【再録】愛の葬送


氷棺



 一.

 中原中也が行方不明になった。
 その報を聞いた太宰は、ただ一言、「ふぅん」と素っ気無く頷いただけだった。
「中原さんと、ここ数日連絡が取れないんです。拠点にしていた支部からも、敵対組織の偵察に行くと云って出て行ったきり、戻ってこないと」
 そう告げる相棒の部下の顔は真っ青だ。太宰はそれを、執務室で自分の爪をファイルで磨きながら聞いていた。ふっと一吹き。うん、綺麗。
「で? 私は中也の死体を探しに行けば善いのかな」
 その言葉を聞いた部下の顔が悲痛に歪む。
「太宰さん!」
「だってそうでしょう」思わず、と云った風に咎める口調で己の名を呼んだ相棒の部下を、太宰は至極冷ややかに見詰める。「中也なら定時連絡は欠かさない。絶対にね。自分が立て込んでたって、あれのことだ、二、三人部下を連れて行っているんだから、自分が連絡出来ずともそのどれかに絶対にやらせる。でしょう?」
 部下の男が無言で顔色悪くこくこくと頷くのを確認して、太宰は続ける。
「その中也が部下の君を心配させるほどに連絡を寄越さないってことは、何かあったってことだ。ねえ、あの中也がさ、連絡も寄越せないほどの切羽詰った状況って、何だと思う」
 部下の男が黙り込む。判らないからじゃない。口にするのが恐ろしいからだ。言葉にしてしまうと如何にもその事実が実際に起こったかのような錯覚に捕らわれてしまわないかと――そしてそれが現実になってしまわないかと、そのことをひどく恐れている。
 だから代わりに云ってやる。
「例えば組織を裏切ったとかね?」
「中原さんに限って」反射のように、部下の男は口を開いた。「そのようなことはあり得ません」
 太宰は目を閉じた。そう、あの男に限ってそんなことはあり得ない。何よりも、組織と首領に忠誠を誓う男だ。裏切るどころか、無断で任務を放棄することすら考え難い。定期的な報告を云い付けられていれば、多少体を毀損していたって律儀にそれを守る男だ。
 見解の一致。不本意ながら。
「そうだね。じゃあ死んでる可能性が高いんじゃない」
「太宰さん!」
「煩い」
 眉を顰めて耳を塞ぐ。何なの、と思う。
 太宰には、如何して相棒の部下にこうも非難めいた視線を向けられなければならないのかが判らなかった。自分はただ、事実を述べているに過ぎない。何を期待しているのだろうか。太宰ならば中也を助けるとでも? だったらお門違いだ。太宰が中也を相棒としている――実際には、太宰がそう望んだと云うよりも、共同任務が多いために勝手に周囲がそう呼んでいるだけのことなのだが――のは、偏に中也の戦闘能力を買ってのことだ。
 ただ人殺しが上手いと云うだけではない、その為の段取りを立て、最も効率の善い手段を取り、それがどのような影響を及ぼすかまでに思考を至らせる機転が、中也にはあった。太宰があと云えばうんと云う、その思考を汲み取れる洞察力も。
 然し逆に云えば、それを備えている人間ならば中也である必要は無い。
 だから、中也がそれを失い任務をしくじったと云うのなら、太宰には中也に執着する理由は何も無いのだ。
 私達、ただの相棒でしょうと。
 云った瞬間、相棒が目に浮かべた憎悪にも似た激情を思い出す。
 何時もは涼しげに透き通っている碧い目だ。それでもって、太宰の灰色の世界を鮮やかに一閃、裂いていくのだ。銀のナイフを捌き、異能を使った軽やかな足取りで、「これで善いかよ?」と目を細めて笑う。善い、とかじゃなくて。それは遥か太宰の要求を超え、太宰の欲求を満たすものだ。散った命の匂いの中で、ひとつ鼓動を共有する瞬間。それ以外に何も要らなくなって、体を重ねたように肌が感じる彼の熱。戦闘で上気した瞳に波々満ちる興奮に、軽い酩酊すら覚える。
 だからそれが強い感情に染まる様もまた、湖上の月が燃え上がるように美しいと思う。
 肩口から溢れる亜麻色の髪。太宰、と己の名を呼ぶ甘い声。
 首に這わせられた、手の平の温度。
 けれどもうそれらを感じることも無いのかも知れない。
 中也が死んだと云うなら。
 目を閉じる。
「……それに、若し任務にしくじってるようなら――そんな役立たず、組織にも要らないでしょ。どのみち死ぬべきだと思うよ。……ところでさあ」
 そう続けたのは半ば八つ当たりだ。
 ぱちりと瞬き、相棒の部下に笑みを向ける。
「中也をみすみす窮地に陥らせているって云うのに如何して君は未だのうのうと生きてるの」
 その言葉に、部下が電撃でも受けたように体を痙攣させ、はた、と虚を突かれたように太宰の顔を見詰めた。その顔から、すとん、と表情が抜け落ちる。この最年少幹部ならば、自分の上司を救って呉れるだろうと、僅かながらの希望を湛えていた目から光がごっそりと失われる。残るのは、太宰の指摘を受けて現実を見据え立ち竦む、哀れなただの木偶の坊だ。それがゆっくりと懐に手を伸ばす。
 太宰がその様子をにこにこと見守っていると、部下の男が不意に唇を噛み締めて何事かを云おうとするものだから、あ、しまった、と太宰は上げた口角を引き攣らせた。この流れは太宰さんどうぞ私亡き後も我が上司のことを宜しくお願いしますの流れだ。えっやだ。こんな奴から任されるなんて冗談じゃない。
 手にしていたファイルを引き出しにがたんとしまい、序にかつかつと歩み寄って銃を取り出そうとしていた部下の男を殴り飛ばす。
 抵抗無く倒れる体。相棒と違って飛距離は無いから、どさ、と床の上に倒れ伏す。それを冷たく一瞥する。
「……死ぬのは勝手だけど、あれの目の届かない処で勝手に死ぬことが最善だと思ってるなら、君は何にも判ってない。君、それでも本当に中也の部下なの」勿論、中也は嫌がるだろう。それを見越してのことだ。けれど死人に義理など背負わされては堪らない。死んだ後のことを宜しくお願いします、なんて。太宰が動くのは、飽くまで太宰の意志に依ってだ。相棒の部下に云われたからではない。面倒臭さに観念して、吐き捨てるように云う。「調査に行く。芥川君を呼んで」



 二.

