【再録】愛の葬送


愛の葬送



 一.

 握り締めた手が何だか細くなった、と気付いたのは、相棒が意識不明の状態で見付かってから二週間ほど経ってのことだ。
 今何時だ。眠い目を擦ってもぞりと寝台から起き出すが、中也は隣で寝息を乱さないままだった。そうしてベッドサイドのランプを付け、起床時刻の朝六時まで未だ四時間ほどあることを確認し、もう一眠りしようと中也の手を握った。
 浮き出た骨が、生々しく太宰の手の平に当たる。
 毎日見ているのに気付かなかった――いや、毎日見ていたから、なのか。意識も無いのにマフィア本部に寝かせておく訳にはいかなかったから、此処は中也の家だ。勝手知ったる自宅のようなものだから、台所に水を飲みに行って再度シーツに潜り込む。中也と同じ寝台で何もせずにただ眠るなんて、まるで子供のときみたいだ。
 ふとシーツを捲れば、成る程全体的な肉付きも落ちてきているような気がした。衰弱している。何日も眠ったままで飲まず食わず、栄養も取らなければ碌に体の機能も使っていないのだから当然だ。心無しか、頬も痩けて青白んでいる。
 まるで病人。
 あの中也が? 笑おうとして、ぐにゃりと口の端が歪む。病人、なんて。中原中也と云う男から、最も縁遠い言葉だ。似合わないにも程がある。
 けれど何時までもこのままと云う訳にもいかない。中也はこのまま目を覚まさないのだろうか? それは困る、と太宰は反射のように思った。
 困る?
 首を傾げる。困る? 困らない。別に中也が居なくても任務は滞り無く遂行出来る。太宰にはその能力がある。相手の生存を態々望むほどもない。私達はただの相棒だ。幾らだって替えが利く。だから別に中也じゃなくても善い。
 一度そう断じたのは太宰だ。
 でも、と思う。
 でも、そうするとこうやってずっと中也の様子を見に来なきゃいけない訳だし。
 中也以外に私を満たせる人間が、居るとも思えないし。
 早く目を覚まして呉れないと、困る。
 寝台に体を横たえて目を瞑ると、微かに中也の寝息が聞こえる。それに重ねるように、夜に冷えた空気を肺いっぱいにゆっくり吸い込む。うつら、うつらともう一度、意識が夢の国へと漕ぎ出す。
 早く寝なきゃ。もう遅い。若しかしたら、明日になったら何事も無かったかのように目を覚ますかも知れないし。……なんて、楽観的な。嘲笑う己の思考を夜の闇へと溶かし、心地好い眠りへと身を任せて落ち行くその瞬間。
 太宰、と微かに名を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 気付けば、真っ暗闇の中に居た。
 は、と辺りを見回す。湿った苔の匂いが太宰の鼻先を掠めた。じっとりと滞留した空気。肌で自分が立っているのが地下であることを感じ取る。けれどそれだけでは周囲の様子は掴めない。手を伸ばしても、指先に触れるのは塗り固めたような濃い闇ばかりだ。眠っている間に攫われでもしたか? 見知らぬ場所に、太宰の警戒レベルが一気に跳ね上がる。
 然しそれも、目が慣れてくるまでだった。
 職業柄、夜に活動することの多い太宰の目が、薄ぼんやりと周囲の様子を掴み始める。古い石組みの部屋。上から差し込む僅かな光。跳ね上げ式の扉から伸びる階段。如何やら此処は何処かの地下室のようだ。
 そして。
「……中也?」
 趣味の悪い帽子、肩に掛けた外套。暗闇の先に見慣れた相棒の背中を捉えたことが、太宰の緊張を少し和らげた。
「なんだ中也、君も居たの? ねえ此処って……」
 何処、とそう問い掛けようとして異変に気付く。太宰が声を掛けたにも関わらず、相棒は手提げランプを床に置き、此方に気付かないかのように壁に向かって何事かを思案していた。かと思うと、急に素手でがりがりと壁を崩し始める。ちろりと揺れるランプの灯。その橙の光に照らされた横顔は、何時もの快活な表情と違って、まるで幽鬼にでも取り憑かれたかのようにぼんやりと虚ろだ。
 生を感じさせないその色に、ぞわりと太宰の背筋を寒気が走る。
 同時に、首筋を撫でる土の匂いを含んだ冷えた風。
 なんか嫌だ。
「中也、ねえ中也ってば! 話聞いて!」
「煩え」此方に目も呉れないおざなりなその態度に、太宰は一瞬言葉に詰まる。それを気にも留めずに、中也はただがりがりがりがりと一心不乱に壁を崩している。「煩え。俺の名を、そう気安く呼んで善いのは彼奴だけだ……」
 何、それ、と太宰が云う前に。
 ぼろ、と壁の一部が崩れた。
 ――壁の中から出て来たのは、太宰の死体だ。
「……え?」
 突然の事態を飲み込めず、太宰は呆然と、砕けた石と共に己の死体が倒れ込んでくるのを眺めることしか出来なかった。
 中也の腕に抱き留められたその体は、青白くのっぺりとしていて、まるで作り物の蝋人形のようだ。然し生気の欠落したその表情が紛れも無く死人のそれであることは、太宰と中也の善く知る処だった。ああ、自分の死体を見ることになるなんて、貴重な経験だなあと頭の片隅がぼんやりと思う。何せ人間、自分の死体を見ようとしたときには大抵死んでいるんだから。
 けれどわたしは生きてる。
 じゃあ目の前にあるわたしは何だ。
 太宰の混乱を断ち切ったのは、部屋に響いた掠れた悲痛な声だった。
「……おい、冗談は止めろよ」
 太宰は今度こそ、胃の腑が痙攣したように立ち尽くした。動けなかった。相棒の伏せられた顔を目にし、息が出来ずに心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥る。
 何故、と思った。
 なんでそんな顔するの。
 私が死んだくらいで、君がそんな顔する必要無いでしょう。
 だって、と太宰は思う。だって太宰の首をきゅうと絞めて呉れた中也は、もっと全身から喜色を滲ませて太宰を求めていたのだ。悲壮な覚悟も止むに止まれぬ事情も無い、ただ純粋に、本能と欲望のままに太宰を如何にかしたいと願っていた。だから太宰も、その熱量に飲まれて身を委ねた。
 その行き着く先が、こんな結末である筈が無い。
 もっと笑っていなきゃあ駄目でしょう、もっと喜んでいなきゃあ駄目でしょう。私を殺したいくらい如何しようも無く愛おしく思って呉れた君は、私の死にそんな顔をしちゃあいけないでしょう。
 太宰はその場に蹲りたくなる衝動を抑えて、必死に足を踏み留まらせる。
 止めて欲しかった。
 これ以上、こんな光景を見ていたくなかった。
「太宰、手前今もその辺に居るんだろう、隠れて俺を笑ってんだろ、なあ……」
 居る、と伝えたかった。そんなモノは偽物だと、だから止めろと声を大にして喚きたかった。――そうだ。この茶番を一刻も早く止めさせなければ。
 中也、と。
 その体に触れようとして、す、と太宰の指先は中也を捉えることなく透き通って黒外套を通り抜けた。
 当たり前だ。触れることなど出来よう筈も無い。
 何故なら太宰はもう死んでいる。
「俺か」
 ただその横顔を眺めるしか出来ない無力な相棒の目の前で、浮かび上がる凡ての感情を押し殺し。
 何かに耐えるように奥歯を強く噛み締めて。
「手前を殺すのは、俺なのか――太宰」
 中也は一人、呟いた。

