【再録】フェアリーテイルの亡骸
二.
中原中也が異能力を発症したのは僅か七歳のときだった。
先天性のものではなかった。それ故に、扱う方法の判らないまま異能力を暴発させた。
重力操作の異能力を。
破壊は一瞬だった。空が割れて天地が引っ繰り返ったようだった。ガシャン、と硝子の潰れる音がして、見上げれば床で見下ろせば崩れ掛かった天井の瓦礫が降り掛かった。中也と何処かで自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。けれどそちらに首を向けることは敵わない。何か巨大な手で抑え付けられるように俺の小さな体は床に縫い留められていた。何も判らなかった。体が内側から圧迫されるようで、気管が塞がったように息が出来なかった。
みし、と空気の軋む音がする。視界は真っ暗で何も見えなかったが屋敷が倒壊していたのは確かだ。体をじわりと侵食する黒い重力子の向こう側から響く複数の人間の啜り泣きの声、痛みに呻く声、俺の名を呼ぶ声。
そうだ、家族が。
母さんが。
中也、と。
最後に聞いたのは鋭く闇を裂く悲鳴だった。後は潰れたような濁った絶叫が重なるだけだ。ああ、あああ、と重力に抗って今まさに息絶えようとしている声とめしゃりと何かの捻じ切れる音が耳の奥からこびり付いて離れない。潰しているのだ、俺が。俺の力が。やめろ。止めようと思うのに体は云うことを聞かずに血だけがただただ沸騰したように体中を駆け巡って暴走する。やめろ、やめろやめろやめろ――!
「――ッ」
ガバリと身を起こすのと、ジリリリリとけたたましく卓上時計のアラームが鳴り響くのとはほぼ同時だった。いや、若しかしたら目を覚ますまでずっと鳴っていたのかも知れない。時刻は八時過ぎ。手の平で時計を叩くようにしてアラームを止める。
天井は崩れていない。
室内も平常だ。必要最低限の家具が置かれた殺風景な部屋。鉄格子から覗くのは横濱の鮮やかな空色。
牢屋でも何でもなく、此処が中也の部屋だった。或いは隔離施設と云い換えても善い。壁も床も頑丈な特殊混凝土だ。此処なら異能力を暴走させたところで周囲に被害を出さずに済むと云う訳だ。おまけに排気口からは釦一つで催眠瓦斯が流し込まれる仕組みもある。危険異能力者を軟禁するのには至れり尽くせりな密室だった。
ふーっと、一つ深く息を吸って吐く。
気付けば体中汗だくだった。
「……やな夢」
寝間着のTシャツを放り投げ、下着も脱ぎ捨てて備え付けのシャワー室に向かう。今更だった。もう十数年も前の話だ。死んだ人間は戻っては来ないし、危険異能力者として押し込められたこの息苦しい隔離部屋での生活にも随分と慣れた。身につけたのは、何も考えず、不要なものを削ぎ落として生きていれば異能力で他人を傷付けることも己が処分されることも無いと云う諦め。
こんな力など無ければと、どんなに願ったか知れない。
けれど諦めを覚えた中也の心はそれを憎むに至らない。
無音の室内でもぐもぐと機械的に出された朝食を咀嚼し胃の中に押し込んでいると、不意に端末から呼び出し音が響いた。煩えな、と顔を顰める。出勤には未だ時間がある筈だろ。不味い珈琲を飲み干しながら備え付けのディスプレイを起動させると、見知った顔がスクリーンに投影される。
自分達の直属の上司の更に上役だ。神経質そうな眼鏡の男。
「はいはい、何だよ教授眼鏡」欠伸を噛み殺す。「俺ァどうせなら男より美人のねーちゃんに起こして貰いてえんだけど」
『――軽口は結構です、中原くん。テンイムホウが異能力の暴走を予知しました。人的被害が出る恐れがあります。マップを端末に送っておきましたから、今日は現場に直行して下さい。樋口くんにもそのように伝えてありますので、合流を』
「面倒臭えな」
『文句はこれから異能力を発症させるお馬鹿さんにどうぞ』
それだけを素っ気無く言い残し、余韻も何も無くぶつっと切れた映像を前に味のしないパンを飲み込む。プラスチックの安っぽい皿はがしゃんと食器回収口へ。コツコツと混凝土の床を鳴らし、洗面所でヘアアイロンを温めながら考える。
此処のところ、どうも暴走を伴う突発的な異能力発症の予知が多い。
予知――天衣無縫と云うのはほんの数年前に開発された異能技術の一つだった。異能力の計測に生体認証、治癒に電網回線の構築にと、驚くべき早さで日々進化し続ける異能力統括管理システムの機能、その一つと云うことでもある。現在は異能特務課の上層部が試験的に使用しているようであるから、他の技術のように一般の用に供されるのには暫く時間が掛かるんだろう。
それはそうだ。幾らかの制約があるだろうとは云え、これから起こる出来事が判るなど、それこそ夢のような技術だ。
若し、予知の技術がもっと早くに確立されていて。
そうして若し、今のように薬や何やらで異能力を抑制することが出来たなら。
――そうすれば、俺の人生もこんなじゃなかっただろう。