 確かに、太宰には相棒が失踪する原因について、一つ心当たりが無いでもなかった。失踪、と云うか。調子を崩す原因と云うか。
 勿論、普段の中也であれば、連絡不通なんてそんな状況には陥らないだろう。太宰は中也の部下から状況を聞き取ったメモを見る。一週間前、上から任務の通達を受ける。内容は敵対組織の調査と、必要に応じた粛清。如何やら管轄の遠方地で、マフィアを通さない不審な人身売買取引の痕跡が見られるとのことだった。だから、それを行っているのが誰かの調査と――警告して止めないようなら、シマ荒らしの粛清を。これは太宰も聞いていたことだ。太宰の方には中也が必要な任務は無かったから、問題は無いと本人に伝えた。四日前、本部を出立。東北支部に到着。三日前、敵組織の調査に部下を連れて支部を出た――これは支部長の証言だ。そこから支部に戻らないと云う。詰まり、最後に中也の姿が目撃されたのは三日前の朝。中也の無事を部下が確かに確認したのは、四日前の夜の本人からの定時連絡だ。それ以降、中也本人どころか、連れて行った部下の誰とも連絡が取れない。二日間音沙汰が無いだけで騒ぎ過ぎではないかとも思ったが、然し中也が手間取るとも思えない任務だ。
 そう、普段通りの中原中也なら。
 太宰は思案する。思い出されるのは一ヶ月ほど前、相棒の掛かった或る異能だ――異能者本人によれば、対象を自らの執筆した小説の中に引きずり込む能力だと云う――その小説の中から出て来てからと云うもの、如何も中也の様子がおかしい。過剰に太宰の存在を気にする。何時もは好んで前線に飛び出すのに、深追いせずに何かあれば後衛を支援出来る位置に留まる。そのくせ、太宰と距離を取りたがる。調子が善くはなかっただろう。自覚はあったのだろうか。表面上は何時も通りの何でもない振りを装っていたから、太宰の方でもその微かな違和感は放置していた。あの男のことだ、任務に支障をきたすようなことは先ず無いだろうと――そう思っていた。
 その結果が、このザマなのかも知れない。
 太宰は嘆息する。あの小説の中で何があったのか、太宰は知らない。相棒が出て来た後の小説を読もうと手にしても、本が消滅することはなかった。本そのものは太宰の異能では無効化されないらしい。触れればそれは確かに実態を持った本で、内容も特段中也の調子を狂わせるようなものではなかった。人が殺され、その犯人は誰か、と云う至極判り易いミステリィ。然し対象を引きずり込んだ状態では、その内容が変わるのだと云う。だから中也が何を見、何を体験してあの言葉に至ったのか、太宰は知らない。
 ――生きてんだな、と。
 安堵するように云われた言葉に心臓が跳ねた。
 相棒には悟られなかった、と思う。戯けるように躱した。だっておかしいだろう。自分達はただ、互いに動き易いから相棒を組んでいるだけだ。こんな組織に居るのだから、何時死んだっておかしくないし、死んだらそれまでだ。そう云う了解の上で組んでいる。そりゃあ中也の方は、無効化なんて希少な異能、多少替えは利かないかも知れないが、それでも此処数年であの男がめきめきと自分の異能の扱える範囲を広げていっていることは知っていた。きっと太宰が居なくなっても善いように鍛錬しているんだろう。
 己の異能を、無効化無しでも制御出来るように。
 だから、失ったら不便である以上に、相棒の死を望まない理由なんて無い筈だった。太宰の生存に安堵する理由も。現に一度、中也は太宰を手に掛けようとしたことがあったじゃあないか?
 死なせてやらねえ、と宣言する前に。
 手袋を外した相棒の、汗で湿った手の平を思い出す。
 けれどあれから、何を如何心変わりしたのか、中也は一切太宰に対して殺意を向けることが無くなった。戦闘後の興奮した状態を狙ってみても、あっさりと躱される。若しかしたら、あれが契機だったのかも知れない。死なせてやらねえ。云われた言葉を思い出す。
 あれが若し、自殺嗜癖の太宰への嫌がらせなのではなく、自分の異能の保険としてでもなく。ただ純粋に、太宰の死を厭ってのことだったのなら。
 若し太宰の死に判断が鈍ったことが、何らかの失態や今回の失踪に繋がったのだとしたら――。
 太宰は不機嫌も顕に眉根を寄せる。
 そんなのを理由に、勝手に私の側から居なくなるなんて、迷惑なことこの上無いんだ。

「……と云う訳で、調査に来たよ」
「これはこれは。幹部殿が態々こんな遠方までご苦労様です。然し急ですね。事前にお知らせ頂けたら、もっと何かご用意出来たのですが……」
「要らない。でも流石にお茶くらいあるよね? 紅茶、砂糖三つで」
「はい、直ぐに。そちらの方も何か飲まれますか?」
「僕は……」
「ああ、彼は水道水で善い。常温で。早くね」
 事前の連絡も無しに突然支部に現れた太宰を快く迎え入れたのは、この支部の支部長で、名を佐藤と名乗った。太宰も顔だけは事前の確認で知っていた。確か、最後に中也の姿を確認した人間だ。その、立ち去る背中をじっと眺める。中肉中背。年齢は初老。香水でもつけているのか、微かに漂う花の匂い。流石に支部長ともなれば身なりはしっかりしていて、スーツに合わせているのは主張し過ぎない品の良い時計と靴。いや、正確には此処には本部と比べてあまり武力を置いていないから(何せ横濱と比べて敵対する組織が少ない)、表向きの会社としての動きの方が多いのだろう、受け取った名刺の肩書には、株式会社某の支社長と記載されている。
 本部のデータベースに拠れば、異能力持ちでは無いらしい。
 然し何だか少しの違和感を感じて、太宰は戻って来た佐藤の顔をじっと見た。異能には『匂い』がある。それは些細な、異能者にしか得られない感覚だ。共鳴、とでも云おうか。異能に掛かった瞬間、或いは発動の際に、最も色濃く表れ出る空気の変質。
 この建物に足を踏み入れてから、漂う花の香りに混じって、何故だかそれを薄っすらと感じる。
「……この支部、異能者は居ないと聞いてるんだけど」
「……? はい、そのご認識で合っています。居ませんよ。強いて云うなら、数日前に中原さんがいらっしゃったくらいでしょうか」柔らかい声音で、佐藤が云う。「ええと、あの、中原さんが戻られていない件は……」
「……。知ってる」
 太宰が相棒の匂いとそれ以外の雑多な匂いを違える筈も無かったが、話がややこしくなるだけだから黙っておく。その太宰の沈黙を特に不自然に思わなかったのか、此方へ、と佐藤はにこやかに芥川の肩に手を掛け、ロビーの端に設えられている応接室への入室を促す。
「さあさ、あちらにお部屋がご準備出来ております。お掛けになってお話を……」
「ああ、いや。そっちへの案内は善い」
「……と云いますと?」
 太宰はじっと考え込む。中也もこうして最初は案内をされ、其処で現状の説明を受けた後に敵の本拠地に向かった筈だ。いや、その前に一泊したと聞いている。直前の準備を怠らない男だ。寝室に、何か兆候を残しているかも知れない。
「……先ずは中也に貸した寝室に案内して。あっ後で紅茶も持ってこさせてね。出来れば冷めてないやつを」

