる。この騒動を収める有効な手立ては未だ見付かっていない。先の見えない消耗戦だ。異能犯罪に対する取り締まりと罰則を強化すれば収まるだろうが一朝一夕では叶わない。きっとこのまま異能力者の暴走が続けば、街の壊滅的な被害と多数の死者は免れない。それは横濱の存続を危うくするほどのものだ。
あの男がこんなに手の込んだことまでして手に入れたかったものは、異能力者を――他の人間凡てを同士討ちによって殺し尽くした世界なのだろうか。
◆ ◆ ◆
市内巡回が終わって自室での待機を命じられ、中也は大股で本部の廊下を或る一室に向かって歩いていた。このまま彌縫策として異能力者と化した一般市民を鎮圧し続けていても、状況が改善するとも思えない。
あの男を捕らえなければならない。
「中原さん、待って下さい、何処へ――」
追ってくる樋口の声を振り払うように抜ける。向かうは局長室だ。その重厚な扉を蹴り開ける。
「――教授眼鏡。話がある」
「僕は君に話すことなど何もありませんよ。中原くん」
取り付く島も無い態度の机上に束の資料を叩き付ける。
それは中也が捜査官として使用出来る権限を駆使して掻き集めた、或る一人の男についての資料だ。
一番上にはクリップで挟んだ蓬髪の男の写真。
「太宰治。元異能犯罪対策課の捜査官だ」
坂口の表情は一粍も動かない。
「四年前、危険異能力者の部下を一人失くしてその直後に辞職してる。……この時期、俺ァ配属されてなかったが手前は居ただろう。知らねえとは云わせねえぞ」
澄ました顔の上司を睨め付ける。
然し思っていたほどの動揺は見られなかった。漸く口を開いたかと思えば、漏れ出たのは僅かな嘆息。
「……あの放送の直ぐ後、情報は凡てロックしたと思ったのですが?」
「詰まり認めんだな。あの男のことを知っていると」
「さあ。如何でしょう」
肩を竦め、それ以上の話は終わりだとばかりに立ち上がろうとするから資料に重ねて拳を叩き付けた。知っているなら何故口を開かない。あの男の所為で横濱はめちゃくちゃだ。何としても太宰を捕らえなければならない。
その為には、あの男の潜伏場所の手掛かりが必要だと云うのに。
「彼奴の狙いが何か、手前なら知ってるんじゃねえのか、あの男が次に何処に姿を現すか。彼奴が人類の発展なんざ願うようなタマか? 違う。何か狙いがあるんだ。手前ならそれが……」
「それは君の知るところじゃない」
けれど中也に突き付けられたのは強い拒絶の言葉だった。一瞬、頬を張られたように目を瞠る。
決して荒い語調ではなかった。
それでも眼鏡の奥の決意は強固だ。
「……何?」
「君の知る必要の無いことだと云ったんです、中原中也。彼の捜索は他の部署に命じています。君達が捜索するには及びません。判ったらさっさと退室なさい」
その言葉に、反射で思わず銃を抜いた。特殊銃ではなく支給されている拳銃だ。ガチッと安全装置を外す。
坂口の額に向けて。
「中原さん⁉」
「云わねえってのか。外がこの有り様でも?」
場合によっては本気で撃つ積りだった。
それでも坂口は取り乱さない。
「そうですね。君達がもっと善く働いていれば、"この有り様"とやらは回避出来たかも知れないんですがね」皮肉げに口角が持ち上がる。「芳しくない成果、上長への脅迫行為。これ以上捜査官の能力に疑問があるようなら、危険異能力者であるあなたの捜査官としての運用も考え直しますが」
「……チッ」
