【再録】真空アクアリウム
三.
森鷗外と云う人は、わたしの知る大人の中では聡い方だ。非合理的なことを好まない。無駄なことがあんまり好きじゃない。だから、構成員がちょっと失敗したくらいで処刑とか、そう云う先代みたいなのはしない。
まあ先代は疑心暗鬼に陥っていたと云うのもあるけど。
「太宰君、君、判っていてやったでしょう」
だから処罰、それもきついやつをするのは飽くまで反省を促す為、二度とそう云う気を起こさせない為。それから周囲への見せしめだ。自分達も失敗すればこうなるんだと、気を引き締めさせる為の。
その為に、或る地下牢で上げた悲鳴なんかは屋敷中に響くようになっている。
「ッ――や、う――」
却説、わたしが今されているのはどれだろうな、と考えている余裕はあんまりなかった。だって痛くて堪らないのだ。こんな風に椅子に縛り付けられて、器具で固定された足の間に鉄の板を打ち付けられると、一枚増やされる毎に足が拉げそうな激痛が走ってその度苦痛の悲鳴を漏らす。何時か本で読んだ中世の拷問方法だ。場所が地下牢なのも相俟って、時代錯誤感が否めない。でもそう云うのがときに精神に効くことを、わたしもこの人も知っている。
「部下を死なせるかもと、判っていてやったでしょう。――そう云う風に、教えた心算は無かったんだけど」
わたしの体にその苦痛を与える森さんの声はひどく平坦だ。怒っているのか、それともこれがただのパフォーマンスなのかが読み取れない。視界が痛みで真っ赤に染まって、まともな思考が働かない。
そうして意識を飛ばしていると、もう一枚板を打ち付けられて反射で喉の奥から悲鳴を上げた。体が痛みに跳ねて、びくりと痙攣するのを止められない。勿論この人だってわたしのことを本気で壊す心算は無いだろうけど、早く終わらせないと耐えられない。
癪だけれど、何方にせよこう云うときにわたしみたいな子供が求められている対応は一つだ。
「ごめ、ごめんなさい、ぼす、ゆるして……」
「……」
ぽろ、と一粒涙が流れたのを良いことに、出来るだけ哀れぽく、子供らしく謝罪の言葉を口にする。そう、始めた以上は切欠が無いと終われないのだから、さっさと相手の欲しい言葉を呉れてやるのが得策だ。多少の自尊心の犠牲は致し方が無い。
ぽろぽろと、生理的に出てくる涙を止めずにいると、少しの沈黙の後にはぁと重い溜め息が聞こえる。多分、わたしが反省する色を毛程も見せないことを読み取ったんだろう。お互いそんなことは承知の上。それでもこれをさせるのは、矢っ張り周囲への牽制だろうか。
例えばお前の作戦の所為で見知った人間が死んだんだとか。あんなに味方を殺しておいて、未だのうのうと首領の側に居やがってとか。何のお咎めも無しでは、そう云う理由でわたしの命を狙う輩すら出てくるだろう。
でもこれだけ泣き喚いていれば、こんな可哀想な子供を殺そうとする人間なんて居ない筈。……多分。
その為の、単なるパフォーマンス。
だからこの人にも、わたしを壊す心算なんて無い。奥歯を切れるほどに噛み締めて次の反応を待っていると、がちゃんと器具を取り外される。
見ると、困ったように眉尻を下げて笑われる。
「……判っているとは思うけれど、暫くは謹慎だからね。君につけてた兵も一旦引き上げるし……そう、少しこの屋敷にでも残れば善いだろう」
そう告げる男の声は、矢っ張り不透明で読み切れない。涙で頬を汚し、痛みに痺れた思考でぼんやりと男の口元を眺めていると、ふと唐突に、彼が恋しいな、と思った。
彼がはく、透明できれいなくうきが。
――手前が嫌いだ。
思い出されたその言葉に、先程とは比べ物にならないくらいの痛みで胸が締め付けられる。「終わったよ。……太宰君?」訊かれる声すら煩わしい。ぎゅっと耐えるように目を瞑る。
彼は一体、如何しているんだろうか。
◇ ◇ ◇
