【再録】愛の葬送
本部に中也を連れ帰ってから十日もすれば、支部長の地位剥奪と今回の件は内々に処理すること、それと新しい支部長赴任が報が入った。太宰には何でも善かった。中也が目を覚まさないことに、変わりは無かったから。
ただ処刑をするにしても、それは中也が目を覚ますまで待って呉れと云った。今回の件を解決したのは太宰なのだから、その身柄は預からせて呉れと。太宰からその申し出を受けたポートマフィアの首領は、少し考えて善いよと笑った。君の云うことだ、きっと組織の利益に繋がるだろうから、今回の君の頑張りに免じて、中也君が目を覚ますまで待つ程度の我が侭は許そうと。正直中也の失態を伏せて報告することが出来れば善かったが、太宰の手で以ってしても隠蔽には限度があった。にこ、と浮かべられた人畜無害そうな笑みが腹立たしい。あの人の前に弱みを曝すことは、心臓を握らせるようなものだった。その裏の意図を、否が応でも汲み取らされる。
但し、彼が起きなかった場合はその限りではないよと。
「彼の証言は本当だと思いますよ」
と友人の一人は云った。
「異能は既に解けています。にも関わらず、あの支部でも何名か覚醒が遅い者は居ました。眠りの深さには個人差があるようです――眠りに就いたのは異能の効果ですが、恐らくその持続には個人の精神状態等の要素が関わっています。中原君の眠りが深いのもそれでは?」
その説明は、ほぼ右から左へと太宰の耳を擦り抜けた。安吾もそれが判ったのだろう、やれやれと眼鏡のズレを直してソファから立ち上がる。珈琲を飲み干し、御馳走様でしたと告げて執務室を去ろうとする。
「ねえ安吾」
ぽつりと、引き止めるように呼んでしまったのは無意識でだ。
「君の云う通りだとしてだよ」じっと、手元の珈琲の表面を眺める。最近は、珈琲なんかでも上手く喉を通らないのだ。眺めていることしか出来なくて、カップの中身は冷めていくばかりだ。「あの中也がさあ……『心を病む』ことって、あると思う? 或いは何かに思い悩んで、もう目を覚ましたくないと……そう、願ってしまうことが」
「そこなんですよね。任務に行く前は普段通りだったのでしょう? あの命知らずの戦闘莫迦に限って、そんな繊細な神経を持ち合わせているとは……太宰君。目が笑ってませんよ」
自分から訊いたくせにその物騒な顔をするのは止めて下さい、と眼鏡越しに心底鬱陶しそうな顔をされる。そんな顔をしていただろうか。自分の頬を撫でてみるが、包帯越しで善く判らない。
でも中也が自分から望んで目を覚まさないことなどあり得ないことは判る。先ず安吾の云うように――他人と意見が合致するのが癪だが――あれが何かを恐れる、なんて繊細な神経を持ち合わせた男である筈が無かった。銃弾の雨の降り注ぐ敵陣の真っ只中にだって、太宰の合図を待たず喜々として飛び込むような男だ。それも時折異能をオフにして。どっちが自殺嗜癖だか判らないが、曰くその方が生きてるって感じがするだろ、らしい。生の実感に貪欲な男だ。何かを恐れて目を覚ましたくないと願うよりは、仮令その先に己の死が待ち受けていようとも、逃げ出しもせずにその直前まで己の死の形をじっと見据えているような男だ。
何より、何時も自分から生を捨てようとする太宰を、心底軽蔑していた。
その中原中也が。
自ら目を覚まさず生を捨てようとするなど、三文小説にも劣る展開だ。
あり得ない。
然し、安吾がふと何かを思い出したように振り返った。
「何か心当たりがあるとすれば、君の方でしょう」
「……私?」
謂れの無い言及を受けて戸惑う。心当たりなど何も無い。今回は太宰の居ない処で、勝手に異能に掛かったんだから。
なのに安吾は続ける。
「あの彼に強く――それこそ彼を殺すほどに某かの影響を及ぼし得るとしたら、それは君でしょう、太宰君」
その、整えられた人差し指の爪先が、ぴっと寸分違わず太宰のことを指し示す。何だか刃先でも突き付けられたような感覚。自然、視線が剣呑になる。
「何かしたんじゃあないんですか。もう目を覚ましたくないと、彼を眠りの淵に追い詰めるような、何事かを」
「……最近は何もしてないよ」それでも友人だから言葉を続けたのだろう安吾の問いに、少し最近の出来事を思い返した後、至極心外だと口を尖らせた。「中也だって普段通りだったもの。部下も殺していないし、無抵抗の子供を殺すような中也の嫌がりそうな任務も宛てがってない。中也を追い詰めることなんて、何も――」
云い掛けて気付く。
太宰自身は追い詰めてはいない。然し、追い詰められた様なら、その片鱗を自分はつい最近、見たのではないか?
随分と憔悴した様子で。
――生きてんだな、太宰、と。
「……いや。でも。それこそあり得ない」
冷静な思考に、じわりと熱が入りそうで頭を振る。
あのとき――小説の中から出て来たとき。中也は多くを語らなかったが、太宰の生存に確かに安堵したような素振りを見せていた。安堵、と云うことは、それまで精神が緊張状態にあったと云うことだ。確かにそれから、中也の様子は少しおかしかった。太宰を妙に意識する距離感。
真逆それで、精神をやられたと?
