【再録】愛の葬送
砂の孤城
一.
時折、如何しようも無く太宰のことが愛おしく思えることがある。
例えば今だ。
絞めた手の中で頸動脈がどくんと跳ねる。熱を帯びた黒い瞳が、此方をじっと見詰めてくる。その口元は、苦しいだろうに何故だか少しだけ口角が上がっている。何時もの莫迦にしたような笑みよりは、若干興奮に呑まれたような。
背を押し付けたのは古めかしい書斎机。隣には死体の山。息をする者は誰も居ない。
自分達以外。
響くのは二人分の呼吸。一つは全くの平静。もう一つ、熱を帯びて荒く上擦っているのは自分の息だ。
夜の帳の下りた部屋で、二人の影が重なる。
血を浴び、興奮に体を駆られるままに――中原中也は、太宰の首を絞め上げていた。
今夜の任務はあまりにも上手く行き過ぎた。
とは云え、任務自体が簡単だった訳ではない。アジト制圧に加え、敵組織の上層部の生け捕り、掠め取られた荷の確保。やることは山程あった。敵の数が此方の戦力の四から五倍だったこともある。それでも太宰が作戦を立案し、中也を含めた部隊全員で実行に当たれば問題ではなかった。何時も通りだ。俺達二人の敵ではない。
その提案を太宰が云い出したのは唐突にだ。
「今日、突入に他の人間、要らないや」太宰は興味無さそうに爪を弄っていた。中也は読んでいた作戦書から顔を上げ、ちら、と太宰を見た。太宰は此方には目も呉れない。「私と中也だけで善い。他は周りを固めて、荷だけ確保して。……傷物にしたらゆるさないよ」
俺達の指揮官――幹部に次ぐ地位の男だ――は驚いたように太宰を見た。そう、今回の作戦には指揮官が居た。作戦は太宰の立案だったが、それを上申した形だ。中也達は、形の上では男の下に就くことになる。
無論、実際の力関係は別だ。太宰治、ポートマフィア史上最年少の次期幹部と囁かれる男。森鷗外の秘蔵っこ。故に通常の構成員であれば、その言葉に逆らえる筈もなかった。それが例え幹部であろうとだ。指揮官としては太宰治の存在は、面白くないことこの上無いだろう。
「……ふん。失敗するなよ」
男は何度か口を開閉し――そう忌々しげに告げるに留めた。それからはたと思い出したように口元に歪んだ笑みを浮かべ、「終わったら報告に来給えよ。何時も通りな」と云い残して部屋を出る。
太宰はそれを聞く素振りも見せない。
室内に残されたのは太宰と中也の二人だけだ。中也は男の表情に少しの違和感を覚えながら、再び顔を伏せた。作戦の変更。ならこの作戦書の幾つかの項目に修正を加えないといけなくなる。脳内にその案を描き出しながら「善いのか」と問うと、太宰が軽く肩を竦めた気配があった。
「善い。寧ろ居ない方が、君の気が散らなくて善いでしょう」
それはそうだった。中也は頁をぺらと捲る。例えばこの、敵の頭領が居ると思しき部屋に突入する場面。中也が真っ先に扉を開けて重力で銃弾を防ぐ、その隙に部隊の他の人間が突入して制圧する。そう云う手筈。けれど何も、そんなまだるっこしいことをしなくとも、中也一人で部屋を吹き飛ばすことだって出来た。味方が居ればそれは出来ない。傷を負わせる恐れがあるから、異能を十全には使えない。
けれど居たって善いのだ。その程度で動きを鈍らせる積りは無い。求められる以上の働きはしてみせる。味方が邪魔になることへの、理由にされるのは心外だった。
「本音は」
迂遠なのは嫌いだ。だから直球に問うた。
云ってから少しおかしな気分になる。太宰の本音、など。霞より見透かすことが困難だろう。何時だって、本心を藪の中に隠す男だ。訊いた処で、口にするとも思えない。
けれど今夜ばかりは違っていたようだった。少し苛立ちの混じった声が、刺々しく夕闇の中に落ちる。珍しく、中也以外の存在に向けられる棘。
「……私達以外の他人なんて、邪魔なだけだ」
子供のようなわがままだった。
ああ、と思う。実際、自分達は子供なんだろう。砂場の真ん中で、堅牢な城を築いている子供。自分達が作り上げたその世界に、何も知らない誰かが土足で入ってくることが許せない。縄張りの侵犯。太宰の云いたいのはそう云うこと。
顔を上げて苦笑する。用済みになった作戦書に、ジッポで火を点けて灰皿に押し込む。焦げた匂い。濃くなる影。
「今日は何だ? 何時になく感傷的じゃねえか」
「……さてね」