 その瞬間、ぐるりと視界が反転した。
「だから、嘘じゃねえ!」
 気付けば地下室からは脱していて、太宰は曇り空の下に居た。何処か西洋の街中だ。妙に古めかしく、同じような造りの縦に細長い住居が道の両脇に建ち並んでいる。何かの折に一括して建てられたのだろうと思わせる、整然とした光景。灰色の空は淀んでいて、空気がじとりと湿っていた。
 ふと横に目をやると、老人の一人が喚いているのを中也がじっと聞いている。その瞳は常と変わらず刃物のような鋭い光を宿していて、先程の喪心を微塵も感じさせない仕事用の冷静な表情を浮かべている。とても相棒を喪った直後には見えない。太宰が思い違いをしただけで、中也にとっては先程の太宰の死など取るに足らない出来事だったのだろうか。
 ……いや。
「昨晩、儂は確かに聞いたンだよ、儂の家の地下室で誰かが云い争ってンのを! ……それだけじゃねえ、その声が苦しそうに呻いたかと思えば、突然ぴたりと止ンだンだ。それから何が聞こえたと思う? ガリガリと、壁を崩し出したンだ――誰かが儂の地下室に死体を埋めていったに違いねえ!」
 その老人の言葉には聞き覚えがあった。正確には見覚えだ。太宰は一度その科白を、先日捉えた異能者、エドガー・アラン・ポオの小説の中で読んでいる。
 老人が喚きながら中也に目を向ける。その後の科白も太宰は知っている。彼は主人公に、こう訊くのだ。
「そう、其処の帽子のアンタも昨夜は其処の家に帰ってきていたろう! もう一人の連れと聞かなかったか、あの悲鳴を?」
 成る程。
「……詰まりこの世界はあの本の中である可能性が高くなったって訳だ」
「決め付けるのは早計だがな」
 返ってきた言葉に、太宰は僅かに目を見開いた。それから視線を上げると、ぱちりと碧い瞳と目が合う。
 中也が、太宰のことをじっと見ていた。
「……君、私が視えているの」
 思わず呟く。いいや、それはおかしい――今太宰が見ているのはあの小説の冒頭だ。先刻フラッシュバックみたいに鮮烈に焼き付いた光景は、きっと物語の終わり。その順番では物語は展開しない。時系列が歪になっている、と太宰は思う。まるで洞窟の中で、同じ道をぐるぐると回るみたいに最初と最後が繋がっている。
 或いは継ぎ合わせたフィルムみたいに。
 然し、今この時点では既に地下での殺人は成されている筈だ――被害者が仮に今回も太宰であるのなら、既に壁の中に居る筈だから、中也に何故視えるのかは判らない。
「手前、今まで何処へ行っていた」
 けれど中也は、寸分違わず太宰に向かってその視線をひたりと向けていた。視えていることは明白だ。マァ、何時もの熱の篭ったものでなく、疑念の篭った視線であるのは仕方が無い。太宰はその視線の切っ先を躱すように、へらりと薄ら笑いを浮かべる。
 そう、太宰の存在は此処では完全に変則的存在だ。小説の中であろうがなかろうが、あれは異能であったから、異能を無効化してしまう太宰が此処に居るのはおかしい。きっとそう思っているんだろう。
 それで正解。
 ここで人間失格の存在をほいほい受け入れるような相棒なら、太宰は疾っくに中也のことを切っている。
 とは云え、今の自分の存在を上手く説明出来ないのは太宰も同じだ。却説、如何云ったものか。癖のある黒鳶の髪を一筋、人差し指で摘んでくるりと回す。
「君はそう、こう思っているんだ――私には異能が効かない、ならばあの異能が空間移動や時間移動であれば、私がこの場に居る筈は無い」そう。中也は先ず、周囲の状況からその可能性を除外した筈だ。「然しこうも思っている筈だ。それは本の中に引き摺り込まれる異能であっても同じではないのか? 或いは、この太宰は、異能で作り上げられたものなのではないか」
「……勝手に人の考えたこと、ぺらぺら喋んじゃねえよ」
「ああ、御免ね?」
 軽く肩を竦める。中也の視線からはもう刺々しさは消えていて、太宰が本人だと云う確信を得たようだった。漸く普段の調子が戻ってくる。久しぶりに聞く相棒の声に、如何しようも無く心が沸き立つのを感じる。
 嗚呼、矢っ張り。
 太宰、とこの男に名を呼ばれると、淀んでいた胸の辺りがひどくすく心持ちがするんだ。
 カツカツカツ。
 じゃりじゃりじゃらじゃら、と。
 憲兵に教えられた住所に向かう、中也の背中を追い掛ける。如何やら擦れ違う人々には太宰の姿が視えていないようだったから、太宰の方からぶつからないよう避けてやらないといけない。これが意外と面倒臭かった。ぶつかっても善いのだけれど、未だ死んでいる自覚は無いから――当たり前だ、生きてるんだから――そう云う幽霊みたいなことは、ちょっと。手間取っている内に、中也はどんどん人波を掻き分けて先に行ってしまう。
 じゃりじゃりじゃらじゃら、と。
 足元の鎖が煩く鳴り響く。
 道行く途中、新聞に大猩々遁走、なんて記事を見掛けて、今の現実離れした状況の中で見る妙に所帯地味たその見出しに、思わず笑ってしまったりもした。怖いなあ。野生なら人を襲うこともあるだろうから、早く捕まると善いなあ。
 そう思っている内に、うっかり中也を見失ってしまった。じゃり、と足首を拘束する枷に、それ以上の進行を阻まれたからだ。見れば鉄色に重く光るそれはずっと太宰の足首に絡み付いていたようで、引けばピンと長さが限界であることを伝えてきた。何処から伸びてきているのかと思えば、来た道からずっと、蛇の抜け殻のように鎖が石畳を這っている。
 この先へ、太宰は進めない。
「……ああ。そう云う設定」
 その言葉に、太宰の不在に気付き戻ってきた中也が怪訝そうに太宰の顔を覗き込んだ。その、少し疲れたような表情に笑う。らしくない。
「ねえ、中也。如何やら私は、これ以上、スタァト地点を離れられないらしいよ。私の脚に絡まった枷が、これ以上、離れることを拒むのだ」
 枷? と中也は胡乱げに太宰を見た。枷など視えない、と中也は云った。
「……矢っ張り手前は、異能で作られた幻影なのかな」
 その、どこか何かを諦めたような相棒の自嘲に、太宰は答えられなかった。太宰は太宰だ。それ以外の何物でもなく、それ以外にこの曖昧な存在の状態を云い表すことなど出来やしない。仮令私は本物だよと、云ったってひどく疲弊した様子の相棒を安心させてやるには到底足りないだろう。太宰自身、今の自分の状態が何なのだか善く判らない。
 かと云って、私は今君に殺されて死体になって壁の中に埋まってるんだよと云う訳にもいかない。
「私」
 太宰はぼんやりと自分の体を見下ろしながら言葉を選ぶ。
「今の私は、地縛霊のようなものなのかも」



