【再録】船上ヱンゲヰジ!


五.


 ざぱ、と波が折り重なって、中也の足元で砕けて散った。澄み切った朝日を浴び、水の表層はきらきらと虹色に輝いている。薄青の空が、微かな焼け跡のみを残して淡い色彩へと抜けていく。港に澱む冷えた空気が、ゆっくりと肺を満たす。
 既に部下には回収した金を持たせて離脱するよう命じてあった。静まり返った靄と朝焼けの合間を縫う。そうして己も姿を晦まそうとした中也を、呼び止めたのは太宰だった。
「あれ? 中也、あの船爆破せずに帰っちゃって善いの?」
 あんなに爆弾いっぱい仕掛けてたのに。薄っぺらい声が、早朝の静謐な空気を乱す。
 振り返ると、相も変わらず嫌味な笑みを浮かべる男が其処に居た。ふらふらと、その足取りは何に縛られることも無く軽い。見慣れた夜の色の外套では無く、陽光に馴染む砂色の外套が、中也の目に妙に煩く映る。
 その後ろ、ずっと向こうでは、件の豪華客船が静かに鎮座している。群衆のざわめきが在るからか、其処だけが真昼のような姦しさだ。軍警が忙しなく出入りしている。乗客で、少なくとも生きていた人間は全員保護された処のようだった。
 目の前の男はそれを爆破しろと云う。
「……詰まり、今回の作戦は全部手前に筒抜けだったって訳だ?」
 中也は嘆息しながら衣囊から起爆装置を取り出した。船上で太宰が持っていたものと同じものだ。然し込めた威力は天と地ほども違う。太宰は答えずに、ただ興味深そうに此方をじっと眺めている。
 その視線を受けながら、中也は無言で装置を押し込んだ。
 途端、遠くで地面を揺るがす轟音が響いた。連続して重なる爆発音。客船が、勢い良く炎と煙を噴き上げて傾ぐ。
 爆薬は機関室を中心に置いたから、船内では誘爆し続けている筈だ。先ずは船体を熱し、気化した燃料に引火するように。そしてその爆発を利用して、船底に穴を開けるように。
 周囲は青天の霹靂に阿鼻叫喚だ。客や軍警が恐慌状態に陥いる。少しでも冷静さを残したものは、巻き込まれないよう、急ぎ海から避難している。
 水面が嵐のように荒れて、硫黄の匂いが鼻を突いた。
「……これで満足か?」
 黒煙が、空をどす黒く焦がしていた。その炎を瞳に映す太宰は、何処か楽しそうだ。愉快げに歪めた口を開く。
「ねえ。私を殺した時、どんな気分だった?」
「あ?」
 唐突な問いに、一瞬意識が数時間前に引き戻される。握った銃の感覚。撃った反動。どさりと崩れた太宰の体。
 中也はふーっと息を吐いた。煙草が欲しかったが、自分のものは凡て海水で駄目にしてしまっていた。太宰にちらりと目を遣るが、此奴も肩を竦めるのみだ。使えねえ。
「……手前に教える必要は無えよ」
「じゃ、私が生きてたって判って、嬉しかった?」
 海にぼちゃんと沈んだ時のこと。波の音、冷えた水の心地。
 太宰の柔らかな声が、それに反して感じた、自分の感情の温度を思い出させる。あの時感じたのは、確かに。
「……嬉しい訳無えだろ」ち、と舌を打つ。「もっと確実に殺しておけば善かったって思ったよ」
「あ、そ」
 中也の答えに満足したのかしなかったのか、太宰は茫洋と笑う。その笑みを浮かべながら、ひょいと中也の手を取る。
「ねえ、じゃあもう殺して呉れないの? ほら簡単だよ……」
 そのままその手を、自分の胸元に。薄布一枚隔てた奥には、心臓がとくとくと脈打っていた。防弾内衣の感触はもう無い。布一枚。その向こうに、握り潰せそうな太宰の熱が在った。
 ぐっと力を込めると、太宰の唇からふ、と吐息が漏れる。
 判ってるくせに。
「手前のことは殺さねえよ」
「……ふふ、善いの? 森さんに怒られるよお」
「『それ』は手前の自殺趣味の範囲だろうが」ぎろりと睨んで、太宰の手を振り払おうとする。「俺を巻き込むんじゃねえよ。俺は俺の殺したい時に手前を殺す」
「じゃあその殺したい時って何時?」然し太宰は離さない。中也の手を離さないまま、薄く笑って耳元で囁く。「殺せないよ……矢っ張り離れられないでしょ。相棒だったんだよ、私達。勝手に切るとか、ゆるさないから」
