【再録】愛の葬送



 二.

 異能に掛かった瞬間と云うのは、ひと目で『そう』だと判るものだ。異能には匂いがある。それはひどく些細で、何と云うことのない、そう、例えるならばトンネルの中に入る前と後に感じる空気の違いのような、そんな小さな変化だ――然し長くその微かな違和感と長く付き合ってきた身からしてみれば、それは比べるべくもなく明瞭な、体に訴え掛けてくるような違和感だった。今己の立っている地面が、先程の森とは地続きでないことを、その『匂い』が強制的に、理解させるのだ。俺は黙って、ゆっくりと辺りを見回した。人がしばしば、己に出来ることが何も無いときにするように。
 石畳に立っていた。
 慣れない異国の匂いが鼻についた。空気が湿っぽいが、潮を含んだものではなく、少なくとも此処は海の近くではないのだろうと思われた。空が灰色なのも、此処が横濱の街ではないと、頷かせるには十分なものだった。
 何せ周りの建築物の構造からして、違うのだ。此処には四角四面とした、縦に長いアパァトメントが、道の両脇にひどく窮屈に連なっている。若しかしたら時代さえ異なるのかも知れないと思わせる、古めかしい異国の街並みだ。道行く人間を捕まえて今は何時だと訊くべきだったのかも知れなかったが、はて想定と違う西暦が出て来た場合に、どうもどのような態度を取れば善いのか、適切な反応と云うものに少し自信が無い。抑々、言葉が通じるか如何かも疑わしいものだ――道を行くのは暑ッ苦しいフロックコートの男や、時代錯誤なクリノリンのドレスの女ばかりだ。
 あの男の異能だ、と直感した。ただ、この状況だけでは、如何云った異能なのかまでは見当が付かなかった。何せ可能性は山程にあるのだ――例えば俺は何処か別の国に、何らかの強制力を持って移動させられただけなのか、若しくは時間さえも超えて飛ばされたのか。或いは、全く別の異世界――空間を創り出す異能と云うのは幾つか聞いたことがある――その中に閉じ込められているのか。判断材料が余りにも少ない。これだけでは、到底真実の答えに辿り着くことは出来ないだろう。
 そのとき、奇妙に甲高い、興奮した様子の老人の喚き声が、俺の耳に飛び込んできた。
「だから嘘じゃねえ! 昨晩、儂は確かに聞いたンだよ、儂の家の地下室で誰かが云い争ってンのを!」嗄れた声に反して、どっしりと地に着いたような声だ。もうろくしている訳ではないようだった。「それだけじゃねえ、その声が苦しそうに呻いたかと思えば、突然ぴたりと止ンだンだ。それから何が聞こえたと思う? ガリガリと、壁を崩し出したンだ――誰かが儂の地下室に死体を埋めていったに違いねえ!」
「然し何も無かっただろう、爺さん!」家の前で云い争う憲兵が二人、少し疲れたような顔をしていた。もう何度も、同じやり取りを、しているのであろう。「大体、地下室には鍵が掛かってたろう。アンタの妄言で、壁堀りを手伝わされる俺達の身にもなって呉れよ!」
「ああ、ああ、待って呉れ、行かないで呉れ、若し昨夜の声が今巷を騒がせる殺人鬼だったら一体如何して呉れるンだ? これだから今時の若いモンは――地下を伝って夜な夜な街中の家に化けて出る、敗残兵の話を知らンのか!」
「それは」と、憲兵達は笑う。「またその御伽話かい」
「善いか、あの殺人鬼を捕まえたくば、今直ぐにこの街の凡ての地下道を調べることだ、でないと後悔するぞ!」
「だから、そんなものは無いと云ってるだろ」
 憲兵達が帰ろうとしているのを、老人が引き下がって必死に引き止めるのを見ていると、ふと、俺に気が付いたのか、意見を求めるように、老人が視線を向けてきた。
「そう、其処の帽子のアンタも昨夜は其処の家に帰ってきていたろう! もう一人の黒髪の連れと聞かなかったか、あの悲鳴を?」
 そう云いながら、老人が指し示したのは、道を挟んだ真向かいの一軒家だ。
 その言葉は、俺に一つの推測を齎した。
「詰まりこの世界はあの本の中である可能性が高くなったって訳だ」
「決め付けるのは早計だがな」
 振り返ると、直ぐ側に端正な顔を不敵に歪ませた、相棒の姿があった。
 太宰の云わんとすることは、俺の理解した処でもある。
 と云うのも、先程まで喋っていたのは皆西洋人であったのに、耳に入ってくる言葉は紛うことなき日本語だったからである。真逆日本語が公用語と云うことも無いだろう、自動的に翻訳されて聞こえるのだ、と思うのは当然だ。
 そして、老人は、俺が“もう一人の連れ” ――この場合は太宰のことだろう――と向かいの家に帰ってきたと証言した。然し俺には、その記憶は無い。であれば、そう云う設定の世界に引き摺り込まれた、と考えるのが正しい。
 然し、それにしては気になる点が一つだけあった。
「手前、今まで何処へ行っていた」
 俺は振り返って、側に立つ相棒に、目をやった。その立ち姿は、森の中で見たものと、ほんの少しだけ、違っている。目の包帯が取れていたし、それに何より、その黒鳶の蓬髪に、不自然に一筋だけ、白銀の色をした毛が、混じっていた。
 俺が、まじまじと太宰を見ていると、太宰は心底愉快そうに、何時もの嫌味を交えて、口の端を持ち上げた。
「君はそう、こう思っているんだ――私には異能が効かない、ならばあの異能が空間移動や時間移動であれば、私がこの場に居る筈は無い。然しこうも思っている筈だ。それは本の中に引き摺り込まれる異能であっても同じではないのか? 或いは、この太宰は、異能で作り上げられたものなのではないか」
 俺は正しく、図星を突かれた気分になった。
「勝手に人の考えたこと、ぺらぺら喋んじゃねえよ」
「ああ、御免ね? 今君の考えていることが、すごく善く判って」
 何もかも莫迦にしたように肩を竦めるその仕草は、確かに記憶の中の太宰治そっくりだった。偽物だとすれば質が悪い。然し本物だとすれば、此処に太宰の居ることの説明が付かない。
 太宰は続ける。
「本の中だとすれば、君がすべきは帰宅ではなく脱出だ、判るかい――ただこのまま列車を探し、飛行機を乗り継ぎ、日本に移動するだけでは何の解決にもなりはしない。まあ、登場人物が勝手に舞台を変えることなんて、出来るとは、ちょっと思えないけれど」
「そうだな」と、俺も相槌を打った。「異能の解除には、必ず条件がある筈だ。先ずはそれを探さなきゃならねえ」
 そう云いながら、はて、その条件とは一体何だろうかと首を傾げる。本の中だとすれば、これは恐らく小説なのだろう、と察することは出来る。小説であるならば、物語を最後まで読み進めるか、途中で終わらせるか、しなければならないのではないだろうかと帰結するのが、至極自然なことと思われる。
「取り敢えずあれか? 爺さんを黙らせれば善いのか?」
「でも先刻、“巷を騒がせる殺人鬼”の話もあったよ?」
「殺人鬼が現れた現場が判んねえだろう」
 俺達は、顔を見合わせた。何方だろうかと思案していると、側に居た憲兵が、何故か気味悪そうに此方を見て、「兄さん、先刻から何ぶつぶつ云ってんだ。例の殺人鬼なら、三丁目の方の家だぜ。行けば判る」と、丁寧にも道順を教えて呉れた。詰まり、次に行くべきは其処だと云う訳だ。
「……行くぞ」
 憲兵から教えて貰った方角へと、歩を進める。背後から、「帽子の兄さンも儂を見捨てて行っちまうのか!」と、喚き声が聞こえてきたが、俺は振り返らなかった。
「ほらぁ中也、呼ばれてるよ?」
「手前も居んのになんで俺だけなんだよ」
「たかりやすそうと思われたんじゃない?」
「あァ?」
 勢い、太宰の胸倉を掴もうとした。然し、その行動は、霧でも撫でたようにひょい、と空振りしてしまった。俺は遣り場の無い苛立ちを、凡て込めるように、舌打ちをした。
「……あの爺さんは、放っておいて善いのか」
「だって地下には何も無いと、憲兵が云っていたじゃあないか」心底莫迦にしたような、詰まらなさそうな口調で、太宰が云う。その表情は、明らかに、地下室には行きたくないと物語っていて、その、一種嫌悪感を持った表情は、俺を地下室から遠ざけるには、十分な力を持っていた。「マァ、気になるなら見に行っても善いけれど……。如何する?」
「――いや、いい。行くぞ」
 太宰に背を向けるように踵を返すと、太宰が随いてくる気配が無く、然し振り返ると其処には太宰の姿があるものだから、俺は気にせず道なりに歩いて行く。
 無論、このとき、俺の心中には二つの疑問が渦巻いていた――一つは、何も無いと云う言葉が嘘ではないのかと云う疑問。そしてもう一つは、即ちこの太宰治は、本物なのか否かと云う疑問だ。