それを云われると弱かった。今捜査官としての権限を剥奪される訳にはいかない。それに仮に指や足を撃ち抜いた処で、この様子だと口を割らないのだろう。とんだ狸だ。他の捜査官も建物内に多数詰めているこの状況で、得られる確証の低い情報の為に局長室を血塗れにする無謀は流石に中也も持ち合わせていない。銃に安全装置を掛け直して仕舞う。
露骨に大人しい態度を見せると、坂口にふふと笑われた。
「善いんですか、僕を撃たなくて」
「煩えな。今俺が手前を殺して現行犯で捕まっちまったら、俺が彼奴を追えねえだろうが。……おい、樋口、もう善いぞ。俺は坂口を撃たねえから」
振り返ると、真っ直ぐ捉える樋口の視線と目が合った。
それと此方に慎重に向けられた銃口と。
いざとなったら部下を撃ってでも止める積りだったのだろう。中也の年下の上司はいやに真面目だ。
その横を擦り抜けるようにさっさと退室しようとする。
「な……中原さん! 何処行くんですか!」
「明け方までは待機だろ。部屋に居るから、処分があんなら勝手にしろ。俺は寝る」
「中原くん」
引き留めたのは、坂口の静かな声だ。
「……何だよ。気が変わったか?」
「これは親切心からの忠告ですが――太宰くんのこと、君は追わない方が善いと思いますよ」
「……職務時間外に何しようが俺の勝手だろう。それとも局長サマはヒラの休憩時間の過ごし方にまで興味があんのか?」
太宰くん、と云う呼称に内心少しの意外さを覚えながら、茶化すようにして振り返る。
坂口の声音がひどく重たげだったからだ。
「気付いていないかも知れませんが、今の君は異常ですよ。この量の情報を収集するほど特定の一個人に興味を示している処と云い、僕に銃を向けたことと云い。何時もの職務に忠実な君とは程遠い。どうも彼に対して執着し過ぎているように見えます。……自覚しないと身を滅ぼしますよ」
その言葉の意味を捉え損ねた。執着し過ぎ? それこそ穿ち過ぎだろう、これは単なる捜査の一環だ。職務に忠実と云うなら、太宰治を――担当していた事件の被疑者を殺した犯人を捕まえると云う職務に忠実であるだけだ。
それ以上の何物でもない。
「……ご忠告どーも」
如何返したものか判らず、軽く肩を竦めて退室する。
暫く樋口の心配そうな視線を背後に感じていたが、流石に隔離エリアの方までは随いて来なかったらしい。ピッと暗証番号を入力して自室の鍵を解錠する。この辺りの部屋は何故だか出るより入る方が簡単で、政府機関で使われている生体認証などまるで無く、ただ民間用のキー入力があるだけだ。危険異能力者が逃げ出さないようにと云う意図は判るが、然し如何見たって欠陥だよなあと何時も思わずにはいられない。
電灯を付けて上着を放る。クローゼットに仕舞うのが面倒で、その上からベッドにばたんと飛び込む。
却説、太宰治が現状何処に居るのかを調べる情報は皆無に等しい。一番確実なのは奴の目的を明確にして、次に何処へ姿を現すのかを推測することだ。そして其処へ向かう。その為に、如何動くべきかを思案する。
太宰治の目的。
それはもう叶っているのかも知れなかった。異能力者を増加させ、街の秩序を崩壊させ、横濱を決定的に壊滅させた。……異能力など、無ければ善いと思ったから? それがあの男の目的なら、あの男は既に目的を果たしていることになる。
然し、本当にそれだけなのだろうか。
何かが記憶に引っ掛かる。
――このまま君の手に掛かって死ねたら、どんなにか幸せなことだろう!