 太宰の声が、熱を孕む。中也を映す黒い瞳が、水分を帯びて潤む。互いの吐息が、絡まって地面に影を落とした。
「……だったら手前も、今度は殺す気で止めに来いよ」
「それ、結局殺し合っちゃうじゃない私達」
「でもそれなら悪くねえだろ?」
「まあね」
 なんだか愉快な気分になって、お互いふふ、と笑い合う。そうだ、どうせ終わらせるなら、本気でぶつかり合って殺し合い、そうしてこの手で終わらせるくらいの壮大な決着の用意が無いと、あんな呆気の無い非現実的な現実は、到底受け入れられそうになかった。
 きっと太宰も同じだ。気が合う。
「でも今はその時じゃねえ」
 とん、と太宰の胸を押すと、今度は容易に離れた。太宰は少し不服そうだ。「君のその、余裕ぶった処が特に大っ嫌いだ」言葉の内容とは裏腹に、太宰の声は微かに浮付いている。然し如何やら自覚は無いらしい。「散々期待を持たせておいて、結局殺して呉れないし。かと云って、私のものになるかと云えばそうでもないし……」
「良く云うよ。手前のものになる俺なんかに、興味は無えくせに」
 ぶう、とガキみたいに頬を膨らましていた太宰は、その言葉を聞いた途端ぱち、と一つ瞬いた。それから「矢っ張り」と華やぐように笑う。何でだよ。中也には時々、この男の言動の意味が判らない。深く帽子を被り直す。
「矢っ張り俺は、手前のことは嫌いだよ」
「それ先刻私が云ったし」太宰は花の残滓を匂わせながら云う。「あと嫌いとか心外だなァ。色々助けてあげたでしょ?」
「収支勘定が合わねえってんだ。抑も手前が居なきゃ、万事上手く行ったんじゃねえか」
 そう、太宰がヘリを爆破さえしなければ、中也は悠々と船から脱出出来、見せしめの上敵の構成員を諸共沈めることが出来たのだ。「指輪も手に入んねえし」
「あ、そのことなんだけど」
 と云い終わらぬ内に、ぽん、と太宰から小さな立方体が放られた。薄い朝の空に、濃い藍の箱が舞う。中也は一瞬迷い、蹴り返そうかとも思ったが、「爆弾じゃないよ」とまるで此方の迷いを見透かされたように笑われたので渋々素直に受け取った。相変わらず、この男の言動は何もかもが癪だ。
 そうして開いた箱の中には。
「……指輪?」
 あの時、太宰と乗り込んだ部屋では無かったものが其処には在った。初めて目にするそれは存外大きく、白金に縁取られた金剛石が、陽光を受けて綺羅とその光を放っている。
「中也」
 何時の間に目の前に居たのか、太宰にす、と左手の手袋を外された。潮風に晒された素手が涼しい。呼ばれて見上げると、太宰が中也の手の中の箱から指輪を手にする処だった。
 太宰の表情は、影になっていて佳く見えない。
「手」
 差し出すと、太宰は恭しげに片手で中也の手を取った。すい、と持ち上げ口付けた後、指輪を中也の手に填める。
 それは何故だか中也の薬指に、誂えたように収まった。
 ひら、と手の平を朝靄の空へと返す。
「……何の積りだ、太宰」
「君に永遠の愛を、ってやつだ」
 太宰の声が、静かに靄を震わせる。
 艶っぽい、熱を孕んだその言葉に。
 中也は、少し息を吐いて。
「気色悪ィ」
 吐き捨てた。
 ひどい! と顔を覆って泣き真似を始める太宰を振り払って距離を取る。序に腹を殴ろうとすれば、それは読まれたのかひらりと避けられてしまった。腹立たしい。
 はっと気付く。
「手前……あの時もう持ってやがったな!」
「あの時?」
「『嘘吐くんなら、逃げてる途中に落としたとか、そう云う嘘吐くでしょ』」少しトーンを上げて間延びした声を作る。「『態々箱を開けたら消えてたなんて、疑われるような嘘じゃなくさあ』」
「嗚呼、あれは流石に失言だったかなと思った」何それ、と太宰はくすくすと笑う。「私を殺した時に持って行かなかったから、あれ? とは思ったけど」
 詰まり、目的の物の行方を知っていながら、俺が探してるのを傍で笑って見てたんじゃねえか。あれ? じゃねえよ。じり、と中也は自分の脳が焼けるのを感じた。怒りのあまりくらりと眩暈が立ち起こる。殺す、と思わず口に仕掛けるが、それだけはぐ、と思い留まった。先程殺さないと云ったばかりだ。我慢、我慢、忍耐力。
 然し半殺しならセーフじゃねえか?
