【再録】月酔い
○ 2:00 a.m.
銀の月が、頭上に開いたビルヂングの隙間からその冴え冴えとした輝きを見せていた。路地裏に人の往来は無く、驚くほど静かだ。掴んだ街灯からじじ……と蛍光灯の明滅する音と、中也の息遣いだけがやけにはっきりと響く。
思い出していたのは、随分と昔の話だ。あの頃は、何だかお互い上手くいっているように見えて、処々に微妙に齟齬が有ったりもした。歯車が合わなくて、その度歯噛みしていたのが懐かしい。中也は頑なで、太宰は拗ねていた。お互い、相手の相棒と云う立場を誰にも譲るまいと必死だったのだ。
今は別に。
そんな子供地味た感情で揺らぐほど、互いの中の自分の立ち位置が確立していない訳ではないし。
そんなことで変わる程度の関係ではないと判っているから。
だから、確信を持って口にした。
相棒の名を。
「太宰」
微かな声が、誰も居ない夜の路地の中に溶けていく。
その向こうから。
「呼んだ?」
涼やかな声が、中也の呼び掛けに呼応するように返って来た。夜の帳の奥から姿を現したのは、相も変わらずふらふらと、軽佻浮薄が服を着て歩いているような男だ。月光がその黒い蓬髪を撫で、その白い肌を撫でた。
それが、中也とは違いかつんと確実に靴音を石畳に鳴らしながら、薄く笑って口を開く。
「こんばんは、中也。今宵は佳い夜だね」
「ああ。手前と逢うには持ってこいの夜だよ、太宰」
静かな夜を、二人分の吐息が震わせる。
一瞬落ちた静寂の後、くすりと笑ってみせたのは太宰だ。
「今日は本当に大変だったんだ。敦君が処構わず虎になるから、ずっと付き添ってあげなきゃいけなかったし。鏡花ちゃんも、夜叉を出しっぱなしだったし。他の――……」
「太宰」
浮付いた声を、有無を云わせぬ語調で遮った。太宰がぴたりと黙り込む。そんな話が聞きたくて名前を呼んだのではなかったし、此奴だって、そんな話がしたくて態々中也に逢いに来た訳ではないだろう。
一歩、踏み出す。獰猛に笑う。
「俺と居るときに、他の奴のこと話してんなよ」
街灯から手を離した。途端、足のふわりと浮く感覚。今日はずっとこんな風に、足元が覚束ず不安定だった。然し幹部がふわふわと呑気に空中を漂っていては格好が付かなかったから、出来るだけ内勤の仕事をするようにしていたし、そうなるよう業務も事前に調整した。他の異能持ちの部下にも、それぞれ負担の無い仕事を割り振った。過去にも例が有ったから出来たことだ。こんな月の夜は、妙に心許無い気持ちにさせられる。
手を尽くして――それでも不安な気持ちは有った。
人間失格の異能が有れば。太宰が傍に居れば、俺はきっと大丈夫なのにと。
一度だけ、端末をスライドして眺めた名が有る。電話帳の青鯖の文字。もう何年前から、変わらずずっと登録されている番号だ。ワンコールで繋がる筈のそれを、二、三度撫で、押そうとして――踏み留まるその動作を、一度だけ。太宰にだって探偵社の業務が有る。太宰の妨げになるのは御免だ。
それは相変わらず、中也の矜持が許さない。
けれど。夜くらいは良いだろう、と中也は二歩、三歩、宙へと踏み出す。昼は御天道様に顔向けの出来る人間の時間、然し夜はマフィアの時間だ。太宰を日向の影から、夜の闇へと引き摺り落とす時間。少し借りるぜ。誰共作しに、呟く。
何しろ俺は相棒だから。それくらいの占有は許されんだろ。
ふわ、と抵抗無く浮かび上がった中也の体は、駆け寄って来た太宰が慌てて腕を掴んだことでずっと重さを取り戻した。その、布越しの体温。僅かに乱れた息。中也は顔を上げる。
奇妙な間が、二人の間に落ちた。
先に口を開いたのは太宰だ。困ったような笑みを浮かべて、戯けた道化宛らに肩を竦める。
「……如何したの、裏切り者の名前なんか呼んで」
「手前が裏切ったのはマフィアであって俺じゃあない」
一刀両断。
一瞬酸素の切れる感覚。
「……だろ?」
「……君、今夜は妙に積極的だね」
本当に中也かな、と太宰が控えめに苦笑する。その手首を逆にひしりと捕らえると、警戒に体の強張るのが判る。今度は中也が苦笑する番だった。何もしやしねえのに。このまま骨でも折ると思ったか、……嗚呼、前科が有ったな。
