【再録】船上ヱンゲヰジ!
四.
太宰は苛々と、荒くナイフを振るっていた。先刻までの、相棒と再会した上機嫌は何処かに飛んでしまっていた。繕う気にもなれない。ざくりと肉に刃を立て、「ぎゃあッ」と醜く喚く目の前の男に舌を打つ。
中也は居ない。今は少しだけ別行動だ。協力するのは構わないが、その前に寄る処が有ると云って別れた。時間にして三十分程度だろう、必要な自由時間は。
中也にだって色々有る。
例えば指輪を探したりだとか。
例えば敵対してる組織を潰す序にその金を奪ったりだとか。
太宰に伏せた処をみると多分後者だ。そのくらいなら許容範囲だった。何より太宰にだって寄る処くらい有った。
例えば馴れ馴れしく相棒の体に触れただろう男を、惨たらしく拷問しに――もとい情報を吐かせに来たりとか。
「で? 乗り合わせてる組織の規模は何人だっけ?」
ナイフを手の甲に突き刺す。それから足の甲。側近と思しき他二名は後頭部を強かに打ち付けて気絶している。男の濁った悲鳴だけが狭い客室に響く。太宰の気はちっとも晴れない。
「は、八十二人だよ! 航海士は組織内の人員で賄ってるが、それ以外の乗組員は日雇いだから!」
「ふーん。その内敵に回ってるのは?」
ぺらりと客室内に在った見取り図を捲る。最大でその人数なら、この巨大客船を隈無く抑えることは難しいから、各主要箇所だけを抑えようとするだろう。手近に在ったペンで目ぼしい箇所に印を付けていく。此処と、あと此処と此処と。
「わ、判らん」
「――は?」
「は、八割くらいか?」
怯える犬のような目に、漏れる溜め息。予想はしていたが、詰まり現状把握もせずに客室に逃げ帰って来たと云う訳だ。組織の幹部が、聞いて呆れる。
「と云うか、有り得ないよね。何裏切られてるの? 組織の掌握が足りてないんじゃないの? あんな大規模な裏切り者の人数初めて見たよ莫迦じゃないマフィア辞め給えよ本当に、マァその前に人生辞めなきゃならなくなるだろうけど」
ざく、と足の甲にもう一本ナイフを刺す。合わせて男の悲鳴が響くが、そんなのちっとも楽しくない。
大体、私、何でこんな男の悲鳴なんか聞いてるんだろう。何時もはもっと、効率的に拷問出来てた気がするんだけど。首を傾げる。ぐり、と踏み付けた刃の通りが悪くなる。
「あれ? 安物かァ」
使い物にならなくなったそれを引き抜き、ポイと男の顔面に向かって投げ捨てる。男はナイフの目に刺さらんとした処を間一髪、避けたようだった。太宰はチッと舌を打つ。
ナイフは自前の物ではない。その辺の――仮に謀反集団とでもしようか――から拝借したのだ。切れ味が悪いのは致し方無い。否、今は手入れのなされていない方が好都合だったろうか? そちらの方が、切るにも刺すにも裂傷が引き攣れてきっと痛いに違いなかった。
それでも太宰の気は晴れない。
何だか自分の中から噴出する鬱屈とした感情を、上手く抑えることが出来なかった。太宰は傷を踏み付けて抉る。
「ぎっ、あ、やめろッ」
「ねえ、何で、君如きが、中也を、抱けると思った訳?」
踏み付ける語調が荒くなる。それで、あ、私は今苛立っているんだなあ、と他人事のように自覚する。それと同時に、ふと耳の奥に蘇る声。
――それ、今、手前に関係有るか?
辛辣な言葉が、太宰の足を止めた。
――手前こそ、なに勘違いしていやがる。俺は別に手前のもんじゃねえ。俺の体は徹頭徹尾、あの人のもんだ。
思い出して蹲る。そうだ。太宰には、何の関係も無いことだった。中也が誰と寝ようと、誰に抱かれようと。
曖昧にしていたその事実を、決定的に突き付けられた気がした。
それでも、相棒時代は隣に居たから安心出来た。自分達が離れない自信が有った。お互い相手以上の理解者は何処にも居なかったのだ、結局、何処に行こうと最終的には互いの元に帰って来るしか道は無かった。
然し、相棒と云う関係を失った今。
自分達の間には互いを引き止めるものは何も無い。
「……しんどいなあ」
心臓の辺りをぎゅうと握って顔を顰める。胸を締め付けるそれは、何かが喪われた喪失感に良く似ていた。
手に入れなければ失われることも無いと思っていた。何も手にしていないと思い込んで、自分達の関係は変わらないと信じ込んでいたかったのに。
ぴりりり、と懐の携帯電話が鳴った。液晶画面を見る。其処には『なめくじ』とだけ表示されていて、太宰は手の中に収まったそれを少しだけ眺めた。ぴっと通話釦を押す。
『出んのが遅え』
「ちゅうや……」
『此方の用は粗方終わった。手前今何処に……。……おい? 手前大丈夫か』
沈んだ声の調子を、耳聡く聞き付けられたようだった。こう云うことをさらっと云うんだ。この男は。
目を閉じる。息を整える。貼り付けるのは薄ら笑い。
平静を取り戻し、口付けるように囁く。
「……なに、死に掛けてるとでも思った? 残念、私なら今一等客室でぴんぴんしてるよ。君はどうせ主催の客室でしょう、如何、お金は横取り出来た?」
そう巫山戯た風に云えば、通話口の向こうの相棒は莫迦正直に黙り込む。違え甲板だよとか、其処は適当に云っておけば善いのに。マァそんな陳腐な嘘はどうせ直ぐにバレるけど。
薄く笑って、手元の見取り図で相棒の位置を確認する。