「中也ちょっと! 目が怖いよ!」
「煩え! 大体、手前がこれを俺に渡す道理が無えだろ!」
 要らねえよこんなもん、と外そうとした手を、がっと掴んで止められる。その手の力は存外強い。
「私の気持ちだよ素直に受け取れないの! それに私に返されたって困るし!」
「廃品処理じゃねえか!」
 憤慨に喚く声を遮ったのは太宰の指だ。ぐに、と唇に押し付けられる人差し指。
「君が敦君を助けて呉れたことには、感謝してるんだってば」
 噛み千切ろうとした動作を止める。
「……偽物じゃねえだろうな」
「さてね。少なくとも、それがあの場に在った物なのは確かだよ。元々、偽物なのかも知れないけど」太宰は大仰に肩を竦める。「そこは私の関知する処じゃない」
 中也はじっと太宰を見た。太宰は愉快そうにその目を細めている。嘘を吐いているようにも見える、と中也は思った。太宰は他人の嘘を理論に拠って見抜くが、中也は太宰の嘘を直感に拠り感じ取るだけだ。そして何処となく、今の太宰は凡て真実を語っている訳ではないように思えた。
 然し、どれが嘘だかが判らない。
 中也は逡巡し、指輪を填めた手を、太宰の白い頸へと宛がった。掌が、ぴたりと吸い付くように太宰の肌に収まる。じわりと混ざる体温。微かな汗の匂い。どくりと手の中で鼓動が跳ねる。
 太宰は動かない。ただその口元に笑みを浮かべるのみだ。
 中也は静かに、口を開いた。
「『汚れつちまつた、悲しみに』――」
 ずるりと異能を、体を奥底から引き出す感覚。ざわざわと海が騒ぐ。重力を乱す前触れ。世界を歪める強制力。
 けれどそれだけだった。一瞬蠢いた水面は、直ぐにしんと静まり返る。『人間失格』。太宰の異能だ。それが、今の中也をただの人間たらしめていた。
 詰まり――指輪に依ってこの男の異能を無効化することは出来ないと云うことだ。
 無効化された己の異能を、無理矢理発動させることも。
 其処だけ夜の闇を纏ったかのように奥底の読めない黒い瞳が、じっと此方を見る。
「……矢っ張り偽物なんじゃねえか」
「みたいだね」
 太宰がクツクツと笑う。静かな朝に、その笑い声はひどく耳障りだった。恐らく何処かで試したのだろう、でなければ用心深いこの男が、何の確証も無しに中也に指輪を渡す筈も無い。
 はあ、と一つ重い溜め息を吐き、中也は太宰の首根っこを乱暴に引っ掴んだ。うわ、と素っ頓狂な声が上がる。
「来い」
 問答無用で痩躯を引き摺る。
「え、何、このままホテル行く? 私、今日は疲れてるから遠慮したいんだけどなァ」
 その脳天気な声に、一瞬、抑えていた殺気がじわ、と滲み出た。ぴたりと足を止めた中也に、太宰がぴくりと体を震わせる気配が在る。
 其処に在るのは怯えではなく、喜色だ。振り返らずとも判るそれが、中也には心底腹立たしかった。本当にそうして遣ろうか、と思う。ホテルの一室に連れ込んで押し倒してその服と余裕を剥ぎ取って、足腰立たなくなるまでめちゃくちゃに犯して遣ろうか。
 然し中也はその考えを静かに殺した。此方だって首領への報告が有るのだ、太宰に付き合って遣る暇など無かった。
 それに。中也は瞑目する。それに、今このまま体を繋げてしまったら、訳が分からなくなりそうだった。幾らセックスしようと相棒と云う関係は変わりようが無かった。然し元相棒は? 変質しないと断言出来るほどの材料を、中也は未だ持ち合わせていなかった。四年越しに漸く安定を得た関係性が、数時間で無に帰さないとは言い切れなかったのだ。
 今は未だ。

 ずるずる、ずるずる。太宰を引き摺る。四年前よりその目方は随分と重い。雑に運搬されていると云うのに、何が面白いのか鼻歌まで歌い始めるものだから、その頭を軽く叩いた。然し壊れた再生機のようにまるで操作を受け付けない。流れるのは随分と懐かしいメロディだ。昔に良く二人で聴いていた。
 暫く引き摺って、人混みまで辿り着く。大きな鉄の塊が、勢い良く炎を噴き上げ今まさに沈まんとしている処だった。客船の節々がぎしぎしと断末魔の悲鳴を上げていて、御蔭で軍警は上へ下への大騒ぎだ。誰も此方に見向きもしない。
 雑多な人間の集団から、探偵社の一団を見付け出す。中也はその中に、銀の髪の少年の姿を認めて声を掛けた。