そこまで考えて苦笑する。云っても詮無いことだった。夢見たことはある。然し現実はそうではなかった。異能力を抑えることの出来る何某かは中也の人生には現れず、そうして自分は今此処に居るのだ。くるん、とスタイリングの上手くいった己の髪を払い、ぱち、と洗面所の電灯を切る。上着を引っ掴んでドアに向かい、脇の網膜スキャナにぱちりと瞬く。
『対象確認。承認受領。規程に従って外出を許可します――』
外に出るの一つにも難解な承認フローを要求する電子音声を聞き流しながら、扉が自動で開くのを待つ。
ともすれば街一つ破壊しかねない己の異能力の特性を考えれば、外に出る自由が与えられているだけでも僥倖だろう。
◆ ◆ ◆
ピンポーン、と中也達が間延びしたインターホンの音を青空の下に響かせたのは、或る晴れた昼下がりだった。
一階建ての平屋は市内ではまず目にすることの無い広さだ。屋敷と称しても差し支えなく、周りを見回せば広がっているのは庭園だ。枝葉が綺麗に剪定されている処を見ると定期的に庭師でも雇っているのだろうか。郊外にはこう云った敷地に余裕のある家も多い。アナクロな物体を好む気質の世帯が集まっているのも特徴で、扉に取り付けられているロックは異能技術によるものではなく昔ながらのシリンダー錠だ。
「すみませーん。警察の者ですー」
ピンポーン。ピンポーン。
ピンポンピンポン。ピン。ポン。ピンポピンポピン。
「遊ぶな樋口ぃ!」
「だって!」
云い訳がましく振り返る上司を呆れ半分に見やる。先刻までキリッとした顔で「異能犯罪対策課の樋口と云う者です。本日はお話を伺いに……うーんもっと手帳をさっと出した方が……」って練習してたのは何だったんだよ。
立原もあまりやる気が起きないのか、片足に体重を預けてぐでっとした態度で立っている。
「えー、留守じゃねえんすか」
「いえ、アポイントは取った筈ですが……」
と云うか、坂口局長が取って下さった筈ですが。そう続けた樋口の言葉に、ぼんやりと今朝のやり取りを思い出す。
「専門家に話を聞きに行けだァ?」
連日暴走した異能力者の制圧では食傷気味でしょうと眼鏡の上司――坂口安吾が持ってきたのがその仕事だった。
「はい。此処のところ、突発的かつ局所的な異能力の発症が多過ぎます。分析しても、異能力者を多数発症させた居住区に共通点が見付かる訳でも無い。とすると、何らかの人為的な手段――例えば対象の睡眠時に異能力の発症を促進させる何かしらの薬物を打ち込む、等です――それによって発症させている可能性も考慮すべきでしょう。……そう云った手段があるとは聞いたことが無いですが、その道の専門家に協力を仰ぐべきと判断しました」
「判りまし――」
「判断ってえのは」樋口が素直に頷くのを遮って訊く。「上層部の意見ってことか?」
坂口が顔を顰める。
「……嫌な処を突きますね」
「悪ぃな? 気になったから」にこ、と笑う。
「……僕個人の判断です。上は異能力が人為的に発症する可能性があるなんて思い付きもしないでしょうよ」
「いーのかよ、俺等勝手に動かしてよ」
「善いんですよ。その為に偉くなったんですから」
「その為?」
「無為な異能力の暴走を防ぐ為、です」
それ以上、坂口は無駄口を叩かなかった。「これが彼のプロフィールです、」とそれぞれの端末にデータを送ってみせる。
中也もそれ以上、何も訊かなかった。
「この方が、人工的な異能力発症研究についての専門家……」
樋口の言葉のままに受信したデータを見る。名前と写真の下に並ぶ博士号の文字。職業は大学教授。居住地まで目を通し顔を顰める。ここからだと車で二時間強。随分と遠い。
同様の疑問を抱いたのか樋口も口を開く。
「この方、如何してこんな辺鄙な郊外に住居を構えているんですか? 研究施設は横濱市内の方が充実していると思いますが……」
「……彼の研究が、有用だと認められたことが無いからですよ。人工的な異能力の発症など、所詮空想の域を出ない与太話に過ぎません」
「与太なら参考にはならないのでは?」
坂口は何も云わない。いまいち腑に落ちない、と云う表情で樋口が首を傾げる。が、手掛かりの少ないこの状況では藁にも縋らねばならないのだろう。疑問を飲み込んだのか、気持ちを切り替えた様子で樋口が立ち上がる。
「では、くだんの教授の処には私と立原、それに中原さんで向かいます。広津さんと銀は通常通り、市内の巡回を。異能力による犯罪が生じるようでしたら対処に当たって下さい」
「了解した」
「……」
同僚がこくりと頷き、坂口が執務スペースを出て行く。恐らく此方も車を出す必要があるだろう。中也も後に続くように立ち上がりながら、ふと先程の会話を反芻する。
「……何らかの人為的手段、か」
仮に"そう"だとすれば、先日中也の目の前で殺された異能力者の男も、誰かの手によって異能力を発症させられたことになる。朝起きて自分が異能力を手に入れたことに気付いた男は、それを悪用して人を殺し、警察に追われ――そして何者かに殺害された。
中也達の目と鼻の先で。
却説、偶然にも街頭スキャナを擦り抜ける方法を持ち、システムに感知されること無く、中也達を挑発するように男を殺し果せた人間は、この場合男の異能力発症とはまったくの無関係なのだろうか?
