【再録】愛の葬送
酸性夢
一.
がさ、と森の匂いを踏み分けて進む。木々は鬱蒼と茂っていて薄暗く、とても散歩に向く場所ではない。なのに中也が態々こんな処を歩いているのは任務に赴いたその帰りだからだ。この発展した横濱の街でも、少し郊外に出れば人の手の入っていない自然なんて幾らでもある。それこそポートマフィアの目を逃れようとする鼠の一匹や二匹、容易に隠れられるような。
湿った枯れ葉の山を避け、隆起した木の根をぐっと踏んで中也は泳ぐように歩を進める。先程まで"交渉"に訪れていた敵のアジトと要は同じ要領だ。血溜まりを避け、死体の山から無造作に飛び出た腕や胴に足を引っ掛けないように歩く。慣れたものだ。銃弾が飛んでこない分、此方の方が幾らか楽だ。
予定通りなら、もう既に森を抜けている筈だった。
中也一人であれば。
「ねえ、待ってってば!」
何度目かの背後からの声に、中也は黙って足を止めた。振り返る。其処ではポートマフィアの最年少幹部が、その裾を泥に汚し、ひどく消耗した顔で此方を追ってきていた。今日の任務の相方だ。とは云ってもここ暫く、中也はずっと太宰としか組まされていない。それが単に戦力として適当だからからなのか、それとも何か別の意図が働いているのか、中也には見当も付かない。何方でも善いとも思う。理由は如何あれ、太宰の側に居られるのなら中也にとっては都合が善い。
何せ、目を離すとこの自殺嗜癖は直ぐに死のうとするのだ。やれ屋上から飛び降りだの、やれ川で入水だの。他の人間と組まされて帰ってくるのが死体袋では目も当てられない。
だから中也には不満は無かった。黙って太宰が追い付いてくるのを待つ。
名誉の為に付け加えておくと、片目を包帯で覆った今の太宰の状態では、森を歩くには嘸辛かろうと思う。ぜえはあと息を切らしてしまうのは、何も太宰が悪い訳ではない。
水を手渡してやると、それを一気に煽る。口の端から含み切れない水が零れ落ちて太宰の服を濡らしたが、それさえ気にする余裕が無いようだった。はあ、と息を整えて開口一番。
「いや、君、矢っ張り野生児か何かなんじゃない……? なんでそんなすいすい歩ける訳? 野生の……猿……?」
前言撤回。目の怪我は酔狂な自殺趣味の所為だし鍛えてねえから直ぐにへばるんだ。自業自得だ、糞野郎。
「煩え、きりきり歩け」
「うう、無理……ちょっと休憩……」
「だから抱えてやろうかっつってんじゃねえか、先刻から」
「君は運び方が雑なのだよ!」少し元気を取り戻した太宰が喚く。「行きに散々人の顔をその辺の木にぶつけといて未だ云う!?」
中也はすいと視線を宙に彷徨わせた。確かに、先程試しに太宰を担いだときに、ひょいひょいと跳び回って何粁か走り抜けた所為で太宰の体を何度かその辺の太い枝に打ち付けた、ような気もする。
然し。
「顔はぶつけてねえ筈だろ、肩とか足とかだ」断言出来る。「手前から顔の良さ抜いたら何にも残らねえんだから、アレでも傷が付かねえよう最小限に留めてやってる」
「お気遣いどうも! 心配しなくても私の顔の良さは傷程度じゃあ損なわれないから安心して君と違って」
「そうかそうかそんなにぶつけて欲しいかよ」
「もう君やだァ私のこともっと丁寧に扱って!」
溜め息と共に放られたペットボトルを難無く受け取って背嚢にしまう。休憩は終わりだ。寄り掛かっていた木から体を離す。
と、ふと影が差した。太宰の匂いがふわと漂う。
顔を上げる前に、両手を取られた。
何だ、と目線だけで問う。
「まあ君、最近は随分と私に優しいけれどねえ」太宰は中也の視線を無視し、その手を絡め取ったまま自分の首の辺りに誘導する。「今日もほら」中也は誘われるがままに、その包帯の合間から薄い首の皮に触れる。
朝露に濡れる花弁のように湿った肌。ぴく、と跳ねる血管。
「随分と暴れた後なのにね。何もしないの?」
