【再録】月酔い


○ 5:30 a.m.


 その日、太宰の機嫌はこの上無く悪かった。
「我々はそのように言付かっております」
「私は聞いてないって云ってるの」
 苛立ち紛れに、ぱん、と一つ銃を発砲する。勿論威嚇だから地面に向けて。中也の部下はぴくりと一瞬身を竦ませたが、然しそれ以上の反応は見せず、「敵に此方を位置を知られてしまいます。お止め下さい」と素っ気無く告げただけだった。それが更に太宰の不満を煽る。
 苛立ちの原因は相棒からの連絡だった。連絡と云っても、直接会話した訳ではない。太宰との共同任務の開始を前にして、部下に預けた言伝てが一つ。「今日は体調不良で休む」。ただそれだけ。後は梨の礫で、携帯電話の電源は先手を打って切られていた。お掛けになった電話番号は、電源が入っていないか……と響く機械音声。そう云えばこの男の電話に掛けてそんなアナウンスを聞くのは初めてだったなと思って、それから何で私が此奴に態々電話しなきゃいけないんだと我に返って憤慨した。そう云うのって自分で直接報告するべきなんじゃないの、仮にも幹部候補の手を煩わせるんだから!
 有り得なくない、と太宰は苛々と足を踏み鳴らした。早朝の路地に靴音が響く。敵に気付かれるかも、と中也の部下は云ったがこの位置であれば問題は無かった。今太宰達の居るのは標的の宿泊している高級ホテルの裏手、そして標的は最上階。日も昇り切っていない時刻だ、呑気に夢の中だろう。相手が気付こう筈も無い。
 仮に気付かれたって、太宰の部下が既に回りを固めているのだから逃げ果せるのは至難の業だし。そうして逃がさないよう固めた処へ、太宰の指示で中也が突入。最低限の器物破壊と護衛の殺害で標的を仕留め、即時撤退。その筈だった。
 なのに。
「無断欠勤」
「本部の方へは欠勤届を出されていますので、無断欠勤にはなりませんね」
 淡々と、中也の部下から説明の言葉が落ちる。
「体調不良と云うことで、夕方まで出勤されないことについては上司の承認は得られています。今晩の行事への出席については――我々は、未だ何も」
「ああ、今日はそれも有るんだった」
 今夜はマフィア主催のパーティだ。幹部候補は勿論のこと、中也だってそれなりの地位なんだから出席する必要が有る。
だから余計、『体調不良』なんて曖昧な理由での欠席は許されなかった。
「ねえあのそう云う処は煩そうな奴が直接電話も出来ない理由って何なの? 風邪? 声を枯らした? 真逆昨晩飲み過ぎて潰れたんじゃないだろうね」
 嫌味をぶつけながら、それは違うだろうな、と自分でも内心思う。次の日の早朝に太宰との任務が有ると云うのに、潰れるまで呑んだくれるような男ではなかった。そんな隙が有ったなら太宰が疾っくに撃ち殺してる。「中原さんがそう云う方でないことは、貴方が一番御存知でしょう」。部下の一言をじろりと睨む。判ってるよ、煩いな。
 中也の部下は、幹部候補の射殺すような視線を受けても何処吹く風だ。これだから、中也に忠誠を誓っているような奴等はやり難いんだ。太宰に構わず、部下は続ける。
「我々も聞いておりませんが、今日の作戦については聞いておりますのでそのままお伝え致します。……『俺が居なくても、彼奴一人で任務は問題無えだろ。これを見りゃ、俺の部下の戦力は判る筈だし、彼奴ならそれで何とかする』」
 その言葉と共に差し出された紙の束を、引っ手繰るように受け取った。作戦書だ。処々に乱れた手書きの字が在って、太宰には筆圧の高いそれが一目で中也のものだと判った。
「君、これ、中也から直接預かったの」
 ぺら、とそれを捲りながら尋ねる。確かに今日の強襲の要点が纏められてあった。向こうの戦力と此方の戦力。後抑えておくべき侵入路を簡潔に。何故太宰の部下の頭数まで詳細に計算に入れられているのか判らなかったが(そしてそれを包囲に使っていることまで書いてある、今日の作戦については何も打ち合わせしていないのに)、此処、と乱暴に付けてある、その印だけで太宰が作戦を立て直すには十分だった。
「いえ。我々は、中原さんからメールで指示を受けました。執務机に万一のときの為に作戦書を入れてあるから、それを太宰さんに渡せば、自分が居なくても何も問題は無いようにしてあると」
 それで少しだけ溜飲が下がる。成る程。詰まり太宰のみに会わない訳ではなく、部下にも顔を合わせていないと云う訳。
 それでも直接電話してくるでもなく部下に言付けるなんて蔑ろな対応が許せる筈も無くて、さっさとこの退屈な任務を終わらせないと、と太宰はぱたんと紙の束を閉じた。ライターを取り出して火をつける。じりじりと、端を黒く焦がしたそれはやがてめらりと炎を帯びて、その体積を酸素と共に消費しながら太宰の手を離れていく。
 早く終わらせて、嫌味の一つでも云いに行ってやらないと。
 気付けば任務開始予定の五分前だ。淡青の空に、僅かに欠けた朝方の月が沈んでいく。きっと今晩は満月だろう。
「今日は宜しくお願いします、太宰さん」
 頭を下げる中也の部下を見て、取り敢えず腹癒せに態と全滅させてやろうか、なんて益体も無い考えは棄てたのだった。


○ 9:15 a.m.