そんな訳が無い。
恐らく同一人物だと云う確信があった。逃げた被疑者の男を観察する目的が無ければ、あの場に居合わせること等出来よう筈もない。男に無理矢理異能力を発症させた。男がどのように異能力を暴走させるかを観察した。用が済んだから殺害した。躊躇いも無く、額に一発撃ち込んで。そう考えるのが、至極自然なように思われた。
「……逃したままじゃあ終われねえよな」
或る一人の男の顔を浮かべながら、中也も少し早足で執務スペースを出た。
◆ ◆ ◆
くだんの教授宅は驚くほど静かだ。同居人は居らず、独りで住んでいると云うその屋敷の外周をぐるりと回りながら様子を伺う。カーテンは凡て閉め切られ、室内は見えない。
丁度半周すると、屋敷の裏手で同じく外周を調べていた立原とばたりと鉢合わせた。無言で視線を躱し、擦れ違って引き続きもう半周。回り終わって玄関へと戻る。
車が停めてあるので出掛けている訳ではないだろうと推測する。ガコン、と郵便受けを覗くが溜まっている様子は無い。
然し人の気配は窺い知れない。中では電子端末でも動いているのか、微かな機械の稼働音がするだけだ。
「……静か過ぎる。中で死んでんじゃねえの?」
煩いのは先刻から、ピンポンピンポンと鳴らされ続けているインターホンの音だけ。
「いやマジで約束あんのに出て来ねえのはおかしいだろ。破って入るか? 広津呼べば善かったな」
「さらっとジジイ扉破壊要員にしてますけど中原さんも大概ですよね……まあこれくらいなら俺でも蹴破れそうッスけど……」
「二人共、器物損壊は駄目ですよ! 他所様の家を破壊するなどもっての他です!」それまでドアスコープをそろりと覗き込んでいた樋口が、ばっと振り返って制止する。その手には何処から取り出したのか、細い針金が収まっている。「此処は穏当に、ピッキングでいきましょう」
「中原さん穏当って何でしたっけ」
「少なくとも人様の家の鍵に針金差し込むことではねえわな」
令状など無いからどちらも間違いなく不法侵入だ。けれど樋口が「でも扉壊して修理費の請求が本部に来たら、怒られるのは私なんですよお!」好きなだけ暴れている貴方達は知らないかも知れないですけど! と云っておよよ、と泣き崩れるように目頭を抑えるものだから、その背後で立原と二人目配せをして少し反省する。確かに中也達はそう云った事務処理の類は凡てこの上司に任せきりだった。それは危険異能力者としての職務の範囲――詰まりは肉体労働全般だ――の外であるからに他ならなかったが、中間管理職と云うのも中々如何して大変らしい。
だから扉の解錠は、大人しく樋口に任せることにした。
そう、だから近頃滅多に見ないアナクロなシリンダー錠を前に、ピッキングなんて映画みたいですね……とうきうきしている上司の後ろ姿など、決して見てはいないのだ。
「じゃ、じゃあちょっと失礼して……」
針金を差し込んで暫くかちゃかちゃとやっていた樋口が、不意にん? と首を傾げた。再度差し込む。手応えは無い。一度抜いて、ドアノブを捻る。
ドアは驚くほどすんなりと開いた。
「あれ、開いてる……」
「不用心だな」
そのまま扉を押し開く。一足だけ並べられている靴を跨ぎ、室内へと歩を進める。
と、玄関から一歩、足を踏み出した処で気が付いた。
微かな鉄錆の匂い。
後ろの二人に問う。
「しねえか」
「……しますね」
「え、え?」
立原が微かに顔を顰める。混乱する樋口に、そっと人差し指を立てて声量を落とすよう合図する。
「……血の匂いだ」
銃を構え、何時不審者が飛び出してきても大丈夫なよう慎重に室内の扉を開く。居間。寝室。書斎。台所。調度品に凝っているのかアンティーク調の家具が室内を装飾しているが荒れた様子は無い。人の気配も。クローゼットの中は無人で、服装に頓着しない持ち主の性質を示すように似たような服が整然と並んでいる。書斎ではつけっぱなしのデスクトップパソコンが、スクリーンセーバーを投影している。
卓上に出された珈琲は飲み掛けで未だ温い。
「居なくなってから未だそんなに時間は経ってねえな」カップに宛てがっていた手に手袋を嵌め直す。「靴はあったからこの家の主は自分の意志で外には出てねえ。未だ家の中か、或いは連れ出されて車で運ばれたか……」
「……家の中だ」
断言したのは立原だった。
思わず樋口と共に目を向ける。
「だっておかしいっすよ、この家。外から見たときと、図面が合わない……」
立原は上の空だった。しきりに壁をノックし、耳を当ててその音を確かめては場所を変えて叩いている。
