【再録】真空アクアリウム
四.
「――で、これがその銃弾だ。貴方が昨日、撃ったもの」
がっ、と男の後頭部を踏み付ける。石造りの床にうつ伏せに転がされた男はガタガタと震えていて、失禁までしているようだった。未だ苦痛も恐怖も然程与えていないと云うのに、気の早いことだ。わたしは冷ややかな笑みを浮かべる。
「銃弾は昨日、屋敷の全員に支給されてた。それから使う機会は無かった筈だけれど、却説、君の残弾を見せて呉れる?」見るまでもなかった。それに云い逃れをするようだったら、銃と弾丸を照合しても善い。
その前に殺してしまえばもっと早いけど。
「……善くもまあ、中也を毀損して呉れたものだよね」
「や、止めろ! 糞、こんなことをして、如何なるか判っているのか……」
「如何なるか? おかしなことを訊く」そんなこと、明々白々だ。「無論、貴方が脳漿を撒き散らして死ぬことになる」
ひっと男が身を捩る。それから何やら喚かれる、助けろだの誰か居ないのかだの悲鳴混じりの言葉。両の手首と足首は枷で拘束しているから、逃げられる訳が無いのに。
それに助けを呼ぼうにも、この地下牢にはわたしと男の二人しか居ない。何時かのお仕置き部屋と違って、音が抜ける造りにもなってないからちょっとやそっとじゃ人は来ない。
なのにそんなに必死になって。
「ねえおじさま、そんなに暴れないでよ。マフィアの流儀を知っているでしょう」
ぐり、と石の段差に押し当てるように躙っていた後頭部、その頭髪部分を引っ掴んでぐいと無理矢理引き上げる。
「――もし、貴方以外に首謀者が居るのなら、聞いてあげないでもないけど」
さも今思い付いたとでも云うように、そうだ、とわたしは切り出した。
そう、此処で一網打尽にしておかなければ後の処理が面倒だ。実行犯は昨晩殺した六人と、狙撃をしたこの男のみの筈だけれど、黒幕が居ないとも限らない。わたしが調べた範囲ではそんなものは存在しないが、一応念の為に訊いておく。
精神的に追い詰められたのか、男の目がぎょろりと必死に助かる道を探るべく左右に動く。それから何事かを思い付いたように、首領が、と泡と共にその言葉を吐き出す。
「ぼ、首領の命令で――」
「はい、残念」
なんだ、詰まらない。引っ掴んだ髪を手放す。がん、と額が石の床にぶつかる音がして、ぎゃっと短い悲鳴が上がる。
「その答えは悪手だねえ。あのひとがわたしを殺す訳は無いんだ。彼が今までわたしの教育に注ぎ込んだ時間と資金を、君、知っているかい。目玉が飛び出ると思うよ――ここでわたしを殺してしまったら、その先行投資を回収出来ないし――何より、それをふいにする理由が無い」その辺の荷物の山から適当に銃を取り出し、その弾倉を確認する。善し。ちゃんと三発、入ってる。「第二に――これが若しわたしへの力試しの心算なら」
ガッ、と今度こそ靴底で暴れる男の頭を固定する。要はサッカーボールの要領だ。思い切り蹴り飛ばせば善いのだ。
サッカー、やったことないけど。
「それなら尚更わたしは貴方を殺さなきゃ、首領に怒られてしまうのだ……よッ!」
勢い良く頭を蹴り抜いた。鈍い音がして男の口内から血と歯が飛び散り、絶叫が響く。わたしは思わず耳を塞いだ。善く考えたらわたし、汚らしいのは嫌いだ。臭いし。煩いし。誰だこんな方法考え出したの。尚もくぐもった絶叫を上げる男の頭を可及的速やかに三発撃ち抜く。
すると呆気無く静かになった。
残ったのは微かな硝煙の匂いのみだ。
