【再録】月酔い


○ 10:30 p.m.


 欠けること無く丸い月が、ふーっと空に吐かれた紫煙の向こうに霞んだ。銀色に輝く縁が、夜の暗さを一層際立たせている。月が綺麗ですねなんて気取った科白は、こう云う夜にこそ映えるのだろう。
 自分と中也の間に今必要な言葉ではなかったが。
「……悪かったよ」
 ぽつ、と中也の呟くような声が静かな夜に響いた。太宰は建物の入口に寄り掛かって、じっと空に上る煙を見詰める。ぎゅう、と中也の手を手袋越しに握り締めるが、返る反応は無い。触れているのに、距離は無いのに、何故か透明な膜に阻まれたように、中也が遠く見えた。
 今この手を離してしまったら、本当に遠くに行ってしまうのだ。この煙草の煙の後を追って、ふわふわと、太宰の手の届かない処までずっと浮き上がってしまう。屋内に居たときは考えも付かなかったが、そう思うと少し怖かった。
 なのに、中也は太宰の力を借りる積りは無いと云う。
 中也の考えていることが判らなかった。
「何で? 君が素直だと気持ち悪いな」
 太宰は煙の行方を追うのを止め、今度は惘乎とホテルの周囲を見回した。送迎用の車が処狭しと停まっている。宴も酣だ、未だ客は一人も出て来ていない。何故だか人の子一人、猫の子一匹通り掛からず、其処には太宰と中也が居るだけだった。ふーっと息を吐き出す音が、妙に艶かしく夜を震わせる。
「俺は何時だって素直だろうが」中也は笑う。「相棒としてこれ以上無えほどに、手前には尽くしてきた積りだ。自分の部隊を悉く使って、幹部候補様の意のままに。……一緒に戦地を駆けた機会こそ少なかったが、少なくとも手前の部下や其処らの構成員じゃあお話になんねえくらい、誰よりも俺が一番有用で、手前にとって俺が一番価値が有った。そうだろ?」
 その言葉には引っ掛かりが有った。
「『有った』って何」
「こんな無様を晒しておいて、未だのうのうと手前の相棒を名乗る積りは無えってこと」
 潜む自嘲の気配を感じ取って、太宰は戸惑う。何云ってるんだろう。中也、と覗き込んでみるが、その金の瞳は、じわりと純水に墨を一滴落としたように淀んでいる。そして頑なに、太宰と目を合わせようとしない。
「あのさあ、中也」思わず握る手に力が入る。「私は、その程度のことで私の中の君の地位が揺るぐほど……」
 君のことを軽視してる心算は。
 そう続けようとした瞬間。

 ぎら、と殺気の向く気配が有った。中也ではない、何処か遠く。狙撃だ。何処から来るか、太宰には心当たりが有った。
「中也!」
 そちらを見もせず無理矢理中也の体を押し倒す。無防備に煙草を吸っていた中也は、強かに地面に背中を打ち付け顔を顰めた。太宰、手前、何しやがる、と云う文句はちゅいんと云う地面への着弾音に遮られる。中也の瞳孔が、淀む金色の中ですうっと凶暴さを持って細くなる。
「あのビルか」
「でもなんで」
 ぽろっと漏らした疑問の声に、腕の下で中也が目を剥く。
「『なんで』も何も、彼処の警備は手前の管轄だろうが」
 そうだ。そして太宰の訊きたいのはそんなことじゃない。携帯端末を取り出しコールする。がちゃと相手が出て第一声。
「如何云うことだ」
『太宰さん、申し訳御座いません!』
「云い訳は要らない。誘い込んだ後は撃たせずに始末しろと云った筈だ。何取り逃がして……」
「太宰!」
 二弾目を撃たせるヘマはしないだろう、そう願ったにも拘らず、未だ太宰の部下は獲物を捕らえられないでいたらしかった。中也に咄嗟に蹴り飛ばされる。腹部に鈍い痛み、飛ぶ体、次いで着弾音。
 あ、拙い、と云う顔をした中也と目が合う。
 相変わらず、加減を知らないんだから。腹に受けた蹴りに呻きながら、遥か後方へと吹き飛ぶ。そうしてガンと建物か何かに後頭部を強かに打ち付けて、太宰の視界は暗転した。