何も? 中也には太宰から何かを求められる覚えが無い。
「……何の話だ」
「うふふ。判らないなら善いけど、最近少し物足りないね」
「……さっさと行くぞ。日暮れ前までには本部に戻んなきゃなんねえんだ」
手を払う。太宰は何も云わず、ただ笑みを深めるばかりだ。何だってんだ。「帰るぞ」不毛なやり取りに終止符を打って踵を返す。時間を無駄にしている暇は無いのだ。ただでさえ戻りが遅くなっていると云うのに。
然し跫音が随いてこない。
「……おい、太宰?」
振り返ると、先程までの胡散臭い笑みとは打って変わって半ば恍惚とした表情で傍らの樹を見上げる太宰の姿があった。
「いい枝ぶりだねえ、首吊りにもちょうど善さそう……これなら途中で折れたりしなさそうだし……」
阿呆面を下げてブツブツと呟く太宰に、大股で歩み寄って耳を引っ掴んだ。
「手前のことは死なせねえつったろ! 人の話聞けよ!」
「痛い! 君こそ丁寧に扱ってって云ってる!」
半ば引き摺るように、森の中を進む。
「……そう云えばさあ」
何度目かの休憩で、太宰はそう切り出した。未だ街は見えない。然し木々の合間からは横濱の空が青く覗いていた。中也は木に寄り掛かって煙草を吹かし、しゃがみ込む太宰に目を遣った。中々切り出さねえなと思ったら口寂しそうに唇を弄っていたから、手前も吸えばと無造作に箱を放ってやると、堂に入った動作で至極美味そうに吸い始める。
何度か煙を味わった後、とん、と灰を弾いて、太宰がちらと視線を流してきた。
「あの人覚えてる? ほら、この前まで私達の指揮をしてたおっさん」
「……ああ」
確かそんなような奴も居た気がする、と中也は記憶を引っ張り出す。太宰に下らない無体を働いていた男だ。顔がぼんやりとしか浮かばない。何せ死人の顔は覚えていても意味が無いから。
「あの人、死んだって」
煙と共に吐き出されたのは切り付けるような声だった。ぴり、と空気が張り詰める。
中也はゆっくりと紫煙を吐き出す。
「事故だったらしい。車に轢かれたって聞いた」
「ふぅん」
「けどねえ、おかしなことにその車の運転手が見付からないのだよ。盗難車らしくって所有者は全くの無関係だったし、目撃者はまるで車が独りでにぶつかったみたいだったって」
「あっそう」
その言葉にも、中也は一つ興味無さげに頷いて、煙草の先から煙を燻らせた。いやに勿体振った言い回し。太宰が何を云いたいのか、全く以て判らない。
「……惚けるの止めなよ。君、何か知っているでしょう」
「さぁな」
未だ少し残った煙草の先を地面で躙る。知っているか、と聞かれて正直に話す莫迦は居ない。
例えば、その車は"何らかの"重力に引っ張られて動いたんだから運転手が見付からないのは当然だとか。
例えば、死ぬ前のあの男の顔はひどく滑稽だったぜとか。
凡てを飲み込んで黙っていると、答える積りが無いのを汲んだのか、太宰が溜め息と共に煙草を躙る。
「君さ、そう云う方向に思い切りの善さ発揮するのさあ……」その声音は、不機嫌と云うより呆れの色が強い。「止めた方が――」
そのとき、太宰の声を遮るように甲高い男の声が辺りに響き渡った。
『駄目なのである! これでは、乱歩君に勝てないのである……!』
茂みの向こうから聞こえたのは耳慣れない異国の言葉だ。不意を突かれたのは一瞬で、中也は素早くそちらへ目をやる。殺気は感じない。
続けて隣の相棒にも視線を向けるが、然し相棒も不審げにその整った眉を顰めただけだった。恐らくは英語。米国人か。声が上がるまで気配を感じられなかったことに若干の警戒を抱きつつ、中也が一歩先んじて茂みに分け入る。
「……誰か居るのか」
声で鋭く木々の合間を刺す。二人の任務の終わったのは一時間と少し前のことだ。だからそれに関しての尾行や盗聴を心配する必要は無いだろう、と中也はちらと考える。それに幾ら疲労していたとは云え、自分と相棒が揃いも揃って尾行に気付かなかったと云うのも考え難い。先刻の任務の関係者である可能性は低い。