 三.

「此処か」
 何時の間にか、俺達は一軒の家の前に立っていた。周りも同じような家ばかりなのに、それが件の家だと判ったのは、人集りがその周囲を囲むように行き交って、まぁ怖いわねえ、未だ捕まっていないんですって、何でもとても人間業とは思えない殺され方をしたそうですよ、まぁ未だお若いのにお可哀想に……などと世間話に花を咲かせていたからだ。加えて、此処に辿り着く途中でも、道行く人間の手や露天に見る新聞は、そのどれもこれもが大賑わいなのだ――新興の犯罪組織による拳銃の密輸入疑惑の記事だとか、港から大型の動物が遁走せしと云った記事を押し退け、どの紙でもその、殺人事件と云う日常稀に見る出来事が、センセイショナルに一面を飾っていた。
 却説、その家の前で、俺が躊躇い無く踏み込もうとすると、憲兵が、慌てて俺を押し戻そうとする。
「何だ、君は」
 居丈高な態度に、ふんと鼻を鳴らして、ああ、如何説明するか、それとも殴り倒して無理にでも押し入ろうかと、思案していると、俺が行動に移すより早く、はたと気付いたように、別の憲兵が俺の顔を、まじまじと見る。
「君、君。若しや君は昨日、黒髪の彼と共に居た者か?」
 黒髪の彼、とは太宰のことだろうか? 今も其処に居るじゃねえか、と云う言葉を飲み込み、「ああ」と、俺はひどく曖昧に返事をした。「今日は、例の殺人鬼ってのを調査してる」
「ああ、ああ、ならば是非、君の意見を参考に聞かせて呉れ給え! 黒髪の彼は居ないのか? 俺達にはもう、お手上げなんだ」
「『お手上げ』ェ?」
 その云い方が、如何にも俺の心臓の、奥の部分に奇妙に引っ掛かった。と云うのも、先程の老人の口振りから、その殺人鬼とやらが未だ捕まっていないのだろうと、云うことについては、容易に想像が出来たのだが、然しその悍ましい殺人行為を行った人間を、捕まえるのでは足りないのだろうか、と云うのは、俺だけでなく万人が抱き得る至極当然の疑問だろう。もっとも、憲兵の話によると、如何やらそうもいかないらしかった。曰く、その死体――殺されたのは、妙齢の、この家に住んでいた、一人暮らしの女らしいのだが――は、とても人間業とは思えない乱暴さで、惨たらしく、殺されていたと云うのだ。それ故に、犯人が誰か、と云うよりも、犯人が如何やって婦人を殺害したのかの見当が、全く付いていないらしい。また、死体があったのは地下室だと云うことだったのだが(先程の老人と云い、この街の家は皆、何処も地下室があるものなのだろうか、そう云えば、同じような家が立ち並んでいる処を見ると、造りは凡て同じなのかも知れない)、その地下室は当時施錠されていて、何人も立ち入ることは出来なかったのだと、そう云うのだ。だから「お手上げ」なのだと、憲兵は俺の肩を押し、地下室への階段を下りながら、云った。
「公権力がそれで善いのかよ……なあ、」
 太宰、と、俺はそう声を掛けようと、背後を振り返ったのだが、然し俺の予想に反して、其処にある筈の相棒の姿が、何故だかちっとも見当たらなかったので、そっと首を傾げて、憲兵を押しのけ、階段を駆け上がり、其処で漸く、太宰の姿を見つけたのだった。
「太宰?」
 俺の声に、然し太宰は家の前で、妙に難しい、厳粛な顔をして立ち止まっていた。やがてぢっと自分の足首を見ながら、まるで其処に見えない何かがあるように、不思議なことを云った。
「ああ。そう云う設定」と、太宰は顔を上げて、云った。
「は?」
「ねえ、中也。如何やら私は、これ以上、スタァト地点を離れられないらしいよ。私の脚に絡まった枷が、これ以上、離れることを拒むのだ」
 そう云う太宰の指は、真っ直ぐと、俺達が歩いてきた方向を差していた。彼の云うスタァト地点、と云うのは、如何やら俺が最初にこの世界に入り込んだときに、居た場所を云うらしかった。
 然し、俺は動けるのだ、足元を見れど太宰の云うような枷は無く、問題の家にも出入りすることが出来た。俺が自由に動け、太宰が異能の支配下に置かれたかのように、制限の掛かる、その事実は、俺に或る一つの可能性を抱かせる。矢っ張りそうなのか、と、俺は思った。
「矢っ張り手前は、異能で作られた幻影なのかな」
 太宰はそれには答えなかった。ただ、何時もの笑みを、少しだけ翳らせて、俺に微笑むだけだった。
「私は、私だよ。ただ、今の私は、地縛霊のようなものなのかも……」と、太宰は云った。その声の調子が、少し弱い気がして、俺は太宰の表情を盗み見ようとしたが、然し俺が顔を見るよりも早く、太宰は気を取り直したように、くるりと踵を返してしまった。
「情報を収集してくるよ。君の方でも、精々頑張って呉れ給え、名探偵」