「何で居るの」
ぱち、と警戒しながら部屋の電気を付けて、それから室内に広がっていた信じられない光景に思わず呆れ混じりの声が出た。侵入者か、と直前まで張っていた気が緩み、溜め息になって出て行く。そんなわたしの内心など知らず、何食わぬ顔で寝台に腰掛けた彼は、ナイフを弄りながら「よお、流石に敏いな」だの何だの云っている。
ぼろぼろになった足を引き摺って、与えられた部屋へと戻ってきた処だった。幸い、動けないほどじゃあなかった。暫く身を投げ出して意識を飛ばしていたから、少しだけ回復する時間もあった。でも傷に染みるから風呂は無しだ。そんなことを考えながら寝室の扉を開けて――瞬時に体を強張らせた。
「誰」
反射のように殺気を向けた自分が、今となっては滑稽だ。侵入者の気配には気付けても、それが彼であることは見抜けなかったんだから。いや、でも、居ると思うか普通? 扉には鍵が掛かっていたし、窓から侵入しようにも此処は六階なのに。月明かりの下で見る彼の顔は、随分と愉快で上機嫌そうに見える。人の気も知らないで。
て云うか、わたしのことが嫌いだと聞いたばかりだ。
「なんできみが此処に居るの。首領と一緒に帰ったんじゃあなかったの」
「知らねえよ、首領に訊けよ」ナイフの手入れをしながら、彼はまるでわたしの苛立たしさを掻き立てるようにのんびりと答える。「今日は一緒の部屋で寝ろとさ」
その言葉にわたしは思い切り顔を顰めた。あの人、生き残った構成員は一旦凡て引き上げると云ったのに。なのに彼だけを残すなんて、一体如何云う心算なんだろう。
「何なの? 仲直りしろって? 余計なお世話過ぎ」
「さあ、如何だろうな?」
彼が笑う。含みのあるその物云いに、見るとぱちりと目が合った。彼がにやりと口の端を釣り上げる。
嫌いだと、吐き捨てた男に向ける顔じゃない。
「……わたしもう寝るから」
何だかどっと疲労を感じて、わたしは体を寝台に投げ出した。考えるのが面倒だった。もう着替えとか善い。皺が寄っても構うものか。歯磨きだって今日はサボる。だって疲れたんだ。ごわごわしたから上着だけはぞんざいに脱ぎ捨てて、温かい海に身を沈めるようにシーツに包まる。
わたしのその言葉に、彼も「ああ」と頷いたようだった。暫くしてごそごそと響く、寝台に潜り込む音。彼に背を向ける形で寝ていたから、その様子は窺い知ることが出来ないけれど、真逆本当に一緒に寝る心算なんだろうか。確かにこの部屋には寝台は一台しか無いし、ソファも何も無いけど。でも床で寝たって善いし。彼なら手前と寝るくらいなら部屋の外で寝る、くらい云いそうなのに。抑々一緒の部屋で寝ろなんて、そんな云い付けを守る必要は微塵も無い。律儀。首領の云い付けだからか。寝台が大きいサイズなのが救いだった。出来るだけ端の方に寄って、序にシーツも引き寄せる。彼が包まれないかも知れないけど、そんなのは知らないんだ。
だってわたしは彼のことが好きじゃないし。
好きじゃないから、気を使ってやらなくったって善い。
背後からは、規則正しく細い呼吸が聞こえてくる。
寝たのかな。
「……ねえ」
ぽつ、と唇を吐息で震わせるように零す。
「きみ、わたしが嫌いなんじゃなかったの」
なのに何で。
言葉が夜の静けさに包まれるように消えて行く。
返事は無い。
寝ているのかも知れない。
「……わたし、きみのことがさあ」少し考えて、その言葉を口にする。「欲しいんだけど」
そう、欲しい。
側に置いておきたい。
ぎゅうとシーツを握る。でも他人に云われてそうされたんじゃあ意味が無いんだ。そんな彼は詰まらない。
他人に指示されて、唯々諾々とわたしに従う彼なんて。
うつら、と瞼が重くなってくる。別に起きていたって仕方が無いから、素直に眠気に体を明け渡す。彼がわたしのものになって呉れれば善いのに。でも大人しくわたしのものになる彼なんて、そんな彼は彼じゃあないんだ。
