【再録】船上ヱンゲヰジ!
三.
「中也君」
そう名を呼んだのは、柔らかい声だ。何処までも柔らかく、内臓を絡め取る声。或いは、そうと知らずにじわじわと体内に回る毒。
中也はそれをゆっくりと受け入れる。今更抵抗する意味は無い。中也の体は、疾っくの昔に侵食され尽くしている。
「はい、首領」
帽子を胸に中て、己の首領から下される、次の指令を待つ。
「君に態々来て貰ったのは他でもない。今回はちょっと面倒な相手でね」
その言葉と共に側近の黒服から手渡された資料に、さっと素早く目を通す。海外由来の組織だ。然し然程規模が大きいようには見えない。この人が厄介がるようにも。
疑問は、一つ瞬きに留める。
「……潰すだけで宜しいですか?」
「否、それが、その組織が『異能を制御出来る指輪』を持っていると触れ回っているらしくって」
「異能を制御出来る指輪……ですか」
今度ははっきりと戸惑いを示した。如何にもこうにも嘘臭い。本物であれば異能者にとっては脅威だ――然し、そんなものが今の今まで何の情報も無く存在し得たとは考え難い。
中也がちらりと目を上げ次の言葉を待っていると、鷗外の仮面に僅かばかり綻びが入った。
「君の云いたいことは良く判るよ。けれど、エリスちゃんが如何しても欲しいって云って聞かなくて」
「あら」その言葉に口を挟んだのはエリスだ。「私、別に指輪で買収されるような安い女じゃないわよ。リンタロウが私のプリン食べたの、許さないから」
態々お絵描きの手を止めてつん、とすました表情を見せた少女は、けれど中也には満面の笑みを向ける。
「でもチュウヤから貰えるなら、悪くないわ。飛びっ切りの、呪われた指輪が好い」エリスの言葉は何処までも無邪気に、首領の執務室に愛らしく響く。「勝手に他人のプリン食べた人の毛根が、将来的に死滅するような呪い」
中也はちら、と視線で問う。男はただ苦笑しただけであった。そうしていると、表面上はただの気の好い町医者だ。少女に気を許しているのが判る。
けれどそれは、少女にしか許していない一面だ。その距離感を誤ると、如何に幹部と云えど首が飛ぶことになる。
その言葉の意味を、額面上で捉えようとすることもまた、同様の結果を招くだろう。
故に中也の語調は変わらない。
「……では、指輪を奪取した後、組織の殲滅を」
「うん。……ああ、出来れば今後同じことをしないように、序に他の小さな組織にも釘を刺して貰えると嬉しいかなあ」
見せしめに、派手に潰せ。
脳内の手帳に、その命令を箇条書きで追加する。
後は、云われずとも金の回収。少し下手を打った金でも、上手く回せば綺麗になる。どうせ燃やすくらいなら、マフィアの下で役立てればいい。そう云うエコ。組織の資金は、幾ら有っても困らない。
然し成る程、これは確かに面倒だ。脳内に描いた箇条書きをじっくり眺めて、一番手間の掛からない方法を模索する。
敵対組織の制圧、これは良い。鏖にすれば善いのだから、何時もやっていることだ。金の回収も序にやれば問題が無い。見せしめも、潰した後に派手に噂を立てれば善いだろう。
なら問題は、指輪の捜索を如何するかだ。こればかりは、調べてみなければ如何にもならない。敵の組織に潜入して、探りを入れて。面倒だ。そう云うちまちました手回しは、本来なら彼奴の仕事だってのに。
そこまで考えて、中也ははたと思考を止めた。
居ない奴を頼るのは性に合わない。非現実的な仮定は無意味どころか愚か者の行為だ。迷いは判断を鈍らせる。
中也は執務室を後にしようと、一歩歩を下げた。
「そうそう」
係る声に足をぴたりと止める。未だ何か有るのだろうか。再び脳内に手帳を開く。
「邪魔な人間が居たら、遠慮無く殺して呉れて構わないよ。若しかしたら、見知った顔も在るかも知れないけど……」
そのときは、判るよね、と鷗外は無邪気な動作で首を傾げる。先程エリスが見せた傾きと、角度も仕草もまるきり同じ。じわ、と背中に嫌な汗が滲む。