 却説、俺が地下室に足を踏み入れたときのことを、簡潔に書こうと思う。其処には、ただ死体の跡だけがあった。跡、と云うのは、恐らく死体をそのままにしておくのは忍びなかったのだろう、変わり果てた女の姿は、何処にも見当たらなかったからだ。然し、俺には直ぐそれが"そう"だと判った。俺には、善く見覚えのある跡だったからだ――途方も無く強い力で、壁に叩き付けられ、ぐちゃぐちゃになった死体の跡と云うものは、俺にとっては最も身近なものの一つだ。
 不思議なことに、半ば密閉空間であるにも関わらず、血の臭いは籠っていなかったが、俺には一目瞭然だった。
「……ひでえな」
 悼んでみせよう、と云う気持ちはあったが、ただ顔も知らない女の死など、蟻の行列ほどに如何でも善く、結局漏れ出たのは、砂漠の表層のような、乾いた笑いだった。
「まるで人の力じゃあないだろう」と、憲兵は云った。「誰が、こんな方法で彼女を殺し得るのか、捕まえようにも、犯人が判らない。誰を捕まえれば善いのかが、判らないのさ」
 俺は、ただ黙って、その薄暗く、じめじめとした、石造りの地下室の壁を、ぐるりと回った。あんな殺し方をされるくらいだから、ひどく抵抗したのだろう、と俺は思った。果たして、それは正解だった。俺が、死体跡の向かいの壁を、特に入念に調べていると、目立たないながらも未だ新しい銃痕が一つ、ひっそりと穿たれていたのだ。それは女が発砲したに違いなかった。犯人であれば、女を何かしらの大きな力で殺せるほどの、力を持っているのだから、態々銃を使う必要が無い。
「……女は、誰かと会ってなかったのか」
「誰か? それが判れば、苦労はしてないよ」と、憲兵は云った。「殺される前――昨日の朝に、会う約束はあったようだ。ご婦人は着飾っていたから、恐らくは男だろうと、俺達は思ってる。けれどそれが誰かまでは、判らない」
「……そうか」
 俺は、其奴が犯人だろうと、ある種の確信を持って、断言した。「もう善い。邪魔したな」と、云うと、何故だか不思議なことに、その地下室では、まるで、山彦が木霊するように、何重にも声が響いていた。