――やることがあるから、未だ死ねないのだよね。
浄水施設では、中也達が直ぐ側に迫っていたにも関わらず危険異能力者の男を殺して見せた。その後中也に病院で接触。どちらも異能力者の増加には必要の無い行為だ。寧ろ目撃されるリスクを考慮し避けるべき行いだった。それらの行為で中也達は太宰の存在を認識したのだから。その、自らの存在を見せ付けるような行為は、余程の自信家か破滅願望でも背負っているのか。自分を異能力で殺してみせろと云った男。死にたがりの男。異能力を憎んでいる男。
やることがある、と云った。
翌日流れていた放送のことではない。何故ならあれは中也の推測通り録画だったからだ。あの地下施設で遭ったとき、あの男は既に放送の手筈を完了させている。
詰まりそれ以外にも、あの男にはすべきことがあったと云うことだ。
あの男の目的は、未だ果たされていない。
この騒動も前準備に過ぎないのだとしたら。
ごろん、と一つ寝返りを打つ。
奴の云う通り、異能力によって社会や技術を発展させることが最終目的なのだろうか。いや――単にその発展に多くの異能力者が必要だっただけならば、態々あんな放送を流して暴動を煽ったりはしない。異能力者が死んでしまっては元も子も無いからだ。逆に死んだ異能力者を大量に集めたがっている可能性はある。然し異能力者の死体は凡て専用の処理施設に運搬される。ここ数日の市内巡回で、何者かが死体を持ち去ろうとしたなんて不審な動きは報告されていないし――これも暴動を起こさず自分達で異能力者を殺害した方が、巡回ドローンに発見される前に死体を回収出来るのだから非合理的だ。なら街が崩壊することで何か得られるメリットがある? 秩序の崩壊した街。やり易くなるのは何処かの建物への不法侵入、火事場泥棒、或いは暴動に紛れての何者かの殺害。然しその程度であれば、あの芥川と云う男が居れば手間を掛けずともやってのけられる。
それとも、これ以上の街の崩壊を望んでいるのだろうか。それならば。中也は思考を巡らせる。それならば、この騒動を収める手段を潰そうとする筈だ。中也ならば、この街が立ち直る可能性の芽を潰す。
異能犯罪の取り締まりと罰則の強化。
即ち異能力判定鎮圧執行システムの根本を。
はっと手元の特殊銃を見遣る。異能係数を測定し、異能力の暴走を取り締まる為のその銃は、異能電網を使ってシステムにアクセスし、異能力を計測する異能技術を元に作動する。詰まり大本があるのだ――その異能技術を供給しているシステムの大本が。
そのシステムを潰せば、異能犯罪を人の手で裁くことは最早叶わない。
残るのは、異能力者と異能力者の殺し合いだ。
けれど中也は知らない。システムである以上、何処かでサーバーが稼働している筈なのだが、それが何処だか判らない。
太宰治が、次に何処に姿を現すのかが。
異能技術は、その何もかもが秘匿されている。或いはもっと地位があればその機密を握れたのかも知れないが、中也のような下っ端には到底回ってこない情報だ。
明日にでも調べなければならない。
……そう云えば、太宰治は何故捜査官を辞めたのだろう。新たな課題を抱きつつも純粋な疑問が首を擡げる。若しシステムを破壊して街を壊滅に追いやるのが目的であれば、捜査官を辞めるのは悪手に見える。システムを潰すのであれば、辞めるより内部からの方が余程上手くやれるからだ。
資料では非異能力者となっていた。詰まり危険異能力者として狗のように飼われていたのではなく、自ら望んでキャリアとしてこの場に居たと云うことになる。
それが、部下を失ったタイミングで辞職。
そのときの事件の資料は、中也の権限では閲覧不可だった。織田と云う名前だったその部下の詳細も公にされていない。
辞職は自責の念に駆られてか?