邪魔者の排除。此方の面の割れている可能性有り。
云われずともその積りだったが、何か特別注意しなければならないことが有っただろうか? 内心で十分に警戒をしながら、中也はその疑問を欠片も出さないよう頷いた。
「承知しました。では報告は随時行います」
「済まないね。――中也君も、理解が早くて助かるよ」
退出の間際に掛けられた声に、弾かれたように顔を上げ――ぐ、と腹に力を込めて堪えた。如何云うお積りで。その言葉を飲み込む。
中也君『も』。それは中々に、中也の自尊心を煽る言葉だ。
「お褒めに預かり光栄です。……失礼します」
奥歯を噛んで、その場を後にする。閉まる扉の向こう側に見えた鷗外は、ただにこりと笑うのみだった。
扉の前で、じっと思案する。今のは、試されたのだろうか。過剰に反応した中也が、未だ誰かのことを引き摺っているのではないかと? それを知って如何するのか。自覚させ、断ち切らせるのが目的なら、意味の無い挑発だ。断ち切るものなどもう何も無いのだから。
あの男がマフィアを棄てて、四年になる。その間にあの男はあの男の人生を歩んでいたし、中也は中也の人生を歩んでいた。道を違えて、随分と長い。もう太宰と自分との間には、何の関係も無い。
何も無いのだ。驚くほど。中也は自嘲する。
だから試された処で、今更何をすることも出来なかった。
結局、中也は任務の為に一番手っ取り早い方法を取った。
先ず指輪の捜索及び奪取。これは部下を敵対組織に潜入させて探らせたが、如何にも行方が杳として知れない。その内、その組織が競売を主催すると云う情報が入った。それに指輪を出品する予定だとも。
嗚呼、偽モンだな、と直感した。指輪が本物であるなら、異能が威を振るうこの横浜でそれを手放すことほどの愚行は無い。莫迦者共の真骨頂だ。然し保管場所が特定出来ないほどに厳重に管理している処を見ると、或いは本物である可能性も否めない。その取捨選択の決定権を、中也は持ち合わせてはいない。どの道入手の必要が有る。
却説、組織を潰してしまえば指輪の行方が判らない。然りとて競売後に探そうにも、一般人に競り落とされては面倒だ。
だったら、競売に乗り込むのが一番手っ取り早かった。
船に乗り込み、出品された指輪を回収し、序に爆破でもすれば敵を殲滅出来る上、良い見せしめにもなるだろう。敵の本営は、並行して地上部隊に殲滅させれば善い。それが一番効率が良い。そう判断した。
だから自分の身柄を、敵の組織に売り渡したのだ。競売に潜入する、一番効率の良い方法として。
ぴく、と中也は視線を感じて顔を上げた。爆弾を仕掛ける手を止める。振り返るが然し気配は無い。其処には在り来りな船内の光景が広がるだけだ。少し照明の落とされた通路。競売前の、着飾った碌でなし共の往来。歓談。ざわめき。
ただ一筋、ひらりと目の端に着物の袖のような鮮やかな色が舞った気がした。真っ赤に熟れた、柘榴の色の。
「何だ……?」
少し考える。気配が無かったし、一瞬のことだったから、恐らく見間違いだろう。幽霊じゃあるまいし。そう思って設置作業を再開しようとしたが、如何にも目の端の赤が頭に引っ掛かって離れない。
あの高さで袖が見えるとすれば、恐らく子供だ、子供で、着物。その言葉で、連想される人間が一人居る。尾崎紅葉。その寵愛を受ける、泉鏡花と云う少女。元はマフィアに居て、今は武装探偵社に身を寄せている。
鷗外の云う『邪魔者』とは、若しかすると奴等のことなのかも知れないな、と中也は独り言ちる。依頼が有れば何処にでも赴く連中だ、乗り合わせている可能性は十分に有った。
中也にとっては探偵社など敵ではなかったが、然し唯一、あの男だけが厄介だった。自分の相棒、だった男。太宰治。アレが乗って来ているとなると、最悪、計画の総崩れを覚悟しなければならない。
「……まァ、万に一つもそれは無えか」
有ったって、さっさと殺してしまえば済む話だ。