「おい、人虎」
 呼び掛けると、予想に反して「あ、はい!」と素直な返事が返る。然し振り返ると同時に、その純朴そうな顔が見る見る内に強張り始めるのが何だか中也には可笑しかった。そんな風に、正体の判らない男に怯えを見せるんなら、手前は如何して其奴を助けようと我が身を省みず海に飛び込んだりするんだよ。
 今だって、中也のことを敵と見做すべきかどうか迷っているようだった。目の前で太宰が撃たれたと云うのに、断定出来ないでいるのは一度助けてしまったからだろうか。容赦無く切り捨てて遣った方が、この少年の為だろうか。
 傍らの探偵社の男女は、甲板での遣り取りを断片的にしか知らないからか、突然現れた帽子の男を警戒しながらじっと様子を窺っている。
 その傍らの、和装の少女。この場では鏡花だけが、中也へと明確な敵意を示していた。じっとりと纏わり付くようなそれが、流石に鬱陶しくて払うように手を振る。流石姐さんの秘蔵っこだ。そんなんで探偵社で上手くやっていけてんのか? 心配になるが、他ならぬ太宰が驚くべきことに真人間として生きていけているのだから、それよりも常識が有り、良識が有り、適応力と適度な可愛げの有るこの少女が、生きていけない筈も無かった。
 だから、何もしねえって。中也が潮風に乗せるように唇を動かすと、少女は戸惑いながら頷き抜身の殺気を鞘に収める。
「鏡花ちゃん!?」
 そしてそのまま、人虎が止めるのも聞かずたたっと中也の方へ駆け寄って来た。中也は笑う。今度は警戒を怠らない。
 その雰囲気を察したのか、鏡花は今度は一歩手前で歩を止めた。申し訳無さそうに俯いて、中也の服の裾を握る。
 ぎゅう、と布の皺が浮き彫りになる。折り重なるか細い声。
「……有難う。助けて呉れて」
「別に、俺は何もしてねえよ」
 旋毛の見える鏡花の頭をぽん、と一つ撫でた。目の端で、強張った人虎の少年の肩から力の抜けるのが映った。
 其処に太宰を放り投げる。
「えっ、ちょっ……うわ、太宰さん!」
 太宰の体を受け止めた人虎の少年は、何とか踏ん張ろうとしたようだったが支え切れずにバランスを崩す。何せタッパが違う、恐らく持った感覚では十キロ単位で。結果、少年と太宰が諸共地面に倒れ込む。
 その様に薄く笑う。虎の姿の時とはまるで様子が異なった。これで太宰の隣は、嘸や苦労することだろう。今はもう自分のものでない其処を少しだけ眺め――湧き上がるのは同情だ。
「あ、あの……有難う御座います、えっと……」
 そこまで云って、少年がうっと言葉に詰まる。そう云えば、名を名乗っていなかったな。気付くが、でもまあ、そんな必要ももう無えだろう。
 どうせ次会うときは敵同士だ。
 鏡花を離し、ひらりと手を振る。
「じゃあな、人虎。そのまま帰るまで其奴のことは離すなよ。何だったら、首輪でも付けといた方が善い」横着してべたりと地面に寝そべったまま、起き上がった少年から手を貸されている太宰を乱暴に指し示す。「其奴、今、機嫌が好いから、目ェ離すと直ぐ入水するぜ」
「ええ、ちょっと中也、何でそう云うこと云うの……」
 抗議の声が上がる。矢張りその積りだったらしい、心底嫌そうな声音だった。少し胸がすっとする。ざまあみろ、と思うと気分が好かった。
 この程度の嫌がらせは許されて然るべきだろう。

「――如何して」
 少年の呟くような声が聞こえる。如何して助けたのか、如何して太宰を撃ったのか。この人の、そんなことが如何して判るのか。
 様々な意味を内包した問いだったが、それに対しては全部一言で片が付いた。
「何せ、俺は其奴の『元相棒』だから」

 戸惑いつつも少年の手が確りと太宰の腕を掴んでいるのを確認し、中也は外套をひらりと翻して踵を返した。
「これで今日の貸しはちゃらだ、太宰」
 困惑した視線と恨めしげな視線を背に受けながら、中也はかつんと朝方の石畳に靴音を鳴らす。
 上がる黒煙を尻目に、日は既に昇り始めている。
 昂った熱は、帰路で冷ますことにした。
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