何方ともなく立ち上がる。宵の口、淡く夕陽の残滓の匂う部屋に並び立つ。何者も、自分達の間には存在し得ない。空気でさえも邪魔だった。呼気の一つ、窒素の一粍も無くしてぴたりと肌を合わせたい衝動に駆られる。双黒とは一匹の獣の名だ。隣にこの男さえ居れば、他に何も要らない。例え霞のように朧げであろうと、中也には太宰の考えていることが手に取るように善く判った。
中也とて、同じ気持ちだった。
廊下を駆ける。次の扉を抜ければこのフロアの制圧はほぼ完了。後は奥の部屋だけだ。清々しいほど太宰の思惑通り。外套を翻し、銃弾を躱して敵兵の群れに蹴りを入れる。風が頬を撫ぜる感覚。開放感に溢れて少し気持ちが良い。周りに邪魔なものが無いから少し力の加減を違えたって善かった。潰すだけの積りが、敵兵の何人かを勢い良く壁に叩き付けてしまって思わず「しまった」と笑う。「やっちまった」。肉と内臓の飛び散る音、染みのように貼り付く体躯。飛沫く血で服が少し汚れて、頬に付いた血を拭う。
『中也? 何か云った?』
「いいや? 何でもねえ……よっ」
敏感になった聴覚が、太宰の通信の隙間から風を切る音を捉える。すんでの処で身を反らすと、眼球を弾丸が掠めるように飛んでいった。無論重力操作を使えば、そんな攻撃は当たらない。使っていれば、だ。今この瞬間、守りにおいては異能の力を切っていることを太宰が知れば何と云うだろう。きっと莫迦にしたような笑みを浮かべるんだろう。君も同じじゃあないか、と。他人の嗜癖のこと、兎や角云えないじゃないか。側に相棒の居る錯覚さえ覚える。
一緒にすんなよ、と中也は口元を歪める。血で滑ってきたナイフを仕舞い、敵から奪った銃を撃ち尽くす。築き上げる死体の山。中也が自殺紛いにも見える状態で特攻するのは、この方が都合が良いからだ。絶対に勝てる、絶対に死なない。そんな状況は油断と慢心を招く。戦場での慢心は即ち死だ。中也には何処かの誰かと違って、未だ死ぬ積りは無い。
それに何より、安全地帯から銃弾を撃つだけなど、そんな詰まらない作業は無い。折角の命の遣り取りなんだ。楽しまなければ損だ。
死と隣り合わせの状況に、一種快感さえ覚えることは。
相棒の一番善く知る処だ。
「一辺死んで出直してきなァ!」
防御に回さない分の重力を纏めて掛ける。ぐしゃりと一押し。悲鳴は聞こえない。ただザッザッと耳元で血の巡る音がする。呼吸を浅く整える。廊下の光景がスローモーションに見えて、何処へ如何動けば善いかが手に取るように判る。脳が熱を持って、もう動いている者が居ないかを確認する。
其処へ滑り込んでくる、滑らかな声。
『中也。突入は』
「部屋の前まで来てる。善いぜ。時間通りだ」
『では目を瞑って』
云われる通りに目を瞑る。耳元に意識を集中させる。
通信機の向こうの相棒に、体の一部を任せる感覚。
今相棒が殺意を持って中也の後ろに現れれば、中也は一溜まりも無く刺されてしまうんだろう。
それほどまでに、体を無防備に明け渡している。
その事実が、ぞくぞくと中也の背筋を這って回った。口角が上がる。最高だ。相棒の息遣いを感じて、相棒の考えるまま作戦を実行する。脳と体との関係だ。双黒とは一匹の獣の名だ。
『三。二。一――』
ガコン、と音がして閉ざした瞼の向こうが暗くなる。打ち合わせ通り、太宰がブレーカーを落としたのだ。すかさず室内に突入し、突然の暗闇に悲鳴を上げて右往左往する連中を見定める。標的が四人。後は雑魚が十数。舌舐めずりをして勢い良く異能を掛けると、ギャッと云う悲鳴が多重奏のように響く。何が起こったか判らないまま死んでいった奴は運が良い。捻れた死体の山を見て、失禁しなくて済むんだから。
「……っとお。此奴等は生け捕りだったな」
危ねえ、と敵の幹部らしき男達の首を捩じ切り掛けた腕を止める。興奮に我を忘れる処だった、と中也はその怯えるばかりの男達を適当に殴って気絶させ、窓の外に放り投げる。勿論、下に味方が居ることを確認してからだ。ふわりと重力を無くしておいたから、後は下の奴等が受け止めるだろう。これで任務は完了だ。凡て太宰の計画通り。
呆気無い。
熱を持った体を冷やすのには時間が掛かる。中也は乱暴に執務机に腰掛け、ガンとブーツの底で机上を躙った。外套を脱ぎ捨て、手袋を脱ぎ捨て、未だ何か殴れるものは無いかと室内を見渡す。
如何にも収まらなかった。
喉が渇いて仕方が無い。
暴れ足りない。
何か、俺を満たすもの。
「中也」