思い出して微かに笑い、此奴も覚えてたのかなと少しのノスタルジイに浸って――ちょっと反省して拘束を解く。ふわりと空を漂おうとして、太宰に頬を撫でるように触れられすとんと難無く地面に落ちた。上がった目線が、また下がって。
「大体、君、如何して外に出ているの」太宰があからさまに胸を撫で下ろしながら云う。「君みたいな異能持ちは、こんな夜には室内に篭もるのが善いのは判ってるでしょ」
こんな、と太宰が指し示すのは頭上に広がった狭い月夜だ。空に伸びるビルヂングの先に、大きく輝く白い月。じっと見ていると、そのまま魅入られて飲み込まれてしまいそうな。
それを帽子の鍔越しに眺めながら、中也は微かに笑った。
「必要無えよ」
「そう? ……ねえ、それ自惚れても善いのかな」
すい、と前髪を人差し指で掬い上げられた。常に無く多いスキンシップ。多分、この男は態と距離と詰めてきている。何時もみたいに、中也に拒絶されることを前提に。
「ああ。……好いぜ、太宰」
だからそれを逆手に取った。
「ちょっとなにす、……!」
胸倉を掴み、引き寄せ、その体を無理矢理壁に押し付ける。太宰は完全に油断していたのか、蹌踉めいてその背を建物の一角に預けた。打ち付けた後頭部の痛みに低い呻き声が漏れるのを聞き、口の端から笑みが零れる。何時もの取り繕った声じゃあない、苦鳴の音に気を好くする。そのまま噛み付くように唇を奪う。勢い、帽子がぱさりと落ちる。
「ん……ッ」
べろりと唾液を舐め取って、舌を捩じ込んで絡め取る。首が締まって苦しいのか、太宰がどんどんと拳で叩いてくるが知ったことじゃない。大体、手前、苦しいの好きだろうが。
そのまま息をさせる隙を与えずに、口内を無遠慮に弄った。後頭部を捕まえて、すりと耳の後ろを撫でてやると、苦しげな様子が失せ、頭を気持ち好さそうに中也の手に委ねて来た。柔い処を掠めて強く吸い付かれて、段々と甘い声が混じって来て、終いには互いに夢中で貪り合う。
夜風が熱を帯びた体を打って、けれどそんなもので止まれる訳がなくて、脳が痺れるような快感に、ただ溺れるように抱き合った。ずるずると、何も考えずに。只管、本能のまま相手の熱だけを求め合って。
ぷは、と解放される頃には、お互い膝から力が抜けて、何時の間にか縺れ合うように石畳の座り込んでいた。肩が上下していて、そのあまりの有り様に笑い合う。
「……ふふ、中也ったら、悪い顔……」
「お互い様だろ……」
息を吐く。吐息の掛かる距離でこつんと額を中てると、長い睫毛が瞼の震えに合わせて揺れるのが見えた。
それでじ、と此方の言葉を待つように、黒曜の瞳が二、三度瞬くものだから、中也は静かに口を開いた。
「傍に居ろよ、太宰」
ぐっと力を込めて、石畳に突いたその手を上から握り込む。骨張った手は以前よりも少しだけ大きくなっていて、その中には多分、道を違えてから抱え込んだ、中也の知らない重荷や柵が握り込まれているんだろう。それはもう、二人で背負うことの出来ない荷物だ。
「俺の、傍に」
けれど中也の手だって大きくなっていたから、その感触は変わらず何時かと同じだった。今度だって、離す積りは無い。
太宰が破顔する。
「……君が素直なのは気持ち悪いな」
「だったらその嬉しそうな声、ちっとは隠す努力をしろ」
「ふふ」
太宰の手が、中也の手袋を脱がせてその手を握り返した。掌の間で、二人分の体温が温く混ざる。中也の手が冷たくて、太宰の手が熱い。ぎゅうと互いの熱を分け合う。
「ねえ、中也」
掠れた声に、名を呼ばれる。見ると、直ぐ近くで夜の海を思わせる、潤んだ黒い瞳と目が合った。
「……私も傍に居たい」
軽く唇を合わせる。密やかに告げられたその願いが、月の夜に溶けていく。中也の奥底に淀んでいた、ふわふわと宙を彷徨うような均衡を欠いた不安は、既に形を失くしていた。其処に在るのは、ただ包まれるような安堵だ。相棒に触れている、ただそれだけの安心感。
それは太宰だって、同じで。
「君の傍に」
だからお互い、何時に無く素直にその内心を、月の下へと曝け出した。
魅入られるような、澄んだ月夜だったから。きっと、二人揃って月に酔っていたに違いなかった。
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