それとも――。
気付けば少し寝入ってしまっていたようだった。
今何時だ。時計を探すが、何時もなら寝台の上から見える机上の置き時計が、何故か此方を向いていなくて首を捻る。
「……?」
昼に抜き打ち監査でも入ったか? ベッドから立ち上がり、それに手を伸ばそうとして――。
ガン、と後頭部に強い衝撃を受けた。
「……っ」
何だ、と振り返ろうとして蹌踉めく。視界の端に映ったのは揺れるクローゼットの扉だ。それと再度此方に何か振り上げようとする黒い影。しまった。完全に油断していた。応戦しようとするが、それより先にビーッ、ビーッと首元の制御装置が異音を上げる。異能係数の異常上昇。咄嗟に凡ての集中力を暴発し掛けた異能力を抑えるのに回す。
背後からの殴打より、制御装置の処分機能の方が致死性が高いと判断したからだ。
そうして二度目の衝撃を脳天に喰らい、中原中也は気を失った。
◆ ◆ ◆
異能力など無ければ善いと思っているのは本当だ。異能力さえ無ければ人を殺さずに済んだ。異能力さえ無ければ首輪など付けられなかった。誰の許可も無く外を自由に出歩けた。音楽も自由に聴け、煙草も自由に吸え、酒も存分に飲めた。
人を殺してしまったことは仕方が無いと思って生きてきた。
システムの監視下に押し込められるのは当たり前だと思って生きてきた。
だってそう思わなければ、凡てを諦めなければ、昂ぶった感情を察知した首元の処刑装置はこれ幸いと云わんばかりに直ぐ様刑を執行しようとするのだ。
中原中也はそうやって、自分を殺して生きてきた。
然しあの男の存在は、その凡てを否定する。
到底看過できるものではない。
脳裏に浮かぶ、軽薄な笑みのあの男。
「だ、ざい……おさむ……」
「うん、何?」
その声に薄っすらと目を開ければ、思い描いた表情と寸分違わぬ笑みを浮かべて此方を覗き込む容姿端麗な男の姿。
「おはよう。会うのは何日か振りだね、中原中也」
「! 手前、太宰……ッ!」
探し求めていた姿がまさに目と鼻の先に現れて、中也は咄嗟に身を起こして捕らえようとした。
ギシ、と鈍い音がしてそれきりだ。
見れば中也の両手両足の上を何本かのベルトが這い、中也の体を縛り付けていた。動こうにもギシリと阻まれるのみで、身を起こすどころか手を伸ばすことさえ叶わない。
顳顬を嫌な汗が伝う。
「何……の、積りだ……」
辛うじてそれだけを腹から絞り出す。状況が読めない。何故台の上に身動き出来ない形で拘束されているのか。周囲の様子は暗くて善く見えないが、少なくとも中也の部屋でないことだけは確かだった。明かりは太宰の手元のランプのみだ。ぴちゃん、と何処かで水の漏れる音がして、苔生したような臭いが鼻につく。
その太宰治はと云えば、中也が横たえられた台の脇で優雅に膝を組み、相変わらずその蓬髪の下に涼しい容貌を覗かせて、美しい泉のように静かな笑みを湛えていた。
中也の頬に手を触れて云う。
「何の積り、と云うのは何に対して……? 君を拉致したこと? それとも、横濱の街を混乱に陥れていることについてかな……?」
「全部に決まってんだろ」
「私の全部を知りたいって? 随分と欲張りだねえ」
「手前の思惑通り、横濱の街は壊滅状態だ。念願叶って満足だろ?」巫山戯た問答に付き合う積りは無かった。切り込むように問う。「なのにこれ以上、何企んでやがる」
返ってきたのは無音だった。
冷えた指の背で頬を撫でられ、ぞわりと背筋を悪寒が走る。
今首を掻き切られれば、抵抗が出来ない。
「……企むだなんて嫌だなあ、人聞きが悪いよ。云ったでしょう、私は人類の発展を願っているんだって。放送見て呉れなかったの? みーんな異能力者になれば、異能技術によって発展してきた社会は、もっともっと便利に……」
「その、気持ち悪ィ、嘘を止めろ」
ぴたりと太宰の言葉が止まる。口端に作り物めいた笑みを貼り付けたままで、太宰治はことんと首を傾げ来る。
