【再録】船上ヱンゲヰジ!
結幕
すうと一つ、息を吸って吐く。悠長に躊躇っている時間は無い。この扉の前に立った時点で――否、若しかするとこの建物に入ったその瞬間から、中の人物には自分の行動など凡て見通されているのかも知れなかった。中也が今日の昼一番に報告書を持って訪れることが、彼のひとつの既定事項。あんまり長い間突っ立っていると、その躊躇から後ろめたい事実の有ることまで薄っすらと見透かされてしまう。見透かされるだけなら未だしも、その綻びを端緒としてするりと内側に入り込まれ、骨の髄までしゃぶり尽くされては敵わない。今から会うのはそう云う男だ。腹に手を中て、覚悟を決める。
こんこん、と豪奢な扉を二回ノック。
「――這入り給え」
中から重苦しい声が聞こえ、中也は一瞬硬直した。ギィと質量の有る扉を開ける。そのまま歩みを止めないよう、流れるように部屋の真ん中まで進む。
部屋の奥の執務机に深く腰掛けるのは、己の首領、森鷗外その人だ。黒衣を纏い、瞳に闇を湛えながら鷗外は無邪気ににこりと笑う。中也は膝を付き、帽子を脱ぎ、その前に深く頭を垂れた。
「首領、只今戻りました」
「ああ、お帰り、中也君」
御苦労だったね、顔を上げて善いよ。何気無い労いの言葉に如何しようも無い薄ら寒さが呼び起こされるのは、単なる自分の心構えの問題か、それともこの人の意図する処か。
「――敵の組織の壊滅。及び他組織への見せしめとしての船の爆破。凡て完了しました。入手した資金は昨日の内に、指定の銀行の支店長に預けています」
「そう、そうだね。予定とは随分と――違う処で爆発していたみたいだけれど――本当に佳くやって呉れた」
ひや、と首筋に刃を中てられた感触が有った。中也は僅かに面を上げる。勿論、鷗外が実際に刃物を取り出した訳では無い。目の前の男はただ、じっと此方を見詰めるのみだ。その、心臓まで絡め取らんばかりの黒々とした光に、中也は再び目を伏せた。仕置きは免れないだろう。仕方が無かった。
太宰に嵌められたとは云え、明らかに自分のミスが目立つ。
「我々の縄張りを荒らした組織が壊滅したと云う報せは、間も無くこの界隈に流れましょう」云い訳地味た口調にならないよう、淡々と報告を続ける。「少し予定は狂いましたが、周辺の弱小組織への見せしめとしては十分かと」
「邪魔者の排除は?」
その冷えた鷗外の問いに、中也は自分の瞼の震えるのを自覚した。嗚呼、矢張りか。妙な納得が胸中を支配する。
矢張り、探偵社に下らない依頼を送ったのはこの人だったか。
その感情は表に出さず、ただ事実のみを告げる。
「『船を爆破するのに邪魔になった人間は』、凡て排除しました」
ぴり、と空気が張り詰める。鷗外がゆっくりと、席を立った音がした。今度こそ本当に首を飛ばされ兼ねない。中也は覚悟を決め、己の首領を見遣った。
その顔には、何の表情も浮かんでいない。嵐の前の静けさ。ただただ静かだ。毛足の長い絨毯が、その足音を吸収する。男の動きに合わせ、空気だけが揺れ動く。中也は黙って判決を待つ。
云い訳は無用だ。中也には、太宰治を殺せなかった。それだけのことだ。
――最初に頭を狙わなかった時点で、君の負けだ。
耳の奥に、元相棒の声が蘇る。そうだ、中也は無意識に腹を狙っていた――あの距離で、頭部への発砲など外す筈も無かったのに。致死率が低いと、判っていながら。
組織の利益ではなく、私情を優先したも同然だった。裏切り行為と誹られても不思議は無い。
だから、中也は腹を決めて此処に来た。
――私を殺した時、どんな気分だった?