「黒髪の男が何処に行ったか知らねえか」と、地下を出た俺が最初にしたことは、近くに居た憲兵を捕まえて、太宰の行方を訊くことだった。そのとき俺は、如何せまた、太宰の野郎のことだ、その辺で女を口説いているか、若しくは気楽に自殺でも図っているのだろう、と、ひどく楽観的な心持ちで居た。
「俺と一緒に居た、包帯を巻いた男だ」
 然し憲兵は――これは嘘を吐いている風ではなく、全くの真実として答えたのに違いなかったのだが――そんな男は知らない、と首を横に振った。
「……? 今日は、アンタ一人だったろう。夢でも見てたんじゃあないのかね」
「……何?」
 そのとき、俺の脳裏に、流星のように様々な憶測が流れては、消えた。そのどれもが、断言するには憶測の域を過ぎなかったからだ。
 そんな訳が無いだろう、もう一度思い返してみろと、憲兵に云い募ろうとしたが、然しその俺の声を遮ったのは、紛れも無く探し人その人の声だった。
「中也?」
 俺は振り返った。其処に居たのは、俺の相棒であるところの、太宰治に他ならなかった。太宰は、まるで俺を待ち侘びていたかのように――実際話し相手が居なくて退屈だったのだろうが――とにかく、浮かれた調子で、俺の側へと駆けてきた。
「いやあ、この犯人と云うのは、中々に世間を騒がせているようだね。新聞どころか、人の噂の上でまで、ひっきりなしに持ち切りだ……如何かしたの」
 太宰にしてみれば、俺の顔色の悪いことなど、一目で判るのだろう。事実、そのときの俺は、石を飲み込んだような、奇妙に喉に物の引っ掛かった顔をしていたに違いない。道行く人間を捕まえてこの男が見えるかと訊くべきかも知れない、と俺は思った。然し、さて想定と違う答えが出て来た場合に、どうもどのような態度を取れば善いのか、適切な反応と云うものに少し自信が無い。太宰の非実在を証明した処で、益になるとは、俺には到底思えなかったのだ。それどころか、芋蔓式に何かおそろしい事実を引き摺り出しそうな気がして――実際、この太宰が他の人間に見えないことを突き止めた処で、其処には相棒ではない得体の知れない存在がひとつ残るだけだ――この異界での道標の蓋然性を自ら失いに行くことは、ひどく悪手に思われた。
 中々問いに答えようとしない俺に、太宰は、「ふぅん。まあ善いさ。で、死体は如何だった?」と、然程の興味も無さそうに、話しを振った。
「手前は新聞で記事を見たんだろう。大凡その通りだ」
「そう」
 太宰は、それ以上何も、云わなかった。
「……なあ、太宰」
「なぁに、中也」
 ただ、何時もの調子で俺の呼び掛けに、返してくる。
「あの死体は、まるで――まるで重力に叩き付けられたみたいな跡をしていた」と、俺は絞り出すように、云った。「俺以外に、あんな芸当を出来る奴が、果たして居るのか?」
 別に、女子供を殺すことに、躊躇いなど今更覚えなかった。地下の女のように、銃を向けた敵なら尚更、躊躇無く殺すだろう、と、俺は思った。殺すだろう、と、それが推測なのは、俺に、女を殺した記憶などと云うものが、当然のことながら存在しないからだ。俺は、女を殺してなどいなかった。少なくとも、俺の記憶の上では、そうだった。
 然し、状況が物語る事実は、俺に或る一つの可能性を齎していた。憲兵は、女には昨日の朝、誰かと会う約束があった、と云っていた。そして、最初に会った老人は、昨晩、俺が家に帰ってきていた、と。この物語の中では、昨日、俺は、確かにこの街に存在していたことになるのだ。
 そして、昨日、何らかの人智を越えた強い力で殺された哀れな女が居る。
 疑問の余地があるだろうか?
 ――そう云う設定。
 その、太宰の何気無い一言が、俺に枷となって、足元に絡まり付いているように、思われた。詰まり――俺が殺したいと望むと望まざるとに関わらず――女を殺したのは、きっと俺なのだと云う確信だ。知らぬ内に擦り付けられていた罪が、べとりと透明な血のように、手の平にこびり付いているような心持ちがして、ひどく気持ちが悪かった。
「……うふ。君以外に居るか、って?」
 然し太宰は、俺の言葉を聞き、満足気に笑った。
「君のそう云う処、私、堪らなく好きだよ」
 浮付いたその言葉に、俺の背筋がぞわりと、逆立った。一瞬、此処が何処だとか、俺が犯人だとか、そんな状況を忘れ、体の芯からの身震いをした。
「……手前に好かれる言動をした覚えは無えぞ」
「いやね、たった今、君は核心を突いたのだよ――君以外に成し得る者が居るか? そう、居るのだよ」太宰は、気取った調子で近くの路店の店頭にある新聞を、指し示した。「ご覧。今朝の新聞だ」
 今朝の新聞と云っても、其処には拳銃の密輸だとか、動物の脱走だとかの話ししか載っていなかった気がするが。ともあれ、俺がラックから抜き取って見てみると、果たして、今朝見たものと相違無い見出しが、紙面に踊っていた。曰く、『拳銃の密輸入疑惑、新興の犯罪組織か』『港から大猩々が遁走、未だ見付からず』――その記事に、俺は、妙な引っ掛かりを覚える。
「大猩々……?」
「そう、大猩々だよ中也。ところで君、大猩々の握力がどれくらいかを知っている? 大体平均三百瓩重以上……一説に拠れば五百瓩重を超えることもあるらしい。凄いねえ、五百ってちょっとした車ぐらいじゃない?」五百瓩重、と俺の頭が、瞬時にその強さを図る。人体に掛かる重量瓩は、大体その体重の範囲だ――標準的な成人男性なら六十から八十瓩重と見て善いだろう。だから俺は、何時も人に対して異能を解放するときは、それ以上の重力を掛けて潰すのだ。五百も掛ければ、大抵の人間は挽き肉だろう。
 そんな俺の思考を見通したのか、太宰は、心底愉快そうな身振りで、人差し指を唇に当てる。「君が一番善く知っていると思うけど。そんな力が掛かってしまえば、か弱いご婦人の身などは一溜まりも無いだろうねえ」
 詰まり、太宰はこう云うのだ。女を途方も無い力で壁に叩き付け、無残に殺したのは、重力ではなく、港から遁走した大猩々の腕力だ、と。
 俄には信じ難い推理だ。
「……入り口は施錠されていたと聞いたぞ。俺も見たが、鍵の壊された形跡は無かった」
「この街に来てから、君、気付いたことは無いかい。そう、例えば街の建物が凡て同じ造りの建ち方であったりとか――地下道を通って夜な夜な化けて出る敗残兵の噂だとか」
 太宰の言葉を聞いて、此処に来てからの様々な光景が、俺の脳裏を早馬のように、駆け巡った。老人の言葉。同じような家ばかりが立ち並ぶ、灰色の街並み。……地下道を伝う? 何かが俺の脳裏を、流星のように掠めて云ったが、それを捉えることは、遂に出来なかった。
 一体全体、何だと云うんだ。
「鈍いねえ。地下道は、『本当にある』のさ。幽霊なんてものが現実に居るか如何かは……マァ、この小説の設定次第だろうが、火の無い処には煙が立たないのだから、ある程度根拠のある話だと推測出来る。あの老人は、憲兵たちより、この街ではずっと古株だろう。そう、この街の家は、地下同士で繋がっているのさ――憲兵が知らないと云うことは、もう閉鎖されて久しいのだろうがね。然し、一度繋がった道が何らかの形で綻びれば、例えあの家の地下が施錠されていようとも、何処かから侵入出来る可能性はある」
「……大猩々なんつう、目立って仕方無い生き物が未だ見付かってないのは」
「何処かの地下に、潜んでいるからだろうねえ。音がすれば住人が気付くだろうから、きっと空き家だろう」
 俺は、先程訪れた地下室の音が、奇妙に何重にも響いていたことを思い出した。密閉空間であるにも関わらず、血の臭いが、籠っていなかったことも。
 あまりにも途方の無い話しだ。然し太宰は、断言する。
「判るかい、中也。『君じゃない』」
 この遁走せし大猩々が、地下を伝って偶然にも女の家に忍び込み、不幸にも居合わせた女を、無慈悲に壁に叩き付けたのだ――と。