     ○ ○ ○

 ふわ、と足の裏が地面を離れた。体も。慌てて手を伸ばすが、届く範囲に掴まれるものは何も無い。建物からは先刻の弾みで離れてしまっていたし、太宰のことは今しがた蹴り飛ばしてしまった。車が、と傍らに停まっていたリムジンを掴もうとするも既に届かず、抵抗無く体が浮き上がる。助けを求めた指先が虚しく空を掻く。なら、と先程までと同様に異能の制御を試みるが、何故だか上手く操作が利かない。完全に、中也の制御を離れてしまったようだった。
 太宰。
 咄嗟にその名を呼ぼうとして――然しその声は、引き攣れたように喉の奥から出てこなかった。口の中が矢鱈に渇いて、空気の味が痛い。ぱく、と開いた口を閉じて、また開いて。
 ――太宰。
 太宰は気を失っている。
 中也の浮遊に気付かない。
 呼べば起きるのかも知れなかった、太宰のことだから、中也が呼べば。然し今の中也には、如何してもその名を呼ぶことは出来なかった。
 ――君一人で十分でしょう。
 ――私が傍に居る必要、有る?
 太宰の言葉が耳の奥に蘇る。中也の声を縫い止めているのは、細い、針のような恐怖だ。それが無数に喉を貫いていた。
 帽子が風に吹かれて中也の頭を離れ、そして遥か真下へと落ちていった。その間も中也の体はふわりふわりと上昇していく。二階の窓を通り過ぎる、三階の窓の縁が目線の高さに合わさる。藻掻こうにも、空気を蹴ったって何の感触も無い。
 ちら、と振り返ると、段々と背に負う月の影がじわじわ大きくなってきている。このまま空へ吸い込まれて行ったら、自分の体は一体如何なってしまうんだろうか。中也の思考に、嫌な影が差し込む。
 異能に喰われることを、考えたことが無かった訳ではない。
 異能力に依る加重は己の体を痛めることも多々有ったし、一歩使用を誤れば一気にぐしゃりと潰れる危険性だって有る。だから、自分の死に様はきっとそう云う風なのだろうな、と何と無しに思っていた。ぐしゃぐしゃに、高所から落下した果実みたいにその中身をぶち撒けて死ぬんだろうと。
 だからこんな、じわじわ真綿で頸を締められるような感覚は実に不思議だった。このまま独り、空を漂い、宇宙の塵になるのだろうか。傍らに誰かが居るでもなく、誰に看取られるでもなく、ただ遠く忘れ去られて? いまいち実感が湧かない。ふわ、と遠くに建物の四階を過ぎるのが見えた。
 懐に、愛用の銃が収まっているのを確認する。いざとなればそれを額に中てる感触を頭に思い描きながら、中也はゆっくりと目を閉じた。走馬灯と云うやつだろうか、瞼の裏に流れるのは詰まらない記憶ばかりだ。組織に入る前とか後とか。その中で、唯一真新しく目を引くのは幹部候補殿との記憶。
 楽しかったな、と柄にもなく思った。
 太宰と組んで、仕事をするのは楽しかった。相棒なんて云われて、少し嬉しかった。人間性は好きじゃあなかったが、その頭の回転の早さ、仕事を回す効率の良さ、機転の良さは買っていた積りだ。寧ろ尊敬さえしていた。
 だからこそ、その足を引っ張ることは、中也のプライドが許さない。
 