 苛立ちを隠しもせずに、大股で本部を横断する。
 その途中。
「おや。広津さん」
 見知った顔を見付けて、太宰は声を掛けた。
 振り返った黒蜥蜴の百人長は、常のように紳士然とした雰囲気を漂わせながら、然し少し困ったように或る部屋の前で立ち止まっていた。あれ、と太宰は首を傾げる。確か其処は資料室だ。彼が何の用なのだろう。縦んば用が有ったとして、如何してさっさと入らないのか? 彼の両手は空だと云うのに、まるで荷物か何かを抱えているかのように、頑なに扉に触れようとしない。
 広津はその手をひらりと返し、太宰に一礼した。
「任務帰りですか? 随分とお怒りのようで」
「判る? そう、ねえ、聞いてよ」太宰は疑問を一旦横に置き、やり場の無い腹中の蟠りを広津相手にぶちまけた。「中也が体調不良とか云って今日の私との任務休んだの。有り得ないでしょ、あの脳筋莫迦がさあ」
「体調不良」
 ふむ、と一つ広津が頷く。
「それで、仕事が回らなくなったのですか」
「……いいや? 寧ろ、居ない方が捗ったくらいだ」
「それは嘘ですな」
 微かに喉を鳴らして笑われ、ぐ、と太宰は黙り込む。確かに中也が居た方が絶対楽だったし、部下の損傷も少なかった。二人が重傷で一人が軽傷だ。中也が居ればそんな失態、太宰は絶対に犯さなかった。火を見るよりも明らかな事実。
「貴方に無様を晒したくはなかったのでしょう」
 今朝のことを思い出し、再度嵐の海のように荒れ狂う様子を見せ掛けた太宰の心中は、ぽつりと落とされた何気無い言葉の雫に一瞬しんと静まり返る。太宰は一つ瞬いた。
「私に無様を?」
 良く判らない。
「ええ。相棒とは云え名目上、力関係は貴方の方が上なのでしょう? 部下とは得てして、そう云うものです」
 太宰には、誰かの下に就いたことなど無かったから広津の言葉はさっぱり判らなかった。ああ然し、成る程云われてみれば自分達の首領である処の森鷗外に進んで弱みを見せたいかと問われれば、舌を噛み切った方が幾分かマシだ。
「そう云うものかな」
「そう云うものです。……ところで太宰殿」
 その話はもう終わりと云う風に広津は資料室に向き直り、白手袋に包まれた手で靭やかに扉を指し示した。
「大変心苦しいのですが、扉を開けては頂けないだろうか」
「……如何して? 広津さんが開ければ?」
 ちら、と見遣ると広津は微かに肩を竦めた。特に拘りの有る提案では無かったのか、太宰が扉を開ける心算が無いのを見て取ると、無造作にドアノブに手を掛けた。
 その瞬間。
 ばんッ! と破裂音がして扉が弾け飛んだ。――弾け取んだ、としか形容の仕様が無かった。金物のノブが吹き飛んでカンッと床を打つ。扉はただ一枚の木の板となって内に軋み、折れんばかりの勢いで跳ね跳んだ。その光景を見て、太宰は男の異能を思い出す。『落椿』。それが操るのは斥力だ。然し其処に在るのは操ると云う次元ではなく、もっと、何と云うかこう――圧倒的な暴力だった。
 唖然とする太宰を尻目に、広津がしれっと付け加える。
「今日は少し、異能の調子が悪いようで」
 広津の感情を抑えた声に、先程の彼の言葉が重なる。
 ――無様を晒したくはなかったのでしょう。 
 ――部下とは得てして、そう云うものです。
「そう。それは」太宰は眉尻を下げ、端末を取り出した。「悪いことをしたね。……あ、もしもし。私。二階南側の資料室の扉の修理、手配して。うん、今直ぐ。一時間以内ね」
 通話口の向こうの泣き言は聞かず、ぶち、と通話を切る。太宰の心に在ったのは、扉よりもっと別のことだ。中也も今、そんな気分なのだろうか。不調を太宰に知られたくない?
 資料室に足を踏み入れる広津の大きな背中を眺めながら、きっと一人で部屋に篭っているだろう相棒を思って、太宰はまた自分の心中がもやもやと霞掛かるのを感じていた。
「……それでもさあ、一応相棒とか云われてるんだから、ちょっとくらい私に相談して呉れたって善いのに」


○ 9:30 a.m.