 念の為、憲兵達に太宰の推理を伝えると、さっと彼等は顔色を変え、判った、どの道大猩々の捕獲も我々の仕事だったのだ、誰とも判らぬ殺人鬼を追い掛けるよりは余程楽な仕事だ、やってみせよう、と、云った。軽い口調だったが、然し俺の立ち去り際に、確かにあの、女性のドレスにべっとりと付いた血の手形は、どんな大男かと思ったが、成る程人のものではないと云われれば納得だ、と話していたから、きっと彼等には心当たりがあったのだろう。
 却説、俺が太宰の元に戻ると、太宰はふらふらと寄る辺無く、風に吹かれる花びらさながらにその黒外套を閃かせながら、時折ぢっと鉛色の立ち込める空などを、眺めている。
「……いやね。謎は解いたけれど、君が脱出出来る気配は未だ、無いようだな、と思って」
 謎。その言葉に、或る一つの言葉が、俺の記憶から呼び起こされる。
 ――こんなの、謎掛けとしては三級品である!
 これがその、謎だったのだろうか。だとすれば、犯人が大猩々であることと、何れかの空き家の地下に潜んでいるであろうことは告げたのだ、明日の朝にはその下手人は発見されて、謎は万事解決だろう。
 俺の浮かない顔を見てか、太宰は柔らかく笑いながら、重い空気を払うように、云った。
「一先ず、帰ろうか。確か、私達がねぐらにしていると云う設定の家があったでしょう」



 四.

「本当なンだって! 儂の家の地下で殺人が……」
「なんだ、未だ云ってんのか爺さん」
 俺達の住処――他と同じように、道路に沿って窮屈そうに立ち並ぶ、細長い石造りの、三階建てのアパァトメントだ――に戻ってくると、冒頭と同じように、道路を挟んだ向かい側で、老人が自分の家で殺人があったに違いないと、喚いている。憲兵の姿は、既に見えず、薄暗い雲の向こうに、夕日の沈む色が、橙に滲んでいた。
「なあ、頼むよ兄さん、儂と一緒に地下を見て呉れよ。自分の家に、死体があるかも知れン気分が、兄さんに判るか? 怖過ぎだろ」
 云われるがままに、俺は老人の家の地下室を、訪れた。途中、太宰にも、如何する、と目で問うたが、太宰はふいとそっぽを向き、「私、行きたくない」と、呟いたものだから、俺はそれ以上、太宰に無理強いをすることが、出来なかった。屁理屈でなく、ストレイトに己の感情を理由にするなど、太宰にしては、珍しいことだ、と俺は少しだけ首を傾げた。
 却説、予想に違わず、老人の家の地下室は、先程の死体のあった地下室と、同じような造りであった。音が不自然に反響して、ははあ、これが先刻太宰の云っていた、地下道に繋がっているのだな、と俺は思った。その存在を、認識してさえいれば、人間と云うものは、案外容易にそれを見付けることが、出来るものだ。俺は、地下室の或る一角に、石で塞がれてはいるものの、微かな風の通り道を発見した。確かに、これであれば、老人の云う昨晩の云い争う声や、悲鳴が、この穴を伝ってやってきた大猩々に因って齎された可能性は十分に、あるだろう。然しそれでも、この地下室に死体があるとは、俺はとても思わなかった。未だこの通用口は、綺麗に塞がれていて、石の動かされた形跡が見られない。それに、犯人が殺人鬼――大猩々ならば、態々死体を埋めて隠すなど、そんな面倒なことは、しないのではないかと、そう思われたのだ。奴等には、人間に殺人を見付かって困ることなど無い。現に、昼の女の死体は、そのまま憲兵達に見付かっている。
 何より、この部屋からは、血の臭いがしなかった。
「……何も無えじゃねえか」
 その俺の声は、また何重にも反響して、何処かの地下へと消えていった。