「えーと、その部屋から出たら次は右手の階段を上がって、反対側は谷崎君達に任せてるから。それで待合室前に出る。この構造ならその辺りに敵が複数張ってる筈だから、仕留めつつ直進。奥から三つ目が三一二号室」
『……ああ。確かに居やがるな』暫くして、息を潜めた中也の声。『相変わらず手前の千里眼地味た指示は気持ち悪ィ』
「やだな、君も見取り図くらい空で覚えてるくせに。……ええと、君なら十分でいけるよね」
『舐めんな』
電話の向こうで、微かに笑う気配。
『三分だ』
「……それは失礼」
云ってぎゅっと目を閉じる。瞼の裏に浮かぶ、彼の好戦的な笑み。肌を撫でる殺気、射殺すような目。ぞくぞくする。あの男なら本当に、制圧に三分も掛からないだろう。
だったら急がないといけない。太宰がこの、中也を飼っていた忌々しい男の部屋に来ていることを、中也には微塵たりとも云っていない。共同戦線を提案しておきながら、こんな処でサボっているとバレたら海に投げ棄てられそうだ。
太宰は痛みと不安でがたがたと震えていた男を蹴り飛ばす。いっそ殺してしまおうかとも思ったが、一応、身分上、物凄く不本意ながらそれは出来ない立場だ。それにこんな下らないことで、マフィアを抜けた自分の意志をふいにする訳にはいかない。備え付けのタオルで付着した返り血を拭う。
その途中。
『なあ、太宰、手前その部屋で何人殺った?』
軽やかな声が、電波越しに太宰の耳朶を撫でた。
心の裡を見透かされたかと、一瞬呼吸が乱れる。
「なんで?」
『良いから』
向こうでは、ぎゃあとか逃すな殺せとか不穏な言葉が飛び交っている。交戦中だと云うのに中也の声は随分と余裕そうだ。重なる銃声、次いで悲鳴。やだ、物騒だなあ。
「……私だって一応武装探偵社員だからね、殺してはいないけど。目の前にはひい、ふう……」断りを入れつつ、指折り数える。「三人転がってる」
『左斜め後ろ、クローゼットん中』
即座に太宰は机上の銃を掴み、振り向きざまに発砲した。響く乾いた音、穿たれる穴。ひいっとクローゼットの中から上がる細い悲鳴。目を見開くのもそこそこに、太宰は容赦無く中の人間を引き摺り出す。其処に居たのは銃を握り締めた黒服の男だ。恐らくはこの部屋の主の護衛。うっかりしていた。間髪入れず掌を撃ち抜く。
「ぎッああああ!」
「……迂闊。気付かなかった」
『頭に血ィ上り過ぎだろ。目的の無え拷問なんざ趣味の悪い』
あ。バレてる。
「君も大概気持ち悪い」
『云ってろ。……ああ、因みにな』
中也はその後、何事かを云おうとして、口籠ったようだった。中也の歯切れの悪いのは珍しい。その立ち消えた声を探ろうとするが、如何にも荒くて聞き取れない。響くのは相変わらずぎゃあぎゃあと喚く声ばかり。ねえ、後ろ、ちょっと黙ってて呉れないかな!
『……かれてねえから』
「え? なんて!?」
端末を握る手に力が入る。逆側の手が滑ってもう一発、ぱんと弾みで発砲した。床に転がった敵幹部の男の股間近くに着弾し、其奴がひいと真っ青になって竦み上がる。
あ、て云うか此奴居たんだっけ。
『聞けよ! だからァ抱かれてねえって云ってんだ! 大体そんな耄碌爺に俺が好き勝手を許す訳ねえだろうが、何本気にしてやがる莫迦太宰!』
「あ、え? うそ」
銃を投げ捨てる。ごつんとそれが幹部の男の頭部に中って呻き声が上がる。然しその濁声さえも今はまるで春を告げる子規の囀り、浄土に響く琴の音色のように美しい。太宰は喜色を抑えきれず、その場で手を広げてくるりと回った。弾みで机上のナイフも放る。
今度はぎゃあ、と悲鳴が上がった。
「中也、やばい。すごく嬉しい」
『斬新な歓声だ。あんま年寄り虐めんなよ』
「ああ、うん、もう此奴等如何でも良いかな……」そう云えば捨てちゃ駄目なんだった、と落ちた銃だけ拾い上げる。中也から拝借した銃だ。後で返さないと怒られる。「あ、でも此奴、中也に触りはしたんでしょう?」
『……ああ、まあ』
かしゃ、と弾倉を確認する。弾切れだ。仕方が無いから、拳銃を使うならその辺で拾って行くしか無い。
「それで脚開かされて嫌らしく撫で回されたんだ……」
『その、云い方止めろ手前』
否定しないんだ。腹いせに男共をぎゅうと踏み付けて部屋を出る。運が良ければ気絶から起き上がって室内にバリケェドを張るなりして、自分の命くらい守るだろう。まあ中也に無体を働いたんなら此処を生き残っても後で始末されるだろうが。
「ね、じゃあ何処触られたの」
『あ?』
携帯を片手に、バタンと扉を開けて飛び出す。
遠くから短機関銃の掃射音が派手に聞こえる。中也がこのフロアまで上がって来たんだろう。目的の客室は、通路を右側にぐるっと回って反対側だ。太宰は駆け出す。
途端、背後から響く発砲音。如何やら他の構成員に思いの外早く見付かったらしい。うわ、と屈んで通路を駆け抜ける。
『何処って。ケツと脚と……っておい、何云わせてんだ手前』
右手側に並んでいた客室の扉が途切れる。通路が曲線を描いて、それに沿ってきゅっと曲がる。騒ぎの元は未だ先だ。
「残念、えっちなプレイが出来るかと思ったのに」
『ニッチなプレイならして遣れるかもな。先ず手前の死体を用意するだろ』
ぴり、と感じた殺気に思わず体を傾げると、チッと後ろから銃弾が頬を掠めて過ぎた。危ない。確かに頭を狙った方が致死性は高いけど、こう云うときは頭じゃなく、命中し易い脚か腹を狙うのが定石でしょと笑う。もう一度、通路を右へ。