然し仮に太宰の死に関わる何かしらを垣間見たとして、そのことに素直に毀傷を受けるような相棒ではない。塞ぎ込むよりは、おーおー死ねて善かったなと笑うような男だ。だってただの相棒だ。今の太宰は兎も角、中也はその認識の筈だ。
それに、万一この薄情な相棒が太宰の死を忌むようなことがあっても、それであればこそ虚構の中に逆戻りする理由が見当たらない。
だって残念ながら、こっちの太宰は生きているのだ。
ならば仮に小説の中の太宰の死によって精神に毀傷を負ったとしても、目を覚まして生きている現実に戻ってくるのが筋だろう。
私を死なせてやらないと。
云ったのは中也だし。
「なら善いですけど」
ガチャ、と安吾が扉を開ける音が思いの外大きくて、弾かれたように体を揺らす。弾みでカップが揺れて、中の珈琲が少し零れる。
「……却説、僕は次の予定がありますのでそろそろお暇しますよ。僕の力が必要であれば呼んで下さい、太宰君」
安吾は、何も見なかった振りをして呉れた。
「中也」
その日も太宰は自身の家に帰らず、ふらりと相棒の部屋に寄った。中也の部屋はここ最近ずっと静かだ。部屋の主が何時もみたいに煩く喋らないから。
外套をばさりと脱ぎ散らかし、序に首巻布やら靴下やらもその辺に放り出して、太宰はぺたぺたと寝ている相棒の寝台に歩み寄る。体が横たえられ、清潔なシーツの敷かれたそれはまるで彼の眠る棺のようだ。
でもずっと眠り姫みたいに眠り続けているなんて、俄には信じ難かった。大体、柄じゃあないんだ。太宰がデコピンの一発でもかませば、手前何しやがる、と直ぐに起きてきそうな気がする。
起きないなんて、信じない。
「……ふふ。君何やってんの、莫迦じゃない? さっさと起きなよ、君がそんなだと、私、君の真上で首を吊ってしまうよ……それでも善いの……」
答えの無い唇を指でなぞる。中也の口は、常よりも白く引き結ばれていた。動く気配は見せない。ぺたりと床に座り込む。中也が動かないと、太宰も何だか体が鈍かった。
ただ、その倦怠感も何だか悪くないのだ。
しんと冷えた透明な空気が、胃の腑の底で渦巻いて、吐き出す先の見つからないまま次第に重く淀んでいく。その中で相棒と重ねるように呼吸をしていると、指先から意識が溶け落ちていく感覚に陥る。
本当に、このまま消えてしまえそうだ。
傍らに座り込み、寝台に頭を預ける。そうだ、今なら死ねそうだ。このまま何も食べなければ善い。それか、手っ取り早く首でも吊れば。何時もみたいに、止めようとするお節介は、今は眠っているんだから。
そうしたら、中也はどんな顔をするだろうか。
先ず目を覚まして最初に目にするのが死なせないと云い切った男の死体だったら、その状況は嘸や愉快だろうなあと思う。中也の驚愕した顔、それからチッと舌を打って遣る瀬無く目を伏せる姿が容易に想像出来て、太宰はうふふと思わず笑みを零した。それは中々に好い光景だ。直接目にすることが出来ないのが残念だけれど、中也が不快げな顔をして、それから変に律儀な男だから、きっと延々引き摺るだろうことを思うと悪くない。
目を、覚ますのであれば。
中也の固く閉じられた瞼を眺める。若しかしたら、直ぐには目を覚まさないかも知れない。となると、太宰が死ねばそのまま死体は腐って異臭を放ち、数日後には他人に見付かってしまうことだろう。もう少し早いかも知れない。そうすると、その見付けた他人の手によって、太宰は廃棄され、中也は太宰の預かり知らぬ処で保護される訳だ。
太宰の知らない他人の手が、相棒の体に触れること。
それは何だか、頂けない。
「だから、ねえ、中也。早く起きてってば」
君が起きないと相棒じゃなくなっちゃうでしょう、と思う。私達、相棒でしょう。だったら、片方だけ起きていても意味が無い。
私達以外の人間なんて邪魔なだけだと私は云った。
それは君以外の、他に何も要らないってことなのに。
「中也……」
その冷えた指先に触れる。
そのときふと、首に触れた中也の手の平の温度が脳裏を掠めた。何時かの任務の後だ。血に酔った勢いのまま、中也が太宰を求めたあの日。あの日みたいに、中也の熱が欲しかった。ぎらぎらと獣みたいに本能を剥き出しにして太宰を食おうとしたあの瞬間、中也は間違いなく生きていた。自分の意志で眠りに閉じ籠もるようなタマじゃないんだ。
目を開けない中也の手を取って、自分の首に回してみる。ぐたりと力無く擡げられた手の平が、太宰の首を撫でていく。あのときみたいに絞めては呉れない。
でも、あのときみたいにお互いの熱を分け合えば。
そうして何時もみたいに、鼓動を共有すれば。
双黒と云う獣は、目を覚ますんだ。
そう、微かな望みを持って、その唇に一つキスを落とした。
勿論、それで中也の目が覚めるなどと。
そんなご都合主義な展開は、万が一にもあり得なかった。