それは何度目かのノックのときだった。
コン、と周囲の壁とは異なる異質な音が響いた。まるで奥が空洞であるかのような軽い音。三人で顔を見合わせる。
「……あった」
「其処か。破るぜ」
「あっちょ、中原さん……!」
この程度なら異能力を使うまでもない。すっと息を吸って勢いを付け、立原が示した音の変わった部分の壁を蹴り破る。
恐らく電子ロックが掛けられていたのだろう、壁紙で覆われていた部分が歪な方向へと軋んで開いた。
「……"当たり"だ」
斯くして、「あーっ修理費の請求!」と云う樋口の悲鳴を他所に、隠し扉がその不気味な口を開いたのだった。
見れば点々と、地下へと降りる階段に血痕が続いている。
◆ ◆ ◆
「……気味悪ィな」
混凝土の壁に、靴音が反響する。薄暗い。後ろを歩く樋口と立原の、顔が辛うじて見える程度だ。歩を進めると湿った苔の匂いがする。下水道ではなく、もっと別の、人の出入りを想定した造り。若しかしたら何処か別の場所にも繋がっているのかも知れない。微かな非常灯の明かりだけを頼りに、慎重に進む。
と、ふと様子の違う開けた一角に出た。
「何だ……?」
天井が一段と高くなっている、ちょっとした基地のような場所だった。周囲より妙に明るいと思えばぼんやりとコンピュータのちかちかとしたランプやらディスプレイやらが光っている。その背後で、中也達には善く判らない、何かの機械がずらりと鎮座している。まるでSF映画の中にでも迷い込んだかのようだった。此処は教授の研究施設なのだろうか。ごぽり、と音がして、見回すと周囲に円筒状のカプセルが並んでいる。
その中は、何かの溶液でいっぱいに満たされていて。
そしてその中に、ケーブルを無数に接続されて浮かんでいるのは。
「……樋口」
ぞわりと悪寒が走って隣の上司の名前を呼ぶ。これは何だ。こぽりと中也の不安を掻き立てるように、カプセル内で気泡が音を立てる。
そこに浮かんでいたのは"人の脳"だった。
一つだけではない。並んだ無数の円筒、その凡てにめいめいに脳が入っている。目にした状況に、理解が追い付かず硬直してしまう。
だってこんなのは。
まるで人体実験じゃねえか。
応える樋口の声も緊張で硬い。
「――応援呼びます。我々の手に負えるものじゃない」
「おっと、それは止めて呉れないかなあ」
瞬間、暗闇から何かが閃いた。樋口を狙ったそれから咄嗟に庇うように射線を遮った。肩に激痛が走って、見れば細長い矢が深々と刺さっている。
ボウガンか。
「中原さん⁉」
「行け、立原、樋口!」
痛みを奥歯で噛み潰して叫ぶ。樋口はたたらを踏んだが立原の判断は早かった。「行くぞ姐さん!」と脇目も振らず樋口を掴んで元の道を駆け出す。中也を置いて。それで正解だ。中也一人なら何とかなる。先ずは応援が先決だ。
傷を抱えながら二人を逃がせたことに幾分か安堵していると、ふらりと――本当にふらりと云う他無く、その男は無造作に姿を見せた。
「……あれ、逃がしちゃった。まあ善いや、芥川くんが何とかして呉れるでしょう」
中也はその男を知っていた。
砂色の外套を着た、蓬髪隻眼の男だった。ボウガンを持つその反対の手には何かを引き摺っていて、ずるずると床を這うそれの影がコンピュータの光で歪に浮かび上がって殺された教授の死体だと判った。
確信する。
この男が殺したのだ。
教授も、中也達が追っていた危険異能力者も。
咄嗟にドミネーターを構える。網膜認証の後、鮮やかに対象の姿を映すが異能力の係数は表示されない。システムは男を認識しない。
異能力の効かない異能力者。
「――矢っ張り手前か。太宰治」
その名を口にする。
男はその飄々とした顔に、僅かに驚きのような色を刻んだ。
「……おやァ? 其処までバレてるとは思わなかった。君は如何やら思った以上に優秀らしいね――中原中也」
「は。心にも無えことを」
「善く判るねえ! すごいすごい」
思わず特殊銃を構える手が震えた。男――太宰治は、嫌味な表情でうふふと笑う。
――例えば、異能力の効かねえ異能力者、とか。
それだけでは特定など出来よう筈も無かった。何故なら中也の権限で閲覧出来る範囲において、横濱中の全異能力者の異能力の内容をデータベース化したものは無かったからだ。だから中也は当てずっぽうに調べた。その男の情報を見付けたのはほんの偶然だ。
太宰治。
元異能犯罪対策課捜査官。
非異能能力者。
然し文字情報だけでは、その男が一連の事件に関与しているとは断定出来なかった。中也がそう確信したのは、異能力より何より――添付されていたその男の画像が、馴れ馴れしく病院のロビーで話し掛けてきた面そっくりだったからだ。