ぎ、と背後の扉が開いたのはそのときだった。
「此方も終わった、……中也?」
「太宰」
びく、と。
太宰が肩を震わせたのが判った。その鳶色の目が鋭く闇の中で光る。「中也?」部屋に充満する鏖殺の残滓を即座に嗅ぎ取ったんだろう、声に警戒が滲む。
何だか愉快な気分になって、構わず太宰に大股で歩み寄った。タイを乱暴に掴み、上着と襯衣の間に顔を寄せる。見上げれば、訝しげに歪められる相棒の整った顔。
「……何」
その頬にこびり付いているのは血だ。何処の誰とも知れない人間の返り血。
臭うのは硝煙。
目の前の男が。自分の半身が、全身から自分以外の気配をさせている。
そのことが堪らなく、渇いた気分を獰猛にさせる。
「……ッ! ちょっと、中也……!」
気付けば執務机にその痩身を引き摺り倒していた。突然背中を打ち付けられた太宰の息を詰める音がする。然し抵抗は無い。帽子が落ちるのも構わず、勢い首を絞め上げる。
は、と何方ともなく漏れる息。
「……何笑ってんだよ」
「そ、の言葉……そっくりそのまま、君に返すよ……」
見れば視線を絡め取られた。首に手を掛けているのは此方だと云うのに、射殺すような視線を向けてくる。ぞわりと首を這う感覚に総毛立つ。
今まで何度とだってこう云うことはあった。例えば太宰が中也の指揮する銃撃戦の真っ只中に躍り出てきたとき。絶対に遅れられない会合の前に川を流れていたとき、射撃の練習をすると云って帽子を蜂の巣にされたとき。
怒りに震え、何度殺そうと思ったか知れない。
でも今回のこれは違う。
自分達を隔てる、何もかもが邪魔だ。
「……太宰」
甘い声で呼ぶと、太宰は唇を弧に描き薄っすらと笑った。その仕草に、引き寄せられるようにひとつ口づけを落とす。見た目に違わず太宰の唇は柔らかい。互いの温度を重ねる。
中也は己の箍が外れて暴れ狂っているのを感じていた。常に律している筈のそれは、汚濁よりももっと質の悪い獣だ。唯一の手綱はと云えば、自ら殺されたがってるんだから始末に負えない。
何時もは嬉々として人の異能を無効化してくるくせに。
今日に限って止めない。
「止めろよ」
「止められたいの?」
訊かれて善く判らなくなる。
ただ、この男を如何にかして満たされたい、その欲だけが先走る。
だって、今なら太宰の命は俺の手中だ。俺だけがこの男を好きに出来る。この男の命を握っている。
自殺嗜癖の糞野郎。勝手に死なれるくらいなら。
「ねえ、中也、力弱いってば……」
手首を握られた。その掌は熱い。そのことに、太宰も興奮しているんだと気付く。そのまま自身の首を押さえるように、中也の手が誘導される。
「善いよ」
「ああ……」
太宰に誘われるまま、ぐっと首を絞める。手の中でどくりと脈が跳ねる。吐息が交わって、昏い鳶色の目の中に恍惚とした自分の顔を見る。そのまま体重を掛ける。
「そう、いいこ……」
太宰が呻きながら、心底堪らないと云った風に身を捩る。そうして人を煽るような顔をする。その唇に、もう一度噛み付くように口づけると、渇きの満たされる感覚があった。然し未だ足りない。もっとだ。もっと。
その先を求めようとして――ブツッと通信音が入った。
反射で太宰から身を離す。
『――君達。今何処で何をしている』
響いたのは上司の声だった。雑音混じりのそれにはっと我に返ると、太宰が詰まらなさそうに口を歪めているのが見えた。中也は思わず首を振る。俺は今、何を。
「チッ、邪魔が入った……」
『聞こえているぞ太宰君、口を慎み給え。報告は如何した。後で私の部屋に来いと云っただろう』
その言葉に、太宰の表情が一瞬固くなる。ちらと視線をやれば煩わしげに手を振って、「判ってますよせっかちだなァ、早い男は嫌われますよ……」云う表情は普段通りだ。
通信が切れる。部屋に静寂が戻ってくる。
「……」
「……。あーあ。お預けか」
太宰が身を起こし、緩んだ襟元をきゅっと整える。中也も落ちた帽子を拾う。部屋に残った情事の後のような残滓は、外套をばさりと羽織って払った。
「……君に殺されるのも、悪くないと思ったのに」
太宰は名残惜しげにそう口にした。中也は何も云わなかった。肯定するのも癪だったが、否定出来るほど嘘は上手くなかった。太宰も中也の応えを求めていなかったから、報告に行くんだろう、中也には目も呉れず部屋を出て行く。
中也は黙って、その背中を見送った。
二.
