【再録】船上ヱンゲヰジ!
意識の落ちていたのは一瞬だった。ざば、と能力の凡てを以って水面を掻き分ける。酸素の不足に再度意識が遠のくが、気力で何とか押し留める。
未だ掴んでいた人虎の体を脇に抱え、異能を発動させ船の外壁を駆け上がる。帽子は何処かで落としてしまっていた。仕方が無い。この真っ暗な夜の海で帽子一つ探し出している余裕は無い。
一気に甲板まで駆け登ると、抱えた少年をどさりと乱暴に放り出した。続いて自分の体もだ。気遣っている余裕は無い。肩口から床に倒れ込むと、全身に走る鈍い金属の痛み。
「う、げほ、かはっ……」
そこで漸く止めていた息を吸うことが出来、流れ込んできた空気の味に喘ぐ。海水を幾らか飲んでしまっていた。息が苦しい。膝を付いて、俯せに蹲る。その方が幾分か楽だった。呼吸を整える。
そんな中也の傍らを過ぎ、カンと床を蹴って少年の側にしゃがみ込む黒い影があった。「敦君」そう呟く。誰のものか。見上げるまでもない。
「……中也、ありがと。敦君のこと助けて呉れて」
「だ、ざい……ッ」
怒鳴ろうとするが息が続かない。ぜ、は、と断続的にしか、空気を上手く取り込めない。
「真逆敦君が君を助けるのに海にまで飛び込むとは思わなかったから、ちょっと焦っちゃった」
少年を他の探偵社員に任せる太宰の声を遠くに聞きながら、ごほりと水を吐き出す。俯せた前髪から、海水が滴り落ちて水溜りを作る。床に突いた手袋から、じわりと水が滲み出る。
一瞬とは云え、思ったより海中に居たようだった。体力の消耗が激しい。俯せて息を落ち着かせていると、顎を掴まれ上を向かされる。
「ぁ……?」
「苦しそう。人工呼吸とか要る?」
水に霞んでぼんやりと見える太宰の顔は随分と楽しげだ。ぼうと存外近いそれを眺めた後、ふと我に返って乱暴にその手を振り払う。巫山戯んな。
何もかもが、腹立たしい。
「要らねえよ……今度こそ殺す気かよ……」
「私にキスされて死んじゃいそう? 随分とロマンチストだ」
「口が腐るって云ってんだよ」
上体を起こしぎろりと睨む。十分な殺意を込めた積りが、太宰はふらりと何処吹く風だ。無論、死人が喋る訳も無い。
「……手前、何で死んでねえ」
「『何で』? ねえ、何でだと思う?」
太宰が至極愉快そうに中也の視線を受け止める。それから徐ろに服を脱ぎ出すものだから、反射的にぶん殴りそうになる手を必死に抑えた。外套、上着。襯衣まで脱いで、露になるケプラー素材。防弾内衣か。舌を打つ。ならあの出血も嘘か。
中也の視線に気付いたのか、太宰は真っ赤に染まった己の手を中也の目の前に差し出してくる。中也はその手を取った。相変わらず体温の無い手だ。骨張ってはいるが、決して無骨ではない靭やかな手指。「どうぞ?」促され、黙ってその表面をべろりと舐める。無機質な味だ。鉄の味はしない。
血ではない。
「……成る程? 詰まり、全部演技だったって訳だ」
糞ったれ、と吐き捨てる。
「だって、中也と一緒に行動するんだよ。これくらいの仕込みは当然だ」
何時かと同じような科白だ。それが何時かと同じように、にやけ面を浮かべ、心配した? と服を着直し血糊を手巾で拭いて首を傾げる。中也はゆらりと立ち上がった。
腹の底で煮え滾るのは怒りだ。何時かのときの比ではなく、この感覚は失くして久しい。四年振りだ。怒りのあまり漏れ出る異能に、鉄が悲鳴を上げて歪む。
へらりと笑うその胸ぐらを、一瞬で掴んで引き倒した。
急に体勢を崩され、頭部を強かに打ち付けた太宰の微かに呻く声がする。好い気味だ。そのまま折れそうな細く白い首筋に皮膚を裂くようにナイフを中てる。
「今度こそ、殺す」
馬乗りになった中也の下で、太宰の腹がじわじわ海水に濡れていく。冷えた水。腹に溜まった熱の温度。
それでも剥がれない太宰の白々しい笑みに、血が頭に昇って目が眩む。野郎、手前人が一体どんな気持ちで引き金を引いたと思ってやがる。ナイフを持つ手が定まらない。刃先がブレて、少し皮膚が切れる。
その手が震えるのは、濡れた寒さの所為だけではない。
中也の迷いを見透かしたように、太宰は酷薄に笑う。
「無理だよ、中也。最初に頭を狙わなかった時点で君の負けだ。君に私は殺せない」太宰は歌うように云う。「だって今、この船の中で真面に船を操舵出来るのって、多分私くらいのものだし」
「は。それが如何し――」
待て。
船の操舵?