 その寝室は、簡素な造りだった。シンプルな無地の壁紙とフローリング。寝台が一つ、机が一つ。ビジネスホテルより少し広いくらいの部屋だ。採光用の嵌め込み式の窓から、天辺を少し過ぎたばかりの陽光が差し込んでいる。地方の支部が備える宿泊部屋としては上々だろう。中也の部下の方は、別室に案内したと云っていた。それは多分、調べなくて善い。紅茶と水道水を盆に乗せて運んできた支部の人間を、早々に閉め出す。
「太宰さん……」
「そのお盆持って其処で待機してて」
 所在無げな芥川を入り口に立たせ、太宰はさっと部屋を見渡した。整然としている。手荷物は寝台脇に纏められ、壁に外套が掛けられたままだ。中也の匂いが残っているから、数日前には確かに此処に居たんだろう。控えめな香水と煙草の匂い。
「……中也らしいな」
 机上を見るも、特に資料は何も残っていなかった。何本か吸い殻の躙られた灰皿だけ。ゴミ箱には握り潰された空の煙草の箱が一つ。
 如何やら中也の外出後、戻らないと聞いた後でも触らずにそのままにしているらしい。現場保存と云う点では有り難いことだ。家具の縁に、少し埃が溜まっている。
 手荷物と外套、煙草の跡。借り物の部屋だから、隠しスペースなんかは無いだろう。部屋にあるのはそれだけ。
「……? あれ?」
 何だろう。何か足りない。
 もう一度部屋を見回す。中也が敵の本拠地に乗り込む前に、準備をしていた筈の部屋だ。準備、と云うのは、作戦の最終確認。作戦書を見返して。頭に叩き込んで。それを処分して、任務に当たる。
 ――その作戦書が無い。
 がたん、と机の引き出しを乱暴に開ける。何も無い。枕の下、手荷物の中、壁紙の裏――いいや、中也はそんな処に作戦書を仕舞ったりしない。灰皿に目を遣る。煙草の吸い殻があるだけだ。
 簡単な任務だから、元々作戦書が無かった、と云うこともない。基本的に、首領から直接云い渡される場合でもなければ作戦は凡て書面で通達される。口頭では伝達ミスが起こり易いからだ。それに今回は人身売買取引の元を突き止める、と云う話だったから、内容を考えればその経緯の資料は必ず持ってきている筈だ。
 然しゴミ箱の中に当然それは無く。
 灰皿の中にもそれは無い。
 思い返す。相棒の何時もの癖を。太宰なんかは部下に押し付けてシュレッダーに掛けさせるが、中也は違う。じっと目を伏せ、煙草を持った指を唇に当てながら作戦書に目を通し。視線を流した後、ジッポを取り出して書類の端に火を点ける。それを灰皿に放り込み、その上から煙草を一躙り。それが何時もの、一連の流れ。
 けれどその分の灰が無い。機密文書だから、当然持ち出して捨てる訳もない。
 じゃあ、此処で最終確認をしていた訳じゃないんだ。
「……」
 壁に掛かった外套を探る。其処にも矢張り書類の類は無い。と云うより、見目を矢鱈に気にするあの男が、外出するのに外套を着ていかない、なんてことがあるだろうか?
「太宰さん……?」
「黙って」
 シッと人差し指を唇に当てて部下を静止し、それから顎に手を当てて考える。直前の準備を怠らない男だ。なのにその痕跡がまるで無い。中也は此処で準備をしていた訳ではなかった。じゃあ何処で? 勿論、此処に来る前だ――詰まり、この支部に足を踏み入れたときから、もう中也の任務は始まっていたと云うこと。
「……」
 太宰は素早く、懐から手の平大の機械を取り出した。盗聴器の発見器だ。それを部屋の中に翳し、隈無く室内を探し回る。寝台の下、カーテンの裏。然し機器は特に反応を示さない。部屋には無いのか――或いは中也が既に壊したか。少し考えた後、背後に立っていた芥川の体に機器を翳す。途端、ちかちかと無音で光る発見器。それを見て、太宰は芥川が持っている盆から徐ろに紅茶のカップを取り上げ――善く聞こえるよう、大声を張り上げた。
「あっ芥川君ー、危なーい、うっかり手が滑って紅茶がー!」
 云いながら、ばしゃっと手に持っていた紅茶を芥川の肩に引っ掛けた。びちゃびちゃと、紅茶の滴り落ちる外套を探って盗聴器を取り外し、それが壊れていること発見器を翳して確認する。
「よし」
「……あの。太宰さん」
「うん? なぁに」
 手巾を取り出して濡れた手を拭きながら、何事か云いたげな芥川に目を向ける。何だろうか?
「……。あの。べとべとするのですが」
「あ、そう? ところでねえ、本部から来た幹部に対して、支部長が盗聴器を仕掛ける理由って何だと思う」
「……何時ものように太宰さんが此処で『珈琲。十秒以内』と心無い命令をされてもちゃんと珈琲をお持ち出来るようにする為のものでは」
「勿論ないねえ」
 と云うか、普段そんな無茶振りしてないでしょう、と太宰は憤慨する。流石の太宰でも、十秒なんて無茶は云わない。こちとら芥川の不器用さは身を以って善く知っているのだ。一分は待ってやってる。
「却説、これは一気に雲行きが怪しくなってきた」
 中也はこの辺りでマフィアに無断で人身売買を行っている敵組織の調査と殲滅を命じられたと云う。然し中也は、まるで調査の対象にはこの支部自体も入っているような行動を取っている。それだけでは未だ太宰にとっては支部に疑念を抱く程度だったが、然し仕掛られた盗聴器が何よりも明確に太宰に確信させた。詰まり、敵組織の調査とは表向きの任務であり、本来の任務はこの支部の内部調査の面が強かったと云うことを。本部に居た部下にも知らされていなかったようだから、極秘だったんだろう。連れてきた方の部下達には、途中の車内で話したに違いない。支部に着く前の車の中なら、盗聴される恐れは無いから。
 却説、如何しようかと太宰は唸る。敵対組織に乗り込んで音沙汰が無いのであれば、此方も乗り込んでいって殲滅序に中也を回収してくれば善かった。
 然し、支部を調査中に姿を消したのだとしたら。
 だとすれば、相棒の姿を探すべきは敵の本拠地ではなく別にあった。三日前、中也は敵組織の調査に部下を連れて支部を出たと云う。その証言の信憑性は最早皆無に等しい。
 もう少し下調べをしてから来れば善かった、と太宰はちっと舌を打った。中也の本来の任務を知っていれば、こんな無防備な訪問はしなかった。こんな、火に入る夏の虫、みたいな。急いてしまったのは、行方不明だなんてあり得ない報せを聞いて、らしくなく焦りがあったのかも知れない。
 仕方が無いから、今ある情報で中也が何処へ姿を晦ましたのかを探さなければならない。怪しいのは敵の拠点ではなくこの支部だ。地道に調べるしか無い。
 面倒だが。
「……。芥川君、君、夜は強かったっけ」
「……? いえ、然程……」
 成る程、と頷く。それから残っていた相棒の手荷物を漁り、丁度良さ気な拳銃を拝借する。
 よし。
 これでいこう。
 頷きながら、芥川を引き摺って部屋を出る。
「今夜、〇一〇〇に作戦決行だ。この支部の家探しをする。寝ていたら、その耳撃ち抜いてでも起こすからね」