次の日、中也が思わず太宰から目を逸らしてしまったのは罪悪感からに他ならない。
「……はよー……」
眠たげに目を擦りながら部屋に入ってきた太宰の首元には、昨夜は無かった包帯がこれ見よがしに巻かれている。いや、太宰に主張する意図は無いんだろう。中也が勝手に直視に耐えられなくなっているだけだ。その包帯の下には、昨晩の縊首の痕が残っているに違いなかったから。
何故自分はあんな行為に至ったのかと舌打ちする。今にして思えばあり得ない。だって相棒が死ねば、不便をするのは自分だ。それに組織の損失にもなる。マフィアの構成員である自分が、首領の益に反する理由が無い。
……マフィアの構成員、としてであればだ。
中也の手には、今も太宰の首の感触が生温かく残っている。
絞めた瞬間の高揚。蕩け切った太宰の顔。
唯一自分だけだろう、と云う自惚れ。
それは連ねた理屈が霞むほどに甘い誘惑だ。
「全く、今日も君と任務とは。勘弁して欲しいよね」
「……ああ、そうだな」頷くしかない。
中也の内心を知ってか知らずか、太宰は中也とは視線を合わせずさっとカーテンを開けて朝日を浴びる。執務室に透き通る日差しが乱反射して、ぼんやりと太宰の存在を照らす。そしてそのまま中也が机上に置いた通達書には目も呉れず、ぐでんとソファに寝転がる。
「はー、だるーい……休みたーい……」
幹部候補様がなんてザマだ。煩えな、と平時だったら吐き捨てていた処だ。ぐだぐだ云ってねえで仕事しろよと。
出来ないのは後ろめたさの為だ。
その自覚がある。だから観念して、溜めた息と共に謝罪を吐き出した。
「……昨日は悪かったな」
此奴に謝罪など、屈辱以外の何物でもない。ぐっと拳を握る。然し自分に非があるのも事実だ。それを無視して何事も無かったかのように振る舞うことは、中也の性質上、不可能に近かった。自分の腹に刃を突き立てるような感覚を覚えながら、「悪い」と重ねて告げる。
然し予想に反して太宰の反応は鈍かった。昨日……? と首を傾げられて、中也の方が眉根を寄せる。「包帯。頸の」云うと、ようやっと合点がいったのか、「ああ」と生返事が返ってくる。
ああ、って。何だよ。
「自惚れないでよ。君じゃない」
「あ?」
その突き放したような言葉の調子に、ささくれ立った声が出たのは反射だ。意味の理解なんて二の次だった。待て。俺じゃない?