かちゃ、と最後の爆弾を設置し終わり、中也はすっくと立ち上がった。自分の足元に転がった黒服二人を見下ろす。見張りとして付けられたものだ。この二人を同伴することと、幾つかの見返りと引き換えに、中也はある程度の自由行動を許されていた。
今は、うっかり、頭を打って気絶してしまっているが。
そのまま通路を突き進み、客室の扉を乱暴に蹴り開ける。
「戻った」
其処に居たのは、椅子にその弛んだ巨体を沈ませた男だった。この船を仕切っている男だ。然し組織の頭ではない。所謂幹部と云う立ち位置。ここ数日観察する限りでは、御世辞にも有能とは云えない男だ。男のその肩書きは、中也のそれと比べるとあまりにも見劣りして見える。
背後に控えるのはもう一人の側近のみだ。三人の内の二人を中也に割いて、襲撃でもされたら如何する積りだったのか。
それが、椅子の脚を軋ませて緩慢に顔を上げる。
「ああ、うん……? おい、護衛共は如何した? 姿が見えんが」
「――あァ、先刻滑って転んで気絶しちまったみてえだけど」
中也が素っ気無くそう吐き捨てると、そうかそうか、と男はその巨躯を揺らして満足気に笑った。おいおい、マジで納得してやがんのか、そんな訳無えだろうが。二人居てどんな木偶の坊だよ。内心で嘲笑が漏れる。
中也が組織内の別の人間と通じて爆弾を入手している可能性も、今先刻それを仕掛けに行った可能性も、欠片としてこの男の脳には無いのだろう。楽天家にも程がある。
然し致命的な愚鈍さは、時に相当な威力を発揮する。
「ちゃんと戻って来たんだな? イイ子だ……」
例えばこんな風に。男は何の疑いも無く、中也の腰を引き寄せ、下心の見える手付きで脚を撫で上げ始める。
うえ、と顔が引き攣るが、当然ながら考慮されない。
「何せお前は上玉だからな……、売ればきっと良い金になる」
熱く下卑た息が掛かる。脂ぎった手に肌を触られる。ぎゅっと目を瞑って濁流の過ぎるのを待つが、その仕草が一見貞淑そうに見えるのか、益々男の欲を煽るようだった。
気持ち悪くて仕方無い。今直ぐにでもこの阿呆の息の根を止めてやろうか――何度そう思ったか知れないが、然し金を回収するのであれば一箇所に集まったときが狙い目だ。だったら競売まで待つべきだ。そうは判断したものの、うっかり何かの弾みでぶち殺してしまわない自信が無い。
布の上から、体の各所を辿られる。この男に触られたって、何も感じないし不快なだけだ。吐き気を堪える。腹、胸、鎖骨の辺り。それが首輪の下のチョーカーに掛かった瞬間――中也はばちりと目を見開いた。
「――触んな」
男をぎろりと目で刺す。男は気圧されたのか、びくりと体を震わせ硬直した後、無骨に別の場所を撫で始めた。は、と漏れ出たのは冷笑だ。甘んじてやってるだけなのに、その程度で俺を好きに出来ると思ってんなら片腹痛え。
「ッ……」
唇を噛み締めて、ただ耐える。
こんな行為を日常的にやってのける奴の気が知れない。
そうして自然と思い出されるのは、相棒だった男の顔だ。
マフィアを抜けた男。もう自分とは何の関係も無い男だ。その男と過ごした夜の静けさが、耳の奥に蘇る。
自分に触れる、包帯塗れの指先。汗で張り付いた髪を払う、靭やかな手付き。中也、と己の名を呼ぶ、柔らかい声音。こんなのより、もっとずっと、秘めやかで、密やかだったその過去は、四年の月日を得ても尚色褪せずに中也の胸の最奥に留まっていた。不意に去来した懐かしさともつかないその情感に、中也は人知れず笑った。鮮やかな記憶が、中也の肌を、心臓を撫でていく。
柄にも無く、中也はその存在を切望した。体に触れられ、名前を呼ばれることを欲した。
瞼の裏に、その姿を思い描く。
太宰。手前、今一体何処で何してやがる。
◇ ◇ ◇
「その飼い犬、この太宰が貰い受ける!」
そう高らかに宣言した男は。
「ええと、何だっけ? 百億の名画にも優る……だっけ?」
今、目の前で性の悪い笑みを浮かべていた。どいつもこいつも。中也はチッと舌を打つ。