じゃあ如何すれば善いんだろ。欲しい気持ちも欲しくない気持ちも本物なのに。
思考がぐるぐるとルゥプして、捕まえようと手を伸ばせばするりと抜けていく彼の存在に何だかとても苛々した。直ぐ傍に居るのに思い通りにならないもどかしさ。好きじゃない、好きじゃない、嫌い。彼もわたしが嫌い。
そのことがとても息苦しい。
「……手前はさあ」
再び瞼を閉じた処で、背後の彼がぽつりと呟いた。
感情の薄い声だ。
夢と現の間を行き来しているような。
「きっとおれのことが物珍しいだけだよ」掠れた声で、彼が云う。「手前は手前の策が上手くいけば善くて、その為の駒として偶々おれが有用だっただけ……」
それは違う。思うのに体が重くて動かない。
「手前にとっては、誰だって善かったんだ……」
否定の言葉を、口に出来たかは判らなかった。
睡魔に誘われるように、わたしもゆっくりと眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
「ねえ」
殺気を感じてぱちりと夜中に目覚めたのは職業柄だ。今度は彼が起きていると確信を持って声を掛けた。彼も応じる。
「ああ」
「聞こえる?」
「……ああ。六、七人か」
先刻の睡眠の気配など微塵も感じさせない、怜悧な囁き声が響く。それがひんやりとした夜の空気に染みて、すうと吸い込むと肺が満たされる感覚がある。それから耳を欹てる。草木も眠る丑三つ時に、部屋の外で蠢く気配が、ざっと五人、いや六、七人。
却説如何しようかな。脱出しようにも入り口は包囲されている。無理かも知れない。横になったまま思案していると、いきなりぐいと首根っこを引っ掴まれた。彼だ。
そのまま抗議する間も無く、一気に寝台の反対側まで体を引き摺り落とされる。体の浮く感覚。ぐっと一瞬首が絞まって目の前が一瞬明滅する。
「ぐえっ、ちょっときみ何……」
文句は掻き消えた。ガン、と彼が寝台をひっくり返すのと扉が乱暴に蹴り開けられるのがほぼ同時。途端、爆発のように鳴り響く機関銃の連射音。咄嗟に両手で耳を塞ぐ。襲撃だ。
「殺せ――!」
怒鳴り声が煩い。背にした寝台が穴だらけになって軋む。中たり損ねた銃弾が、背を過ぎて正面の大窓を粉砕していく。この調子だと数分と保たずに蜂の巣だろう。
高々子供二人相手に、そんなに気合いを入れなくったって善いのに。
「て云うか近所迷惑というものを考え給えよ!」
「如何すんだよ!?」
「如何も何も!」
応戦するしかないでしょ――そう云おうとして彼を見た。
目が合って、息を飲んだ。
彼が笑っていたからだ。その碧い目にじわりと興奮を滲ませて、わたしを見て、心底楽しそうに笑っている。
如何すんだよ、と。
遂に頭がイカれたのか。口をぽかんと開けるか嫌味を云ってやるかしようとして――何だか上手くいかないことに気が付いた。耳を塞いでいた手でそっと自分の頬を撫でる。釣り上がった唇の端を。ああ、そうか。
わたしもきっと、彼とおんなじ顔をしている。
「如何すんだ」
彼が訊く。
「如何しようね」
わたしも笑う。別にこのまま死んだって善い。そう云うことは憚られた。だって彼は怒るだろう。そんなのは興醒めだ。
それに態々殺されてやることもない。
彼と居るのに、そんな終わりは詰まらない。
すっと息を吸って脳に酸素を供給させる。思考をフルに回転させる。此処で応戦するか? 彼の能力ならきっと此処からでも形勢逆転は可能だ。飛び出して全員殺せる。ただ、彼に関する資料には異能の制御が未だ完全でないとあった筈。集中砲火は避けた方が無難だ。相手をするならもっと開けた場所が善い。
「一旦退きたいな。けど脱出経路は――」