「おい、如何云う……」
「それより君今日の作戦聞いてる?」
「あァ? いや」
「そ。また何時ものお任せな感じかなァ」
太宰は中也の話など聞きもしない。その方が楽で善いよね、あの人束縛してくるの、鬱陶しいったらないんだ……とぶつぶつとソファに寝転んで任務の通達書を捲る。あの人、と云うのは自分達の上司のことだろう。昨日指揮を取っていた男。戦況は実際には太宰が動かしているが、形式上の責任者はあの男だ。然し何処の幹部もそんなものだ。部下の手柄は上司の手柄、上司の失態は部下の責任。束縛などと。
「あ、おい、太宰」
包帯緩んでんぞ、とその首筋に何の気無しに手を伸ばそうとして――中也はやっと、太宰の言葉の意味を理解した。
自惚れないでよ。君じゃない。
緩んだ包帯。その下にあるのは縊首痕なんかではなかった。
太宰の白い首筋に見えたのは、点々と散る赤黒い鬱血痕。
所謂所有の証と云うやつ。
勿論、中也がつけた覚えは無い。
「手前、それ」
ざっと血の気が引く。
昨夜、任務で太宰を見たときにはそんなものは無かった筈だった。あれば気付く。何せ中也は直接太宰に触れ、その首を絞め上げたのだから。
なら何時ついたんだ。
昨夜の任務が終わって。上司に報告に行ってから今朝出勤するまでの間に。
――束縛してくるの、鬱陶しいったらないんだ。
「……あーあ、匂いは消したのに」
気付けば空気の変化を敏感に感じ取ってか、太宰は素早く身を起こして中也から距離を取っていた。ぎらりと鳶色の目を警戒に光らせながら、至極面倒そうに云う。「今日の君は何だか腑抜けてから、気付かれずに済むかと思ったのに」
その云いぶりだと、まるで中也には気付かれたくなかったように聞こえる。
中也から隠したかった、疚しいことのように。
指先は冷えるのに眼の奥は驚くほど血が巡って熱かった。腹の底が煮えていた。自分以外の誰かが、無遠慮にこの相棒の体に触れ――そしてその痕を残すことを、この男が許したと云う事実に。
口を開くと渇きの為に粘着く。
「……何だそれ」
「だから云ったでしょ。君じゃない、って」
「うるせえ何だって訊いてんだ!」
会話の体を為していなかった。衝動的に太宰の胸倉を引っ掴み、そのまま執務机に叩き付けた。後頭部を強かに打ち付けたのか、太宰が軽く呻く。気が付けば、昨夜と同じような体勢で、昨夜よりはやや乱暴に、中也は太宰の体を引き倒していた。
無防備にその白い首元を晒し、縋るような――それでいてひどく甘えた目を向けてきた昨夜のことを思い出す。
それは相棒である自分の特権じゃあなかったのか。
けれど昨夜とは違って、吐息の掛かる距離から向けられるのはひどく冷えた視線だ。
皮肉げに口元が歪められる。
「わあ熱烈だねえ。けど今はパス。そう云う気分じゃない」
「誰にやられた」
「云って善いの? ……云ったって何も出来ないでしょ。君、気に食わないからと云う理由だけで組織の人間を殺せる? 私の為に」中也の頬を、太宰が無表情にするりと撫でていく。昨晩熱を持っていたその手は、今は気味の悪いほどに温度が無い。「私を独占したい、君の私情の為に」
中也は一瞬言葉に詰まる。俺が、太宰を独占したいだと? 誰がそんなことを云った。そんな訳が無い。この男にそんな下らない感情は抱いていない。俺はただ――。
ただ、何だ?
中也がそのまま動けずにいると、太宰は呆れたように一つ大仰に溜め息を吐いて、中也の手を軽く払った。存外呆気無く、それは太宰の首元を離れる。
「……感情的になってる自覚あるでしょ。何キレてんの、頭冷やしなよ」
悔しいが太宰の云う通りだった。感情の整理がついていなかった。この状態では、例え云い募った処で、太宰と真面な議論を交わすことなど出来ないだろう。無駄なことはしない男だ。中也との会話が無駄だと判断すれば、のらりくらりと論点をすり替え始めるのがオチだ。
「……俺が、黙って見逃すと思うのかよ」
然し納得に拠る黙秘ではない。それを示す為の言葉に、太宰はただ冷笑した。朝の日差しが凍り付くほどの冷ややかな笑み。その中で、相変わらず鈍い闇の色をした瞳が中也をじっと見詰めている。
「思うのかも何も。君に私のプライベートまで口出しされる謂れ無くない」
平坦な声が、妙に耳障りだ。
「私達、ただの相棒でしょ」
突き放すような物云いだった。とんと胸を押され、後ろに蹌踉ける錯覚を覚える。踏み込み過ぎたのは中也だ。ただの仕事上の相棒以上を太宰に求めている。その自覚があった。
だから太宰が距離を取る。
「……安心しなよ、合意だから。若し君が、莫迦な正義感で怒っているのならお門違いだ」
それ以上の問答が面倒になったのか、太宰が書類を手にして部屋を出て行く。「今日、一九○○に所定の場所ね。それまでに頭冷やして準備しといて」ばさ、と黒の外套が翻って廊下の向こうに見えなくなる。
一人残された執務室で、中也は静かに目を閉じた。
踏み込み過ぎたのは中也だ――然しその自覚があるからと云って、それを正すことはままならない。
そう、自分達はただの相棒だ。
お互い、相手を己の半身と見紛う程度の。
太宰だってそうなのだと思っていた。昨夜、自分達は確かに相手の心臓を握っていた。太宰は中也に身を委ね、中也は飢えた本能のままに太宰を喰らおうとしていた。その感覚を思い出そうと、両手をぐっと握り締める。あのとき、確かに自分達は互いの存在で己を満たそうとしていたのだ。それが中也だけのものであったとは思わない。
だって彼奴は云ったのだ。
自分達以外の人間など、邪魔なだけだと。
同じ砂場で共に城を築いていた、ただの相棒。その領域に何時の間にか土足で入り込まれて泥を付けられたと知って、未だ躰の奥底に残っていた熱が、何故だかひどく疼いた。
三.