「だって君、先刻、操舵室を制圧したでしょう?」
動きを止めた中也の思考に、畳み掛けるように太宰の声が重なる。
「待て、太宰、真逆手前それを見越して……」
「殺したよね? どうせ沈む船だし、自分はヘリで脱出するから構いやしないって、船操舵してた人間、全員」
でも、君はヘリで脱出出来ない。先刻私が爆破したから。
中也の腕の下で、太宰が悪魔のように囁く。
「海に落ちて、君の通信機類は全部駄目になってる。ヘリは一台しか無かったから、助けはそうそう来ない」
「『一台しか無かったから』、だと?」
まるで見て来たかのように云う。
中也はじっと、太宰を見た。その瞳は混じり気の無い黒だ。それが、星の無い闇夜を映している。中也の影が、その白い肌に濃く色を落とす。中也の体から滴る水は二人の間をぐずぐずに満たし、すっかり揃って濡れ鼠だ。
冷静になれ。中也は自分に云い聞かせる。相手は他でもない、太宰治だ。自分の元相棒。冷静さを欠けば、すぐにでも呑まれてしまうだろう。息を吸って、吐く。
ナイフはそのままに、口の端を歪めて笑う。
「……残念だったな。俺の能力なら、この船を無理矢理動かすことも出来る。手前を殺してでも」
「そうだね。この真っ暗な夜の海で、この大きい鉄の固まりを君の異能で動かしながら、正しい方向が判別出来るならね」
空気が鋭い切っ先を見せる。中也は今度こそ貼り付けた笑みを剥がし、ひゅっと息を吸った。
確かにこの規模の重力ベクトルを操作することは重労働だ。不可能ではない。ただ、それが中也にとってどの程度負担になり得るか、この男には知られている。
損得勘定を考えれば、中也がどう判断するのかも。
微かな沈黙の中、中也の髪から雫が一滴、ぴちゃと太宰の頬に水滴を作る。
「……それに、その危険な重力ドライブに可愛い部下を巻き込みたければお好きにどうぞ。でも君、この規模での繊細な重力操作は苦手だろ?」
君は助かっても、彼、潰れちゃうかもね、と。
太宰の視線に促され、中也はその先へと目を遣る。其処に居るのはヘリを操縦していた部下の男、それに探偵社の和装の少女だ。少女の方は人虎の傍に居たのだろうに何時の間に。
そして鏡花の小さな手から、蹲る部下の頸に伸びる鋭い凶器。ぎらりと光る、兇悪な刃物。
腐っても武装探偵社だ、一応殺しはしないんだろう。殺せば中也が探偵社を殲滅することは承知の筈だ。だから無視したって構わない。然し部下は先刻の爆発で酷い火傷を負っている。手当てをするのであれば、上陸を急ぐ必要が有る。
「あと君の能力で早く帰れるよう協力して呉れるなら、先刻君が落とした帽子、返してあげても良い」
「……」
「早く帰らないと、国木田君が捜索願出しちゃうんだ。……君の負けだよ、中也」
中也は逡巡の後――ふう、と力を緩めて息を吐いた。懐に手を入れ煙草を探るが、べちょりと濡れた衣服に我に返る。太宰の体に跨ったまま、ナイフを仕舞い、空を仰ぐ。
この男を生かす方が得策なのは明白だった。
首領は云った。邪魔者は殺せと。然し太宰を殺すことは、邪魔者の排除には中らなくなってしまった。マフィアである自分と、相棒であった自分。結局、殺し切れなかったのだ。
中也は腹を決める。
今、この男を生かすことのデメリットはただひとつ。
「却説、これで君は陸に上がるまで私達と協力するしかなくなったって訳! ね、刺すなら早く刺せばァ? 私は死ねて嬉しいだけだけど!」
全部が全部、この巫山戯た元相棒の思い通りになることが、心底腹立たしいだけだ。
にこにこにこにこ。嫌味なほどに無邪気な笑みを浮かべるその面を、立ち上がり、勢いを付けてぶん殴る。
「痛い! 何するの!」
「煩え! 判ったからさっさと来い!」
痛みに涙を滲ませた太宰の首根っこを引っ掴む。そのまま泉鏡花が、それに少年を介抱していた探偵社の男女が目を丸くするのを尻目に、ずるずると太宰を操舵室の方へと引き摺っていく。
その跡に出来るのは長い水の尾だ。中也と、太宰からぼたぼたと滴る水。心臓の芯を冷やすほどに冷たさを帯びていたそれは、今はもう二人分の体温で温くなっている。
確かに、操舵室に居た乗組員は一人残らず殺してしまっていたから、この船は今誰の操舵も受け付けてはいなかった。ただ慣性のままに進んでいる。操舵する人間の居ないままに、座礁でもしたら面倒だ。一刻も早く、この莫迦を操舵室に放り込む必要が有った。
ちら、と太宰を引き摺りながら、中也は空の端を見た。水平線の向こうから、微かに夜の明ける気配が在った。未だ太陽はその姿を見せない。然し確かに其処に在る、じわりと闇を侵食する光の気配。
中也は瞑目する。夜明けを迎えるその温度に、不思議と不快な気分は無い。
心に溜まった澱みは、何時の間にかするりと海に流れ出してしまったようだった。