「嘘? 如何して?」
「……手前は異能力を憎んでいる」
その瞬間、中也は太宰の笑みが歪んだのをはっきりと見て取った。太宰の声の温度がひやりと落ちる。「それは、君と同じように?」頬に触れていた太宰の指が、ゆっくりと中也の首をなぞる。
は、と息を詰めた。
中也は異能力を憎んでなどいない。
異能力など無ければ善いと思っているのは本当だ。けれど今更異能力を憎んだりなどしない。
その筈だ。
「本当に? 人権の無い狗のような生活が憎くない? 君の異能力が暴走して肉親を殺したとき、君は如何思った?」
「手前」
何でそれを知ってる。思わず掴み掛かろうとして再度拘束に阻まれる。駄目だ。冷静に。冷静になれ。
異能力を暴走させないように。
「そう、それだ。肉親を殺して、自身の人生に何ひとつの自由も許されずに首輪に繋がれて、それを憎みも歓迎もせずただ漫然と受け入れるなど、常人の精神が耐えられるものなのかい。君と比べたら、その辺の一般人の方が未だ幾分か人間的だ――今や己の欲望のままその異能力を行使している訳だからね。暴力や死、本能に欲望。そう云う人間の本質は生が感じられて善い」
太宰の歌うような声が、中也の鼓膜を震わせる。
まるで其処から毒を流し込むように。
「けれど君は違う。私からすればその状態で生きていられるのが異常だよ。君は心の寄る辺を何処に置いている? 君の原動力は何だ? 何かに執着したことはあるか? 心から怒ったり泣いたりしたことは?」
淡々と、問いを突き付ける。
「君の望みは何処にある?」
「俺の、望み――」
俺は何も恨まなかった。
仕方が無いと諦めて生きてきた。
当たり前だと諦めて生きてきた。
だってそれが首輪を付けられた俺に与えられた最善だ。幾ら希望を持とうと解放される日など来ないのだから。なのに何を望めと云うのか。もっと異能力を使って悪行の限りを尽くしていれば善かったか? 異能力者としての気高い死を選べ、などと云う積りだろうか。生憎とそこまで達観している積りは無い。誰だって死ぬのは嫌だ。異能力を暴走させるほどに下手に感情を揺り動かしてこんな首輪に殺されるより、人間的な生活の何もかもを諦め狗のように社会奉仕に尽くす方が幾分か建設的だ。
だから望みなど無かった。
心から怒ったり泣いたり。何かに本気で執着したり。
そんなものはもう、子供の時分に失くしてしまったのだ。
「――まァ善いや」
かちゃ、と軽い金属音がして、見れば首元の制御装置が太宰の手によって外されていた。
その光景に思わず目を瞠る。当然、装置には制御を受けるべき危険異能力者が勝手に外すことの無いよう、異能技術によるロックが掛かっている筈だった。
「驚いた? うふふ、こんな異能技術で出来たガラクタ、私の異能力に掛かれば無に等しいのだよね」
何だっけ、この制御システム、『ヒトノウエニヒトヲツクラズ』だっけ。そう云って太宰はガラン、と床に制御装置を放り投げる。
久し振りに覚えた解放感だった。
すーすーと皮膚が空気を感じて涼しさを感じる。随分と軽いと思うのは、物理的な重さだけではなく精神的な解放の部分が大きい。今なら空くらい軽く飛べそうだった。
けれど同時に忍び寄るのは不信感だ。太宰治には制御装置を外すメリットが無い。太宰が一瞬でも中也の頬に添えている手を離せば、中也は異能力を使って太宰を害することが出来るのだから。意図が読めずに自然、声音に警戒が混じる。
「……何の積りだ」
「もっと喜び給えよ。君は今、晴れて自由の身となったのだから」
「手前に捕まってなきゃあそうしてたとこだ」
「そう? 君はこう云うの、結構好きかと思ったのに」
「『こう云うの』?」
「んー」太宰が人差し指を唇に添え、首を傾げてにこっと笑う。「緊縛プレイ?」
「死ね。死んで呉れ頼むから」