「それは、そなた、あの男から真逆本気で信頼されているとでも思っているのか?」
 これはとんだ笑い草よの、と気性に似合わず可愛らしい笑い声を上げたのは尾崎紅葉だ。……なんて思っていることがバレたら簀巻きの上横浜湾直行コース間違い無しだ。太宰はそっと、その考えを胸の奥底に仕舞い込む。
「大体、あやつとは高々数度任務を共にしただけであろ?」
「それはそう」太宰は渋々頷く。「なんだけど」
 然したかが数度、されど数度だ。その数度でどれだけ自分達が言葉以上のものを交わしたかは計り知れない。相棒とか、そんな他人からの呼び名に依らずとも、自分の隣を許すのはあの男以外に考えられなかったし、あの男の隣に居るのは自分でなければならない、なんて。今まで他人に対して、そんなことを思ったことは無かったのに。
 なのに、その相手から如何してこんな風に拒絶されなければならないのかが理解出来ない。
 憮然とした太宰の頭上を、ぶぅん、と夜叉の大振りの刀が通過していった。太宰の蓬髪が数筋、はら、と斬れ落ちる。相変わらず姐さんの夜叉は御転婆、……待って、夜叉?
 見上げると、紅葉の異能である無機質な絡繰と目が合った。
「うわ姐さん!?」
 自分の異能が無効化であることも一瞬忘れ、太宰は悲鳴を上げてその場を飛び退った。未だ失言はしていない筈なのに。横浜湾は御免だ。構える太宰に、紅葉がふんと鼻を鳴らす。
「忌々しいことに、今日はそやつ、私の制御を今一つ受け付けぬのよ。……まあ諦めろ。日が悪い。そなたは知らぬが、他の異能持ちは皆こんな感じじゃろうて」
「ああ、異能の調子が悪いとか云ってたやつ……?」
 太宰は呆然と呟く。
「姐さんもなんだ」
「『も』?」
「広津さんもだったから」
 黒蜥蜴の、と付け加えると、そうか、とあまり興味の無さそうな応えが返って来た。「そなたはどうも無いのか」とも。社交辞令だ。太宰はぎゅっと拳を握り込む。異変は無い。
「私はどうも無いかなあ。特に体に違和感も感じないし」異能も無効化出来る筈だ。多分。「それ、原因何なの?」
「却説、何であろうなぁ……私も詳しくは知らんが、時折調子が悪うなりよる。月の周期でも関わっておるのかの」
「生理ってこと?」
 ひゅ、と今度は明確な意図を持って夜叉の刃が宙を斬った。咄嗟に太宰が触れて無効化しようと手を伸ばした、その隙に紅葉自身の刃の柄が太宰の腹を捉える。
「ぐふっ」
「おうおう、異能が暴走しておる故、口には十分気を付けろ?」
「……ぼ、暴力反対……」
 あまりの痛みに涙目になり、腹を抑えて蹲る。呻くその頭上から、艶やかな声が続いた。
「……中原のう。あれの異能は特に強力じゃからの。仮に暴走しておるのであれば、制御も難しかろうて」
 真っ赤な葩の色をした爪を弄りながら、紅葉は至極退屈そうに呟いた。
「行ってやった方が善いんじゃないかえ」
 それだけを云い残し、後はコツコツと紅葉のブーツが立ち去る音を聞きながら、太宰は呻いて立ち上がる。
 云われずとも、その心算だった。


○ 9:45 a.m.


「中也」
 太宰が辿り着いたのは、本部に充てがわれた中也の部屋だ。一応、叩敲を二回。中からは、低く唸る獣の声。
「太宰。……何しに来た」
 その声音に含まれるのは拒絶だ。知ったことじゃないけど。
「ご挨拶だな。仮にも幹部候補に向かってその口の利き方」
「開けんな」
 威圧する語調に、一瞬手を止める。けれど構わずピンを取り出して解錠作業を再開した。太宰には中也に会う権利が有った。止めたければ扉越しに短機関銃をぶち込むなりなんなり、止めてみせれば善い。こんな、鍵なんて何の妨げにもならないんだから。かしゃん、と軽い音がして、部屋の扉の鍵が開く。一気にノブを回して部屋に入った。見回す。
 誰も居ない。
 ……否。
「上だよ」
 諦めたような声が、言葉の通り頭上から降って来た。太宰はすいと上を見上げる。
 ぱち、と其処に居た中也と目が合った。
 仏頂面のまま、ふわふわと、まるで風船のように天井の間際を漂っている中也。後ろ髪が重力を無視して肩から流れている。帽子が、中也の頭からぽすんと床に落ちて来る。
 それを見て、太宰は。
「君、ぷっ、何それ間抜けでしょあははははあ痛っ!」
 腹を抱えて盛大に笑い、重力によって倒れて来た書類棚に押し潰された。 
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