探して見回す。部屋の何もかもが銃弾を食らって粉塵が舞い、夜の暗さもあってよく見えない。もう既に廃墟のようになっているけど、この部屋って隠し通路とかあるんだろうか。何時もの自分の部屋ならいざ知らず、こんな遠征先の部屋で周到な準備なんて出来てないし。
ふと、粉々に撃ち抜かれて最早窓枠も残らない大窓を見る。枠からはみ出しそうな月が此方を眺めていた。彼に少しだけ時間を稼いで貰って、壁沿いに降りられないだろうか。此処は六階だけれど、確か下階の庇があった筈。
「じゃあ其処の窓から――」
「よし任せろ」
云い終わる前に急に視界が反転した。ふわ、と足が床から浮いて代わりに額が地面に近付く。彼の腕が確りと腹に回る。横に抱えるように持ち上げられた、と気付くのに数秒。
「……んん?」
思っていたのと違う展開に首を傾げる。
何するんだ此奴。
真逆。
「待っ、人の話聞い――」
「歯ァ食い縛れよ――!」
彼の外套に包まれて視界を奪われる。あ、う、と藻掻く間も無く彼が真正面に突っ込むのが判った。がしゃん、と背後で寝台の破壊される音。怒号を背に、彼が一足飛びに駆ける。
後で訊けば、それは硝子の破片でわたしが傷付かない為の処置だったらしい。そんなの判る訳無かった。誘拐宛ら口と目を外套で塞がれて、何も判らないままぱァん、と窓を突き破る。衝撃は殆ど無い。ただ襲い来るのは漠然とした浮遊感。
幕を取り払われれば、もう其処は空の上だった。外套に付着した硝子の粉が、きらきらと星屑のように舞う。冷たい夜風が頬を撫でて、彼の髪が銀の光を帯びて揺れる。
肺を満たす空気が澄んでいる。
此処は空気がきれいだ。
「ちょっとした空中散歩と洒落込もうぜ、幹部候補殿」
見上げれば、にこ、とまあるい金の月を背負って笑う彼。わたしはその光景に少し見惚れ――る訳がなかった。
余りの愚行に思わず声を限りに怒鳴る。
「あああきみ莫迦か!? 飛び降りろなんて誰も云ってない!」
「はァ!? 莫迦じゃねえよ! おれの異能は重力操作だ!」帽子を押さえながら、得意気に彼が笑う。「手前を連れて空だって飛んでけんだぜ!」
「それがきみ、浅はかだって云ってるんだ!」抱えられながら足元を見下ろせば遥か眼下に木々が広がっていて、うわ、と顔から血が引くのが判った。莫迦じゃないの莫迦じゃないの莫迦じゃないの! 秘匿されているから知らないだろうけど! 「わたしの能力は異能無効化だ! きみがわたしに触れてると、重力どころか林檎の一つだって操作出来ないんだ!」
「――は?」
彼の時間が止まった。ふ、と空中で二人、静止する。
暫しの沈黙。目が合う。お互いの瞳が揺れる。
あ。そうしてびっくりしたように開いていると、きみの碧い目ってきれいなみずみたいに透明に透き通るんだ。
「そ」
無言の合間を縫って、銃弾がしゅ、と彼の頬を掠めた。色付いた頬から、ぽたりと血が一筋伝って。
落ちる。
「それを先に云えェ――!」
「云おうとしたでしょ――!」
止まっていたのは一瞬だった。次の瞬間、自由落下に身を任せて二人喚きながら落下する。地上六階だ。この高さだと落ちたら無事では済まないだろう。
わたしを抱えたままなら。
「放して!」
彼の手を腹から引き剥がそうと藻掻く。わたしだって、彼と同じく未だ異能の出力を制御出来ない――でも彼だけなら助かることが出来るのは明白だった。
別に彼を助けたい訳じゃない。ただ一人死ぬか二人死ぬかなら、一人死ぬ方が損じゃないだけ。単純な損得勘定。
でも彼は納得しないだろう。味方に犠牲を出すことに抵抗のある彼は。だから全力で藻掻いた。
それなのに。
「云われなくても、そう、するッ!」
呆気無く、彼はわたしを手放した。一人放り出されるわたしの体、呆然として縋るように伸ばした手が彼を掠めて空を掻く。本当に放すのか。去来したのは云いようも無い空虚感。彼を見るも目も合わさず、一人でひゅっと凄い勢いで落ちていく。きっと異能で加重したんだろう。空中に独り残された外套に、銃弾が穴を開けて飛んでいく。