 そうだ、元はと云えば俺の不調だし。
 相棒の手を、煩わせる訳にはいかねえし。
 手前を付き合わせんのは、心底悪いと思ってたんだ。

 意識まで、ふわふわと浮かび上がりそうになる。手放しかけたそれを引き止めたのは――他でもない相棒の声だった。
「――中也!」

     ○ ○ ○

 どれくらい意識を落としていたのか判らない、多分、数分も無いくらい。目を覚ましたら中也が居ない。見上げると、月を背負った小柄な影。
「莫迦中也」
 ざっと周囲を見回す。本部ビルが一番近い。昇降機で屋上から? 否、今の停止階によっては間に合わない。他には。一つ隣に古びたビル。非常階段。あれだ。太宰は駆け出す。
「矢っ張り気合じゃ如何にもならないじゃない!」
 叫びながら、銃を抜いて非常階段の錠を撃ち抜く。錆びた錠が弾け飛んで、ギイと柵が開いた。駆け上がる。
「中也!」
 呼び掛けると、中也は漸く此方に気付いたようだった。何意識飛ばしてんの。呆れながらカンカンカンと金属の階段を一段飛ばしで全力疾走。太宰の息は既に切れている。然しこのペースであれば追い付ける、五階、いや、六階辺りで!
 ぜえ、と酸素の不足に意識が飛び掛けるが悠長なことは云っていられない。六階を過ぎ、七階、八階まで来た処で小さな踊り場に出た。非常階段は行き止まりだ。チャンスは一度きり。失敗は許されない。息を吸って、吐いて、柵から身を乗り出す。下を見る。ふわりとその体を漂わせる中也が見えた。
 目の眩む高さだ。然し躊躇っている余裕は無いし、中也を手の届かない処にまでやってしまう心算も無かった。
 柵に足を掛けて。
「手ェ出して!」
 中也に向かって一気に跳んだ。当然浮き上がらないから加速度が掛かって太宰の体は落下する。上手く中也の近くに。いや、今少し届かない。
「太宰」
「早く!」
 躊躇いがちに差し出された手に思い切り手を伸ばし、空中で半ば無理矢理引っ掴んだ。その瞬間、ひゅ、と無重力が掻き消えた。空気の重さが戻って来る。
 問題はここからだ。地面に背中を向けるようにし、戸惑う中也の体を抱え込む。高さは六階相当だ、生きて落ちられる高さじゃない。落下の衝撃に備え、ぐっと奥歯を噛み締める。ああ、死にませんように。いや、これで死ぬなら寧ろ本望か。太宰は笑う。
「太宰。……なんで」
 耳元で囁く声がした。だから太宰も囁いた。
「だって相棒だから。……一蓮托生だよ」
 本当、それでも善いと思ったんだ。月を見ながら落下する。
 直後。