 けれど、相棒を探しに行く必要は無くなった。
 その夜更けに、中原中也が意識不明の状態で発見されたと一報が入ったからだ。



 三.

「発見したのは誰」
 出された夕食を、貸し与えられた私室で取っていた処だった。太宰は足早に、佐藤の案内で中也の寝室へと向かう。カツカツカツとリノリウムの床に、靴の踵の音を響かせる。
「最初に発見したのは私の部下です」
「何時。何処で。状況を報告」
「市街地を巡回中に。敵本拠地の近くです。攻撃を受けたのでしょうか、部下の方達も一緒でした。今は皆様のお部屋に寝かせております。見た処外傷無し、命に別状はありません」
「そう」
 悟られないよう、細く安堵の息を吐く。――待って、安堵? 今のは違う違う、と太宰は首を横に振る。だってお互い動き易いから組んでいるだけで。死んだらそれまでで。その場合は代わりを探すだろう、それは理解の上の筈だ。だから失ったら不便である以上に、相手の生存に安堵する理由が無いと、断じたのは太宰だ。別に、相棒が中也である必要は無い――ただそう結論付ける度に、最近なんだか妙に心臓がざわざわとする。
 果たしてそれで善いのか。
 果たして自分は、中也以外の人間を相棒とすることが出来るのだろうか、と。
 確かに単純な戦闘力だけなら、中也に並ぶ者など幾らでも居るだろう、と太宰は思う。太宰の命令の通りに、壊したり殺したりして呉れれば善いだけだ。代わりを探すのは骨が折れるだろうけど、別に不可能なことじゃあない。強力な異能者なんて、マフィアにはそれこそ掃いて捨てるほど居る。
 けれど自分はそれで満足出来るのか。
 中也、と。
 そう呼ぶ一言だけで、太宰の思考を、太宰の言葉以上に汲み取って太宰の望みを満たす男だ。己の思考の一部を委ね、異能を振るうその体の熱を己のことのように感じ取る。そうして精神を明け渡す瞬間は、何処か体を繋げる行為にも似ていた。血と暴力を介して一つになる、双黒とは、そう云う一匹の獣の名だ。
 それを太宰に与えられる人間が、他に居るだろうか。 
 無意識に、包帯の上から首に手を当てる。
 何時かの任務の夜。中也が太宰の首に手を這わせた瞬間、確かに自分は、中也になら殺されるのも悪くないと思った――飢えて渇いた目で求められ、太宰、と甘い声で呼ばれて。つい頬が緩んでしまった。嗚呼、この男なら終わりを呉れると、あの瞬間、中也が太宰を求める以上に、太宰もまた中也を求めたのではなかっただろうか。
 相棒との間を隔てる、何もかもを煩わしく思った。
 その後、色んな人間と寝てみたけれど、どれも太宰の体の奥に燻る熱に火を点けるには至らなかった。感じないのだ。相棒と感じたような熱を、何処にも。其処にあるのはただの濁った微温湯を飲み干したような倦怠感だけ。
 共に双黒と云う名を築いた相棒。
 鼓動を共有し。肌を重ね、何もかもを委ねたいと、そう、自分が中也以外に願うことの実感が湧かない。
 ただの相棒、と。
 切り捨てた部分が、今更膿んで痛むのを感じる。
 いいや、若しかしたら、最初から切り捨てられてなど――。
「――突然いらっしゃって何かと思っておりましたが、矢張りご用向きは中原さんの捜索だったのですか」
 突然前を行く佐藤が振り返ったので、意識を逸らしていた太宰はピク、と肩を揺らした。そうだ、思案に耽っている場合ではない。鷹揚に返事をする。
「……まあね」
「なら、貴方方の御用件は無事に済んだようで何よりです」
 そう笑う佐藤の人の良さそうな笑顔をちら、と盗み見る。微かに漂う花の香り。如何云う心算でその言葉を吐いたのか、その真意は窺い知れない。