ああ、まあ、彼にとってわたしは単なる首領の傀儡だ。
外套がボロ雑巾のように草臥れて落ちていく。ひらひらと、舞うそれが他人事に思えなくて同情心を寄せてしまう。
そう、別になんてことはない。
彼にとってわたしは、従うことでその首領への忠誠を示す単なる象徴。
――手前が嫌いだ。
ぎゅっと目を瞑る。判っていたことだ。彼と共有した熱があったなんて錯覚。本当は彼はわたしなんか見ていない。
息が苦しい。一人で舞い上がって莫迦みたい。
死んでしまいたい。そう考えて、自分が今その途中であることを思い出す。多分、助からないだろう。六階だし。運が悪ければ死ぬほど痛いだろうが、運が良ければ即死だ。
ああ、碌な人生じゃなかったな。走馬灯も浮かばないから笑ってしまう。次はもうちょっと生き易い世界に生きたいな。せめて呼吸のし易い世界が善い。
彼の側に居るときみたいな。
そう云えば彼は助かったのだろうか。重力遣いが下で蟇蛙みたいに潰れて死んでたら笑える。そっと目を開けて下の様子を窺い見ると、丁度メキメキと木の軋む音が悲鳴のように聞こえてきた。遥か眼下で次々に木々が薙ぎ倒されている。
クレーターに立つ、小柄な影を中心に。
何だ?
「……ッらぁ! 来い、太宰!」
樹木が折り重なって、落下地点に集約する。そこで漸く彼の意図を理解する。ああ、クッションにね。もう距離が無い。再度、祈るように目を瞑る。ああ、如何か、死ぬときは痛くありませんように。
丸めた体を木の枝の群れに突っ込んで、わたしは全身を強かに打ち付けた。
◇ ◇ ◇
「……太宰。太宰」
彼の囁く声で目が覚めた。飛び起きようとするが、全身が軋むように痛い。自分の体の状態を把握しようと見下ろせば、着衣は破れてぼろぼろになり、あちこちに擦り傷や切り傷が出来ている。酷い箇所は打撲痕で青く腫れていて、おまけに木の葉がべたべたと付いて鬱陶しいったらない。
でも骨は折れてない。足が傷付いてるのは元からだ。動くことに問題は無い。
次いで周囲を見回す。光の差し込まない夜の森だ。鬱蒼と茂っていて、けれどこう樹木や茂みが多いと、相手より身軽な彼の方が有利なことは難くない。
彼が動けるなら。
寄り添うように傍らに立っていた彼をちら、と見上げる。気付いたのか、彼は涼しげな顔でわたしの顔を覗き込んだ。海みたいな瞳が揺れる。
「きみ、怪我は無いの」
「それは此方のセリフだろうがよ」
云われて困ったように笑う。御蔭様でね。礼を云うべきか迷う。如何して助けたの、と訊くべきかも。奴等の狙いは多分わたしで、わたしを見捨てれば、彼が命を張る必要も無くなるのに。
「……。ねえ、わたしどれくらい死んでた?」
「二分もねえよ」
「追って来てる?」
「ああ、何故かな」
なのに彼は、莫迦な奴等だ、と獰猛に笑う。追って来なけりゃ命を無駄にすることもなかったろうに、と。
細めた目が、暗闇の中で鋭利な輝きを増す。
「次は如何する」
そうして訊くのだ。
まるでわたしに従うのが当然であるかのように。
「おれを使えよ、太宰。十人分でも百人分でも、手前の望み通りの働きをしてやる」
「……ねえ。それも首領に云われたの?」
如何して助けたの。代わりに漏れたのがその問いだった。堪らず彼を見上げと、言葉の意味を掴み損ねたのか、ぱちりと瞬いた瞳と目が合った。「何だって?」「だから。わたしの指示に従えって、首領に云われたの」だったら見捨てて呉れた方が善かった――首領に云われたからわたしを助けるんだなんて情けを掛けられるくらいなら、此処で死んだ方が余程マシだった。
彼に手を伸ばす。今度は彼も手袋を脱いで、わたしの手を確りと掴む。引っ張り上げられて立ち上がり、目線の高さが同じになった彼の顔をじっと見る。
「ねえ」
「……いいや」