「死姦は良いけど君、私の死体で勃つ訳?」
『さっさと死ねって意味だよ』
ひら、と中也が敵に追われながら前方から駆けて来るのが見えた。その纏う布は白ではなく黒だ。何時の間にか着替えている。大方何処かの部屋から衣服を拝借して来たんだろう。帽子は流石に自前だろうか。あの布も中々に好かったのにな、動物的で。太宰は惜しみながら通話を切る。
そして中也に向けて、銃を構える。
ぶつっと俄に切れた通話に顔を上げ、そして中也も此方に気付いたようだった。太宰に向かって銃を向ける。
正確には、太宰の後ろに迫る敵に。
中也の唇が、遠目に動くのが判った。
避けろよ、太宰。
「……あは。誰に云ってるのさ」
ぱん、と互いの銃が火を噴いた。二重に乾く発砲音。立て続けに発砲すると、前後で上がる濁った悲鳴。ビンゴ、ビンゴ。あ、外した。勿論、中也に中てるようなヘマはしないし、他の人間ならいざ知らず、中也なら中るようなヘマはしない。
駆ける中、ぱち、と目の合った金色がやけに鮮明だ。
擦れ違う直前、きゅっと踵に急ブレーキを掛けた。次いで百八十度回転。殺し切れない勢いで、体が後ろに倒れ込む。
後ろには同じく相棒が居て、とさ、と背中が合わさった。
自然、笑みが零れ出る。
「時間ジャストだ」
「は。手前はサボってただけのくせに」
背中からも笑う気配が伝わって来る。その慣れた声音に何だか太宰まで可笑しくなって、今度はくすくすと笑ってしまった。矢張りこの男と一緒だと調子が好い。
だから尚更、過去だと認められなかった。
相棒でなくなってしまった自分達の間に有るべき絆はもう何も無いなんて、信じられる訳が無かったのだ。
太宰は瞑目する。手に入れなくったって喪失を味わう未来が在るのなら、いっそのこと。
「……太宰? 手前、今何考えてやがる」
「……別に。何も」
通路には静寂が訪れている。目の前に転がった死体の、背後に相棒の気配を感じながら息を整える。部屋の扉に金装飾で刻まれた部屋番号は、三一二。
太宰と中也は、二人同時にがん、と扉を蹴り開けた。
◇ ◇ ◇
中に居たのは男一人だった。生きている男だ。競売で指輪を競り落としていた男。如何やら未だ敵の侵入を許してはいなかったらしい。着ているのはそこそこ値の張りそうなスーツ、靴も時計も上物だ。それが腰を抜かして部屋の真ん中に座り込んでいるものだから、これが街中ならカモ認定待った無しだっただろう。まあこんな金持ちの道楽クルーズに来る連中は、どいつも大概こんなもんか。中也はその男に一瞥のみ呉れ、容赦無く家具類を蹴り飛ばしてその室内へと進入する。
手元の鞄が少し邪魔で、それは太宰に向かって放った。回収した札束を詰めた鞄だ。中也には林檎一つ分くらいの重さだったが、太宰は受け止め切れなかったのか「おふ」と妙な声が上がる。好い気味だ。
「あ、これもちゃんと回収したの」
意外そうな声に振り返れば、太宰がひらひらとその手に何かを弄んでいた。紙状のそれは、金庫の中に重要そうに仕舞われていたペーパーナプキンの一枚だ。何故か『太宰治』と署名の在る。「百億円だ」太宰が何故か愉快そうに笑う。
その太宰は入り口から動かない。何時もの戦闘スタイルだ。中也が切り込み、太宰は後ろを護る。
中也は部屋の主には目も呉れずに、机上に見付けた箱状のケースを手に取る。太宰がふらふらとしているように見えてその実油断無く銃を構えていたし、それにこんな一般人程度、行き成り此方に襲い掛かって来た処で然して問題にはなり得ない。
無造作にケースを開けた。
が。
「……無え」
ケースは空になっていた。収まっているべき物の無い、窪みが其処に在るだけだ。肝心の、指輪は何処にも見当たらない。
苛々と、部屋の男を睨め付ける。
「おい。この中身何処やりやがった」
「し、知らない! 失くなったんだ、本当に!」
失くなった? 中也は少し考える。
「太宰」
少し考えて、太宰を振り返り、くい、と親指で男を示した。失くなったとは妙な物云いだ。このおっさんが嘘を吐いているのか如何かを知りたかった。太宰は人の嘘を理論に則って見抜く。使わない手は無い。
「ええ……知らないよ……」
太宰はそうぼやきながら、んー、と男を覗き込む。じっと男を観察する。視線の向き、体温の上昇、発汗の様子。
「嘘じゃない……と思うけど。でも今まさに殺されるかも知れない状況の人間の状態なんて見ても、正確な処は判んないってば。脳に混乱が起きてるかも知れないでしょう」
「使えねえな」
「暴言! じゃあ腕一本のくらい折ってみればァ?」
太宰はもう興味が失せたのか、ふらっと体を起こして室内を物色し始めた。しーらない、と肩を竦める。欠伸一つ。
「それで吐く奴は吐くし、吐かない奴は何をしても吐かない」
「手前が何時もやってるやつやりゃ善いだろが」
「そしたら吐くだろうけど、でもやだ、面倒臭いよ。知らない可能性の方が高いし。嘘吐くんなら、逃げてる途中に落としたとか、そう云う嘘吐くでしょ。態々箱を開けたら消えてたなんて、疑われるような嘘じゃなくさあ」
「……へえ?」
そう云うものか。心理のことなら太宰の方が長けていたから、此奴がそう云うんなら、そうなんだろう。中也は頷く。