 部屋に着くと、芥川が先に来ていて、矢張り昼間と同じように所在無げにその黒い外套を揺らしていた。風呂を借りたのか、その服に紅茶の染みは無い。……と思ったが、近寄ると少し紅茶の匂いが残っていたから、着替えただけなのかも知れない。後で風呂に突っ込んでやろう。太宰はそう固く決意する。
 それと寝台に目を向けると。
 目を閉じ、眠ったままの相棒の姿。
「……中也」
 何だかその顔を見るのは久し振りだった。返る声は無い。然し近寄ると、色素の薄い髪が太宰が動く空気に合わせて揺れた。確かに中原中也だ。薄く開いた口から、浅い寝息が聞こえてくる。眉根が微妙に寄っている処を見ると、夢の中でまで仕事か何かのことで魘されているのかも知れない。
「命に別状は無いようですが、念の為本部の検査など受けられた方が善いのではないでしょうか……敵にも、どんな異能者が居るか判りませんし」
「そうだねえ……では明朝出立しようかな。君、車の手配をしておいて」
「はい」
 バタン、と扉の開閉音だけで佐藤が出て行ったことを聞き届けた後、部屋を一周し、新たに盗聴器を仕掛られた様子の無いことを確認する。
 途端、一気に空気が抜けたように体の緊張が緩んで、太宰はどかりと乱暴に脇の椅子に座り込んでしまった。
「あれ……」
 立ち上がろうにも、腰に力が入らなくて上手く立ち上がれない。ただ目の届く範囲に相棒が居て、もう探さなくても善いんだと思うと、なんだかひどく気の抜ける心持ちだった。手を握ると、形の良い相棒の手の平が、少し冷えているのが判る。そのまま何をするでもなくぼうっと相棒の寝顔を眺めていると、ちらちら視界の端を過る黒外套の影がある。
「……芥川君」
「何か」
「君も出てって」
 おざなりに手を振って、扉の方を促した。少し一人にして欲しかった。思考が緩んで上手く纏まらなくて、その上他人が居る状況では、考え事をするにはひどく気が散る。
 なのにこんなときだけ、芥川は口答えをする。
「……それはなりません。此処は最早敵地。ならば太宰さんをお守りするのが僕の任です」
「……ああ、そう……」
 じゃあ好きにすれば善い、と。
 叱る気力も無かったから、緩慢に体の向きを変え、相棒に向き直る。
「……芥川君まで、中也みたいなことを云う……」
 死なせないと。
 云ったくせに自分は勝手に居なくなって。
「中也」
 呟いて、首筋に手を当てる。脈が確りと動いていることを、皮膚の上から何度も指でなぞって確かめる。心臓は正常に動いているんだ。口に手を当てると息の吐き出される感覚がある。帽子こそ無いものの、シーツを捲ると普段の格好で。
 時折震える、無防備に閉じられた瞼。
「……生きてはいるね」
 そう、生きてはいる。怪我も無い。
「ご無事で何よりです」
 ……いや。
「脳味噌の代わりに藁でも詰まっているのかい芥川君。君、この状態の中也を見て何も思わないの」
 おかしい。試しにガリッ、と頸動脈の辺りに爪を立てる。肌に一筋傷が付いて、それでも中也は起きない。
「? 善く眠っておられる」
「そうだね、不自然なくらいにね」
 次に取り出したのは拳銃だ。撃鉄を上げ、銃口をぐりっと眠っている中也の額に当てる。
「太宰さん!?」
「中也。起きてってば。……起きないとぶっ殺すよ」
 夜風がカーテンを揺らす音に紛らせ、ふふ、と愛を囁くように云う。このまま起きないならば、本当に撃ってしまっても構わなかった。ぎらりと研ぎ澄ました殺意を向ける。
 なのに中也は無防備にその目を閉じたままだ。あの中原中也がこの状況下で目を覚まさないなんてどうかしてる。
 日和過ぎ。
 或いは何らかの外的要因。
 太宰は躊躇い無く引き金を引いた。ぱん、と乾いた音と共に傍らの壁に穴が空く。それでも中也は眠ったままだ。
 間違いない。
「異能で意識を失ってるんだ」
「それは……敵の組織と交戦された、その影響では」
「成る程。交戦中、敵が中也の意識を奪い、中也が間抜けにもそれに掛かったので、その後ご丁寧にも無傷で返品した」
「……。僕ならば、殺しますね……」
「そうだね君に中也が殺せるとは思えないけどね」
 そう、意識を奪えたなら殺せば善かった。時間は二晩もあったのだ、態々敵の本拠地近くから中也を見付けてきた振りをして太宰の元へ返すより、心臓を一突きして海にでも捨てた方が余程楽だ。
 何故中也を殺さなかった?
 ――いや。それよりももっと腹の底をぐるぐると渦巻く、吐き出しようの無い不快感がある。
 何を、他人に殺されるような状況に陥っているんだ。
 莫迦中也。
 くらりと眩暈がした。ぐっと銃把を握ると、力の入れ過ぎで指先が黄色くなる。それを落ち着けるように、ふーっと細く長く息を吐く。でなければ今直ぐにでも部屋を飛び出して、誰彼構わず撃ち殺してしまいたい衝動に駆られそうだった。
 だってそうだろう。
 相棒が居なくなろうが死のうが私は困りはしないけれど。
 誰の許可を得て、私の相棒の身を毀損しているんだ。
 それは他人が身勝手に踏み込んで善い領域でない筈だった。太宰、と。涼やかに呼ぶ声も、熱を持って交わされる視線も、凡て太宰のものである筈だった。
 なのにその目は固く閉じられ。
 太宰の声など聞こえないかのように、意識を深い奥底へと沈めている。
 縄張りの侵犯。許しておく道理は無い。
「……芥川君。随いておいで」
「何処へ?」
 入り口の辺りで行儀良く待機していた部下が小首を傾げる。太宰は煮え繰り返る腹の熱を飲み下し、何とかその問いに形を成した言葉を返した。
「中也に異能を掛けた奴の処へ」