ホールを抜け出した先のラウンジの前だ。あっちでは未だ競売をやっているんだろう、それなのに、この男は無理矢理中也の腕を引っ張ってこんな処まで連れ出したと云う訳だ。時折給仕の人間が通りすがるくらいしか、人の影は見えない。
「ねえねえ実際百億で贖われた気分はどーお?」
にやにやにやにや。締まりの無い顔を嬉しそうに晒す、目の前の男。太宰治。中也の元相棒。とんだ黒歴史だ。ぶん殴ってやろうか、とも思うがそうした処で何が如何なる訳でもないので拳をぐっと握るに留める。
それでも腕に触れた熱は不快でないのだから不思議だった。当然だ。この距離が不快なら、相棒なんて出来てやしない。
莫迦げた問いには答えず、太宰の懐から煙草を抜き取る。ちらりと視線を遣って要求すれば、何故か頬に手を添え口付けを寄越そうとして来るものだから反射で容赦無く張り飛ばした。「ひどい、キスを強請ってたんじゃあなかったの……」「その使えねえ目を潰して遣ろうか?」低く唸ると、太宰は渋々自分のライターを放って寄越した。最初から素直に出しときゃ善いんだ。じり、と煙草の先に火を灯す。
一呼吸。煙を胸いっぱいに吸い込み、肺に沈める。ああ。
「……桁が幾つか足りてねえんだよ」
「うっわ、自意識過剰」
「云ってろ」
ふーっと煙草の煙を吹き掛ける。これは完全に不意打ちだったのか、太宰が涙目になってけほけほと咳き込んだ。その仕草に、中也はふっと笑う。好い気味だ。実際に金で中也の身を贖えるなんて思っていたのなら、その額が百億だろうが十兆だろうがぶち殺すだけでは気が済まなかった。
手元で煙草の火が燻る。無条件に、口元が緩むのが判る。
「つーか、何で選りにも選って手前なんだよ」
「あ、ひどいな。それが『御主人様』に云う科白?」
ひらひらと、太宰の手が首輪の鍵をちらつかせた。その人を小莫迦にしたような笑みの、鬱陶しさも相変わらずだ。
こんな拘束など、自分達の間では何の意味も成さないものだ。何の枷にもなりはしない。それはこの男も判っている。ただの戯れ。それだけだ。
「て云うか何でそんなに嬉しそうなの。中也こう云う趣味……ああ有ったっけーあの人から貰った首輪もその下に大事大事に着けてるもんね? 何、未だあの人の狗やってんの?」
「手前は相変わらずぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ煩えな」
何の意味も無い拘束だが然し、壊すのに手間が掛かるのも確かだった。何しろ普通に破壊しようとすれば、うっかり自分の首が飛び兼ねない。
一つの物体に、複数の多方向のベクトルを掛けるのは簡単なようでいて難しい。それも自分の首を飛ばさずにとなると、出来なくはないが面倒だった。鍵を奪って取った方が早い。
目の前の男を殺してでも。
中也の殺気が敏感に伝わったのか、隣に立つ太宰の気配も喜色のそれに塗り替わる。云い知れない高揚感が、一瞬でその場を支配する。
気付けば、二人して笑みを浮かべていた。
「寄越せよ」
「やだよ」
「ならこの場でナイフが刺さって死ぬことになる」
「それも好いけど」
太宰は心底愉快そうに、口の端を歪に持ち上げた。
「私、『死ぬ』と思ったらこの鍵飲むよ。こんな場所で私の腹を捌きたいならお好きにどうぞ」
相変わらずのその物云いに、ちょっとばかりうんざりする。
「捌かねえよ」
「なら吐かせる? それも一興だ」
想像して思わず渋面になる。太宰の口に手を突っ込んで、無理矢理吐かせる自分。厭だ。こんな場所で太宰のゲロに塗れるのも血に塗れるのも、出来れば遠慮しておきたかった。
「善いからさっさと解放しろよ」
「いやーこう云うのも楽しいね!」
「おい遊んでんじゃねえぞ!」
聞いちゃいない。顔を顰める。首輪に申し訳程度に付いた鎖をぐいぐいと引かれ、息苦しさに抵抗しようとするその隙を突いて、太宰は実に何気無く、ぽんと疑問を投げ掛けた。
「そうそう、中也って例の指輪のこと探してたよね」
……如何して知ってる。