思わずストレートに暴言をぶつけても、のれんを腕で押すように何処吹く風だ。
それで云う。
「それは此方のセリフ――と云いたいところだけど。いやね、君に死んで貰っては困るのだよ。けれど今から私のすることに、君はきっと耐え切れずに異能力を使ってしまうから」
そうしたら、あの首輪の処分機能で君は死んでしまうからね、まァ、心停止していても脳が未だ生きている状態を『死』と定義すればの話だけれど――知ってる? 処分機能の毒は君の生命活動を停止させるけれど、脳に限っては酸素供給の不要な仮死状態にする仕組みなんだ。いやあ、中々にえげつないよねえ。
この男が何を云っているのか判らなかった。
いや――頭が理解を拒否していた。
この話の行き着く先を。
「ねえ、私の異能力は知っていたっけ。大抵の異能力は無効化出来るから、異能力を観測するシステムには感知されない。異能技術を使ったセキュリティ機器だって、大抵こんな風に無効化出来る。触れればね。問題は、それが手で触れられない場所にあるときだ。――例えば、壁の奥に埋め込まれた網膜認証のロックとか」
あの、穴から覗くタイプのやつ、知ってる? あれ私背が高いから屈まないといけなくて腰が辛いんだよねえ。云いながら太宰がメスを手にする。
「……だから、君にお願いがあって」
先程から、要領を得ない話ばかりだったにも関わらず。
その一言はひどく容易に想像がつき。
そして、太宰は――中也の予想の寸分違わず、吐き気のするほど純粋にその"お願い"を口にした。
「君の目を頂戴」
「やめ――やめろ」
思わず声が引き攣れた。制御装置が外れたのだ、異能力を発動させて拘束を引き千切ろうと試みる。然し太宰治に掴まれればその部位から水のように力が流れ出るばかりで異能力が形を為さない。
異能無効化の異能力。
「大丈夫大丈夫、麻酔もちゃんとするし、知り合いの医者先生に手解きを受けたことがあるから、私、こう云うのにはちょっと造詣があるよ、まァ、医師免許は持っていないのだけれど――あれ、麻酔効いてるかな? まあ善いや」
くるり、と太宰の手の中で回るメスが暗闇の中で不気味に白く光る。
呼吸が浅くなる。恐怖によるものと認めたくはなかった。目の前の現実も。異能力は発動しない。歯を食い縛って体を捻るが、拘束の解ける気配は無い。
太宰は強張った中也の顔を見てか、ふふと柔らかく笑って中也の頬にそっと手を添え直す。
冷えた指先の動きが、背筋の震えるほど悍ましい。
「安心し給え、君のことは殺さない。君を殺して君の死体が見付かって、君の捜査官としての登録が消されてしまうと、折角貰っても使えなくなるものね? ……いや、でも危険異能力者の君が首輪を外したのがシステム上判れば、先ず脱走を疑われて登録を消されてしまうかな? それも拙いから、矢っ張り安吾が勘付く前に片を付けないとなあ……」
やめろ、と最早声を発することも出来なかった。
例え云っていたとしても、太宰治は変わらず優雅に手の中の刃を構えただろう。
ぺろりと舌で唇を湿らせて。
「じゃあ。いただきます」
「――ッ」
中也、と。
そう最期に叫んだ声が耳を打った。
次に見たときには捻れて死んでいた肉親の声だ。
あれより酷い地獄など無いと思っていた。
瞼に刃を差し込まれるまでは。
気が狂う、と思った。
ああ、あああと喉を嗄らした叫びが果たして音の形を成していたかが定かでない。
記憶にあるのは、刃が肉を裂き神経を断つ音に混じった、太宰治の熱っぽい声。
「ねえ、私のことが憎いなら、私のことを殺しに来れば善いのだよ。簡単でしょう?」
死にたがりの男の、死を乞うように願う声。
「システムの狗としてでなく。君個人の、醜悪で、救いようの無い憎悪と云う感情によって――私を殺してちょうだい? 中也」
次に目を覚ましたとき、俺の視界の半分は、永久に失われてしまっていた。