 深夜の寝静まった建物に、二人分の跫音が響く。貸し与えられた部屋から、廊下に出、階段を上がり、真っ直ぐと奥へ。芥川はてっきり外に行くものだと思っておりました、と首を傾げたが、別に外になんか用は無い。用があるのはこの支部の中だ。
 或る執務室の前で立ち止まる。
「こう云うのは大抵――よっと」
 かしゃ、と軽い音を立て、ものの数秒も経たずに扉の鍵が開く。侵入者が云うのも何だが、ポートマフィアの支部長の部屋にしてはセキュリティが甘いんじゃあないだろうか。もっと何か、指紋認証を備えるとか。マァそれでも解錠するんだけど。室内に無造作に足を踏み入れ、何かの花の匂いが漂う中を、本棚を押したり引いたり、ぐるりと一周辿っていく。と、不意に壁に割れ目を見付け、トラップを警戒しながら手を差し入れると、ぎっと壁が割れ手前側にゆっくりと開いていく。奥に見えるのは隠し通路だ。
「ああ、あったあった。こう云うのは大抵、頻繁に出入りしても見咎められない執務室に隠し扉を作るものだよねえ」
 中也もそう思っただろう。だから四日前、内部を調査していた中也は此処に来た。そうして敵の異能を受け、昏睡状態に陥った。そう考えるのが自然だ。
 太宰は迷わず隠し通路に足を踏み入れる。照明の無い通路は夜よりもなお暗い闇に満ちていたが、然し夜目の利く太宰の目はその奥に薄っすらと漏れる光を問題無く捉えていた。カツカツと、狭い通路に跫音が響くが構いやしない。何れにせよ、中也に異能を掛けた元凶に出て来て貰わないといけないんだから。
 然しおかしな話だ。あの中也が、単純な戦闘能力で誰かに遅れを取る筈も無い。
 恐らくあの――小説の中に取り込まれたときのように、直接の戦闘を必要としない異能なのだろう。確かに戦闘においては無類の強さを誇る中也だが、事前に能力を明かさずその不意を突けば、捕らえることは出来なくはない。
「然し、であれば太宰さんが中原さんに触れた時点で、中原さんに掛けられた異能は無効化されるのではないのですか」
 ぼそぼそと、芥川の声が通路に響く。それには振り返らずに、太宰はちらと視線だけで否定を返す。
「君、Q……『ドグラ・マグラ』の異能を知っている」
「……話には聞いたことが。確か、詛いの異能だと」
 そう、あの忌々しい異能は、詛われた対象に触れるだけでは太宰の異能では無効化出来ない。夥しい血の涙を流し、太宰が触れてもなお正気を取り戻すことなく暴れた構成員達の様子を思い出す。あれを鎮めるには、媒介、若しくは異能者本人に触れる必要があった。中也が今、掛かっている異能がその類のものだとしたら、無効化するには中也に触れるだけでは足りず、異能者本人を探し出して触れる必要がある。
 中也にその異能を掛けた、元凶に。
「……ああ、此処かな」
 軈て太宰と芥川が辿り着いたのは通路の最奥だ。細く照明の光の漏れ出る片開きの扉を、警戒しながら開く。
「! これは……」
 開けた視界に、芥川が背後で微かな驚きの声を吐息と共に漏らした。太宰は気に留めず、中に足を踏み入れる。
 其処はただのだだっ広い広間だった。天井が少し低く、打ちっ放しの壁が随分と質素な印象を与える。それに反して、何故だか微かに漂う花の匂い。蛍光灯がバチッと点滅して、太宰と芥川の影を揺らす。特段特徴も無い部屋だ。