それで殺されることは無いと気が緩んだのか、部屋の真ん中で腰を抜かしていた男が、べらべらとその口を動かし出す。
「確かに消えたんだ、本当に! ケースを開けたら無かった! くそっ、訊きたいのは此方の方だ!」
誰も殺さねえなんて云ってねえのに。
「まるで煙の様に、ってか」
ぴく、と太宰が片眉を上げた。その表情で、自分から殺気の漏れていることに気付く。何か云いたげな太宰の視線は、気付かない振りをして黙殺した。
悲鳴を上げる男を引き摺り倒し、その背を強く踏み付ける。
「縁石が無かったことを幸運に思えよ」
「中也」
そう、嗜めるように中也の名を呼ぶものだから、中也は思わず笑ってしまった。それだとまるで、俺を咎めてるみてえじゃねえか。手前は散々っぱら、別の男を甚振ってたくせに。
「指輪が無えなら用済みだ。どうせ死ぬ。それに――」
ぱん、ぱん、ぱん。乾いた音が三発、船室に響いた。
「指輪で異能を如何かしようとしてたんなら、俺達の敵だろ」
男の体からずるりと力が抜ける。穴の開いたそれは、もうぴくりとも動かない。ただ、流れる血が絨毯を濡らすのみだ。
「……俺達、ね」
太宰が肩を竦める。それ以上は何も云わなかった。指輪の入っていただろう箱を、黙って外套の裡に収める。
「却説、指輪が無いとすれば如何しようか。操舵室でも制圧しておく? 進路変更されて外つ国に向かわれると面倒だし、それに多分、主犯格は其処に居るだろうし」
「……そう、だな」
その時、ふと何か引っ掛かりを感じた。大した違和感ではない。然し何かおかしくはなかったか。そう云う違和感。
「中也?」
じっと、太宰が此方を見詰めている。
「……いや」
何でもない、と太宰の視線を振り切り、操舵室を制圧するその提案に首肯した。ちら、と腕の時計を見れば時刻は何時の間にか午前二時を大きく過ぎている。頃合いだ。操舵室への道すがら、甲板に出る必要が有った。
中也は一つ息を吐き、首領の言葉を思い出す。指輪はエリス嬢の望みだと云っていた。恐らく首領もそこまで本気ではない。何せ信憑性の薄いブツだ。然し万が一がある。万が一、それが本物で、マフィアの不利になるよう使われるなんてことが在ってはならない。
一番重要なのは、マフィアの不利益にならないことだ。
ここまでしておきながら目的の物を入手出来なかったなど、マフィアの幹部ともあろう者が間抜けにも程があるが、万一見付からない場合は、最悪、船ごと海に沈めれば善い。
今、この船の何処かに在ることは確かなんだから。
◇ ◇ ◇
「……何だ?」
部屋を出ると、船内が俄に騒がしくなっていた。時刻は深夜、丸く窓の鉄枠に嵌め込まれた硝子の先は真っ暗闇一色だ。本来ならば虫も寝静まっている夜半。にも関わらず、響く人の声が大きい。野太い怒声。断続的な機関銃の音。
嵐の目は此処に在るのに、何だかおかしな雰囲気だ。
太宰から札束入りの鞄を受け取りながら、中也は通路の先へと視線を遣る。未だ視界には入っていないが、如何やらこの先で戦闘が起きているらしい。然し人質になり得る乗客(何せ金持ち連中ばかりだ、身代金なら搾り取り放題だろう)は全員、客室に入っているのだから、大きな騒ぎなど起きよう筈も無い。
なら一体、誰が暴れてやがるんだ?
ちら、と互いに顔を見合わせ、一つ頷いた後、太宰と中也はその方向に向かって駆け出した。
「『死なない程度に私達の敵を倒して、夜叉白雪!』」
「うお」
大振りの刃がぶんと宙を裂き、中也はすいと上体を逸らした。ち、と刀が髪を掠めて行く。操っているのは猛々しく顕現した夜叉だった。人の手では到底出し得ないような力で武器を振り、敵を薙ぎ倒している。何せ強力な異能だ、敵は壊滅状態に近かった。中也はぐるりとその場を見回す。
ドレスの少女が手元の端末に向かって呼ぶ、その夜叉の姿には見覚えが有ったが、然し彼女が所有者では無い筈だった。その少女の背後に忍び寄る敵を重力操作で捻じ曲げながら、中也は太宰を振り返る。
「おい、アレは手前ンとこのお嬢さんじゃねえのか?」
「ナオミちゃん!?」
如何して君が戦ってるの、と太宰が慌てた様子で駆け寄る。その周囲に、幻想的にふわりと漂ったのは白い鱗粉。
否、それはけして蝶の残滓などではなく。
「……雪?」
然し此処は船内だ。在り得ない。中也は一瞬訝しんだが、冬の匂いの漂うそれはぱちりと瞬く間に消えてしまった。
代わりに視界の中に捉えたのは、未だ幼い一人の少女。
彼女のことならば知っていた。
「泉鏡花」
名を呼ぶ。少女も此方に気付いたのか、びくとその小さな体躯を震わせた。ゆっくりと、此方を振り返るその表情が、通路の薄暗い灯りの下で何処か不安げに揺れている。
「……中原、中也」
彼女が纏うのは、鮮やかな着物だった。柘榴の色の袖。あの時、目の端に映った赤。「……嗚呼、先刻のは矢っ張り手前だったのか」思い出して一人納得する。見間違えではなかったのだ。今となっては如何でも良いことだが。
その少女が、ちゃき、と震える手で此方に短刀を構える。中也は少し困った風に笑った。本気で向かって来られると、幾らガキとは云え手加減出来ねえ。何せ紅葉姐さんの教え子だ。困った。そう云う笑い。