 がしゃん、
 と車のルーフの歪む派手な音と共に。
 甲高いクラクションの音が、夜の闇を切り裂いた。

     ○ ○ ○

「痛ったぁ……」
 太宰はもそりと動いて呻いた。体が五体満足に有ることを確認する。若しかしたら、何処かの骨くらいは折れているのかも知れない。然し幸か不幸か、また死ねなかったと云う訳だ。車を一台廃車にするだけで済んでしまった。クッションにするよう狙って落ちたとは云え、その素材は御世辞にも柔らかいとは云えなかったから、死ねなかった上、体の節々に激痛が走っている。最悪だ。
「て云うか、『なんで』って如何云うこと?」
 思い出して、太宰の機嫌は急降下する。あのね、とじろりと上に跨った中也に云い掛けるも、クラクションが煩くて自分の声さえ佳く聞こえない。煩わしげな顔を見せると、中也も同じだったのか、「煩えな」と銃を抜いてリムジンの運転席へと立て続けに発砲した。上手く配線が切れたのか、ホーンの音が立ち消える。
「……あのさあ」
 それを見届けて、太宰は呻く。
「私のミスで組織の貴重な異能者失うとか、そう云う不名誉押し付けるの止めて呉れる……?」
 況して君の異能は貴重な重力操作なんだから、と云い掛けて――止める。違う。そうではなかった。別に太宰は、組織の為に中也の命を救った訳ではなくて。
「……じゃあ殺せよ」
 然し一瞬早く、中也がぽつりと呟いた。思わず目を剥く。
「は?」意味が良く判らなかった。「誰が誰を」
「手前が俺を」
 冗談で云っているのではなさそうだった。その方が余計、質が悪い。
「待って待って待って何でそうなるの、君自殺願望無いでしょ」
 キャラ被ること云わないで呉れる、と慌てて身を起こそうとするが中也は退かない。気でも狂ったのかな、と顔を覗き込んでもその瞳はこれ以上無く正気の沙汰だ。そして正気の光を宿しながら、「嫌なんだ」と中也は呻く。
「如何でも良くて詰まらねェ、何時でも使い捨てられて替えの利く、手前にとってのそんな都合の良い、ただの駒に成り下がるのだけは、死んでも御免なんだよ……」
 それを聞いた太宰の、時が一瞬止まる。
 それは、中原中也の心からの悲痛な叫びだった。
「俺は手前の相棒なんだよ、太宰」
 そして太宰治の叫びでもある。
 そう、私達は相棒で。
 中也は私に弱みを見せたくなくて。 
 私は中也にその弱みを見せて欲しかったんだ。
 だから。
「……なんだ、そんなこと気にしてたの?」
 云い放った。
「あ?」
 淀んでいた中也の瞳が一瞬でぎら、と殺気立つ。先刻までのしおらしさは、一体何処に行ったと云うのか。肌を切り裂くような殺意を至近距離で浴びながら、太宰は不敵に――或いはこの上無く厭らしく笑った。
「大体、私そんな軟じゃないし。中也如きに足を引っ張られる訳無いでしょう」態と中也の癪に障るように、乱暴な物云いをする。「寧ろ相棒の不始末の一つや二つくらい、責任取って片付けられずに如何するの」
 乱暴に胸倉を掴まれる。何故だかその仕草に心が踊る。
「……ああ、そうかよ」
 案の定、中也の声は低く地を這った。お互い機嫌は最悪だ。けれど中也の強張っていた表情が、微かに緩む気配が有った。
 二人の間に薄く張っていた膜が、ゆっくりと溶けていく。

「……なあ太宰。一つ相談が有るんだが」
 中也が神妙な声を上げる。「それより好い加減退いてよ」と促すも、中也は太宰の上から動こうとしない。どころか、前傾になって太宰に伸し掛かってきた。車の屋根部分に、押し倒されるような体勢。腹にぎゅうと体重が掛かる。何の心算、と目を向けるも、少し屈んだからか、その表情は街灯の光で影になっていて佳く見えない。
 少しだけ息が乱されて、太宰は苦しさに顔を顰めた。
「ちょっと、なに、中也……」
 訊くと、一呼吸分吐息が落ちる。
 中也がゆっくりと、口を開く。
「これ、姐さんの車だわ」
「……は?」
 ――あ、血の気の引くときって耳元で潮騒の音がするんだ。
 次の瞬間太宰はガンと車のフレームを蹴っ飛ばして凹んだ屋根からの脱出を試みた。然し中也がそれを許さない。全力で抑え付けられ、無理に抵抗すると体の節々が軋む。暴れると落下時に打ち付けた背が鉄の凹凸に中って痛いが然しそんな些事に構っていられる状況じゃない、やばい、殺される!
「おいおい、相棒の不始末は責任取って呉れんだろ?」
「良いから離し給えよ心中は美人とって決めてるの!」
「なら俺は要件を満たすじゃねえか喜べよ」
 念願叶ったりだな、と力任せに手首を握られ凹んだルーフに縫い止められる。片側の手首からみしっと嫌な音がして、骨の異常を脳が感じ取ったが興奮状態の為か不思議なほどに痛みは無い。真っ青になって見上げると、青白い街灯の下で中也が口角を持ち上げるのが見て取れた。
「逃がす訳無えだろ? 一蓮托生だ、仲良くしようぜ……」
「うわああああやだやだ死にたくない!」
「自殺愛好家が吠えやがる」
 喚く太宰に覆い被さったまま、ふふ、と相棒が嬉しそうに笑うのを太宰は見た。その珍しく心の底から見せただろう笑みに太宰は瞠目する。次いで、嗚呼、と過ぎる後悔。抵抗を緩め、ばたつかせていた足を無造作に放り出す。
 そんな風に笑われたら。太宰は口元を歪める。そんな風に笑われたら、例え太宰の手を握っているのが大した力じゃなくっても、この繋いだ手を、離すことなんて出来る訳が無いのだった。
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