 そのまま老人の家を辞し、向かいの家の玄関を通り、土足のまま三階へと上がり、寝室と思しき部屋の扉を開けた俺を出迎えたのは、太宰の作り物めいた笑みだった。
「如何だった?」
「……何も無かった」
「だから云ったでしょう」
 太宰は、ほら見たことか、とでも云いたげに、ふふんと胸を反らした。実際に行ってもいないのに、何故そんなに自信を持てるのか、俺には判らなかったが、何か、太宰には、彼にあの部屋には何も無いと思わせるような、確信があったのだろう。微細な事柄からも、万の情報を読み取ることが出来る男だ。俺の知らない情報を、知っていてもおかしくはない。
「このまま此処から出られなきゃ、如何なるんだ」と、俺は太宰に訊いた。
 此処、とは勿論、この家のことではなく、異能で引き摺り込まれたと思われる、この物語に対してのことだったが、何を補足しなくとも、太宰は正しくその意味を汲み取ったようだった。然し、太宰はその問いに直ぐには答えず、寝台に勢い良く腰掛け、バネが効かずに尻を強か打ち付けたことに文句を云いながら、俺にも隣に座るよう促した。
「……物語には、必ず終わりが来る」
 隣に座ると、ぽつり、と太宰が呟いた。
「それは絶対だよ。人が、生きていれば必ず死ぬように、物語には終わりは来る」
 だから安心して、とでも云いたげな表情を太宰が浮かべたのは、俺がそれを望んだからだろうか。
「……だが、物語は完成しなければ終わらねえ」
 これが小説の中だとしたら、と俺は思う。何時まで経っても続刊の出ない、小説本だって、世の中には数多くある。読者が待ち望んでいても、夜に出ないまま廃刊になるものも、あるだろう。そう云った類の小説だったら如何なる、と。
 出られるのか、と。
 じわじわと、ゆっくり、首を真綿で絞められるようだった。このままずっと、この世界に閉じ込められたままかも知れない。その事実は、俺の心をひどく重くさせた。
「そのときは」と、その俺の重い心に更に体重を掛けるように、太宰は笑った。「此処で一緒に死ぬしかないね。ねえ、中也、そのときは、きっと君が私を殺してね。何時もみたいに、きゅっと首を絞めて、そうしてキスして、殺してね……」
 太宰の視線が、隣から、妙に熱っぽく俺に絡み付くような気がして、それを振り払うように、俺は首を横に振った。太宰を見ると、心底嬉しそうに、うっとりと笑っている。感化された訳でも無いだろうが、何故だか妙に、体の奥が熱に疼いて、太宰が俺の手を取って触れた部分と、お互いの体温が混じって生温く感ぜられた。
「……俺は、手前を死なせねえつったろ」
 絞り出すように云った。云ってから、太宰に面と向かって云ったのでは無かったから、記憶していないかも知れない、と云うことに思い至り、気不味さから思わず顔を逸らした俺に、然し太宰は然程気にした風も無く、さらりと、「冗談だよ」と、云った。

「却説、此処で一晩明かす訳だけれど、一つ問題がある」
「……何だよ」この小説から出られないかも知れないこと以外に、未だ何か、重要な問題があるのだろうか。
「驚かないで聞いて呉れ給え。……寝台が一つしか無い」
 太宰が、真面目くさってそう云うものだから、何かと身構えた俺は、肩透かしを食らった形になって、思わず寝台からずり落ちた。緊張で強張った体から、一日振りに、力の抜けていく感覚があった。俺の頬の力が、自然と緩んで、顔を顰める太宰に、精一杯笑って云った。
「手前が床で寝れば善い話しじゃねえか」



 五.

 夜中にぱちりと目を覚ましたのは、妙な声を聞いたからだ。何かに名前を呼ばれているようで、一瞬、風の音かとも思ったが、何故だか心臓の奥が妙にざわつく。こう云うときは、自分の直感に従っておくのが懸命だ。マフィアでの経験則。素早く身を起こし、手元の武器を確認する。と、ふと違和感に気が付いた。
「太宰……?」
 寝台の隣を弄る。結局、太宰を床に寝かせる訳にもいかず、然し中也とて普段なら兎も角この状況で体を休めることの出来ない床上で寝ることもしたくはなかった為、狭い寝台を半分ずつ使用することで妥協したのだ。中也の隣には、太宰が眠っている筈だった。
 然し、予想に反して探る手は空振るばかりだ。
 俺は周囲を見回す。月光が微かに雨戸から溢れる以外は暗闇だ。未だ夜であることが知れる。
 静かな夜。その中にあって、微かな呼び声だけが、俺の耳に反響する。
 オオ、オオオ――と言葉を成さない何かの声。
「……太宰? 便所か?」
 階下に降りた。念の為、手洗いを確認するが、其処にも太宰は居ない。仕方無い。俺はその辺から手提げランプを手にし、手持ちのジッポで中の油脂に火を点けて灯りを確保した。太宰の姿が見えないことが気掛かりだったが、若しかしたら彼奴も音の正体を探る為に、階下に様子を見に行ったのかも知れない。それにしては太宰が起きた気配を感じられなかったが、然し今日一日で自分に蓄積した疲労を考えると、間抜けにも気付かずに寝入ってしまっていた可能性は十二分にある。
 先ずは音の正体を探るのが先だと、音を辿り、俺は一階にまで辿り着く。今日一日で、散々見てきた家の構造だ。ギィ、と床に接した跳ね上げ式の扉を開ける。現れた石組みの階段の奥では、真っ黒い闇がぽっかりと口を開けて俺の来訪を待っていた。
 その音は、地下から響いてきていた。