「安心しろよ、今は太宰と組んでんだ。何もしねえよ」肩を竦め、飛び掛って来た敵共を重力で押し潰す。「少なくとも、探偵社の奴等にはな。姐さんにも、手前が元気にしてたって宜しく云っとく」
その言葉で、ゆるゆると少女の肩の力が抜けたのが判った。短刀をからんと放り出し、中也にがしりと獅噛み付く。その一連の動作に咄嗟に反応出来ず、一瞬、冷やりとした予感が中也の背筋を刺した。殺気が全く無かった。少女がその気だったならば、中也は呆気無く刺されていただろう。先程見せた笑みを飲み込む。
然し生憎、少女にその積りは無かったらしい。ぎゅう、とその、刃物の似合わないほっそりとした手が、中也の襯衣を握り締める。
「……何だ? 如何した」
「あの人が」
中也の腹に埋めた唇から、ぽつりと紡がれるか細い声。
まるで、蜘蛛の糸に縋るかのような。
「あの人が、甲板に居るの。囮を買って出て。でも、あの人に他人は殺せない。あの人は、とても優しいから」
ふと、少女の手に触れた。その体温は驚くほど冷たく強張っている。ぐっと力を込めて握られる、指の先が白い。
けれど再度此方を見上げた瞳は、もう揺れてはいなかった。
「御願い。あの人を、助けて」
……嗚呼。姐さんが常日頃から心配していたのはこれか、と中也は独り言ちた。あのひとが過保護が過ぎるくらいに、少女を守りたかったのは、こうなることを恐れたのかと。
其処に居たのは、組織きっての暗殺者ではなく、ただのひとりの少女だった。今にも折れてしまいそうな体躯に反し、その意志は何処までも強く中也を射抜く。
然し中也はそっと、少女の体を引き剥がした。幾らそれが好ましくとも、願いを聞くことは出来ない。首を横に振る。
「……頼む相手を間違えてんじゃねえか? 俺はマフィアだ。俺が優先すんのは、ポートマフィアの利益だけだろ」
じわ、と少女の瞳が悲しみに満ちるのが見えた。然しそれも一瞬だった。次いでその目に宿るのは、射干玉色の決意だ。少女は黙って短刀を拾い上げ、ぐっと握り締め直す。
その頭を、思わずぽんと一つ撫でた。
「……俺は助けねえが、太宰が居んなら大丈夫だろ」
その、太宰が丁度此方へ駆け寄って来る処だった。視線が固まり、あれ、二人って知り合いだっけ……と中也と鏡花を交互に行き来した後、ふと気付いたように首を傾げた。
「そう云えば敦君は?」
「……手前は本当、空気読めねえよな」
◇ ◇ ◇
甲板では虎が暴れていた。
燦たる毛並みの白い虎だ。それが、その四肢の処々を赤く染め、冴え冴えと輝く月の光と無機質な人工の照明を浴びて、凛とその場に君臨していた。周囲には、餌食になった人間が千々に散っている。銀の体躯、暁色の瞳。ぎ、と爪が甲板を掻く。猛々しく吠える獣の声が、夜の海に響く。
吸い込んだ空気に、肺が冷えた。
見事なもんだ、と中也は素直に舌を巻く。伊達に七十億の値は付いてない。中也の部下である科学者なんかは諸手を上げて喜びそうだったが、然しアレは生物は専門だっただろうか。足元に飛び散った血を眺めながら、中也は考える。ところで、敵とは云え相対している人間の悉くが死にそうだが、これは探偵社的にはセーフなんだろうか。手近な人間を蹴り転がし、未だ生きていることを確認する。
「中也。敦君が引き付けて呉れてる内に、操舵室先に制圧しちゃってよ」太宰が表情を消し、操舵室の方を差し示す。「私は裏を見て来るから」
飄々とした物云いに反して、その顔には微かに焦りが垣間見える。らしくない顔だ。少なくとも、敵味方構わず非情に切り捨てていた頃には見せなかった類の。中也は目を細める。
心配なら駆け寄って遣れば善いのに、然し太宰はそれをしない。その方が効率が良いと、この男の思考が判断しているからだ。ここは一先ず、各々分かれて制圧した方が善いと。中也だってそう判断するし、その考えは別に間違ってはいなかった。此処に居るのが自分達だけだったなら、間違い無く相手に全部押し付けただろう。その経験に従って、太宰も中也も行動するだけだ。
然し、人虎にはきっと荷が重過ぎることもまた、此奴の脳は認識している。
合理性と感情の間で板挟みになっていることを、果たして此奴は何処まで自覚しているんだろうか。
ちら、と太宰を見る。太宰も中也を見た。一瞬の後、同時に地を蹴って二手に分かれる。こう云う処は息が合うのだ。
そうでなければ、相棒なんて組みはしない。
今だって、動きも呼吸も、手に取るように読めてしまう。相棒を辞めた今、自分達の間には何も無いなんて嘘だった。現にこうして存在するのだ。ともすればその思考さえ読めてしまう、何かしらの繋がりが。
だからこそ邪魔だった。もう相棒は辞めたのに、それでも尚其処に存在するそれは目障り以外の何物でもなかった。
「……ち」
腹立ち紛れに操舵室の扉を蹴り開ける。俄に色めき立つ室内の人間凡てを三秒経たずに空間を捻って縊り殺す。ばしゃと計器類が血飛沫を浴びた。構わねえ。どうせ沈む船だ。
板挟みは、中也とて同じことだった。マフィアである自分、相棒であった自分。一方が邪魔なのだ。ならば何方かを殺すしかない。
◇ ◇ ◇
「うわッ……!」
油断が有った。或いは暗がりに紛れた攻撃だったから、反応が遅れてしまったのか。脚を撃たれ、バランスを崩す。幾らタフでも衝撃は残ったのだろう、虎化が解け、そのまま宙に放り出される。ここまでか、と少年がぎゅっと目を瞑る。