手前には関係無えだろ
何の話をしていやがる。
中也は僅かに動きを止め、三通りの答えを思い浮かべる。然し選び取るその一瞬の沈黙を、太宰は肯定と受け取った。
「あ、矢っ張りそうなんだ」
「……カマ掛けやがったな」
「うん。だって、ただ敵対組織潰すだけにしては、面倒臭い方法取ってるなあって。ポートマフィアの幹部様が、直々にこんな処に来る必要無いでしょ。船に潜入するだけなのに、あんな方法取る必要もさあ。……ねえ」
へらりとした声が、一瞬にして地を這う。
ぴり、と空気が切れ味を増す。
「なんであんな男に脚開いたの」
二度目のカマ掛けに引っ掛かるほど甘くはない。否定して遣ろうと太宰を見――そして中也は息を呑んだ。
じっと中也を見据えるのは、どろりと淀んだ黒い瞳だ。泥のような殺意を内包した目。何時かのときと同じ。
ああ、これだ。中也は歓喜に喉を鳴らす。この太宰の目は好きだった。声も。お互い心臓に銃口を突き付けている感覚。生きている実感がする。
だったら、そうだな。惚けようとした選択肢を放棄する。莫迦正直に理由を話すのも却下だ。挑発的に唇を歪める。煙草を棄て、靴で躙る。
「それ、今、手前に関係有るか?」
俺の相棒を辞めた手前に。そう言外に揶揄する。
その一言で、太宰の顔から色が完全に失われた。
「有る」
「無えよ」
「有るよ。なに勝手に他の男に抱かれてる訳」
いら、とその言葉は中也の神経を逆撫でた。先刻一瞬感じた高揚感は、何故だか急に何処かへ行ってしまった。此処に在るのはただの惰性だ。裏切ったのはそっちのくせに、どの面下げて云いやがる。
見れば太宰自身、意味が判っていないようだった。中也への嫌がらせが目的なら、もっと明確な意思を露わにする男だ。それなのに今その顔に浮かんでいるのは、茫洋とした不快感。煩えな。瞑目する。そんなにはっきり言葉にされてえか。
「手前こそ、なに勘違いしていやがる。俺は別に手前のもんじゃねえ。俺の体は徹頭徹尾、あの人のもんだ」
しん、と静寂が落ちた。
背後で流れていた音楽が沈む。気取った管弦楽曲だ。それが波の音を掻き消して、余計な感情の波も掻き消した。
太宰は一瞬、傷付いたような顔を見せた。然し直ぐに取り繕って、胡散臭い笑みを貼り付ける。その仕草さえ、中也に見せる為のものに思える。被害者ぶりやがって。
だったら、何て答えて欲しかったんだ。俺は手前のものだと、手前にしか抱かれてやらねえと、そう云って欲しかったのか。
息苦しいのは、きっと首の枷の所為だけではない。
「……そう、そうだね……」
太宰から、脱力したような呟きが漏れる。
「そうだった……」
「序に云や、俺は仕事で必要なときしかこの手は使わねえよ。手前みてえな尻軽と違ってな」
「ちょ、ちょっと、待って中也、しってる、やめて……」
蚊の鳴くような声で太宰が懇願する。お互い好きにやっていた筈だ。仕事以外には不干渉。色事に奔放だったのは寧ろ太宰の方だ。夜ごと遊び歩いて、偶に中也を気紛れのように抱く。それでも中也が何も云わなかったのは、それが相棒の枠を超えたものではなかったからだ。
相手が欲しいなんて、口にしたことも無い。そんな関係ではなかったし、そんな関係を望んでもいなかった。その筈だ。
「……手前は何にも残さねえで居なくなっちまったくせに、俺を如何こうしてえとは笑わせる」
それにその関係さえ、今となっては過去のものだ。太宰がマフィアを抜けたから。俺達は相棒でもなくなってしまった。
自分達は元相棒だった。それ以上でも、それ以下でもない。それを違えてはならなかったし、それが今を進むのに邪魔になるのなら、過去は切り離さなければならない。
中也は微かに瞼を震わせる。首領の云う『邪魔者を殺せ』とは、こう云うことだったのだろうか。
だったら、俺は。
ふと、横からの視線を感じて顔を上げる。太宰が、じっと覗き込むように中也を見ていた。その瞳からは先程の悲痛さは引いていて、代わりに好奇と期待に満ちている。