ずきりと矢を受けた左肩が痛んだ。視界が霞む。あまり長くは保たないだろう。矢は抜いていないから出血の心配はあまりしていなかったが、動けば鏃で傷口が引き攣れて開く。短期決戦だ。目の前の男だけに、ありったけの殺意と感覚を研ぎ澄ます。
ふつりと、視覚からその他の情報が途切れた。
自分と太宰治だけがこの場に居る感覚。
「……今度は逃さねえぜ。手前を殺人の容疑で逮捕する」
「たいほ?」
耳慣れない言葉だ、と云った風に太宰治が首を傾げて、ご丁寧に靭やかに立てた人差し指をすいと顎に当てた。
その為に手から離した死体が、ずるりと床に崩れ落ちる。
「それは無理な相談だよ」
「云ってろ!」
地を蹴る。カシュ、とボウガンが放たれるが不意打ちでなければそんなものは中也の敵ではない。ひらりと身を躱して距離を詰め、太宰治に掴み掛かった。腕を捕らえて気付く。此奴、体術はてんで素人だ。ボウガンを取り落とした機を見計らってその華奢な体を地面に抑え付け腹に馬乗りになる。
がん、と後頭部を床に打ち付ける嫌な音がした。
「っ痛ぁ……!」
「諦めろ。却説、色々聞かせて貰おうか」
額に拳銃を押し当てる。
けれど男の気味の悪い薄ら笑いは途絶えない。
「其処の教授、何故殺した。この施設は何だ」
「……何故殺したかと云えば、もう用済みになったからだよ」中也が一つ引き金を引けば死んでしまうと云うのに、太宰の口元はにやにやと緩んだままだ。「ところで中原中也。君はさあ、異能力なんて無ければ善かったと思うことは無い?」
「何を……」
云っている?
思わずまじまじと太宰の顔を見下ろしてしまったのは、多分、図星だったからだ。
――こんな力など無ければと、どんなに願ったか知れない。
暗闇の中で、太宰の左目は笑っていなかった。
膿んだ憎悪を湛えた瞳と視線が噛み合う。
「……手前」
次の瞬間、中也は太宰の腹から飛び退った。其処を遠方から固定の自動銃座がガガガ、と舐めるように銃撃していく。避けた先で、ピン、と足を何かに引っ掛けた。――罠だ。最早反射で前へと転がるが、直後に爆発した熱風を受けて機械の一つに叩き付けられる。衝撃に、一瞬星が散る。
「がっ……!」
「ああ、ああ! 君は若しかしたら、私を殺して呉れる人間なのかも知れない――このまま君の手に掛かって死ねたら、どんなにか幸せなことだろう!」
まるで本気でそう思ってるかのような、歓喜に満ちた声だった。けれど中也の取り落とした拳銃を拾う間に気が変わったのか、太宰治は何事も無くけろりと笑う。
「そう、それはとっても素敵だけれど、やることがあるから――未だ死ねないのだよね」
ぱん、と軽い調子で発砲された銃弾は床を転がって避けるのが精一杯だ。反撃に出る余力は無かった。
くそ。異能力があれば、こんな奴何でもねえってのに。
「ほらほら、異能力を使い給えよ」
思考を読んだように、太宰治が薄く笑う。
「ほざけ……っ手前には、異能力なんざ効かねえだろうが……!」
「そう、直接はね。けれど聡明な君は同時に判っているでしょう、此処で異能力を使わなければ私を捕まえられないことも? 君の異能力――重力操作なら、間接的に私を殺すことくらい訳も無い筈だ」
そう、異能力を使えば可能だ。
然し傷を受け、満身創痍のこの状態で、仮に異能力使用の許諾を得たとしても異能力を正常に扱えるとも思えない。
異能力を暴走させてしまえば、中也を待っているのは――。
「それともそんなにシステムに殺されるのが怖い?」
びくりと。
肩を震わせたのは、その太宰の声音に嘲笑の色が含まれていたからだ。
怖いか、だと。
怖い。怖いに決まっているだろう。己の首に嵌められた、首輪型の制御装置に触れる。十数年前に異能力を暴走させたあの日から、俺の首にはずっと絞首刑の縄が掛けられているのだ――ミスをすれば即座に命を奪う死神の鎌が。自分の意志ではない何かに、自分の命を握られている感覚。非異能力者には判んねえだろう。
知ったような口を利きやがって。
手前は異能力を感知されねえからって。
ふつふつと怒りが湧き上がる。何よりも許せなかったのは、太宰治の異能力が"異能無効化"であることだ。
そんなものが。
そんなものが若しあって。
俺の異能力が発症したときに、側にあったのなら。
そうすれば俺は、異能力を暴走させずに済んだじゃねえか。誰も殺さずに済んだ。檻に押し込められた猛獣のように、首輪を付けられずに済んだ。
突然突き付けられた仮定に、全身の血が怒りに煮える。