その体を。
「……っとお」
中也が手を伸ばし抱き留めた。間一髪だ、全く油断も隙も無い。札束入りの鞄を放り出し、少年をぐいと船上へ引き戻す。
少年は、何が起こったか認識し切れていないようだった。ぺたん、とその場に座り込み、あれ、落ちてない、とぼうとその場で呆けている。今は人型だ。あの荒々しい姿の気配は欠片も無い。それが、ふい、と中也を見上げる。
ぱちり、と暁色の瞳と目が合う。その太陽のようにまるい瞳が、みるみる驚きに見開かれていく。ふぅん、これが、と朝の気配を纏うその少年を中也はまじまじと見下ろした。
ふぅん。これが太宰の、お気に入り。
「貴方は……競売のときの……」
線の細い少年だ。潮風に揺れる銀の髪。淡い光を湛えた瞳の色は、これまで太宰の隣に居た人間のものとは似ても似つかない。彼奴の隣に居続けられるほどのタフネスが、果たしてこの少年に有るのだろうか。中也はじっと観察する。
銃声は止んでいた。如何やら気付かない内に、敵の死角に入ったようだった。暗がりは夜気に冷えている。
中也はその場にしゃがみ込み、じっと目線を合わせた。
「虎になんのか?」
「は、はい」
「……へえ」
すい、とその脚に指を滑らせる。うぎゃ、と擽ったがる声。その割には警戒されていない。莫迦なのかお人好しなのか。
先程撃たれていた筈の傷は、ものの見事に失くなっている。
「綺麗に治っていやがる……」
「あ、そう云う体質みたいで」
独り言地味た問いに素直に受け答える少年を、中也はちらと見遣る。するとふいと気不味げにその射抜くような視線が逸れた。如何やら漸く、自分の話しているのが正体不明の知らない男だと云う事実を飲み込んだらしい。だらだらと暗がりでも判るほど冷や汗を流し、然しそれでも逃げようとしないのは助けられた恩が有るからなのか。
中也はじいと考える。あの太宰が、この少年の為に態々マフィアに囚われたり、その賞金元を探ったりしていたのかと思うと何だか物珍しい気分になる。あの人形地味た男が、そんな人間らしい感情を持ち合わせていたとは中也は終ぞ知らなかった。
然し四年だ。彼奴がマフィアを抜けて、四年。四年有れば赤子だって言葉を話す。
そしてそれは、間違いなく中也の知らない太宰だった。
「あ、あの……僕の顔に何か……」
「いや――」
やめだ。首を横に振り、少年に手を貸して立ち上がる。ちらと時計を見るとそろそろ時間だ。立ち去ろうとする。
その瞬間。
ぎら、と殺気の向けられた気配が在った。咄嗟に人虎の少年を突き飛ばす。そうして中也の一歩下がったその空間を、発砲音と共に銃弾が過った。
「……危ねえな?」
ちら、とこれ見よがしに笑う。勿論、視線の先に居るのは太宰だ。今の一発で弾が切れたのか、早々に拳銃を放り出す。
「中也、君、敦君に何してんの!?」
何時も冷静沈着な男が、珍しく焦った様子なのが面白い。口の端が歪む。中也は人虎の少年に、にこりと笑って再度手を貸した。ぐい、と引っ張り立ち上がらせる。
「人虎。お仲間が困ってたから、下に救援に行って遣った方が善い。此処は俺達で十分だから」
追い払う目的半分。もう半分は、ちょっとした親切心だ。
きっと死体は見慣れてねえから。
はい、と戸惑いながらも駆け出す少年の背中を見送る。見送りながら、背後に立った男を揶揄した。
「……ご挨拶だな? 助けて遣ったんじゃねえか」
「探偵社の貴重な戦力の分析は辞めて呉れる?」
よく云う、と笑う。あの再生力。あれなら太宰の側に居ても毀損され難い。だからこの船にだって連れて来たんだろう。
振り返る。如何やら残りの敵は、太宰が凡て一掃していたようだった。暗がりから、照明に照らされた甲板に歩み出る。人工的な白い光は、深夜だと云うのに真昼を思わせる光度で中也と太宰をぎらぎらと照らした。幾重もの影が色濃く映る。
足元で、カツンと何かが爪先に中った。先程太宰の放った空の銃が、無機質な音を立てて転がっていく。
「あれは俺じゃ毀損せねえんだろ」
「幾ら彼が丈夫でも、重力でぐちゃぐちゃにされたら一溜りも無いに決まってるでしょう」
「生憎と、人虎に限らず大抵の生き物はそう云う風に出来てるよ」照明に目を眇め、遠くの空を眺めながら中也は皮肉を口に乗せる。「手前みてえな意味判んねえ化物野郎以外はな」
ぴた、と太宰がその歩を止めた。
「……心外だなァ、人間兵器」
地を這った声に、夜の湿った空気が撓った。ぎら、と自分達の間に光ったのは殺意だ。何方かが拳銃を、或いは短刀を抜けば、その瞬間血が飛沫くんだろう。一触即発。最ッ高だ。頚椎が痺れるようにぞくぞくする。
嗚呼、これだよと中也は笑う。蘇る、あの頃の感覚。
同時に胸の奥に懐かしさが去来して、もうそれが常に傍に在るものではないことを嫌でも思い知らされる。
結局、その剥き出しの感情が邂逅したのは、僅かばかりの一瞬だった。太宰はふっと視線を緩め、中也にくるりと背を向ける。
「……うふふ、こんなのも久し振りだねえ。ああやだやだ、さっさと終わらせて帰ろうっと」
「……同感だな」
中也も笑った。この時ばかりは、元相棒に心の底から同意した。さっさと終わらせるべきだと思った。
過去と比較して、あの頃とは同じだの違うだの。好い加減鬱陶しくて仕方が無い。
中也はぴんと張り詰めた己の殺気を緩めないまま、ちらと腕の時計を見る。それから夜空を。