「んだよ」
「……ねえ、それって、私が君に何か残したら私のものになって呉れるってこと」
「あ?」
少しの慎重さを持って発されたその言葉に、中也は少し呆けた後、内心チッと舌打を打った。この揚げ足取りの鬼を前に、今のはとんだ失言だった。まるで中也がそうして欲しいみたいじゃないか。それだけは認められない。
二人の間が、嫌な静けさに満たされる。張り詰め、今にも破裂しそうな空気。目を閉じる。
隣で太宰の動く気配が在った。
「ねえ、中也――」
太宰が沈黙を破ろうと、口を開いた、その瞬間。
ホールの方向で爆音が響いた。
はっと太宰を見る。太宰も中也を見ていた。ばちりと目が合う。お互いを瞳に映した一瞬の後、同時に駆け出す。
言葉など、自分達の間に要る筈も無い。
ホールの前まで戻ると、其処には陰惨な光景が広がっていた。扉からは煙幕だか催涙弾だかの煙が漏れ出し、中からは血と硝煙の匂いが色濃く漂っている。商品を巡って、血で血を洗う銃撃戦でも起きたのか? 状況を確認しようとするが、例え中也と云えど異能無しに迂闊に飛び込めるものではない。
時折扉が揺れて、今もばたん、と乗客の一人がまろび出た。その表情に浮かぶのは恐怖一色だ。そうして逃げようとした処を、背後から、無数の銃弾。太宰と中也は避ける。血飛沫が、ホール前の絨毯を不規則な赤に染め上げる。
さっと顔色を変えた太宰はその客の顔を確認し、明らかに安堵の息を吐いていた。きっと仲間ではなかったのだろう。此処以外にも幾つか扉はあるから、そちらから逃げ出していれば僥倖だ。短機関銃の音が聞こえ、絶叫が重なる。その間を縫うように、太宰が叫ぶ。
「谷崎君! 敦君を盾にして逃げ給え!」
「その谷崎って野郎はどんな極悪人だよ……」
普通逆だろ、敦とやらに谷崎の盾になるよう云ってやれよ……と呆れながらに溜め息を吐く。敦と云うのは聞いたことがある。人虎の名だ。再生力が並外れているとは云っても、銃弾が中れば痛いだろうに、合理主義とは斯くも残酷だ。
然し逆に、この状況は中也にとっては好都合だ。首の枷を指し示す。
「太宰、取れ」
「は? 無理」
「あ?」
ばち、と目が合う。拒否するにしても、太宰の反応が予想外だ。まるで、中也がそんなことを云い出すのを想定していないような。然しそんな筈は無いだろう、太宰ほどの男が。
太宰も中也の反応から、何か話の噛み合ってないことを察したらしい。焦りを見せながら中也に問う。
「……念の為に訊くけど、あれ君達じゃないの?」
「あァ?」思ってもみなかった指摘に、そんな訳無えだろと舌を打つ。「俺達じゃねえよ、良く見てみろ。マフィアはそんなに暇じゃねえんだ」
「『暇じゃない』? 無能なだけでしょ」
「喧嘩売ってる余裕有んのか」
「無い」
扉の脇にしゃがみ込み、その中を窺い見る。太宰も同様に。すれ違いざま、太腿の拳銃嚢から銃の一丁をするりと抜き取られる。相変わらずの手癖の悪さだ。文句を云おうとして――諦めてぎろりと睨むに留めた。どうせ無駄だ。嘆息する。
ホール内は、無数の黒服の男で占拠されていた。よく見ればその男達は、競売の警備に中っていた者達だ。ならば主催組織が客を一方的に鏖にしたのかと思いきや、死体になって転がっている者の中には、司会をしていた男や金の管理をしていた組織の者達も居る。
「……詰まり仲間割れってこと? 莫迦じゃないの」
「……このまま船と金持って逃げる気なんだろうから、強ち莫迦でもねえんじゃねえか。少なくとも計画性は有る」
「だから銃火器も積んでたのか!」
「その内針路も変更すんだろうな」
太宰が天を仰ぎ見、中也も呻いた。聞いていない。仮にもこの船のトップの男の元に居たというのに、予兆の一つも無かったとは如何云うことだ。あの無能。中也は内心悪し様に罵る。死体は見当たらないから、きっと上手く逃げているんだろう。そう云う処だけは、逃げ足の疾い男だ。
同じように呻いている太宰を見る。そう云や、なんで此奴はこの船に乗ってたんだ? 何か依頼でも有ったのか。