あの時、太宰を撃った中也を襲ったのは、首領の為に太宰を殺せる喜びでも、況してや太宰の死を悼む悲しみでもなく――ただ漠然とした不快感だった。こんなのは、自分達の望む結末ではない。そう云う不快感。
彼奴を殺すのは俺だ、なんて寒い科白を云う積りは無い。他の誰が太宰の命を奪ったって構わない。正直、ざまあみろとしか思わない。奴が心底望んでいる自殺が成功するのだって善い。好かったな、オメデトウくらいは云って遣る。
けれど。
思い出す、握った手に蘇る銃の感触。驚くほど簡単に崩れた太宰の体。此方をじっと見詰める、虚ろな夜の色をした瞳。
心臓の、ずたずたに引き攣れる感覚。
あんな虚無の塊を抱いたまま、独りで生き続けるのは御免だった――仮に終わらせるのだとしても、自分達の終わりは、もっと劇的でなければならない筈だった。思い切り憎み合って。これ以上無いくらい憎悪をぶつけ合って。そうして殺し合った末の結末でなければ、そんなのは終わりでも何でもない。それ以外の決着を、受け入れることなど出来やしない。
他人に踊らされて引いた引き金なら尚更だ。
例えそれが、首領の命令であっても。
受け入れ難い。
そう気付いた。
だから、鷗外の思惑通りに動かなかったことを理由として処分されるのであれば、それは仕方の無いことだ。自分の、本能の欲求には抗えない。
それに、其処までイイ子ちゃんで居て遣る積りも無かった。 精々、殺される前に全力で抵抗させて貰うことにしよう。
そう、唇を引き結んだ。
「――そうかい」
次に鷗外の口から漏れたのは、その短い言葉、それだけだった。それだけで、部屋に立ち込めていた殺気がすっと霧散してゆく。中也はゆっくりと、力を抜いて息を吐いた。
如何やら、命だけは棄てずに済んだようだった。
「そう云えば、エリスちゃんの欲しがってたあの――指輪は手に入ったかな?」
鷗外が、まるで何事も無かったかのようにからりと笑ってそう問うた。ひらひらと黒衣の裾が舞う。中也は手の平大の箱状のケースを取り出し、鷗外に恭しくそれを差し出す。
「此方に」
鷗外はふむ、と一つ頷くと、白手袋に包まれた手でそれの中身を摘むように持ち上げた。照明に透かし、首を傾げる。
「これが?」
「はい。……何かおかしな点でも」
そう訊いたのは、指輪をしげしげと眺めていた鷗外が俄に笑い始めたからだ。何時もの計算地味た笑みではなく、可笑しさが堪え切れないと云った様子で、くすくすと少女の様に笑う。それが偽物だったからだろうか、然しその性能を試す為に、異能を発動させる気配も無い。緩んだ空気に、自分が始末される心配は無くなったが、中也にはそちらの方が一層不気味だった。一体何が可笑しいと云うのか。
胡乱げな眼差しを向ける中也を置いてきぼりにして、鷗外は無造作に、指輪を中也へと差し出した。
「君、この内側見てみた?」
「……内側?」
嫌な予感がした。途轍も無く嫌な予感。何か大事な事実を、見落としている気がする、そんな。
鷗外から差し出されるままにその指輪を受け取る。見た目は何の変哲も無い、ただの指輪だ。今朝、太宰から受け取ったままの。それを照明に掲げる。光を反射する金属が眩しい。
そうして中也はゆっくりと、その内側を覗き込んだ。
◇ ◇ ◇
「……あれ? 珍しいですね、太宰さんが指輪してるの」
「え? ああ、これ?」
ローテーブルの向こう側。ソファに寝転がる先輩社員の手元に光る装飾品を見付け、敦は報告書を打つ手を止めた。序にぐっと伸びをする。太宰に添削して貰いつつの作成なので、報告書はそれなりに形になって来ていた。