そんな中也を嘲笑うように太宰が云う。
「ねえ、真逆異能力を使わず私を殺せる心算でいる訳じゃあないでしょう? 君がそんなに温い気持ちでいるのなら、君のことは私が殺すよ。今の君なら私でも殺せる。システムの狗として死ぬか――それとも最期に異能力を解放して、私を殺して君も死ぬかだ」
人の気も知らず、太宰は人差し指を不躾に突き付ける。
無為な死か、有意義な死かを選べと。
その目には、生き生きと死を渇望する光さえ宿っている。
「さあ――私を殺してみて呉れ給え!」
ブチッと正常な思考回路が切れたのを感じた。
異能力なんて無ければ善かったと思うことは無い、だと? 当然思ったことがある。異能力など無ければまともな人生が送れていた。異能力など無ければ此処で死ぬことも無かった。
異能無効化によりその可能性を提示してくる目の前の男が邪魔だった。
この男は俺の人生に存在してはならない。
殺さなければならない。
殺してやらなければならない。
「……異能力」
ふわりとジャケットの裾が揺れた。体が煩わしい重力から解放される。ビッと鈍い警告音が首元から響くが構いやしない。殺すなら殺してみれば善い。
太宰の瞳に歓喜が滲む。
「汚れつちまつた――」
然しその一節を詠み切ることは出来なかった。どん、と背後から突き飛ばされたような衝撃と共に、腹から鈍い痺れが広がったからだ。「あ……?」と訳の分からないまま背後を振り返れば、樋口が特殊銃を構えて息を切らして立っていた。パラライザーか。理解する前にその場に崩れ落ちる。
「駄目ですっ中原さん……! それ以上異能係数を上げたら死んでしまいます、今、今処置を……」
カツ、と倒れた視界に誰かの踵が映った。その静かな足音は恐らく銀だろう。体を抱き起こしているのは樋口だ。必死に刺さっていた矢を抜き、応急処置をしようとする。
それを遮ったのは太宰治だった。
「……邪魔をしないで呉れない?」
その、冷え冷えと臓腑を突き刺すような声音に、樋口がびくりと震えるのが見えた。駄目だ。あの男の殺意に晒してはいけないと思った。「大丈夫」樋口の目を覆い、太宰の視線から庇うように抱き込む。「大丈夫だ……」
「中也。君ねえ……」
「中原さん、あの、銀が来て呉れましたから、それで本部にも応援を入れてあって、立原も無事で、あと、応援も直ぐに」
「芥川くん。アレ、如何して殺さなかったの」
太宰治の冷ややかな声が地下に響く。その問いに呼応するように、影が溶け出したような男が姿を現した。カツ、と太宰の背後に立つ。
「済みません。麻酔銃を受け、異能力の使用がままならず」
ぱん、と乾いた音が響いた。
太宰が芥川と呼ばれた男の頬を張った音だった。
芥川の病的に白い肌が赤く染まる。それを意にも介さず、太宰がくるりと背を向ける。
其処にあるのは明白な力関係だ。
「行くよ、芥川くん」
「……はい」
「待て……ッ!」
樋口が追い縋ろうとする。それを、太宰は冷笑一つで踏み躙って見せた。
「待て、と云われて待つ莫迦は居ない――でしょう?」
云い終わらない内に、ドン、と地を揺るがすような爆発音が響く。視界の端で機械類が粉々に吹き飛び――或いは炎に包まれようとしていた。壁に罅が入り、今まさに崩れようとする天井が目に入る。証拠隠滅。咄嗟に太宰を追おうとするが、行く手を瓦礫に阻まれて追うことは叶わない。伸ばした手の先が霞む。「姐さん、早く脱出しろ! 崩れる!」と駆け込んできた立原の叫びがやけに遠い。
「――そうそう。若し生きて此処を出られたならば、明日の放送を見給え、中也」
肩を借りながら体を起こし、顔を上げた処でパチンと一つウインクが飛ばされた。遠退く意識の中で微かに殺意が湧く。
「私はカメラ映りも抜群に美人だからさァ」
けれど炎と降り掛かる瓦礫の向こう側に去っていく背中を目にしながら、中也には如何することも出来なかった。
◆ ◆ ◆
二度だ。二度も取り逃がした。
一度目は追っていた被疑者を殺され。
二度目は違法と思われる施設を爆破され。
飲まされた苦汁に、胃が焼け切れる思いだった。矢を受けた傷より――施設からの脱出時の打撲より何よりプライドが痛んだ。
「……私がもっと、しっかりしていれば」揃って一緒に押し込まれた病室で、樋口はもう何度目かも判らない後悔を虚ろに呟く。「そうすれば中原さんは怪我をしなくて済んで、あの男――芥川も捕らえることが出来たのに」
「……手前の責任じゃねえだろ。あれは無理だ、諦めろ」
そう返した中也の言葉は決して気休めではなかった。あの場では最善を尽くした。それでも捕らえられなかったのだから、仕方が無いと云う他無かった。