わたしはぼんやりと、寄る辺無く室内を見回した。却説、終わってしまった。もうこの屋敷でやることも無い。後は本部に戻って、首領に謹慎を解いて貰うように云わなければ。そう、中也の様子も見に行かないといけない。あの後、結局見ていないけれど、彼は何処に収容されたのだろうか。
彼は死んでいないだろうか。
そのことに思い至り、如何しようも無い焦燥が身を焦がす。中也を失う。そう考えただけで、ぞっとする。
中也と居ると、息がし易いと感じた。生き易いと思った。だから彼が欲しかった。
けれどしんどいんだ。手に入れて、失くして、また手に入れて。そんなことをこのペェスで繰り返していたら、わたしの精神はひどく摩耗して損なわれてしまう。
だったら中也なんて欲しくない。
思い出すのは中也の血に濡れた手の感触。締め付けられるような、心臓部の激痛。あんな痛みには耐えられない。
もう、あんな苦しい思いをするのは真っ平御免だった。
ぼんやり、水を一枚通したように霧掛かった視界の中で、ふと天井が目に入った。
……あれ、あんな処に良さげな梁がある。
地下牢を見回すと、丁度良く長い縄も転がっていた。わたしは吸い込まれるように、ガタガタと椅子をその真下に持っていく。子供の背丈では当然梁には届かない訳だけれども、そこはそれ、縄の先端に重いものを括り付けて投げれば、勢いで梁に縄を渡すことくらい訳無かった。きゅっと手際良く首吊り向けの輪を作る。
椅子に立って背伸びすれば、何とか首を掛けられる高さだ。
首吊り自殺は苦しくないと聞く。どころか、気持ちが好いらしい。一瞬で意識を失えるからだ。その跡が汚いのが難点だけど。汚らしいのは嫌いだな、と思った。けれどわたしの死んだ後の話だし、別に善いかとも思う。
苦しくないのは善いことだ。
縄を確り握って、首を掛け、椅子を蹴倒すように飛――。
「太宰ッ!」
首に縄が掛かったのは一瞬だった。次の瞬間、何処からか飛んできたナイフが縄の上部を切断する。わたしは体重を支えるものを失い、バランスを崩して縄を首に巻いたまま敢え無く地面に激突した。痛い。顔を顰める。
そうして急に流れ込んできた新鮮な酸素にゲホと噎せ返るのも束の間、乱暴に胸倉を掴み上げられる。
「太宰、手前何やってんだ!」
がくがくと、揺さぶってくるのはわたしの追い求めていた彼だ。生きてたんだ。
中原中也。
けれどあんなに欲しいと思っていた彼が、今は側に居るのが煩わしい。放っておいて呉れないか。
だって、またこの男を手にすることがひどくこわい。
「余計なことしないで」だから口にしたのは拒絶の言葉だ。げほ、と唾液混じりの咳を吐き出しながら、わたしはじろりと中也を見遣る。「邪魔、しないで……」
見上げた中也の瞳は、怒りで燃える金の光を放っている。
「自殺は許さねえっつったろ」
「知らないよ……」
未だ酸素の回り切らないぼうっとした思考のまま、無理矢理押し退けるように体に触れると、中也は少し顔を顰めた。慌てて手を引っ込める。そうだ、だって撃たれたんだ。腹を。傷は大丈夫なのだろうか。……いや、それよりも。
「そうだきみなんで此処に居るの! 怪我の治療は!」
「抜けてきた」
「は!? 莫迦か!」
「手前に云われたくねえんだよこの全身包帯野郎!」
再度掴み掛かった手に力が入るけれど、傷に響いたのか直ぐにその手は力を失った。矢っ張り莫迦だ。なんで来たんだ。
「予感がしたから」
「予感?」
「ああ。手前がまた、一人でぐちゃぐちゃ莫迦なこと考えてそうな予感……」
「何その胡散臭い直感! 捨ててきて!」
今度は此方が掴み掛かる番だった。傷に差し障りの無い程度でがくがくと揺さぶって、図星かとにやにや笑う中也の首を絞めに掛かる。て云うかぐちゃぐちゃって何! 莫迦なことじゃないし!