休憩がてら自分のマグカップを持って、敦はローテーブルへと移動する。興味が有った。普段何物にも――それこそ自分の生にさえ執着を見せないこの自殺愛好家が、指輪を付けていると云う事実に。それも左手薬指。其処は確か、特別な指輪を填める位置ではなかったろうか。ひら、と翳された手の平を胡乱げに見遣るが、男はふふ、と笑うのみだ。
「あれ、それ若しかして、あの船で売られていた異能を制御出来る指輪……ですか?」
何時の間に、と敦は目を丸くする。あの騒ぎで失くなってしまったものだと思っていた。真逆太宰が持っていたとは。
然し、敦の予想に反して太宰はゆるりと首を横に振る。
「否、アレは御婦人用だったから、海に棄ててしまったよ。異能が制御出来ると云うのも、嘘っぱちだったようだし」
「う、海にですか? 勿体無い!」
指輪を海に棄てるだなんて、敦には考えも付かない行動だった。だって宝飾品なんてものは、総じて金銭的価値が高い筈だ。それを自分の身の様に、事も無げに海に棄てるなんて、勿体無い以外の何物でもない。
反射的に漏れ出た敦の呻き声に、太宰が意地の悪い笑みを浮かべる。
「なあに、敦君。君、指輪をあげたい相手でも居たのかい? でも駄目だよ横着しちゃあ、ちゃんと御給料三ヶ月分貯めて、そのひとに似合いの意匠のものを、自分で選んで購ってあげなきゃ」
「あ、否、そう云う訳では……」
ぶんぶんと、音がするほど首を横に振る。指輪をあげたい相手だなんて、僕には未だそんな人は居ませんし、抑も僕の御給料三ヶ月分なんて高が知れているじゃないですか。婚約だ結婚だなんて云うものは、もっと自分の生活基盤を整えてからの話じゃないんですか。そう云うと、「国木田君じゃあるまいし」と呆れたような声が返る。止める間も無くパイプファイルと、「仕事をしろ太宰!」と云う怒号が飛ぶ。
「あれ? でもあの指輪じゃないのなら、太宰さんこそそれ如何したんです? 何方かとのペアリングじゃあるまいし」
「……君、何気に失礼だよね」
ファイルをひょいと器用に避けた太宰はふふっと笑って、そうして悪戯ぽくその指輪を撫でた。
「そうだねえ、これは何て云うか――大ッ嫌いな相棒への、最高の嫌がらせ……ってとこかな?」
その答えはいまいち要領を得なくて敦は首を傾げたけれど、その顔は敦が今まで見たどんな太宰の顔よりも、一等悪どい笑みだった。
◇ ◇ ◇
指輪の内側には、英文の文字が彫られていた。華美な装飾を施した書体だ。一体何だ? 中也は精一杯目を凝らし、その文字列を視線でなぞる。
「T……O……? トゥ……ちゅう、」
「それ」を理解した瞬間、ぶち、と血管の切れる音がした。
「いやあ、彼が相変わらず元気そうで善かったよ」
鷗外の含み笑いが遠くに聞こえる。思わず指輪を握り締めた。ぱん、と部屋中の照明が弾け床が軋む。「あッちょっと中也君!? 異能発動は他所でやって呉れ給え!」鷗外の焦る声が聞こえるが、それ処ではない。怒りのあまり目が眩む。
あの野郎、全部図っていやがったのか。
思い出されるのは、今朝の太宰の薄い笑み。船上でこんな刻印なんて、流石のあの男でも出来る訳が無い。と云うことは、これは例の指輪ではなく、事前に持ち込んでいたものだ。
そして中也は競売の時、舞台の袖に待機していた。落札した男は確認していても、その指輪を直接見てはいない。見ていないものの真贋が、判断出来る筈も無い。
あの野郎、何が『それがあの場に在った物なのは確かだよ』だ。大嘘じゃねえか、巫山戯んな。
瞼の裏にありありと浮かぶ、元相棒のにやついた顔。
中也はその握り締めた指輪を、腹にぐるぐる渦巻く感情と一緒に、力一杯床へと叩き付けた。
「太宰、手前、ぶっ殺して遣るから覚えてやがれ――!」
了
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