 両脇に、無造作に人間が並べられている以外は。

 並べられている――そう形容するより他は無かった。両側の壁際に等間隔に、頭を壁に、足を部屋の中央に向け、まるで道具箱から出してきた数え棒のように男も女も真っ直ぐに寝かせられている。集められている人間にも特に共通した特徴は無い――強いて云うなら、若い男女が多く、うらぶれた――まるで密航者のような簡素な身なりの者が多い。でも必須条件ではない。芥川がそれらを羅生門で突付くのを眺めながら、太宰はふと、足元に何だか見覚えのある帽子が落ちているのを見付ける。
「……何故このような数の人間が。凡て眠っております……」
「そんなことは見れば判る。異能で眠っているんだろうと云うこともね。そもそも何だっけ――中也が表向きやってたのは、人身売買を行っている敵組織の調査と殲滅、だっけ?」足元の黒い帽子を拾いながら云う。「でもそんなもの、最初から無かったんだ――だって身内がやってたんだから。中也の本命はそっち。そうでしょう?」
 そして、何時の間にか背後に立っていた男を振り返った。
「ね、支部長さん」
 は、と芥川が全身に警戒を走らせ、息を詰めて飛び退った。気付くのが遅い。後で説教だ。くるりと手元の趣味の悪い帽子を回して被る。
 入り口を塞ぐように立った支部長――佐藤の顔には、相変わらず柔和な雰囲気が湛えられていた。元来、そう云う性質なのだろう。特に殺気立った様子も無く、穏やかに口を開く。
「……そうだったのですね。あの方は、この場所を初日に突き止められました。早いと思った。最初から疑いがあったのであれば、納得です」
「だから眠らせた?」
 遮るようにそう訊くと、佐藤は微かに頬を歪めた。肯定の意に他ならなかった。
「流石幹部殿。何でもお見通しと云う訳ですか」
「本気で隠し通せると思っていたなら、見通しが甘すぎると思うよ。中也を返せば、退くだろうと思った処も」目を伏せる。「最初、私達が来る前に中也を殺しておかなかったのは、あわよくば中也も売ろうとしたからかな。健康体の男の内蔵なんて、きっと高値で売れるね」
 そう、中也を殺さなかったのは、太宰が来たからだ――太宰は特にこの男にその来訪の目的を話した覚えは無かったが、構成員が行方不明になった直後に幹部が来たことについて、当然その調査であると佐藤は推察しただろう。中也が居なくなったままであったり、殺されでもしたりしたら、太宰は更に調査を重ねる。そうしてこの場所がバレることを恐れた。マフィアのシマを荒らして勝手に取引しているのが、どこぞの組織ではなく、自分であることがバレることを。
 その点、中也を無傷で返せば太宰の用は終わる。表向き敵組織の調査に来た中也とは違って、太宰の目的は中也の発見だからだ。中也の意識の有無は大した問題では無く、寧ろ目覚めなければ疑いや敵対の目は別組織に向くことだろう――中也に掛けた異能を解かなければ、中也がこの場所のことを漏らすことも無い。
 だから返した。
 異能を解く心算の無いままで。
 じゃき、と銃口を男に向ける。
「中也に掛けた異能を解け」
「出来ません。解けばあの方は本部に戻り、私の所業を報告するでしょう」
 太宰は素直に、何云ってんだ此奴、と隠しもせずに表情に出した。何云ってんだこいつ。
「いや当たり前でしょう私だってそうするよ」
「だから貴方のことも、生かして帰す訳にはいかない。残念です――本部には、二人目の失踪を伝えなければならない」
「へえ」それは中々に面白い冗談だった。太宰は冷笑する。如何やらこの男は、ポートマフィアの幹部をどうこう出来る気でいるらしい。「やってみなよ。……やれるものなら」
 カツン、と靴音を鳴らし、複数の人間の寝息を左右に聞きながら、不気味な部屋の中を男へと一歩近付く。この距離ならば銃撃は外さない。却説、何処を撃ち抜けば一番死なない程度に苦しめられるか。じっと見据えていると、佐藤が少し後退るのが見えた。莫迦な男だ。何故だか他に仲間も居ないようだから、邪魔が入る心配も無い。
「……そう云えば。一つだけ判らないことがあるね」
 ふと口にしたのは、そのことに引っ掛かりがあったからだ。
「貴方の異能は判った。けれどあの中也が、単純に貴方単独の異能に掛かるとは思えない。如何やってハメたの? 芥川君でもあるまいし、中也がそうそう簡単に罠とかに掛かる訳が……芥川君?」
 自分で口にした名前に、ふとその芥川は如何しているのかと目線をズラした。ほんの一瞬だ。先程から、物音の一つも立てていないような気がするが。そう思って目線だけで振り返ると、黒い影がゆらゆらと不安定に揺れているのが視界の端に映った。
 花の匂いが強くなる。
「だ……だざいさ……」
 その消え入るように太宰を呼ぶ声に、太宰が振り返る寸前ざしゅ、と足元を黒い刃が掠めた。太宰が避ける暇も無い。散った破片が乾いた音を立てて足元の裾に掛かる。床を悠々と切り裂き、首を擡げる黒い刃。その影に、太宰は銃口を男から逸らさず片眉一つ上げて顔を顰める。
 羅生門。
 芥川の異能だ。
 ちらと芥川を見遣ると、顔を両手に埋め、蹌踉めきながら何事かを呻いている。太宰さん、太宰さん……と譫言のように呟くその目の焦点は合っておらず、瞳孔はまるで此処ではない何処かを見据えるように開いている。明らかに様子がおかしい。自分の体の制御が効いていないような仕草。
 そしてその外套による獣の牙は、真っ直ぐに太宰へと向けられている。
 然しそれはおかしなことだ。芥川は少し短慮ではあるが、太宰への忠誠心だけは本物だ。他ならぬ太宰がそう叩き込んでいる。その芥川が太宰に刃を向けることなど常であればあり得ない。それこそ、相棒が組織を裏切ることと同じくらい――そこまで思い至り、成る程、と太宰は一人得心する。成る程、そう云うこと。
 次の瞬間、太宰は立ち竦む芥川との距離を詰め、その腹を思い切り蹴り飛ばした。ミシリ、と芥川の華奢な体が嫌な音を立てて吹っ飛んだが、その先など見ずに振り返って元凶である男に発砲する。狙いは碌に付けなかったが、上手く当たったようで佐藤は呻きながら太腿から血を流して膝を突いた。
「うーん、幻覚か精神操作? その応用で眠らせたり出来るのかな……随分と便利な異能だね、説明どうも有難う」
「ど、如何して私の異能が効かない――」
「君、私の異能を知らないの」呆然とする男に跨がり、その首に押さえ込むように触れる。触れるだけで善かった。太宰の異能は人間失格。異能の無効化だ。男の異能が如何に強力なものであろうと、太宰相手には効く筈もない。「私は君と違って、異能を隠してすらいなかったのにね? ……うふふ。長年組織を騙していた上に、首領に無断でシマを荒らして人身売買。却説、石を噛むだけで済むと善いねえ」
 う、と太宰を跳ね返して起き上がろうとしていた男の体から、その言葉で一気に力が抜けた。諦めたのだろう。太宰の下でか細く、頼む、見逃して下さい、と蚊の鳴くような声だけが聞こえる。如何してもお金の工面が必要だったんです、と切実な思いを乗せるその声は、太宰が触れ、異能が解けて目を覚ました複数の人間達の、パニックに陥った声に掻き消される。
 こうなればもう話は簡単だった。男の額から銃口を外すことはせずに、ただ冷ややかに見下ろす。どんな事情があろうが、助ける心算など無かった。助かりたかったなら、中也がそうしたときに温情を乞うべきだった。眠らせなどせずに。
 太宰は相棒ほど優しくはない。
 そして受けた損害は、二倍にして支払わせるのがマフィアの流儀だ。
「……却説、中也もそろそろ、目を覚ました頃だろうね」
 人々の声を聞きながら、太宰は至極無機質な声で呟いた。これで面倒な仕事も終わりだ。いや、特に任務を受けてと云う訳ではなかったから、とんだタダ働きだ。太宰はひっそり溜め息を吐く。中也のヘマのことは未だ上に上げていない筈だから、こっそり中也との共同任務だったと云うことにして首領にたんまり賞与と休暇を要求してやろう。
 それと、相棒が目を覚ましたら文句を云ってやらないと。
 太宰はぼんやりと、今頃寝台で眠い目を擦り、状況を把握出来ずに一人間抜け面を晒しているだろう相棒に思いを馳せる。この程度の相手に手を焼くなんて、全く、手の掛かる相棒だ。太宰は相棒が居なくなろうが何の問題も無かったが、相棒の隣には矢張り、太宰が居ないと駄目なのだ。



 四.