 二.

 そこで目が覚めた。
 ぱち、と目を瞬く。室内はすっかり朝焼けの匂いに満ちていて、窓から差し込む涼しい光が太宰の頬を柔く包んでいた。
 今のは何だ?
 太宰はがばりと身を起こし、素早く周囲を見渡す。代わり映えの無い中也の私室だ。死体の埋まった地下室でも無ければ、石畳の続く西洋の街の影も無い。夜、眠りに落ちたままの状態で、太宰は目を覚ましていた。
 夢?
 それにしては、体に妙な疲れがある。
 手の平に汗が滲んでいると気付いたのは、突いていたその手をぐっと握り締められたからだ。
「中也?」驚いて呼び掛ける。「君、意識が……」
 然し太宰の期待に反し、相棒は相変わらず固く目を閉ざしたままだった。夢の中で、ひらりと外套を翻して曇り空の下を闊歩していた姿は見る影も無い。太宰、と呼び掛ける声も。落胆の溜め息を隠すこと無く吐いて、それから額に少し汗が滲んでいたから、張り付いた髪をそっと手で払ってやる。
「……手前を……」
「うん?」
 囁きのように呟かれた寝言に、太宰はその頬を撫でて応える。手前、と。中也がそう呼ぶのは太宰相手のときが多いから、夢の中に居るのは太宰なのかも知れない。
 然し続く言葉に、太宰ははっと瞠目した。
「殺すのは……俺、なのか…………だざい……」
 脳が痺れたように一瞬硬直した。私を殺すのは? そう、それはつい先程聞いた科白だ。太宰の夢の中で。太宰の死体を抱きながら、中也が呻くように落とした言葉。
 詰まり先刻の夢は。
 太宰ではなく、中也が見ていた夢だったのか?
 ばちりと脳裏でシナプスが繋がって弾けた気がした。あれが小説の中に引きずり込まれたときに見た光景を映した中也の夢だとすれば。太宰が終幕と冒頭を立て続けに見たように、眠り続けている中也も幾度と無く夢の中で太宰の死体を掘り出しているんじゃあないか。
 だってあの小説にはそれ以上の続きが無いのだ。
 洞窟の中で、同じ道をぐるぐると回るみたいに最初と最後が繋がって。
 何度も何度も、太宰の死体を抱いて。
 自分が殺したのかと自問して。
「……それは、ねえ、君、ちょっと……」
 そんな相棒の心中を想像し、あは、と奇妙な笑いが漏れる。
「……ずるいよ」
 そう、ずるいと思った。太宰がきっちり死ねている世界に、連れて行って呉れずに自分だけ閉じ籠もるなんてずるい。
 ――生きてんだな、と。
 小説の中を脱したときに中也が見せた表情は、紛れも無く安堵のそれだった。それを太宰は、太宰の死に関する何かを見たのかと処理した。
 今思えばそれは死に関する何かなんて曖昧なものじゃない。
 己の手で太宰を殺した光景を見たんだ。
 そして自分が手を汚したのでないことに安堵した。
 太宰を殺して、いないことに。
「……莫迦じゃないの」
 寝言が止み、再び眠りへと――夢の中へと意識を沈めた相棒の無防備な寝顔を見て、急にむかむかと、胃の底が捻れるような不快感を感じた。叩き起こしてやろうかと思う。だってずるい。中也の夢の中で私が死ねているのがずるい、中也だけそんな世界に閉じ籠もっているのがずるい。
 私を理由にするくせに。
 私を置いて、一人で苦しんでいるのがずるい。
 乱暴に自分の外套を引っ掴み、誰も侵入しないよう、室内のトラップを確認してから部屋を飛び出す。
 行かなければならない処があった。