「まあ良い。太宰。良いからこの首輪取れ」
「……残念だけどお断りだ」
心痛を抑えたような太宰の声に、悪どく笑う。
「善いのか? お仲間が死んじまうぜ」
「ご心配どうも。あの二人ならきっと無事だ」
「きっと、ね」
鼻で笑う。太宰が使うにはそぐわない類の単語だ。確率の不確定な希望を込めて使う言葉。
「その希望的観測に保険を掛けろと云ってんだぜ俺は。探偵社に居る内に日和ったか?」
「……そっちこそ」
不意にぐいと首輪を引かれて視界がブレた。ガン、と側頭部を壁に打ち付けられる。息を詰めて抗議するようにギッと睨むと、首輪を引いた太宰の瞳はぞっとするほど冷えていた。
「ッてめ……!」
「そうやって危機に乗じて揺さぶれば崩れるほど私が丸くなったと思った? 残念ながら彼らの優先順位は君より低い」
太宰治は笑っていた。へらりとした締まりの無い笑みではない。昔に良く見た、氷よりも冷ややかな笑みだ。
おいおい、手前、ちっとも陽の当たる場所になんて戻れてねえじゃねえか。そう笑い飛ばそうとした中也の目は、その表情の中に僅かな揺らぎが生じているのを捉えた。眉を顰めて首を傾げる。其処に在るのは中也の知らない、太宰の顔だ。
その瞳の薄氷の裏に湛えているのは、不安、だとか、心配だとか。らしくない。昔の太宰なら、味方に慈悲など呉れて遣る心など無かった筈なのに。太宰は尚も言葉を続ける。
「判る? 君に対するアドバンテージを、この程度で手放せる訳無いって云ってるんだよ」
「……は。こんなオモチャがアドバンテージとは笑わせる」
口では冷徹な言葉を吐く、その裏腹で、太宰の声はあまりにも悲痛に響いていた。然し味方の命を『この程度』で済ますそれがたとえ演技だとしても、如何やら譲る気は無いらしい。不安定に揺れる太宰の目をじっと見る。確かに太宰の中で、仲間が生き残れる可能性が高いのなら、危険要素である中也との交渉材料は残しておいた方が善い。
理論上は。
それに中也の方も太宰を煽りはしたが、このままホールを占拠されてしまうと計画に支障が出そうではあった。太宰はそれも織り込み済み。その上で、中也にチキンレースを持ち掛けている。
太宰が折れるのが先か、中也が折れるのが先か。
「……チッ」
先に舌を打ったのは中也だった。「手前、貸し一つだぞ」と睨むが、太宰は薄く笑うのみだ。
もう良い。面倒だ。鏖にしちまえば善いだろ。そう思考を放り出して目を瞑る。頭の中に、ホール内の様子を思い描く。それ全部を支配下に置くイメージ。重力を掛けて。ちり、と脳の一部が焼ける感覚。重力操作。
「『汚れつちまった、悲しみに』――!」
途端、ぐ、と周囲の空気が質量を持った。銃声が止む。悲鳴が、怒声が、絶叫が止む。生きてる奴等は揃って全員のた打ち回って地面に伏せっている筈だ。警戒を怠らず、太宰と同時に突入する。
カーテンだのクロスだの、室内の装飾用の布は凡そすべて引き裂かれていた。華やかなパーティ会場は最早見る影も無い。テーブルと椅子は蹴倒されて蜂の巣だ。静寂の中で時折上がる呻き声。それと軽く金属の掠れる音。銃口を此方に向ける音だ。それは目も呉れずに潰して殺す。
「おい、居たか?」
「……居ないみたい。大丈夫。大丈夫だ……」
中也に云うよりは、自分に云い聞かせるようなその呟きに、中也は嘆息する。矢っ張り、優先順位が低いなんて嘘八百にも程があるじゃねえか。そう思いながら床をだんッと踏む。重力を掛ける。空間を捻り潰すように、引力を意のままに支配する。
ぎゃあ、と其処彼処で悲鳴が上がる。ぐしゃりと肉の潰れる音も。描くのは、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。後処理が大変になるから滅多なことではこんな汚い殺し方はしないが、今回ばかりは構わねえだろう、と中也は存分にその力を振るう。どうせ沈む船だ。悠然と歩きながら、敵の一つ一つを確認して潰していく。蟻を踏むように、ぶちぶちと。数えてみたら二十弱。それが中也の加重に合わせ、落下した果物のようにばしゃっと景気良く果汁を噴き出す。