然しこんな郊外の薄暗い森の中なら誰も居やしないだろうと気を緩めて会話をしていたのも事実だ。特に太宰はそうだろう。
誰にも聞かれたくなかったからこそ、こんな処で話を持ち出した。
『あーっ! 我輩の莫迦! こんなの、謎掛けとしては三級品である……!』
警戒を解かないまま、その叫びを耳にがさ、と茂みを掻き分けると、其処には此方に目も呉れず――と云うより本当に気付いていないような素振りで、草塗れになって地面を転がっている一人の青年の姿があった。
用心深く観察する。着ているローブは上質なものだ。顔立ちは、顔を隠す前髪で善くは見えないが少なくとも日本人ではない。中也は記憶の中の目録を引っ張りだして、主立った敵対組織や異能者の顔ぶれと転がる青年を照合する。覚えの無い顔だ。どころか何処から如何見ても戦闘要員ですらない。見た処、ただの一般人。
試しに太宰がガチャリと銃口を向けるが、然しそれにすら反応せず、『あァ~!』と呻き転がっている。
太宰と二人、顔を見合わせる。お互いの顔に、最早警戒は無く、呆れで少し緩んでさえいた。
聞かれてねえみてえだし見逃すか。
そうだねえ。素性も知れないし、処理が面倒だ。
あッつうか手前何時の間に俺の銃掏りやがった返せよ。
中也が太宰と目で会話する横で、男は此方に気付きもせずにがさがさと立ち去ろうとしていた。途中、ローブを枝葉に引っ掛けて、『ぁ痛っ』などと躓いている。ポートマフィアに遭遇しながらその存在を感じずにいられるなど、運の善い男だ。呆れ半分にその背を見送る。
その途中、男の手元からばさりと冊子の形になった紙の束が落ちたのが見えた。本……だろうか。おい、と思わず声を掛けようとするも、立ち去る男の足はもたもたとした動作に似合わず以外に速く、既に木々の向こうに見えなくなってしまっている。
「おい、如何すんだこれ……」
何の気無しに落ちたそれを拾い上げる。結構な量の紙束だ。それが本、と云うか冊子の形になっている。装丁の施されていない、ただの紙の束。紐で綴じられた簡単なものだ。「そんなもの、放っておけば善いでしょう」最早興味の失せ切った太宰は、つまんなーいと云って前をすたすたと歩いていく。
そう、今からあの男を追い掛けても間に合わないだろう。中也だって、何も届けようと思って拾った訳ではない。ただ中也の気を引いたのは、その紙の束が凡て手書きで書かれていたことだった。手に持っただけでも結構な文量だ。それをこの御時世に、電子端末ではなく手で書くなど酔狂以外の何物でもない。
何が書いてあんだ?
中也を唆したのは軽い興味。然しその本にパラパラと目を通した瞬間――全身が総毛立った。
――壁の中から出て来たのは、××の死体だ。
その一文に目が惹きつけられると同時に。
空気の匂いが変わった。
ぞわりと、背筋を怖気が駆け巡る。
「――莫迦ッ、中也っ!」
背後から、らしくない太宰の叫び声が聞こえる。
然し遅かった。本を持った手が、体が、淡く発光して薄れていく。そこで漸く、中也は己の失態に気が付いた。
特定の本を読むことで発動する異能。
自分が掛かったのはそれなのだと。
若し男が国内の異能者だったら、一般人と見誤ることは無かった。
若し悪意のある異能を仕掛られたのだったら、回避をすることも出来た。そもそも不用意に近付かない。
これは全くの事故。
振り返ると、太宰が此方に駆け寄ってきているのが見えた。光の中で、余裕の無い様子の太宰と一瞬目が合う。
何だよ、その顔。
中也は不思議と、諦めにも似た気持ちでそれを眺める。
手前が俺の為に、そんな顔する必要無えだろう。
手は伸ばさなかった。ただ一言、悪いなと唇の動きだけで告げる。太宰の指が、服の裾を掠める。
後には、ただぱさ、と草の上に乾いた音を立てて落ちる、紙の束だけが残った。