 カツン、と靴音を鳴らして地下を進む。夢とはまた違う色合いの石組みだ。此方はもう少し整備されている。但し汚水の臭いがひどい。まあそれも、捕虜に精神的な毀傷を与えるのには割と都合が善いのだけれど。
 入り口に居た見張りの兵が、太宰の姿を認めた途端欠伸を噛み殺して如何なさいましたか太宰さん、と慌てて駆け寄ってくる。それを軽く手で制して牢の前まで行くと、ガリガリガリとペン先が紙を引っ掻く音がぴたりと止む。中に居た黒髪の男が、ビクリと怯えたように肩を揺らす。
「ねえ、ちょっと」
 呼び掛けると、以前ポオと名乗ったその男は、恐る恐ると云った風に顔を上げた。そののったりとした仕草に、苛々と感情が掻き乱されるのを自覚する。
『な、なんであるか……我輩、もう祖国に帰りたいのであるが……?』
 落ち着け。幹部たるもの、常に冷静に。冷徹に。
『……私の相棒が本の中に囚われてるの。あれ、何とかして』
『本に、であるか?』青年は首を傾げる。『然し、我輩の本、彼はもう読み終わったのであろう? であれば、我輩の異能はもう効いていないと思う』
『惚けないで』
『惚けるも何も、太宰君が我輩に触ったから、我輩の異能は消えている筈であるし……』
 それはそうだ、と太宰は顔に出さずに思う。何か最近そう云うのばっかりだ。
 いや、それより。
『なんで私の異能が異能無効化だって知ってる』
『えっ食い付くのそこであるか』
 確かこの男には云っていなかった筈だ。鉄格子越しに視線を刺すと、ポオは軽く肩を竦めて座っていた座椅子の背を逸らし、天井を眺める姿勢を取った。
 そしてぼやく。
『人に推理の話はしたくないのである。面倒である……』
 太宰が数日観察していて判ったことは、この米国人の青年はおどおどとした態度を取っているくせ、その実怯えているのではなく単に図太く反応が鈍いだけだと云うことだ。ガン、と鉄格子を蹴り付けたって今度はぴくりともしない。それは今、太宰が貴重な情報源を失うことを忌避してポオに危害を加えないだろうとことが判っているからだ。
 本当、頭の切れる人間は腹立たしい。
『……だとしても、君の異能力だ。反作用で解除することも出来るでしょう』
『マァ、我輩が内容を書き換えた本を執筆して読ませれば或いは……。然し善いのであるか?』
『善いのか?』質問の意図が掴めず、苛立ちのままに吐き捨てる。『善いに決まってる』
『でも今の状態なら、中也君は誰にも毀損されないのである』
 肺腑を抉るような重い言葉。
 それがさらりと発せられて、一瞬息が詰まる。気道を絞められたような感覚。地下の饐えた空気が静まり返る中、落とした視線を何とか拾い上げて顔を上げれば、発言をした当の本人はどこ吹く風の涼しい顔をしている。
 うわ。
 こいつ嫌いだ。
『太宰君はこの数週間でこう思った筈である――中也君が自分以外に毀損されるのは我慢がならない』その、骨張った人差し指が、ぐるりと空気を掻き混ぜるように回されたかと思うとぴたりと太宰を指して止まる。『けれど今は別に誰の異能に掛かってでもない。中也君は自らの意志で、太宰君のことに囚われている』
 そうだ、現に切欠を作った異能者は云っていた。
 自分の意志で己の精神を閉じ込めてしまう人間が、一定数居ると。
 眠ったまま、目を覚ましたくないと望んでしまう人間が。
『それを望んだのは太宰君ではないのか』
 そう、そして太宰に断りも無く相棒が他の誰かに毀損されることを望まなかったのは太宰だ。
「中也」
 でも違う。望んだのはこんなんじゃない。
「中也は」
 太宰、と。
 己の名を闊達に呼ぶ声を思い出す。触れる手の平の温度、高揚したときの匂い。口づけを交わしたときの感触を。
 仮令その存在が誰にも毀損されないとしても、太宰の見る世界に存在しないのでは意味が無い。
 ぎり、と歯を食い縛る。
『……二日後、同じ時間に来る。それまでに解除出来る本を書いておかなかったら、命は無いと思え』
 そう吐き捨てて、踵を返した。
『あっ太宰君! 待つのである!』
 のに、呼び止められたから仕方無く足を止める。もう話は終わったんじゃあなかったの。太宰にしてみれば、これ以上この場に長く留まっていたくはなかった。何よりこの男と話すのは得策ではない。この男の言葉は時に器用に太宰の殻を隙間を掻い潜って内蔵を抉り、固く秘した感情を綻ばせるんだろう。そんな恐れさえ僅かに抱いた。さっさと殺すか逃がすかしてしまいたい。
『……未だ何かあるの』
『し、執筆活動には、多大な労力を要するものである……我輩が無事書けるよう、飴と、チョコレイトと、後ダイフクを所望するものである! ダイフク美味しかった有難うと昨日の少女に伝えといて』
「ちょっと誰、捕虜餌付けしてるの!」
 思わず頭を抱える。
「だ、太宰さん……如何致しますか……」
「……飴とチョコと大福を持ってこい。但しサボってたら、足の指から一本ずつ切り落とすんだよ」
 近くで待機していた見張りの兵にそう命じ、それからもう一度、今度は腹立ち紛れにガン、と鉄格子を蹴り飛ばした。