すっと合わせた筈の視線が少しズレる。何故か歯切れ悪く、渋々と云った風に彼が答える。
「寧ろ首領には手前との接触を止められてる。曰く、『君と居ると太宰君は少し冷静になれないようだから』」
「は? じゃあなんで……」予想外の言葉を、今度は此方が飲み込み切れない番だった。思わず口をぽかんと開ける。だって話が違う。「きみ、わたしのこと嫌いじゃなかったの」
「嫌いだよ」
肺の中の空気を、絞り出すような彼の声。
「味方の命を、粗末にする奴は嫌いだ……」
だから此処に居るんだ。
囁くような彼の声が落ちる。ぎゅっと手を握られて、その熱に、彼の云わんとすることをわたしは漸く理解する。けど。
「けど、わたしは間違えたんだよ」彼の手を取って、その手の平になぞるように指を這わせる。「それでもきみは、わたしを味方と云うの」
そう、多分今わたしの命を狙っている連中もそれが切欠で襲ってきている。此処にわたしが居ることは、あの作戦が行われたことを知っている内部の人間でしかありえないからだ。こんな、本部でないとは云えマフィアの建物に軽々しく侵入出来るのも。
あんなに味方を大量に死なせる子供が、将来首領の片腕になれば組織の存続が危うい――そんな義憤に駆られていることだろう。
こんな組織で、正義を掲げようなんて莫迦げてる。
けれど彼等は彼等なりに、自分達の住み易い世界を作ろうとしているんだろう。自分達の息のし易い世界を。ならばこれは生存競争だ。わたしだってわたしの理解し難い愚か者が大勢居るのは鬱陶しいんだ。空気が濁って息がし辛いったらない。
だから彼等に命を狙われるのは構わない。殺すだけだから。
でもきみは、あちら側でなくて善いのか。
伺うように顔を上げる前に、その疑問は莫迦じゃねえのと一笑に付された。
「あれは手前の間違いじゃねえだろ。手前で云ってたんじゃねえか、『おれの力で捻じ伏せれば善い』って。……強いて云うならおれの力不足だ。……だから」
きゅ、と指を絡めて手を繋がれる。吐息の絡む距離で彼がわたしの頬を撫でる。キスをするように、親指の腹でゆっくりわたしの唇をなぞる。
「おれを使え、太宰。――今度こそ他の誰でもない、手前に勝ちを捧げさせて呉れ」
「わたしに?」
「ああ」
「本当に善いの? わたしは首領じゃないんだよ」
「しつけえな……。おれは首領が誰を推そうが、別に興味無えっつったぜ。人の話聞けよ」
そうだったかしら。首を傾げる。
その背後から、ガサガサと枯れ枝の上を駆ける音が響く。敵が追い付いてきたのだ。
けれど彼の手を放す気にはなれない。
だってこれこそ、わたしの求めていたものだ。
「最初から、おれには手前しか見えてねえよ。何だよ、首領に云われたんじゃねえかだの何だの。おれは、手前の策に惚れて――手前の策で、動きてえんだ」
だから自殺なんざ許さねえんだ。
囁く彼の手の平の温度は、わたしのそれと同じ熱を持っていた。彼の胸元に手を中てると、少し早い鼓動が感じられる。確かに共有しているのだ。
わたし達、二人でなら何処へだって行けると云う事実を。
彼の手が、心臓が、わたしの手の中にあって。
そのことに云い知れぬ充足感を覚える。
肺いっぱいに、息を吸う。
「中也」
「……ああ」
「中也」
希うように名を呼ぶ。彼は――中也は微かに口の端を釣り上げて、喉を鳴らしてわたしに応える。
「命令を寄越せ。太宰」
その声が、夜闇に澄み渡って心地が好い。
中原中也。
惜しむわたしの手を放し、きゅっと革の黒手袋を嵌める。それから抜くのは手入れの行き届いたナイフ。さっと一筋差し込んだ銀の月光が、刃のように研ぎ澄まされた中也の背を照らし出す。
この中也の全部はわたしのもので。
わたしは中也のものなんだ。
わたしの中を巡った酸素が、彼にも回る高揚感。
「ねえ、じゃあ、中也」嫌でも声が上擦る。「全員返り討ちにしてよ。情報は不要だから、徹底的に殺して構わない」