 カツン、カツン、と闇の沼に足を沈めるように、階段を一段一段降りていく。やがて一番下まで降りると、じっとりとした闇が体に纏わり付くようだった。夜目は利く方だと自負しているが、それでも数歩先は真っ暗だ。手提げランプの灯りが足元に影を落とす。相変わらず空気の滞留は無い。此処も何処かに繋がっているんだろう。
 何時の間にか、声は止んでいた。
 俺はゆっくりと、慎重に、壁をぐるりと回って、何か変わったことが無いかを探そうとし――僅か数歩で手を止めた。異変の元を、探すまでも無かった。
 壁に奇妙な綻びがある。
 それが異変だと判ったのは、今まで見た地下室のどれも、そんなものは無かったからだ。百年は経とうかと云う古びた造りの家にあって、苔生した部分もあると云うのだから、一部だけ真新しく埋め直された跡があれば、色が変わってひどく目立とうと云うものだ。丁度幅は俺の外套で隠れる程、高さは俺が手を伸ばせば届くくらいまで。人一人すっぽり入れそうな大きさの穴だ。がりがりと、俺は何の躊躇いも無く引っ掻いて石を崩そうとした。オオ、オオオ、とあの声が大きくなる。煩わしい。同時に頭も締め付けられるように痛くなってきて、さっさと終わらせようと異能を使って壁をえぐる。掘り進めるに連れ、声がもっとはっきりと聞こえてくる。
 中也、中也――と。
 そう名を呼んでいるように。
「煩え。俺の名を、そう、気安く呼んで善いのは、……」
 ぼろ、と壁が一気に崩れ落ちたその瞬間。
 俺は息を飲んだ。
 解くべき謎が、そのときになって漸く判った。いいや、謎でも何でもない。俺がずっと疑問を抱きつつ、深く考えなかった事象だ。
 あの太宰は、果たして本物なのか否か、と。

 壁の中から出て来たのは、太宰の死体だ。

「あ、ァ……?」
 動揺を押し殺したような声が聞こえた。それが自分の声だと、俺には判らなかった。理解が追い付かない。壁の中からぼろぼろと土と一緒に倒れ込んできた太宰を、咄嗟に反射で抱き止める。
 俺の腕の中で、太宰の体はずるりと床に崩れ落ちた。
 死体?
 太宰の?
 そんな筈は無い、と目の前の事実を否定しようと、無我夢中で首の包帯を剥ぎ取り――白い肌にくっきりと残った、首絞めの痕を目にしてしまった。穏やかな寝顔を見せる太宰の表情に反して、その痕はひどく痛々しい。
 手を当てると、肌は蝋で固めたように作り物めいて冷たかった。脈が無い。息をしていない。
 固く閉じられた瞼。
 太宰治が、俺の腕の中で死んでいた。
「……おい、冗談は止めろよ」
 乾いた笑いが漏れた。それ以外に、適切な反応が見当たらなかった。その細い体を乱暴に揺さぶる。けれど太宰は目を覚まさなくて、ただぐにゃりと骨の抜けたようにその体を床に横たえただけだった。その重みに、耐え切れずに俺も膝を突く。
 それでもまだ、信じられなかった。直ぐにでもその黒い目を開けて起き上がり、やーい引っ掛かった、ねえねえ吃驚した、などと笑い掛けてくる気がして仕方が無かった。
 だって、つい先刻まで俺の側に居たじゃあないか。
「太宰、手前今もその辺に居るんだろう、隠れて俺を笑ってんだろ、なあ……」
 ――今の私は、地縛霊のようなものなのかも。
 はた、と太宰の言葉が蘇る。地縛霊のようなもの。あのときは気にも留めなかったが、詰まり、昼間の太宰は、最初から死んで、此処に埋まっていたと――そう云うことなのだろうか。老人。憲兵。誰も、太宰に言及をしなかったことを思い出す。異能で作られた幻覚だったからではなく、単純に――太宰が死んでいたから?
 そんな訳が無い。そんな訳が――だって誰が何時、太宰を殺せたと云うんだ。壁に埋められていたと云うことは、誰かが太宰を殺して埋めたと云うことだ。然しこの男は腐ってもポートマフィアの最年少幹部だ。自殺でもなければ、そう簡単に殺される筈も無い。何より俺がそれを許さない。脳裏に湧き出す拒絶の言葉は、然し凡て太宰の首に生々しく残る首絞めの手の痕に因って慈悲も無くただ否定される。
 誰が何時。今日太宰に言及しなかった老人は、然し昨日は太宰のことを見たと云う。
 ――もう一人の黒髪の連れと聞かなかったか。
 詰まり、昨日の時点では未だ太宰は生きていたのだ。だったら、太宰が殺されたのは、昨日から今朝に掛けてと云うことになる。然しそんな、一晩で壁に人間一人を埋められる大きさの穴を掘り、再度埋め直すことの出来る人間など――そこまで考えて、俺は今度こそ心臓の止まるような感覚に襲われる。
 老人は何と云っていた?
 聞かなかったか、あの悲鳴を?
 誰かが云い争う声。その後の苦しげな呻き声。ガリガリと、壁を崩す音が。
 地下から響いてきていたと云っていた。
 昨晩だ。
 太宰と共に居て、太宰を殺し、壁を掘り、埋めることの出来た人間。
 一人、居るじゃねえか。
「……は」
 ――そう云う設定。
 喉がからからにひりついて、最早息も出来なかった。
 望むと望まざるとに関わらず。
 知らぬ間に擦り付けられた罪が、透明な血のようにべっとりと手に纏わり付く感覚。
 それはときに抗い難い拘束力を持って俺を支配する。
「俺か」
 掠れた声が出た。咄嗟に否定出来なかった。否定出来ないその躊躇いこそが、己の心臓に真実の刃を突き刺した気がした。左胸を押さえる。ひどく痛い。そうだ、実際、自分は太宰を殺し掛けたことがあるのだ――腕に抱いた太宰の体が、ずしりと鉛のように重い。
 太宰は、目を閉じたまま何も云わない。
 今度は、君じゃない、とは云いはしない。
 そのまま、自分の手を太宰の首元へと持っていく。
 その、革手袋を外した手の形は――残っていた首絞めの痕と、寸分違わずぴたりと一致した。

 死なせてやらねえ、と云った。
 その積りだった。太宰が自殺を図ればそれを阻止し、誰か他の人間が太宰を殺そうとすれば、死んでも死に足りないくらいに其奴をぶっ殺してやろうと思っていた。
 そして、俺はもう二度と、己の欲を満たす為に太宰の首に手を掛けないと。
 そう思っていた、のに。
 腕の中の太宰を見下ろす。その体は冷たいままだ。顔は眠っているように穏やかなのに、常よりもひどく青白い。付着した泥が払ってやると、一層白さが際立った。
 俺じゃない。その言葉は出てこなかった。
 矢張り、と思う凍えた思考しか此処には無かった。
「手前を殺すのは――矢っ張り俺なのか。太宰」




 六.