「大体、君がそんな下らないことで悩んでいるのが悪い……」 
 べたり、とスーツのまま床に寝転がった。頬に冷えたフローリングが当たる。すん、と鼻を鳴らした部屋の中からは中也の匂いが日に日に薄くなっていて、代わりに何と云うか、弱った病人の匂いが色濃くなってきていた。顔を顰めて、目線より少し上になった寝台を眺める。
 早く目を覚ませば善いのに、と思う。
 あんな顔で、呆然と、矢っ張り俺なのかと問うくらいなら、さっさと目を覚まして太宰が生きている此方に戻って呉れば善いのだ――そうすれば、もう苛まされることは無くなる。
 なんで目を覚ましたくないのかは知らないけど。
 起きれば全部解決するじゃあないか。
 その、自分の思考に少し引っ掛かりを覚えて、あれ、と太宰は首を傾げた。何だっけ、そう、最初は中也は目を覚ましたくないのだと思っていた――佐藤も安吾もそう云っていた。眠りに就いたまま、目を覚ましたくないと自ら望んでしまう人間が居ると。
 然し蓋を開けてみれば中也の見ている夢はあまりに陰惨で詰まらないものだ。てっきり美女を両手に酒を山盛り、酒池肉林で豪遊するような夢なんだと思っていた。だから目を覚ますより、夢に閉じ籠もることを選んだのだと。
 いやそんな中也は嫌だけど。
 両手にセクシーな美女を侍らせながら鼻の下を伸ばす中也を思い描きながら、けれどそうじゃないんだ、と認識を改める。そんな愉快な夢じゃない。
「……じゃあ何で」
 手前を死なせてやらねえことにしたと、そう云っていた。目を覚ませば、現実には生きている太宰が居るのに。
 ……いや。
 そこまで思い至って、太宰ははっと飛び起きる。
 目を覚ませば、生きている太宰が居るから?

 ――手前を殺すのは、矢っ張り俺なのか。太宰。
 そうして太宰を殺したのではないと判ったときに見せた柔らかい安堵の表情。

 中也は自分が太宰を殺すことを恐れている。
 その点、目を覚まさなければ太宰を殺すことは無い。
 約束を違えることは。
 眠る相棒の顔を見た。相棒は何も応えない。ただ今もずっと、繰り返し太宰の死体を抱いているのだろう。一人、夢の中に閉じ籠もって。は、と奇妙な笑いが漏れ出る。笑うしか出来なかった。
「……。それこそ、本当に莫迦だ」
 莫迦だ。莫迦で、勝手で、ずるい。
 無意識に首に手をやった。何時かの任務の夜の手の温度を思い出す。興奮した中也の匂い、食らうようにされたキスの味を。
 殺そうとしたくせに。
 殺したかったくせに。
 そして太宰も、中也に殺されるのは悪くないと思って目を閉じた。
 でも多分、惜しくなったんだろう。太宰だって同じだ。判っている。死んだって代わりが居るんだから中也でなくとも善いと散々嘯いたくせ、中也が行方不明だと聞いては探しに行き、意識が戻らないと聞いては毎日その様子を伺っている。
 だって相手の死は相棒関係の終焉を意味するのだ。
 それが、如何しても惜しくなった。
 惜しいと思ってしまった。中也でないと駄目だと。そして中也は太宰を殺した後の自分を見出だせなかった。欲に駆られるままに太宰を失った後、相棒を喪失することに気付いた。だから手の平を返した。死なせない、なんてらしくない宣言をした。単なる自殺嗜癖への嫌がらせではない、それは相棒関係を続ける為の止むを得ない延命処置だ。
 けれどその所為でこんなことになっている。
 私達は、お互い相手が死のうが如何でも善かった筈なのに。
 その前提を歪めてまで、相棒関係の継続を望んだ。
 だったら、と太宰は思う。
 相棒関係を続ける為に、中也が太宰を求める自分を殺し、決して死なせない、と誓ったように。
 同じくそれを望む太宰も、相棒を喪わない為に己の感情を殺す必要があるんだろう。
 仮令、自分達の関係をあと幾らか歪めることになろうと。
 
『出来た?』
 きっかり四十八時間後の午前九時に、太宰は再び地下牢を訪れた。幹部権限で牢の鍵を開けさせる。キィ、と軋む鉄格子を開けて中に入れば、足元に飴やらチョコやらの包み紙が無造作に散らばっていたからそれらをぐしゃりと踏み締める。居住性なんかにはあんまり頓着する質じゃないらしい。
『お、丁度善い処に!』
 牢屋の住人は、太宰の姿を認めると何故だか嬉しそうに顔を上げた。伸ばされた前髪の所為で表情は伺えないのに、その尻にぱたぱたと振られる尻尾が見えるようだった。捕虜のくせにその余裕は一体何なのか、太宰には終ぞ判らなかった。ポオが手にした原稿用紙の、最後の文字の洋墨が乾き切るか切らないかを奪い取ってざっと目を通す。
 その横で、ポオがそわそわと体を左右に揺らす。
『……』
『……如何? 如何であるか?』
『……』
『二日で書き上げたにしてはこれ傑作では? 褒めて欲しいのである!』
『ちょっと黙って! て云うかねえ、和訳は?』
『? ポートマフィアの幹部殿は、英語も堪能と聞いたのである。と云うか、我輩、こんな東洋の国の言葉が書けるように見えるのであるか?』
『偉そうに云うことじゃない』
 耳を掴んで引っ張ると、『痛い痛い痛い! うう、放して欲しいのである……』とぐすぐす泣き始める。本当に成人男性なんだろうか。これで太宰より六つも上だと云うのだから世の中判らない――日本に来た理由もあやふやで、ただメイタンテイとの推理勝負に負けたのだと、それしか語らないのだから始末に終えない。最初は組織の研究機関に引き渡そうともしたが、何故だかそれは憚られたのだ――太宰にしては迂闊なことにそれを躊躇った。全く、調子の狂うことばかりだ。そうこうしている内に原稿を読み終わる。
 大体の粗筋は判った。後は太宰次第、と云う訳だ。
 然し一つ問題がある。
『……あのさあ』
『ヒッ』
 何故かこれは、びくりと怯えられる。最早相互理解は諦めて、太宰は自分の要点だけを完結に伝える。
『私の相棒、意識を取り戻さないんだよ。如何やって読ませるのこれ』
『な、なんだそんなことであるか』
 ポオは僅かに安堵したように胸を撫で下ろした。
『思うに、我輩のBlack cat in the Rue Morgue――ability to drag someone who read my novel to itであるが――readとは即ち黙読でも音読でも問題無い筈である。であれば、読んで聞かせるのが最も手っ取り早い』
 云いながら、どうぞとその原稿を渡される。
『……いや何当然のように私がやる流れになってるの。君がやりなよ。その代わり失敗したら承知しないから』
『えっ。善いのであるか?』
『善いのか?』なんだか前もこんなやり取りをしたな、と太宰は頭痛を覚えながら云う。『善くない理由がある?』
『一つ。その、今の中也君の弱っている無防備な姿を、我輩に見せても善いのか』
 勿論駄目だ。
 原稿を返し掛けていた手を止める。
『二つに、中也君が囚われた記憶を、我輩が読み上げても善いのか』ポオの手が閉じた拳から人差し指と中指が立てられ、ピースの形をした処だった。『中也君を救うのであるから、異能の性質上、中也君が何に思い悩んでいるのかについて知らねばならないし、如何しても中也君のプライベートに踏み込むことになると思うのであるが……太宰君がそこまで我輩を信頼しているとは意外であった』
『貸して!』
 そんな訳無いだろう、と今度こそ原稿を奪い取る。ポオがそれでこそ太宰君である、と嬉しそうに笑う。
 何なんだこの男。本当に最後まで腹立たしい。奪い取った勢いのまま、牢を出ようとした太宰の背中に声が掛かる。
『こう云うときは何と云うのであったか……そう、』無邪気に手を振って見送られる。「ゴブウンを、太宰君!」
「――ねえ、その男を米国に送り返す準備しといて。パスポート無いらしいから必要なら作らせてね。バレないように」
 牢を出る際、見張りの兵に云い付けておく。承知しました、と云う返事を聞く前に地上階に上がる。部屋に戻ってから、善く考えたらパスポート持ってないって密航じゃないか、と気付く。つくづく、善く判らない男だ。