暗闇の中に、ぼんやりとヘリの遠影が見えた。
打ち合わせ通りの時間だった。中也は微かに瞑目する。
楽しい相棒ごっこも、ここまでか。
かち、と無言で撃鉄を起こす。太宰は気付かない。中也はゆっくりと愛用の銃を構えた。狙うは目の前の男の命だ。
照準を合わせる。この距離ならば外しようも無い。射線にぴたりと収まる頭。太宰は未だ気付かない。
気付けよ。
気付くなよ。
息を深く吸って、吐いた。気分は不思議なくらい凪いでいた。今更、太宰を撃つことに躊躇いなど無い。此奴は組織の裏切り者。そして中也は組織の人間だ。裏切り者は、死んで当然。だから中也は太宰を撃つ。
『邪魔な人間が居たら、遠慮無く殺して構わないよ』
首領の言葉が、耳の奥に鮮やかに響く。きっと、こうなることを何処かで予見されていたのだ。その確信が、中也には有った。
中也にとって優先すべきはマフィアだった。マフィアである自分が、最も優先されなければならなかった。その為には太宰が邪魔だった。自分の中に居座り続ける、この男の存在が邪魔だった。太宰がマフィアを抜けた今、自分達は相棒では在り得ない。自分達の間には最早何も有るべきではない。
だから、邪魔になったんだ。
今と昔の空白さえ埋められないくせに。
未だ自分達の間には何か有るんじゃないかと錯覚させる。
元相棒なんて、関係は。
「……だから俺は、手前を殺すんだ。太宰」
太宰が漸く振り返る。脳天気にへらりと浮かべていた笑みが、銃口を見て瞬時に凍り付く。その唇が、震えて開く。
「……中也」
遅えんだよ。薄く笑おうとして――出来なかった。振り切るように告げる。
「――じゃあな、太宰」
その腹に向け。今度は躊躇わず。
発砲した。
◇ ◇ ◇
「皆さん、大丈夫ですか!?」
甲板から駆け下りた敦は、谷崎兄妹と鏡花の姿を確認してほっと安堵の息を吐いた。見た処、如何やら怪我も無いようだ。寧ろ、慌てた様子の敦を不思議そうな顔で見ている。
先刻助けて呉れた親切な男の人は、『お仲間が困ってたから』と云った。でもきっと、その危機は回避されたんだろう。鏡花によってぎちぎちに縛られた敵の数人を見て、敦は肩を撫で下ろす。流石は武装探偵社の面々だなあ。そう笑おうとした瞬間――。
ぱぁん、と破裂音が一声響いた。青褪めて振り返る。
今のは甲板の方からだ。
未だ太宰とあの男の人の居る。
「しまった……!」
「敦君!」
谷崎の静止を振り切り、敦は再び駆け出した。自分の判断の甘さに歯噛みする。離れるべきではなかった、大丈夫だなんて言葉に甘えて離れるべきではなかった! 敵が未だ居たかも知れないのに、若し太宰が、或いはあの男の人が、敵の残党に負傷させられていたら何とすれば善い? ぎゅうと胸の辺りを握り締める。後悔に、胸が押し潰されそうだった。一気に甲板に駆け上がる。
然し目の前に広がる光景に、敦の思考は一瞬時を止めた。
其処には、先程自分を助けた男が銃を構える姿と、その銃口の先に、血を流しながら倒れる太宰の姿が在った。
自分の口から漏れた悲鳴のような声が、やけに遠くに聞こえる。
◇ ◇ ◇
「だ……太宰さんッ!?」
ゆっくりと崩れ落ちる太宰の体の向こうから、聞こえる筈の無い声が聞こえた。顔を上げる。先程助けた人虎の少年だ。それが悲痛な表情を浮かべ、ぎらぎらとした照明の中、此方へ駆け寄って来ようとしている。
嗚呼、せめて太宰の死ぬ瞬間は見せないでやろうと気を回して遣ったのに。気遣いは無駄になったって訳だ。
中也は僅かに目を伏せる。
「……おっと、不用意に近付くなよ。ガキ」
然しそれも一瞬だった。次の瞬間にはにやりと悪どく笑い、銃口を、少年にではなく転がった太宰の体へと向ける。あの再生力で無謀に突っ込まれるより、人質を取った方が確実だ。そう考えての行動だったが、その読みは妥当だったらしい。少年の足がぴたりと止まる。
その瞳に覗くのは迷いだ。駆け寄らねば助けることは出来ない。然し踏み込めば、その死は確実なものになってしまう。
甘いな、と中也は独り言ちる。この場合、死体になんざ目も呉れず、敵を殲滅するのが正解だ。然し太宰が生きている可能性が僅かでも有るのなら、少年は踏み込めないだろう。
生きている可能性、か。転がった体をちらりと見れば、太宰は無様に蹲り、ひゅうひゅうと苦しげな息を漏らしている。如何やら急所は外したらしい。然しその唇から、段々と色が失われていくのが見て取れた。背中に貫通痕は無い。背を丸めて腹を抑えた手から、ぼたぼたと赤い液体が落ちている。
まるで目の前の男の命が、無情に零れているかのようだ。
「中也……どう、して……」
そう呻いて中也を見上げる太宰の目は、これ以上無く黒く濁っていた。この男が何時も飛び込む溝川の色だ。川であればまだ陽を帯びればきらきらと輝けようものを、太宰の瞳からはただ光が失われていくばかりだ。
その水面を、中也はじっと見下ろした。何だか如何しようも無い気持ちの悪さだけが手の平の上に生温く残っていた。歯の奥に何かが挟まった感触。
呆気無かった。
自分達二人の終わりにしては、これ以上無く呆気無かった。
心臓の奥から、空気の抜けていく感覚。脚が捉える地面の固さが曖昧だ。
自分は本当に、こんな結末を望んでいたのか?