『中也。次の部屋で纏めて始末して』
その言葉を思考を通さず直接手足に伝達する。考えるのは後で善い。何せ通信機の向こうの男は間違えると云うことが無い。その頭脳が生み出すのは、整然とした最適解だ。宛ら完成された数式のように、その答えを紡ぎ出す。だから中也はその通りに動くだけで善かった。異能を操り、短刀で敵の首を掻き切る。その音だけで戦況を把握しているのか、はたまた他の情報収集手段があるのか。『次、上の階に』歌うように指示を出す太宰の声が耳に心地良い。太宰の言葉の一つ一つが、聴覚から体に染み渡って指先まで満たされる。
一種恍惚の中で、中也はただ踊るように敵を屠る。
通信機の向こうで、此方の様子を見透かしたように太宰が微かに笑った気がした。
作戦時刻にばたりと顔を合わせた太宰は、何事も無かったかのように「やっときた」と一つ肩を竦めただけだった。「遅い。五分前じゃない」と云っていた気もする。「煩えな、早く来た日に限ってふんぞり返ってんじゃねえぞ。手前の遅刻日数カウントしてやろうかこの不登校児」「小学生が何か云ってる……」「あ!?」何時ものように軽口を叩く。
月が煌々と、銀の縁取りを夜に浮かび上がらせていた。
敵対組織の潜む廃工場、その手前で。
「じゃあ。何時も通りに」
太宰がすいと流れるような動作で通信機を己の耳に付けた。同じものを中也の手の平にも一つ、落とす。周囲では部下が音を立てず標的の建物を包囲していた。予め太宰が指示を出しているんだろう。今日も突入は中也だけだ。この通信機を渡すのも中也だけ。それをじっと見詰めていると、動かない中也に痺れを切らしたのか、太宰が側に立つ気配があった。
顔を上げれば、ただ無造作に手を伸ばされる。
ぱちりと一つ瞬くのみに留めると、ひんやりとした指先でゆっくりと髪を掻き混ぜられて。耳をするすると撫でたその手が、中也の手の平から拾い上げた通信機を付けていく。再び目を開いた中也の目が捉えたのは、ひどく満足気な太宰の顔だ。
他の人間には絶対に見せないであろう顔。
……いや、それも思い上がりか。
「俺で善いのか」
だから問うた。
前を行こうとしていた太宰が振り返る。月明かりの下で、中也を見る太宰の瞳は不思議な色を浮かべている。
「……何が云いたいのか判らない。君が誰かに劣るとは思わないけど?」
そう云い切った太宰から、真っ直ぐに向けられた視線が突き刺さる。
「私の相棒は君でしょう。不本意ながら」
その声には迷いと云う名の澱みが無い。
取り残されているのは俺だけか、と中也は笑う。
二人で砂の城を築いていたのだと思っていた。その場所には、自分達の他には誰も立ち入らせなくて善いものだと。
けれどそんなものはもう、疾っくに崩れてしまっているのかも知れない。今この場にあるのはただ、瓦解した後の砂の山と、取り残されて呆然としている自分だけだ。太宰はもう疾っくに此処が公共の場であることを理解して、他者の存在を受け入れることが出来ている。
そんな中で、自分だけが太宰の唯一だなどと主張するのは餓鬼の駄々みたいなものなのかも知れない。
「……ッらぁ!」
目の前の敵を叩き潰す。マフィアに断りも無く武器の類を横流ししたとか何とか。死ねば皆同じなのだから興味は無い。血を撒き散らして動かなくなった体を見下ろしながら、「これで全部か?」と訊く。『一寸待って……未だ居ると思う、事前情報より敵の数が少ないから』息絶えた空間の中で、相棒の声だけが色付いて聞こえる。
そう、ただの相棒だ。
太宰が中也に求めるものはそれだ。それ以上でもそれ以下でもない。だから太宰は中也以外にその身を捧げもするし。その身を毀損されもする。
至極当然のことだ。