 却説。
 これから太宰が読み上げるのは、あの小説の前日譚だ。
 寝台の横にスツールをガタガタと持ってきて座る。中也は相変わらず目を覚まさない。莫迦みたいな澱みを一人で抱え込んだまま、間抜けな寝顔を晒している。何だかそう思うと腹立たしくて、意識の無い中也の薄く開いたその唇に、唇を寄せて重ね合わせる。
 これが最後かも知れないし。
 好きだったな、と唐突に思った。甘い雰囲気で、なんてものはしたことが無かったけれど、二人で血の匂いに昂って、食らい尽くすように交わす口づけは嫌いじゃあなかった。
 でも、君の下らない夢物語に終止符を打ってあげないと。
「中也」
 その、夢に入り込むように。
 原稿の頁を捲った。



 三.

 ぱち、と太宰は目を覚ました。自分が身を沈めていたソファから身を起こす。例のアパァトメントの二階だ。今何時だ。時系列は。確認しようと外を見ると、薄いレェスのカーテンの向こう側はすっかり日が暮れて真っ暗だ。仄かな橙色のランプがちらほら見える処を見ると、未だ営業している店舗もあるのだろうがその殆どが既に店仕舞いをしている。時計は――無い。見回しても時計の類は置いておらず、手には腕時計もしていない。設定が甘い、と思いつつ、太宰は確認の為に地下へと降りる。
 跳ね上げ式の床扉を開き、暗い階段を手提げランプを持って階下へ。夢で見た光景を頼りに、死体の埋められる筈の辺りの壁をゆっくりと手探りで探す。
 けれど其処には何も無かった。古い石組みが固く整然と並んでいるだけだ。穴が掘られた跡も、それを埋め直した跡も無い。
 詰まり未だなんだ。
 中也が太宰を殺すのは。
「――ただいま」
 階上で聞こえた静かな声に、思わずぴくりと肩を揺らした。中也の声だ。平温で、特に普段と変わりは無い声。なのに胸の奥が妙にざわついて仕方が無いのは、これから起こる出来事を想像して感情が昂っている為だ。
 殺されるのは痛いんじゃないか、苦しいんじゃないかと云う不安と。
 君が私を殺して呉れるのかと云う微かな期待。
「太宰? 地下か?」
「……ああ」
「ちょっと待て」
 待て、と云われても。太宰は手持ち無沙汰ぎみに、うろうろとその場を回る。床に下ろした手提げランプは蹴倒さないように。殺されるのを待つと云うのも妙な気分だ。一つ呼吸をして、自分の手首に指を当てる。脈拍が常に無く上がっている。心臓の鼓動が、やけに煩い。
 私は今から中也に殺されるのだ。
 そう思うと、急にかあっと顔が熱くなって、思わず両手で頬を押さえた。この部屋が暗いことだけが幸いだった。きっと今の太宰の顔は、熟れた林檎のように真っ赤に違いない。
 中也。
 期待が抑え切れなくてしゃがみ込む。拙い。夢の中から中也を引き摺り戻さなければならないと云うのに、まるで恋でもしている少女みたいに心が浮き足立っている。
 だって、だって。
 私はずっと待ち望んでいたんだ、誰かがこの乾いた世界を終わらせて呉れるのを。
 中也と居るときだけは少しだけマシだったけど。
 でも死へ足を踏み入れる誘惑はそう簡単に消し切れるものじゃない。
 首を這った手を思い出す。感じるのはあの夜と同じ高揚感。
 かつ、かつ、と階段を降りるその跫音が耳に響く。
 カツン、と最後までその音が降り切った処で。
「中也」
 平静を装って、振り返った。