疑問は留まること無く潮風に攫われ流されていく。視界の端で、太宰の体がどさりとその場に崩れ落ちた。じわじわと広がりゆく血溜まりは、夢でも何でもなく目の前に広がる現実だ。太宰はもう、ぴくりとも動かない。それが、何故だか中也にはひどく腹立たしかった。
動けよ。
何勝手に死んでやがる。
手前は。俺の相棒だった手前は、こんなとこで死ぬタマじゃねえだろ。もっと狡猾で、もっと計算高く。他人を嘲笑って神経を逆撫でて。そうして飄々と笑う。
そう云う奴だった筈だろう、手前は。
思考が硬直する。裏腹に、中也の体は機械的に動いた。暫し忘れていた首輪の鍵と、掏られた銃の回収。弾はすっかり空だった。それを確認する体と脳が、何処かぼやりと乖離している。鍵を差し込むと、かしゃんと軽い音と共に外れる枷。呆気無い。枷は海に棄てる。
ぼちゃんと云う音は、遠過ぎて佳く聞こえなかった。
「……元相棒も、これで終いだ」
耳元で、死にそうに誰かが呟くだけだ。
上空に、ヘリの音が響く。中也は放り出したままだった札束入りの鞄を拾い上げ、垂らされた縄梯子に手足を絡める。ばたばたと、風で髪が暴れて鬱陶しい。異能でぎゅっと帽子を抑える。ふわと脚が甲板を離れ、上空にゆっくり浮上する。
敵はほぼ殲滅。
金は手に入って、邪魔者は殺した。
後は、船を爆破しておさらばするだけだ。衣囊に収めた棒状の起爆装置を、手に馴染むようぎゅうと握り締める。
中也が離れたのを見て取って、人虎の少年が太宰に駆け寄るのが眼下に見えた。中也へ飛び掛かるより、太宰の安否を優先したのだろう。それで善い。助かるかは知らないが。
上空から、その光景を見下ろす。
人虎の腕の中で、相棒だった男の命の灯火が、今消えようとしている。安堵に息を吐いても善い筈だった。これでもう、あの男に振り回されることは無い。あの男の嫌がらせにも、自殺趣味にも、付き合う必要は無くなる。川へ飛び込めば溝川を攫って、首を吊っては枝をへし折り。毒を飲めば掻き出してやって。
そんなことをする必要も、もう。
失くなるのだ。何もかもが。
心臓が、ぎしりと悲鳴を上げる。
その時、不意に太宰と目が合った。
その目は未だ生気を保っていて――と云うより、その目は寧ろ常より澄んでいる。深い夜空の色を落とした黒玉が、中也のことを殊更はっきりと映し出す。
中也を捉えた太宰の口が、微かに動いた。中也に向けて、何かを伝えようとしている。
何だ?
中也はじっと、太宰を見る。
中也の視線を受けて、太宰が赤く染まった手をよろよろと衣囊から引き抜いた。握られているのは棒状の何かだ。
中也の衣囊にも収まっている、見覚えの有るそれは――。
「真逆、手前」
『そう』
声はプロペラ音に掻き消されて聞こえない。然し確かに太宰はそう発した。にやりと口元が悪どく笑う。
『全部、知ってた』
ぞわ、と悪寒が全身を駆け巡るのと、太宰が手元の起爆装置を押し込むのとはほぼ同時だった。
先ず響いたのは爆音だ。遙か上空から、鼓膜を刺す衝撃。続いて熱風。皮膚が焼けるように熱い。
「ッ!?」
見上げると、ヘリが炎を噴いて爆発していた。然しそれが確認出来たのも一瞬だ。中也の体は勢い良く甲板に叩き付けられる。咄嗟のことに受け身が取れず、全身を衝撃が走る。その上に降り注ぐヘリの金属片。尖ったそれに時折裂かれる痛みに、思考に一瞬空白が出来る。なんだ? なんでヘリが爆発してやがる? いや、それよりも。
ざっと再度上空を見上げる。
ヘリを運転していた部下の体が、今まさに海に投げ出されようとしていた。
ぐるりと思考が熱を持って回転する。中也の能力は触れたものの重力を操るのが主だ。今の中也の位置からでは、重力操作は届かない。気付けば手摺りを蹴っていた。海へと飛び出し、部下の体を空中で抱き留める。
「おい。生きてるか!」
「……なかはら、さ……申し、訳……」
「ああ、良い。黙ってろ。舌噛むぞ」
ふっと安堵の息を吐く。命に別状は無い。然し処々を火傷している。それだけを確認し、部下の体を甲板側へと弾き飛ばした。少々乱暴な着地になるが、背に腹は代えられない。
そして自分の重力を操作し、船上へ戻ろうとしたその瞬間。
「敦君ッ!」
太宰の悲鳴と共に、上から虎が降ってきた。
「人虎!?」
思わず異能でその体躯を潰そうとするが、一瞬早くぐっと抑え付けられ、その四肢の膂力で以って体を強く拘束される。いや、抱き留められているのかこれは? 見れば頭部胸部は少年のまま、ぎゅうと必死に目を瞑っている。道連れにして殺そうと云う腹ではない。
何方かと云えば、中也を助けようとしているかのような。
おいおい此奴も自殺志願者の類かよと仰天する。こんな、敵の跋扈する只中で太宰と行動を共にしている時点で、中也がマフィアであることは薄々感付いているだろうに、何を助けようとしてやがんだ? 探偵社は莫迦揃いか? 若しくは相当なお人好し。何方にせよ莫迦だ。
兎に角拘束を解こうと藻掻く中也の視界に、ふ、と影が落ちた。子供の大きさほども有るヘリの金属片が中也の眼前に迫る。詰まり少年の真後ろだ。それが、
「あ、手前、避け……」
指摘する間も無く、がん、と少年の後頭部をぶん殴った。
あ。
「きゅう……」
「……って手前が気ィ失ってたら世話無えだろうがァ!」
目を回した人虎の少年と縺れ合いながら、派手な音と共に中也は海に落ちた。
◇ ◇ ◇
ごぼり、と気泡が昇っていく。
それ以外は静かだ。何の音もしない。感覚もしない。ただ闇の中に重く沈んでいく。体が沈んで、意識が澱む。
衣服は既に水の侵入を許していた。どころか重さを増して手に足に纏わり付き、中也の動きを阻害する。刺すように冷えた水と体温の境が曖昧になって、海の底へと溶けていく。段々と、水を掻き分ける手の動きが鈍くなっていく。
じわりと痛む目を見開いて見上げると、遠のいてゆく黒い水面に、一筋光が差し込んで揺れていた。客船からの照明だ。ごぼ、と口から泡が漏れ出る。目を閉じる。真っ暗になる。
中也がその茫洋とした闇の中に見たのは、不安でも、況してや恐怖でもなく。
これ以上無い安堵だった。
最後に目にした太宰の顔。
凡て計算通りだと笑う顔。
俺は結局、太宰を殺すことは出来なかったのだ。
太宰を失うことは出来なかった。
嗚呼、俺は――。
◇ ◇ ◇