中也はじっと己の手を見る。
太宰の求めに応えてきた手だ。
そして太宰の首を絞めようとした手。
相棒、と呼ばれて浮かれていたのかも知れない。自分だけがあの男の何もかもを手に入れてしまえるのだと、自惚れていたのかも知れない。
自分以外の手で付けられた、太宰の痕を思い出す。
線を引き直さなければならなかった。ただの相棒以上を求めてしまっている己の立ち位置を、一歩引かなければならなかった。
この距離に居ると、きっと気が狂ってしまう。
あの男に起こることの一つ一つに感情を揺らしていたら、身が保たないんだ。
「……。おい、太宰? 未だかよ」
ふと、何時まで経っても応答の無い通信機に手を遣る。太宰からの返答は無い。手持ち無沙汰になって周囲を見回す。廃工場の二階だ。フロア全体が吹き抜けになっているから、手摺を越えて見下ろせば階下の全体、それと薄く開いた入り口の引き戸が見える。其処から差し込む少しの月光を除けば全体的に薄暗く、篭った中に漂うのは血と錆びたオイルの臭い。それに反して、物音一つ響かない。カツン、と中也は靴を鳴らす。視界に動く者の気配が無いことを確認する。
太宰の計画の通りなら、今頃は表で太宰の部下達が炙り出された残党を狩っている筈だ。中也の役目は終わり。此処は制圧完了だ。
然し確かに、太宰の云う通り少し敵の数が少ない。
物足りない。
そう、思ってしまったのがいけなかった。先程まで指先を満たしていた充足感が急速に失せて渇いていく。だのに体は熱いままだ。
暴れ足りなかった。ガンと一つ衝動のままに手摺を蹴り飛ばすと、鉄の枠が拉げて折れて、階下へガシャンと落ちていく。折角なら異能者の一人や二人、擁していれば善かったのだ。そうすれば中也だって、この遣り場の無い濁りのような感情を散らすことが出来た。
或いは。
「太宰」
その名を呼ぶ。自分を満たすことの出来る男の名を。
「だざい」
渇きに喘ぐようにその名を口にする。
ただの相棒だ。
そう引き直そうとした線がぐちゃぐちゃに乱れていくのを感じ、祈るようにぎゅっと目を瞑った。アレは俺のものじゃない。誰のものにもならない男だ。それを忘れてはならない。
薄っすらと微笑む、鳶色の瞳を瞼の裏に思い描く。
早く俺に指示を出せ。
早くその声で俺を満たしてくれ。
俺がまた距離を間違えない内に。
そのとき、ザッと通信機から異音が聞こえた。待ち侘びた太宰の声ではない。割れるような破裂音。
銃声だ。
それが複数、外からのものと二重に聞こえて中也の鼓膜を震わせる。中也ははっと我に返った。待て、外?
「おい太宰! これも手前の策の内か!?」
外套を翻して駆け出す。階段を降りるのももどかしく、手摺を越えて一気に階下へと飛び降りる。然し太宰のことだ、大丈夫だろう。そんな考えが何処かにあった。
太宰の声を聞くまでは。
『ッ ちゅう や……』
通信機越しに名を呼ばれた。
瞬間ぞわりと背筋が逆立った。苦痛に呻く、その声が微かに中也の名を呼んだ。
演技ではない、確かな傷を負って。
おい、と呼び掛けようとする喉が引き攣れた。どさりと重いものの落ちる音。雑音混じりに聞こえる、『太宰さん、太宰さん!』『くそ、各員応戦しろ!』と云う怒号。
程無くしてぶつりと切れた通信機を片手に一瞬呆然と立ち尽くす。
太宰が死ぬ?
自分以外の誰かに毀損されて?
脳裏に蘇るのは太宰の白い首筋だ。そこに自分以外の誰かに、無遠慮に付けられた性交の痕。太宰は口出しされる謂れが無いと云った。中也の見知らぬ処で太宰が好き勝手に踏み荒らされようと、それは中也の関知すべきことではないと。
中也はぎっと歯を食い縛り、己自身に問い掛ける。
――果たして、俺はそれを許せるのか?