 血の匂い。
 暗闇の中でぎらりと金に光る、獣のような瞳。
 それが太宰を真っ直ぐに捉えていた。
 心臓を貫かれたように、一瞬動けなくなった。ごくりと、浅ましく喉を鳴らしてしまう。外套を翻し、その涼しげな髪を弄りながら歩み寄ってくる中也の纏う雰囲気は、殺しの任務の後のそれだ。既に誰かを手に掛けている。
 そう、これは例の小説の前日譚だ。
 人が殺されて。その犯人が誰か、と云う、至極判り易いミステリィの。
「……そうか。大猩々なんかじゃないんだ」
 数瞬の後、太宰は状況を理解した。瞑目する。明日新聞を騒がせることになるだろう殺人鬼、その犯人が目の前に居るこの男であることを。
 カツン、と中也が太宰の前で立ち止まる。間近で見る冷えた瞳の内に見える、猛り狂った猛獣の気配に、本能的な恐怖と――期待さえ感じて、ほうと吐息を漏らす。
「君が、彼女を殺したんだ?」
「互いに益になる取引だっつったのに。思ったより抵抗されたからついムキになっちまった。……俺もまだまだ未熟だよな」
 溜め息を吐くように曖昧に云われ、太宰は苦笑する。欠片も本心でないくせに。どうせ中也があの女を殺したのは、殺しても問題無いと判断したからだ。未熟さ故でなく、冷静に利点と損害を天秤に掛けた。
「死体の処理は?」
「アァ? いや、してきてねえ。……そんな目で見んなよ面倒だったんだよ。此処の連中は俺の異能なんざ存在も知らねえんだから、跡形も無く潰してやりゃあ問題無えだろ。仮令俺だと判ったとして、じゃあ如何やって殺したんだっつう話だよ。証拠不十分だ」
「君にしては不用心」
「早く手前に会いたかったからな」
 くく、と心底愉快そうに笑う中也は、如何やら血の匂いに酔っているらしかった。常に無く陽気だ。若しかしたら、女を抱いた後だったのかも知れない。鉄臭さに混じって、相棒がその体に纏う女物の香水の臭いに、不覚にも劣情を呼び起こされる。
「太宰」
 呼ばれてびく、と肩を揺らした。
 甘い声だ。
 情事の後を予感させるような声。
 手を後頭部に回されて、誘われるままに口づける。
「……ん、ん……」
 少しカサついたその唇に舌を這わせると、噛み付くように口づけ返されたから負けじと舌を捩じ込む。「ん、」と鼻に抜けるような声に気を良くして中也の口内を味わっていると、そろりと耳の後ろを撫でられあられもない声を出したのは自分だ。がち、と歯があたって顔を顰める中也の頭を乱暴に掴んで固定する。その髪を、夢中になって掻き乱す。
 こうして相棒に触れるのは何時振りだろう。そう思うと堪らなかった。
 欲しかった。如何しようも無く相手の熱が恋しかった。
「っは、あ……」
 ふと、キスの合間に熱を孕んだ金の瞳と目が合う。
 次の瞬間、床に引き摺り倒された。
「いった……ッ!」
「足りねェんだ。あんなんじゃあ全然物足りねえんだよ、太宰……判んだろ……」
 譫言のような希求だった。ぐ、と腹に伸し掛かられてその重みに息が詰まる。ぎゅうと首に這わせられた手の平が包帯越しに熱さを伝える。背中にごつごつと石の床が当たるが、痛くないのは興奮で麻痺しているのかも知れない。
 有無を云わさない視線に縫い止められる。
 ああ、これは、と太宰は目を瞑った。
 どく、と中也の手の中で、自分の脈の跳ねるのが判る。
「太宰。手前が欲しいんだよ……」
「う、ァあ……」
 私だって、と云う反論は喉奥に掻き消えた。ぐ、と首を絞められて、一気に酸素の供給が出来なくなる。がり、と反射で手の甲を引っ掻くが、中也の手はそんな傷を物ともしない。段々脳に回す血と酸素が足りなくなってきて、霞む視界の中に認める中也の顔はひどく飢えている。
 受け入れてしまいたかった。
 太宰が受け入れれば、私達はどちらも満たされるのだ。
 太宰には、中也の渇きが痛いほど判った。太宰にとって相棒関係が惜しく見えたのは、乾いた世界で中也だけが瑞々しい輝きに満ちていたからだ。私達は飢えて渇いていた。それを少しでも癒やそうと、水のある方に行くのは当然のことだ。
 例えその先が地獄だって。
 今この瞬間の、渇きを癒す為であれば、踏み出さざるを得ないその空虚を判る。
 だって相棒だ。唯一無二の。
 だからこそ。
「君に殺されても、嬉しくない……ッ」
 太宰は絞り出すように、拒絶の言葉を口にした。
「あ……?」
 中也の手が止まる。否定されると思っていなかったのだろう、金の目が湖上のように揺らいで罅割れたような戸惑いを浮かべる。絞める手の力から解放されて一気に流入してきた空気に、ゲホッガホッと体を折って咳き込む。
 説明を求める視線が、鋭く太宰の皮膚を刺す。
 同じだと、思っていただろう。
 中也が太宰を求めるように、太宰も中也を求めているのだと。
 今から吐くのはその寄せ合った信頼に対する裏切りだ。
「君に殺されても毛程も嬉しくない。一緒にしないで」
 自分達の間に何時の間にかあった、甘やかな――幻想のような、優しい世界を叩き割る。
「君はただ、私を自分の思い通りにしたいだけ。そうでしょう? そう云う独占欲発揮して自分勝手な感情に巻き込むの、本当に止めてよ。……こっちは君の我が侭の為に、殺されてやる心算は無いんだから」
 嘘だった。
 本当は、同じ気持ちだった。
 何時もなら嘘や演技なんて顔色一つ変えずにやってのけられると云うのに、何故だか今だけは駄目だった。苦しい。見下ろす相棒の、顔から段々と表情が抜け落ちていくのを、じくじくと痛む胸の辺りを押さえながら見上げる。
 けれど駄目なんだ。望めば中也はいとも簡単に太宰を毀損出来てしまうだろう。何故なら太宰がそれを抵抗せずに受け入れるからだ。
 だから現実の中也は、こうして欲に駆られて太宰を殺してしまうことを恐れて夢の中に閉じ籠もることを選んでいる。
 然し太宰は、中也の逃避を許すことが出来ない。
 目を覚まさないなんて選択肢は我慢がならない。
 相棒の居ない世界で、一人道化をやるなど真っ平だ。
 なら中也が望んでも太宰が受け入れなければ善い。そうすれば、中也が恐れている事態は起きない。
 太宰が中也を、拒絶すれば。
「私達、ただの相棒でしょ……」
 その、相棒関係を継続する為に。
 中也が太宰を殺さないと、自分を殺して誓ったように。
 太宰も中也に殺されてはやらないと、自分を殺して否定しなければならない。
 仮令自分達の関係を、幾らか歪めることになろうと。
「君なんて大嫌い。放して、触らないで……」
「……ああ、そうかよ」
 中也は驚くほど呆気無く、すっと殺気を抜いた。太宰の腹から退いて立ち上がる。あ、と引き止める間も無く、ひらりと踊るように中也は太宰から距離を取る。
 見下ろす瞳は、ひどく凍えていた。その奥に抱いた傷を覆い隠して、そうして中也が放った言葉は。
「――俺も、手前なんか大っ嫌いだ」
 決定的な、決別の言葉だった。