寝台に体を沈める。
如何しようも無い苛立ちが、体をじくじくと蝕んでいた。
結局、くだんの教授の死体は瓦礫の下から未だ見付かっていない。太宰に引き摺られていた死体は、何か、異様なほど全身をずたずたに引き裂かれていたのを中也は見た。樋口曰く、それは芥川の異能力でしょうとのことだった。物理法則を無視し、外套を自在に操る能力。太宰の側に居たあの男は、それを訳も無く操って襲ってきたと云う。そんなものを相手にして、全員生き残れただけでも僥倖だろう。
けれどこれで終わるとも思えない。
太宰治の笑みを思い出す。あの男は何故あの場に居た。そもそもあの施設は何だったんだ? 調べようにも今や凡て瓦礫の下だ。周到にも、証拠隠滅の為に爆発物を仕掛けていんだろう、あの男は。
そして教授を殺した理由について、あの男は『もう用済みになったから』と云っていた。
詰まり直前までは利用していたのだ。
教授を――"人工的な異能力発症の研究者"を。
何かが一つの線として、中也の中で繋がり掛ける。
――そのとき、ビーッと警告音が鳴って携帯端末が放送の受信を報せた。
地震や台風等の災害時に使用される非常回線だ。見れば樋口の端末にも同じように入っていて、何だと二人で首を傾げる。暫く待ってみても地震は来ない。病室の窓から覗く青空は、台風など無縁なように快晴だ。
「……何だ? 誤報か――」
然しその疑問の答えは直ぐに知れた。
端末をタップすると同時に、初夏の涼風を思い起こさせるような爽やかな声が、端末から聞こえてきたからだ。
画面に映るのは砂色の外套を着た、蓬髪隻眼の男。
十数時間振りに見る顔だ。
『やあ、親愛なる横濱市民の皆さん。初めまして。私は太宰治』
「……太宰……っ」
その顔に、反射的に噴き出すような殺意を覚える。
――明日の放送を見給え。
これか、と中也は奥歯をギリと食い縛る。局長である坂口には既に各テレビ局の放送に警戒するように伝えてあったが緊急回線は盲点だろう。樋口が素早く何処かへ電話を掛ける。
「緊急回線に割り込んで違法な放送が流されてます、直ぐに止めさせて下さ――異能電網じゃなく電波ジャック⁉ なら善いから現地に向かって下さい!」
然し今から行って間に合うとも思えない。あの男は明日の放送を見ろと云った。あの時点で既に、これが放送されることは確定しているような口振りだった。恐らく中継ではなく録画だろう。本人は今頃、優雅に何処かでティーカップでも傾けているに違いないのだ。
窓へ駆け寄って下を見下ろせば、道行く人間が皆足を止め自分の端末に見入っているのが三階の病室からも見渡せる。
太宰治の言葉が悠然と続く。
『君達は、異能力を使いたいと思ったことは無いかい?』
――異能力など、無ければ善いと思ったことは無い?
あの地下施設で中也に投げ掛けられたのとは真逆の問いだ。感じた微かな違和感が正しいものかは判らない。
『例えば君達が今見ている端末は、異能技術によってネットワークに接続されている。セキュリティ面で重要な生体認証も、安定的な電力の供給も、凡て異能技術によって為されていることだ。我々の生活には、異能力が欠かせない――にも関わらず、その力を使えるのは今もなお極一部の人間だけだ。大多数の一般市民は、異能力を有することを許されない。生活を支える技術であるにも関わらず、だ――そんなのはおかしいと、そう思ったことは無いかい』
その問いはするりと耳に心地良く、心中に疑念の種を植え付ける。
『誰も口に出さないだけで、大多数の人間はこう思っている筈だ――自分に異能力があれば、もっと生き易くなるのに。自分なら、もっと上手く使えるのに。如何して一部の人間だけ。そんなのはずるいでしょう? 不公平だ』
まるでスポンジに水を吸わせるように。
『――実は、簡単に異能力を使えるようになる方法が、あると云ったら君達は如何する?』
「……何?」
中也と樋口は、思わず顔を見合わせた。
そんなもの、ある筈が無い。
あって善い筈が。
太宰治の柔らかい声は、魔性のように人の心に染み込んでいく。
『異能力とは、我々人の中に眠っている『可能性』だ。詰まる処万人が持ち得る魔法の力だ。それを覚醒させるには、ただほんの少し切欠を与えてやるだけで善い――この薬が、それを手伝ってくれる』
そう、懐から白い錠剤を取り出して太宰治はにこりと笑う。
邪気の無い笑顔で。