軈て完全に静かになった。呻き声はもう聞こえない。嘗てパーティ会場だった其処は、今や立派な惨殺現場だ。静寂を乱すのは、二人分の吐息だけ。一般人は殺さないよう加減したから、逃げ出したか死んだかの何方かだろう。敵は悉く鏖だ。
太宰が何処かに電話を掛けている。探偵社の仲間の処にだろうが、その電子音は任務後の報告を思い起こさせた。
懐かしい匂い。血の巡る感覚。相棒としての息遣い。
何だかそれが、今も変わらず其処に在る気がして、中也は一瞬混乱する。
「――ああ、そうだ。こん中に指輪落札してた奴居るか」
「え、居ないと思うけど。中也顔判るの?」
「判るから誤魔化すんじゃねえぞ」
「ちぇー。……探してみたけど居なさそうだよ。確か三一二号室のお客さんじゃなかったかなあ」
後で行ってみようか、と太宰が造り物めいた笑みを貼り付けながら、ごろ、と屍体を足蹴にする。それから幾つか武器を剥ぎ取って、手に馴染む感覚の吟味。自動拳銃にシースナイフ。おいおい、天下の武装探偵社がそれは善いのかよ。
中也が口を開こうとして――然しそれを遮るように、突然、ぶち、ぶち、と耳障りな異音がした。砂嵐と共に、スピーカーの音声が入る。何だ? 太宰と顔を見合わせる。
『あー、あー……おいこれマイク入ってる? え? いけてる。よし。……えー、この船は我々が占拠した! 大人しくしていれば危害は加えない! 客は客室に籠もってろ! 逆らう奴は殺す! 以上だ!』
開始と同じ唐突さで、その放送はぶちんと切れた。
「成る程ねー」
「何だ今の」
巫山戯てやがる、と中也は時計をちらと見た。何もかもが計算外だ。今は午前の一時過ぎ。こうなってしまえば、ある程度敵をぶち殺しておいた方が計画上は安心そうだった。もう一度、脳内で作戦を組み直していく。
金の回収、指輪の捜索。序に敵の殲滅。優先順位はそうだ。
然し相手の手勢の数が読めない。ただ、元の組織から離反した集団であることを考えると、その母数を上回る規模でないことは確かだった。人数で云えば確実に減る。なら殲滅は不可能ではない。
それに。中也は瞑目した。それに、仮にその人数をフルで殲滅しなければならないとしても、自分達の敵ではなかった。
太宰と、中也の。この元相棒との、敵では。
「ねえ中也」
「……何だ」
「面倒臭いね、この状況」
「……。ああ、そうだな」
太宰の言葉に、首肯する。多分、考えてることは同じだ。
「私は、探偵社の皆が無事に帰れたらそれで良いんだけど」
「俺は、指輪が手に入りゃあそれで良い。後は」鬱陶しい首の枷を指し示す。「この巫山戯た玩具が取れればな」
「じゃ、取引成立?」
「……ああ」
じ、と視線を交わす。それから、無言でぱんとハイタッチ。無音の中、一際高く鳴り響く手の平の音。それ以外の音はしない。死体は息をしないからだ。
目的の幾つかは態と伏せた。云わなくとも敵の無力化に支障は無いのだから、云う必要は無い。太宰も同じく、中也に知れれば拙い部分は伏せているんだろう。そう云う関係だ。自分達の関係は、それでも危なげなく成り立つ。
太宰は相変わらず、何を考えているのか悟らせない顔に戻って薄く笑う。
「狂犬コンビ、一夜限りの復活ってね」
「何だそれダセェな」
その云い方が可笑しくて、中也は歯を剥き獰猛に笑った。同時に妙にしっくり来るこの掛け合い。太宰との遣り取り。
こんな風に、中身の無い莫迦なことを云い合って。背中を預けて合ってみたり、偶の戯れで銃口を向けてみたり。お互い悪運も強いから、そんなことで死ぬ訳が無いと思っている。
死地に居ながら圧倒的な全能感に溢れるこの感覚。高揚感。
随分と体に馴染む感覚だ。
少しだけ、時計の針が逆回りした気がした。
「……そんなもん、過去に一度だって結成した覚えは無えよ」