 四.

 ぱちりと、碧い瞳と目が合った。
「……中也」
「だざい……?」
 掠れた声で名前を呼ばれる。久し振りに聞く相棒の声に、何だか耳が満たされた心地がする。手にしていた原稿を床の上に放り出して、スツールに座ったまま伸びをすると、長時間同じ姿勢で居たからか、少し怠さの残る感覚。
 部屋には透明で柔らかな陽光が差し込んでいる。
 中也が身を起こそうとしてか、寝台の上で少しふらついていたから咄嗟に腕を掴んで無理矢理体を起こさせるとひどく不機嫌そうな顔を向けられた。
 いや、感謝されこそすれ、迷惑そうにされる謂れは無くない。太宰の機嫌も一気に急降下する。
 自業自得だし。
 莫迦。
「起きた? 君ったら、間抜けにも他人の異能に掛かって、二週間以上も眠っていたのだよ。全く手間が掛かるにも程があるし本当勘弁して欲しい……」
「太宰」
 ぴたり、と口を止める。数週間の昏睡を経てもなお鋭さを失わない視線が、茶化すことを許さず太宰の口を封じ込めた。太宰はやれやれと肩を竦めて、渋々訊く。
「覚えてる?」
「何を」
 簡潔な否定。そのことに少し安堵する。出来れば覚えていない方が善いと思う。少し細くなった手首を取って脈を測り、前髪を押さえ額に額を当てて熱を測ろうとする。
 と、ぱん、と軽く手を払われた。拒絶されると思っていなかったから、太宰は顔に出そうになった驚きを咄嗟に笑いへと逃がす。何、と聞けば善かったのかも知れない。脈測ろうとしただけじゃない、と。
 けれど手を払い除けた側の方が目を僅かに見開いてその自分の無意識での行動に驚いていたようだったから、うっかりと聞きそびれてしまう。
「……悪い」
「……別に善いけど」
 何だか噛み合わない空気に、太宰は少し顔を顰める。
「体に異常は?」
「だりぃ。ふらふらする。血が足りてねえ感じだ。あと……」
 中也が云い淀んだ。云っても善いものか、と迷うような素振りを見せる。「何」と続きを促すと、目を閉じて、奥歯を噛み締めるようにその言葉を紡いだ。
「何だか、手前の面見てると無性にぶん殴りたくなる……」
「え、何それひどくない」
 ストレートな物云いに、あは、と笑った。笑おうとした。口の端は持ち上げられたけど上手く笑えたか判らない。 
 中也は自身の内に唐突に芽生えた強い感情の原因が判らずに、只管首を捻っている。けれど太宰は知っていた。それが、中也の夢の中での、太宰の行動に起因するものだと。
 記憶として残っていなくとも、心の何処かが覚えているんだろう。
 君なんて大っ嫌い、と拒絶して。
 俺も嫌いだと応じたことを。
「……礼を云わなきゃいけねえんだろうな。悪い……けど」
 中也が目を伏せる。自分が長時間昏睡状態に陥っていたこと、その状態から脱したのは太宰の行動あってのこと、それを理屈で理解してなお感情的に抵抗があるらしい。
 けれどそれで善かった。
 それならきっと安心だ、と太宰は胸を撫で下ろす。
 君が私を如何しようもなく愛おしく思って。
 殺そうとすることはない。
「……いや別に善いよお礼とか。気持ち悪いし。強いて云うなら君が寝てた間の私の仕事遣って呉れないかなァ~」
「ああ。……アァ? いや……俺の仕事なら兎も角手前の仕事が何で溜まってんだよ! サボんじゃねえよ働け!」
「あーあ、お小言やだやだ! 君私のお母さんか何か!?」
 太宰は何気無さを装って席を立つ。
「ちょっと食べれるもの持ってくるから待っててよね」
「構わねえが……手前俺が二週間以上眠ってたつったか? ここの冷蔵庫に食べれるもんなんか入れてんのかよ」
 はた、と扉を開け掛けた手を止める。逡巡の末、携帯端末をそっと取り出す。
「芥川君にパシらせる……」
「止めろ! 判った買い出しに行くぞ……着替えるからちょっと待ってろ」
「君阿呆じゃないの? 病み上がりが出歩かないでよ」
「だからだろ、リハビリだよ。急に仕事に飛び出すより善いじゃねえか。ほら、さっさと出ろ出ろ」
 何故だか抵抗する間も無く、バタン、と部屋から締め出される。

 大丈夫。何時もの調子だ。太宰は扉を背に脱力して、ずるずるとその場にしゃがみ込む。
 根本が折れて、お互いに抱く感情が変わってしまっても、この通り相棒関係に支障は無い。
 中也が太宰を死なせない、と誓ったように。
 太宰も中也には殺されてやらない、と決めたのだ。
 互いを求める、一番強い欲求を押し殺して。
 でもそれで善かった。この関係の為ならば、太宰は己の感情だって上手く殺してみせる。
 これは一つの愛の葬送だ。
 太宰はこの先自分が背負い続けるだろう秘密の形を、確かめるように口にした。
「……中也なんて、大っ嫌い」

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