『……ふふ、悪徳商法ではないかと疑っている顔だね。結構結構。疑念を抱くのは知的活動を行っている証拠だ、ヒトとして当然のことだとも。そんな聡い君達に、私はこれが、単なる悪徳商法の類ではないことを証明してみせよう――と云っても、此処で私が誰かを連れてきて、この薬を飲ませたとしても、やらせである可能性は否定出来ない、そう、そこで君達だ――』
ふわりと、笑って見せるのだ。
『――君達、横濱の全市民にこの薬を飲ませた』
「は……⁉」
その意味を捉え損ねて思わず端末を取り落とし掛ける。
何を。
何を云っていやがる、この男は。
『もっとも、君達の中に一ヶ月ほど水無しで生き長らえられる者が居れば、或いは飲まなかった人間も居るかも知れないけれど、ね。然しそれこそ異能力じゃあないかい――そう、もう君達は、皆等しく異能力者だ』太宰治は、画面の此方側の人間を招き入れるように両手を広げてみせた。『異能力は最早、一部の恵まれた人間のみが使用出来るギフトではない』
「水……浄水場か……!」
樋口が呻く。浄水施設と云えば、太宰に殺された被疑者の男が逃げ込んだ場所だ。そうだ、あの場には太宰も居たのだ。セキュリティは如何なっていた等と云っても、異能力の計測のみではあの男が異能無効化の異能力者であることで簡単に突破されてしまうだろう。
己の特性を利用してあの男は浄水場に侵入し、セキュリティを掻い潜って混ぜたのだ。
紛れも無い"毒薬"を。
「あの野郎……!」
そんなことをすれば、異能力犯罪は目に見えて増えるだろう。ただでさえ、最近の発症事例では三人に一人は犯罪行為に走っている計算になるのだ。破壊行為が増える。人死にが増える。異能力なんて碌なものではないのに。
何を考えていやがる。画面の向こうで薄ら笑いを浮かべる男を今直ぐ縊り殺してやりたかった。けれど中也には如何することも出来ない。
ただ見ていることしか出来ない。
早く放送を終わらせろと、祈ることしか。
『――却説、皆々様!』
画面の前の混乱が一頻り収まっただろう、と云うタイミングで、太宰は大仰に両手を広げて画面へと呼び掛けた。
『異能力のプレゼント、喜んで貰えたことと思う。私も有意義な贈り物を出来て嬉しいよ。皆が異能力を使うことが出来れば、この社会や技術はもっともっと善くなる筈だからね。 そう、君達に与えた異能力と云うのは、使い方次第で本当に色々なことが出来るのだよ――例えば。芥川くん』
『承知』
げほ、と。
太宰に呼ばれ、黒外套の男――芥川が咳をしながら、何か、重い、布に包まれた物体を引き摺りながら出てきたのを目にした途端、それまでとは比べ物にならないほどの悪寒と恐怖が中也の体を襲った。
思わず端末を握り締めて凝視する。
「――おい。真逆」
背中を一筋汗が伝う。
だって芥川が引き摺っているのは"人"だ。
その目に黒い布で目隠しをされ、怯え切った状態でただ体を震わせているのは、中也と同じ歳くらいの男だった。芥川は荷物の運搬を終えたように一息吐き、それをどさりとカメラの前へと投げ出した。
次の瞬間。
『異能力――羅生門』
芥川の外套が錐のような形を伴ってその首を擡げ、男の体を貫いた。響く男の絶叫。それが聞こえていないかのように、何度も何度も、腿を刺し、腹を裂き、口から喉を貫いてずたずたに男を殺していく。耳を覆いたくなるような絶叫、芋虫のように地を這い蹲って逃げようとする男。
「――」
樋口が口元を抑えた。瞬きすら忘れて見入った。ばしゃ、とカメラに血が掛かったのを最後に、男が完全に沈黙した。
その血溜まりを踏み躙って、太宰治が笑う。
『――例えば。異能力を使えば、こう云うことが出来る』
病室の外から悲鳴が上がり始める。まずい、と思った。未だカメラには男の恐怖に目を剥いた死体が映っている。予想されるのは大規模な混乱だ。異能力犯罪が増える、なんて次元じゃない。非異能力者にとっては異能力とは未知の力だ。そんな得体の知れない力を、人を殺すものと植え付けて無理に発症させられれば、大多数の市民が混乱に陥らない訳が無いのだ。
喩えるならば刃物のようなものだった。
刃物自体には様々な用途があるのも事実だ。林檎の皮を剥いたって善いし、切り絵を作ったって善いものだ。
それをあの男は、人を刺し殺して見せた。
こう云う使い方も出来るのだよと。
そしてその刃物は、恐ろしいことに見渡す限りの他の人間が持っていて、刃先が此方に向けて構えられているのだ。
『却説、今や君達にもこのように素晴らしい異能力を持つ者の一員だ――』そう云って、太宰治はふとそれまで浮かべていた笑みを剥ぎ、心底詰まらなさそうに呟いた。
『――どうかこの社会の発展に、精々役立てて呉れることを願うよ』