 然し翌朝になっても、中也は目を覚まさなかった。
「……ちょっと、如何云うこと」
 太宰は苛立ち混じりにバタンと寝室の扉を後ろ手に閉めた。昨晩、芥川に支部長を拘束させ、捕らえられていた人間を凡て解放し、一眠りした処だった。混乱に陥った群衆を解放する作業は面倒ではあったが、然し中也の部下の数人も同時に目を覚ましていたから、手の掛かる作業はそれらにやらせて太宰は寝室に戻ったのだ。午前三時を少し過ぎていた。騒がしい隠し部屋を後にして廊下に出た途端、しんと静まり返った夜のささめきが、窓から差し込む月光に溶けて廊下を満たしていたのを覚えている。
 戻った寝室では、未だ中也が固く意識を閉ざして眠っていた。太宰は相棒が未だ目を覚ましていないことにおや、と首を傾げたが、時間も時間だ。通常の人間であれば眠っている時間帯には違いない――中也の勤務形態については割愛するが――と、特に気にも留めずに同じ寝台に潜り込んだ。一人用の寝台では落ちないようにするのが精一杯だったが、他に寝る場所も無かったんだから仕方無い。どうせ一晩だけだ。そう思った。
 それなのに。
 日が昇り切り、朝になっても中也は未だ目を覚まさない。ぱちりと朝の気配に鼻を擽られて目を覚ました太宰が捉えたのは、目と鼻の先で変わらず眠る相棒の横顔だった。さら、と色素の薄い髪が、額から流れてその頬を撫でる。変な夢でも見ているのか、浮かべる表情はひどく苦しそうだ。時折息の乱れがあって、思わずその手に手を伸ばした。
「中也」
 今までどんな状況でも太宰の呼び声に応え続けた相棒は、然し太宰の声に答えない。手を握っても、何時もより少し冷えている気のするそれは、太宰の手を握り返そうとはしない。
 熱を分け与えるように、乾いた手の甲に口づける。
「ねえ、中也ってば……」
 応える声は無い。
 ただ外で鳥の囀る声が響くだけだ。
 そのとき初めて、太宰は自分の喉奥から、何か云いようの無い塊が嘔吐感を伴ってせり上がってくるのを感じた。
 異能を解けば直ぐにでも目を覚ますと思っていた。こんなのは何時ものトラブルの内で、自分達にとっては然程問題の無い日常茶飯事の範囲内だと。自分の頭脳と異能を持ってすれば、中也を呼び戻すことなど容易いと思っていた――然し太宰の回り過ぎる頭脳は、ここで或る一つの嫌な可能性を導き出す。
 だって中也の意識を取り戻す方法が判らないのだ。調べようにも、皆目見当も付かない。異能は解除した。なのに起きないのは何故だ? 次は如何したら善い? まるで泥の海の中を藻掻くようだった。手を伸ばしても光が見えない。息が出来ない。
 寝台の中で、ひっそりと息を詰めてその不安を押し殺す。
 中也はこのまま、目を覚まさないのかも知れない。

「芥川君、ちょっとこれの腕ちょん切ろうか」
 その言葉に合わせて、ぎらりと漆黒の鎌が光った。今日の芥川は昨晩と違って異能には掛かっていないから平常運転だ。相変わらず茫洋とした闇をその瞳にぼんやりと湛え、太宰の合図を待っている。太宰が足蹴にするのは支部長。宛ら簡易な断頭台だ。本人は観念しているのか、最早抵抗の意志は見られない。本部に連行する必要があるが、その前に問い質さねばならないことがある。
「腕が無くなっても、口があれば大丈夫でしょう。切った後の止血はちゃんとするんだよ」
「はい」
 従順に頷く芥川を尻目に、足元の男を睥睨する。
「で?」
「……例え殺されようとも、私は何も知りません。恐らく、貴方は私の異能を解除することが出来るのでしょう――であれば、私の異能は既に解かれている。私にはそれ以上、あの方に対して為す術は無い」
 佐藤はそう云ってぎゅ、と目を瞑った。
 確かに佐藤の云う通りだった。太宰の異能に例外は無い。男の異能は太宰によって既に解除されている。然し、異能でないと云うならば、中也が眠り続けることに対する説明が付かないのだ。太宰は一瞬、考え倦ねる。
「でも」そんな太宰の思考に滑り込ませるかのように、佐藤はぽつりと続けた。「これまでも何人かは居ました――私が異能を解いても目を覚まさない方達は。その場合はそのまま取引先に引き渡したのですが――どうも私の異能を切欠として、自分の意志で己の精神を閉じ込めてしまわれる方は一定数居らっしゃるようなのです。要は、精神を病むと云いますか――眠りに就いたまま、目を覚ましたくないと望んでしまう方々が」
「成る程。芥川君」ピッと親指を下に向ける。「刺すだけで善い」
 ぐしゃ、と外套が男の肩を貫いた。悲鳴は上がらなかった。ぐ、と押し込めた声が部屋に響く。その体にシュルシュルと黒い外套が蛇のように巻き付いて、それ以上の出血を防ぐように絞め上げる。
「如何されますか」ぼたぼたと、外套のもう一方の端から赤黒い血を滴らせながら首を傾げる芥川を、太宰は感情の乗らない目で一瞥した。
「……取り敢えず本部に戻る。此処じゃあ何も出来ない」
「本部に戻れば、私は処刑を免れないのでしょうね」
 そう呟くように零したのは、痛みと出血に真っ青になりながらも意識を保っていた佐藤だった。それはそうだろう。マフィアにおいて裏切りは重罪だ。大体、この男がこんなややこしいことをしなければ、今頃凡て円満に解決していたのに。苛立ちが募る。
「……マァ、でもそれは生憎と私の決めることじゃあない。首領次第だよ」
 残念ながらね、と太宰は付け足した。
 本心だった。この男の処遇を決めるのが自分でなく首領であることが、心底残念でならなかった。
「……私に決定権があれば、文字通り死ぬほど後悔させて、存分に生きてこなきゃあ善かったと思わせてあげられたのに」
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