「太宰ッ!」
中也は重力を爆発させて瞬時に駆けた。足の筋肉が悲鳴を上げる。けれどそんなのは構っていられなかった。
そんなのは、許せる訳が無かった。
四.
黒鳶の蓬髪に指を絡める。乱れているように見えて、それは案外するりと指の合間を抜けていく。二人きりの部屋に、静かに響く寝息。寝台に腰掛けると、少しだけスプリングの軋む音。
太宰の寝顔は常に無く穏やかだった。
とても死線を潜り抜けた後とは思えない。無防備に緩んだ口元が、浅く呼吸を繰り返している。何時もは人が近付けばぱちと反射のように目を覚ますくせ、こう云うときに限っては起きない。
中也が側に居るときに限っては。
『太宰ッ!』
あのとき。
中也が怒りに任せて群がる敵兵を殲滅し、血塗れの状態で気を失って倒れる太宰を抱え上げたとき、一瞬呼吸を忘れてしまった。生きた心地がしなかったのだ。半身を失うかと思った。死なせてしまうかと。
他人に毀損されることが許せない、どころか。
どんな経緯であれ、太宰を喪うこと自体が耐えられないのかも知れないと、抱えた体の重みにそのとき初めて認識した。
中也はぼんやりと、太宰の寝顔を眺める。撫でる手の甲に少し温度が戻ってきていて安堵する。一度は己の手で殺そうとしておいて、実際に死に掛けてみればこのザマだ。無様と云う他無かった。
「……結局の処、俺は手前を殺せないらしい」
――君に殺されるのも、悪くないと思ったのに。
その言葉に、太宰も同じなのだと思った。中也が太宰に感じているように、太宰もまた、渇きを癒すことを中也に求めている。
なら善いんじゃあないか。
抗い難い欲求だった。この完全で欠ける処の無い存在を、自分一人のものにしたいと願った。そうすればきっと満たされると。あの胡散臭い笑みをこの手で歪ませて、邪魔な空気も着衣も肉体も何もかもを取っ払って一つになれれば――己の血肉にすることが出来たなら、きっと渇きが満たされると。
単純で原始的な捕食欲求。
けれどその後の空虚を、中也は今まさに知ってしまった。
じゃあ如何するんだ。ぎゅ、と動かない太宰の手を握り締める。相反する感情に思考が掻き乱されるのを感じる。自分が太宰を如何したいのかが判らなかった。太宰をむざむざと喪えば、きっと息をすることが出来なくなるんだろう、然しそれと同時に、時折襲う己の飢えを満たすことが出来るのもこの男だけだと知っている。
叶えられるのは一つだけだ。
「俺は――如何すれば善い」
静寂に溶ける呟きに、途方も無さを覚えた。標の無い海原にでも放り出されたかのような寒々しさを覚える。久しく見ることの無かった感覚だ。何処に行くにも一緒だった相棒を、其処に連れては行けないから。
「……ひっどい顔だ……」
微かに手を握り返されて、思わず顔を上げた。鳶色の瞳と目が合う。太宰が目を開けていて、薄っすらと笑っていた。
生気の無い顔で。
ひでえ顔はどっちだと思う。
如何やら太宰は先程の中也の独り言を、聞いてはいないようだった。ただ焦点の揺れる目を細め、見下ろす中也にうっそりと笑い掛けている。
「知ってるでしょ、私が死にたがりなの……」
だから死んだって、君がそんな顔する必要無いのに。そう云いたげな言葉だった。ふざけんな、と中也は思う。人の気も知らねえで、死にたい死にたいと喚きやがって。
挙句、中也以外の人間に容易に明け渡そうとする。
怒りと苛立ちが、腹の奥底をふつふつと沸き上がらせる。もう先程の寒々しさは無かった。重ねられ、さらりと撫でられた手を握り締める。太宰の指先が白くなる。
「……なあ、太宰」
「うん、なに……?」
呼ぶとふわふわと、覚束無い口調が返る。その顔色は白いままだ。襯衣と包帯の下には、未だ生々しい銃痕が残っているんだろう。
中也にとってさえ、其処は不可侵の孤城だと云うのに。
況して他の人間に明け渡すなど、絶対に。
そう、中也は一つの決意を口にする。
少なくとも、此奴が俺の側に居る間は。
「……俺は絶対、手前を死なせてやらねえことにした」
そう告げると、太宰はきょとんと軽く瞬いた後、「うわあ、それはまた、最ッ高の嫌がらせだね……」と花の綻ぶようにひとつ、笑ったのだった。