「仰せのままに、幹部候補殿?」
「あっそれ止めてよ。普通に呼んで」
「手前だっておれのこと、名前で呼ばなかったくせに。きみ、きみって」
微かな笑いを残して中也が駆ける。あっちょっと。云い逃げじゃないか。憤慨する。追って来ていた敵は五人。未だ此方に気付いていないのか、発砲は無い。それを善いことに、中也は巧みに忍び寄って瞬く間に五人、動脈を掻き切る。
「中也、上!」
「ああ」
云うと器用に枝に手を引っ掛けて、くるっと頭上の枝葉の中に突っ込む。ぎゃあ、と響く悲鳴、次いでドサリと死体の落ちてくる音。その間にわたしは死体の一つから銃を抜き、未だ動いていた敵兵を念入りに撃ち殺す。これで六人。
とん、と背中を何時の間にか降りてきていた中也に預ける。
「なんだ。楽勝だな」
「うん」
楽勝、と云う割に、中也が肩で息をしているのが判った。体温が常より高い。わたしも同じだ。戦闘と血に中てられた浮遊感で、足元が覚束なくなる。
「太宰」
熱を帯びた声に呼ばれる。わたしも振り返って差し出された手にハイタッチと視線を交わす。合わせた彼の手が興奮で震えていて、紛れも無く同じ気持ちなんだと判る。
そのことに、ひどく子供地味た喜びを覚えて触れる。
そのとき。
パァン、と遠くで銃声が鳴った。森がざわついて、一瞬聴覚の捉える音が遠くなる。
目の前で、ぱっと血が飛沫いた。
耳に残ったのは、中也の微かな呻き声だ。
「……え?」
状況を理解する前に木の影に引き摺り込まれた。そうして中也と二人、縺れ込むように倒れる。ぐっと体重を掛けられたから、慌てて中也の体を支えようとして――気付く。
ぬるりと手に付いた、血の感触。
「……ちゅう、や?」
名前を呼ぶ。中也は答えない。ただ木に背を預けたまま浅い息を繰り返すのみで、その目は虚ろに宙を彷徨っている。
漂う鉄錆の匂い。
「……! 止血!」
状況を把握すると同時に、手早く中也の襯衣を破き二の腕を縛る。銃声と着弾の間隔からして、これは遠隔での狙撃だ。なら敵が来るまで処置をする時間はある。出血しているのは腹の辺りだ。傷の程度は暗くて善く見えない。
如何する。医療班を呼ぶか。けれどあの屋敷のうち、誰が敵に回っているか今の段階では判らない。じゃあ本部から。
そう冷静に処置をする傍らで、ひどく混乱する自分が居る。
如何して中也が死にそうになってるんだ。
だって、こんなことは常であればあり得ないのだ。中也を首領から借りるようになってから、彼が血を流している処などわたしは一度も見たことが無い。嵐のような銃撃の中に突っ込んでも無傷で帰ってくるような男だ。序にその異能をフルに使って、獣のように暴れ回ってくるような。
それが今、銃弾を受けて苦しんでいる。
――わたしの能力が、異能無効化だからか。
気付いてさっと血の気が引く。
「わたし、わたし……きみのこと……」
触れていては――手に入れてはいけなかったのか。先程の高揚感は既に冷め切っていた。代わりに背筋を覆うのは如何しようも無い冷えと後悔だ。吸った筈の息が吐き出せなくて苦しい。呼吸の仕方が判らなくなる。
そうだ。何を満足感に浸っていたんだろう。手に入れたって、それがずっと続く訳じゃない。何時かは手放さなきゃいけないんだ。人間だって生き物だから、息が出来なければ死んでしまう。
中也だって例外じゃない。
況してわたしが壊してしまわないと、如何して云い切れるんだろう。
「やだ、嫌だよ、中也……」
気付けば懇願するように、彼の名前を呼んでいた。
それ以外に、如何することも出来なかった。
「きみが居ないと、息が出来ない……」
意識を保つ為の呼び掛けにも、中也の反応はひどく薄い。
知らなかった。きみが応えてくれないことがこんなにも苦しいものだなんて。心臓の辺りをぎゅっと押さえる。何だこれ。苦しい、息がし辛い、そんなのは普段から慣れている筈なのに。それなのに、中也が苦しそうにしているだけで、こんなにも肺が締め付けられる。