何もかも、何時も通りだった。わたしも彼も、この距離が心地好かった。だからこそ、手放さなければならないと強く思う。彼の為に精神を擦り減らすことは出来ない――何時か来る彼の喪失に、わたしはきっと耐えられない。
そのことを思い出して、胸倉を掴んでいた手を放す。
「……悪かったよ、きみを欲しいとか云って。首領にももう私兵の面子、替えて貰うようにするから……」
切り付けるように、別れの言葉を投げた。また巫山戯んな、と怒られるかなと思った。それか、ああ判った、じゃあさよならだと云って呉れないかと願った。
けれど中也は態とらしく首を傾げるだけだ。
「何だ、おれが要らなくなったか」
首を傾げたまま、中也が問う。
「は? 違うよ、要るとか要らないとかじゃなくて」
そうじゃない。寧ろ、欲しいから困るんだ。
「だってきみに関わると、苦しいんだもの。もうこれ以上、きみに関わりたくない。いっそ……」不覚にも声が掠れた。揺れる目元を見られないよう、手の平で覆って天を仰ぐ。いっそのこと。「……殺して呉れれば善いのに」
それか、きみがわたしの視界の一切に入って来なくなれば善い。そうすればわたしは苦しくない。
中也は少し、考え込んだようだった。暫くして、何故だか面白がるような声音で訊かれる。
「本音か?」
「決まってるでしょ」
「案外臆病なんだな」
その云い方が、何だかカチンと頭にきた。如何してこう、わたしの地雷ばかり踏むんだ。
「きみさあわたしがどれだけ」
「……手前がさあ」遮られる。人の話を聞き給えよ。「手前が居なくなったら、おれは別の誰かに使われることになるけど……それでも善いのか?」
「えっそれは駄目」
反射的に答える。弾かれたように顔を上げると、ぱちりと海の色をした瞳と目が合った。
その中に映る、困惑したわたしの表情。
「そんなの駄目に決まってる……なんでそんなこと云うの? きみのこと、一番上手く使えるのわたしでしょ」
「そうだな」
「わたし以外の誰かが、きみのことを如何こうするなんて死んでも嫌。そんなことになったら」考える。手に入らなくて焦がれるままだったらそれでも善かった。彼が居ない、息苦しい世界で生きていくのも。けれど中也が、わたし以外の誰かのものになるなんて。「そんなことになったら、わたし、其奴を殺してきみも殺してやる……」
「死んでたら出来ねえだろ」
熱烈だな、と中也は笑う。
「もう一度訊くぜ。おれを手放してえってのは本音か?」
云われて混乱する。紛れも無く本音だ。わたしの心からの願い。だって、何時かきみを失うのがひどく怖い。
きみは知っているか、中原中也。きれいなみずとかくうきとか。人間が生きていくには、そう云うものが必要で。
それを失ったら、わたしは生きていけないんだ。
「でももうおれ手前のだからなァ手遅れじゃねえか? 関わるなっつっても無理だろ。それに」
手に入れれば何時か失うのは必然で。
だから失う前に――致命的な傷を負う前に、手放そうと必死になってるって云うのに。
「手前もおれ無しじゃ、もう生きられねえだろ」
堪らず中也の体を抱き締める。そうだ、もう手放せない程には手に入れてしまっていたんだ。
わたしにとっての、きれいなみずやくうきのような。
碧い瞳の、相棒を。
「……わたし、きみのそう云う処ほんとう嫌い……」
吐息の交わる距離で吐き捨てるようにそう云うと、中也はきゅっと目を細めて、心底可笑しそうに笑った。
「奇遇だな。おれも手前が、大ッ嫌い」
了