『だから! 読み終わるまで出て来られないのである!』
 ポオと名乗った男は、太宰にそう訴え掛けた。
 中也が本の中に吸い込まれてから、既に一時間が経過しようとしていた。太宰は目の前に縛って転がした西洋人の男を見下ろしながら、微かな焦りを感じていた。
 男の身柄自体は、直ぐに捕らえることが出来た。何せ太宰一人で追い付いて捕らえることが出来たのだ。弱過ぎる、と太宰は思う。とても何処かの非合法組織に所属していそうな風体ではない。矢張り偶然にも異能を持ち合わせた、ただの一般人なのかと。
 然し男の所属については、今は然程問題では無い。問題は、太宰が男に触れても異能が解除される様子の無いことだ。それが太宰を、常に無い焦りに駆り立てていた。
 何せ迂闊に本に触れない。対象者が小説の中に引き摺り込まれた状態でその小説を無効化した場合に、本が対象者ごと消滅しないことの確証が、今の太宰には無い。
 試せば善かったのかも知れないが。
 そんな不確実な可能性に相棒の命を天秤に掛けることなど、太宰には出来る筈も無い。
 ガチャリと男に銃口を向ける。
『"出て来られない"?』
『そう云う風に書いたのである! ……と云うより、本来であれば我輩が解除の条件を決めるのであるが、没にした原稿にまでそんなもの行き届いていないのである……』
『ふぅん。じゃあ中也が読み終わるか私がこの引き金を引くのが早いか賭けようか。私後者ね』
 太宰が突き付けた銃口に、青年がビクリと怯えたように肩を震わせる。けれど『賭けになっていないのである……! 何なのであるかこの国の人間横暴!』と喚き立てる元気はあるようだから、中々に肝が座っている。太宰の知っている銃を目にした一般人の反応は、ガチガチと歯の根の合わない悲鳴を上げて恐怖に動けなくなるか泣き出すか、大抵何方かであったから、比較して男の反応には未だ余裕があるように見えた。何でだ。外つ国が銃社会だからか。面倒臭い。
 そうして喚き続ける男を見るに、如何やら本当に脱出方法を知らない様子であった。嘘を吐いているようにも見えないし、然し煩い口を黙らせる為にも、一応二、三発腕でも撃ち抜いておくか――と太宰が引き金に指を掛けた、その瞬間。
 どさ、と背後で重いものの落ちる音を太宰は聞いた。
 慣れた気配。振り返るまでもない。
 相棒の帰還だ。

「……うや! 中也!」
 ふと気付けば、中也の目の前には太宰の焦ったような顔があった。はっと、一瞬呼吸が出来ずに肺を痙攣させる。が、そんな中也の異変を察したのか、素早く中也の腕を掴み、左胸に手の平を当て、「落ち着いて。ちゃんと息吸って……」と云う相棒の声に、何とか平静を取り戻す。呼吸を楽に。体を緊張から解放させる。見回すと、暮れ行く夕日がくっきりと樹々の影を濃く描き出していた。小説に取り込まれる前の、森の中だ。
 詰まり、物語はあれで終わりと云う訳だ。
「……生きてんだな」
 まじまじと太宰の顔を覗き込んで、確かめるように呟いた。少し溜めて吐いた息に、安堵が交じったことは否めない。太宰の手を握ると温かく、その体を抱き締めると太宰の汗の微かな匂いがする。生きている、太宰の匂いだ。
「……だざ、い」 
「えっちょっと何急に気持ち悪い……て云うか本の中だと私死んでたの!? 善いなあ本の中の私、成功したならちゃんと呼んで呉れる……」
 喚く太宰を気にも留めず、そのまま頬を撫でようとした。と、横から入る無粋な声がある。
『あ、あの……我輩もう善いであるか……今日の我輩は我が宿命の好敵手に負けて傷心であるし……』
『あっ待って君のそれ異能でしょう? 放っておけないから一緒に来てよ』
 太宰は中也を自分の身から引き剥がし、代わりに男の腕を取って無理矢理立たせに掛かる。そう、男は異能者なのだ。マフィアにとって利用価値があるなら、幹部の判断としては放置しておく筈も無い。戦力としてであれ実験材料としてであれ、捕らえておくに越したことは無い。
 それは善い。
 そんなことは如何でも善い。
 中也はただ一点、太宰の背中をじっと見る。
「……ちょっと、中也、何? 大丈夫?」
 そのとき、中也は何と云えば善かっただろうか。心中をぐるぐると渦巻く感情は、然しどんな形も成さなかった。
 俺が手前を殺すのかも知れない。そう口にするのは躊躇われた。云った処で意味の無い言葉だ。太宰は冷笑するだろう。それか、嬉しい、是非とも殺して呉れ給えよと。冗談じゃない。そうなってしまうと、何だかその恐れがひどく現実味を帯びてしまいそうだ。
 その、薄い皮膚を食い破って。
 満たされたいと、今でも思うからこそ中也はただ口を噤む。
「君、本当に様子がおかしい。何なの」
 振り返り、此方を胡乱げに覗き込んだ太宰の顔に、一瞬、小説の中で見た、血の気の無い太宰の顔が重なった。
 命の欠落した、死体となってしまった太宰の顔と。
「……いや」
 目を伏せ、太宰の白い首筋から無理矢理目を逸らす。莫迦げた葛藤だ。あれは小説だったからだ。現実の俺には、未だ自制は利いていて、理性だって残っているのだ。
 太宰を手に掛ける、筈など無い。
「何でもねえ」
 そう云って、中也は己の手に残った生々しい死体の感触と太宰の視線を振り切るように、ぱたんと記憶の奥底に押し込めた。
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