まるで茨の棘が絡み付いているよう。
ちくちくぎゅうぎゅうと、痛くて痛くて堪らない。
こんなに辛いなら、いっそ。
「……だざ、い……」
微かに呼ばれて弾かれたように顔を上げた。ガシリと腕を掴まれて、「また余計なこと考えてやがる」と手の甲を弱々しく抓られる。余計って何だ。人がこんなに苦しんでるのに。
「余計じゃ、ないし……」
「それにしては、情けねえ顔……」
途切れ途切れの声を、聞き漏らさないように耳を澄ます。「……。敵は如何なってる……」
「来てない。来るのかな。狙撃ポイントから此処まで、徒歩なら未だ余裕あるし……もし狙撃手が首謀者なら、この有様見たら来ないかも……」
「じゃあ手前はさっさと此処を離れて逃げろよ……ああ、後おれの端末、寄越せ……」
前半は無視して、聞き分け良く中也のズボンの衣囊から端末を抜き出して渡してやる。「ああ、待って。誰に掛けるの……」「姐さん」「判った」震える手じゃ満足に操作出来ないだろうと、ダイヤルして耳に押し当ててやる。わたしの手は震えていなかったのかと云えば、そんなことは無いけれど。
中也の応答は、半ば譫言のようだ。
「ああ姐さん、うん……わり、しくった……本部の救急……そう、信用出来る奴……」
その様子だと、如何やら中也は姐さんには此処に来ることを云い置いていたらしい。姐さん。尾崎紅葉。中也の今の、育ての親、みたいな。
軈てぷつっと通話の切れた音がする。はっと我に返ると、真っ青な頬に掛かった色素の薄い髪が揺れて、尚一層の弱々しさを滲ませていた。
その中にあって、口の端だけが血に濡れて紅い。
「太宰、もういい……医療班は姐さんが手配して呉れるから、さっさと逃げろ……」
「そんなこと云ったって、きみ、置いていける訳無いだろう!」
「判んねえか」
ごふ、と血と共に言葉を吐き出す中也。その強さに、わたしは思わず立ち竦む。
「おれは大丈夫なんだよ。しってるだろ。おれの異能は重力操作だ。血が流れねえようにするくらい訳無えんだ。敵が来たって問題無え。寧ろ手前が居ねえ方が、ずっと都合が善いんだ……」
それを聞いて、呆然と彼の体を手放した。出血が緩やかになる。飛び散った血が玉となって浮いて、彼の異能の顕現を示す。
わたしが手にしていたことで失われていた血が、わたしの手を離れることであるべき姿へ戻ろうとする。
阻害していたのは、わたしだ。
「ああ、ああ、情けねえなあ……。おれにもっと力がありゃあな……」熱に浮かされたような中也の言葉が、耳に痛い。「この前だってそうだ。おれに、手前の策を遂行する力さえあれば……そうすりゃあ随分と、手前も生き易かったろうに……そうだ」
中也は其処で一旦言葉を切った。それから何と覗き込んだわたしに、まるで買い物メモを手渡すような気軽さで一つ、頼み事だと呟いた。
「……首領におれが此処に居ること、チクんじゃねえぞ……」
「は」
その内容の莫迦莫迦しさに、笑おうとして失敗する。
「きみ、姐さんには云い置いて出てきたくせに、首領には無断なの……」
喉が渇いて引き攣れた。泣き笑いのような声が出る。だっておかしいじゃないか。わたしとは距離を取れと、大事な首領からの云い付けまで破って此処に居るなんて。
わたしの為に、こんな。
「行けよ……」
後ろ髪を引かれるわたしを押し出すように、手の中に何か押し付けられる。コロン、とわたしの手の平を上を転がったそれは銃弾だ。
中也の血に濡れた。
「おれは大丈夫だよ」ぜえぜえとまるで説得力の無い褪めた顔で、それでも中也は笑う。「さっさと行けよ。後は手前で、始末付けれんだろ……」
ぐっとその冷えた鉄を握り締めて。
わたしは何も云わず、中也を置いてその場を後にした。