【再録】船上ヱンゲヰジ!


二.


 通路にまで、柔らかな深紅の絨毯が敷かれていた。男女の歓談する声。被さる微かな波の音。その側を、時折乗組員と思しき男達が慌ただしく駆けて行く。
 丸く嵌め込まれた硝子窓から差し込む、夕日の光。人身売買などと云う物騒な単語が背後にちらついていなければ、其処は単なる華美な社交場だ。時折窓の外を眺めでもしないと、船内であることすら忘れてしまう。日常を離れ、一時の夢を。豪華客船とは良く云ったものだった。

 依頼状に在った競売までには、今暫く時間が在った。日が没するまでの、短いようでいて長い時間。外界は既に橙の空へと染まっている。
 敦や谷崎は、華やかな場には慣れていないのかきょろきょろと辺りを見回している。ナオミも同様だろうに、此方は物怖じしないのか、臆すること無く兄をあちらこちらへと引っ張っている。太宰は鏡花にもちら、と視線を遣るが、縫い包みを抱いた少女の表情の底は上手く読めない。ただ、心無しかその足取りが弾んで見えるのは確かだった。
「……あれ? でも依頼状と一緒に届いた招待状は、一人分じゃなかったですっけ」
 客室に向かう足を止めて、ぽつりと呟いたのは敦だった。一行は既に、問題無く受付を済ませている。心配を滲ませたその声に、ナオミがあら、と振り返る。
「嫌ですわ、兄様がいらっしゃるんですのよ。ね?」
「ハハ、まぁ、受付を一瞬誤魔化すくらいなら朝飯前です」
 谷崎はひら、と袖を振る。その手元に、ぱっと、華やかに雪が舞った。勿論幻覚だ。室内で雪など降る筈も無い。それが判っていて尚目を奪われる、幻想的な美しさ。
 じ、と敦と鏡花からの視線を感じ、太宰は肩を竦めてそれを流した。確かに頼んだのは太宰だったが、受付の人間を全員始末する手段を取らなかっただけマシだと思って欲しい。
「その代わり、コレはその場凌ぎの策ですから、一つの客室を五人で使わなきゃならないンですけど」
 その言葉に、ナオミが兄に勢い良く抱き付く。
「まあ、兄様と一緒のお部屋だなんて、ナオミ嬉しい!」
「ちょッ、ナオミ、何処触ッ……ひゃ、」
 抱き付く処か勢い余って兄の体を無遠慮に弄り始めたので、谷崎が咄嗟に甲高い声を噛み殺す。相変わらず仲睦まじいねえと放置を決め込んだ太宰とは反対に、敦などはその様子を見てかあっと耳まで真っ赤にするのだから初心だ。
「! ぼ、僕は虎になれるので夜は外でも平気ですよ!」
「……私も。夜営は慣れてる」
 そうして揃ってくるりと踵を返した敦と鏡花が、ナオミにやんわり首根っこを掴んで引き止められる。
「あらあら、そう云わずに。お二人とも一緒に寝ましょうよ?」
「いや、僕は駄目でしょうー!? だ、太宰さぁん!」
 そんな、縋る目で助けを求められても。太宰は肩を竦める。愛らしい少年少女が添い寝、微笑ましいじゃないか。それを邪魔する野暮な真似はしたくない。
 端的に云えば、巻き込まれたくないって云うか。
「じゃ、頑張ってね敦君! 却説、私はその辺の御婦人を口説き落として、一晩泊めて頂こうかな!」
 にこやかに笑ってひらりと手を振る。そうして立ち去ろうとした太宰を呼び止めたのは、意外そうなナオミの声だった。
「あら、太宰さん。一人寝が寂しいんですの? ナオミは引き止めるべきかしら」
 ぱち。足を止め、瞬いて少女を見る。「……さみしい? 私が?」「ええ」彼女はうふふと笑うばかりだ。何の含みも無いその微笑みを受けて、太宰は少し考えた後――敵わないなと苦笑した。そう、ちょっと、寂しいのかも。
「そう、そうだね……一人寝がなんだかとても寂しい気分だ。ねえ如何かな、ナオミちゃん、是非私としんじゅ――」
 口癖のようなそれがするりと口を突いて出た、その瞬間。
「太宰さん」
 がっと肩を掴む手があった。
「あ、あれ? 谷崎君? ねえ目が笑ってない……」
「幾ら太宰さんでも、それはちょッと、勘弁して下さい」
 ね?
 その柔らかな笑みに反して、肩を掴む手がぎりぎりと締まる。締まるって云うか、潰しに来てないこれ? 目の前の穏やかな青年から漏れ出る怒気に、太宰は顔を引き攣らせた。
 敦君には何も云わなかったのに、非道い。

「却説、救命ボートは何処かなあ……っと」
 被害に遭った肩を押さえながら、太宰はぐるりと船内を見て回る。今宵一夜の宿を提供して呉れそうな親切な女性――或いは男性でも善い――を探しつつの、船内の散策。見取り図を片手に、一応脱出経路の確認。
 競売が開催されるまでは、太宰に出来ることは何も無い。 と云うより、出来ることは凡てやったと云う方が正しい。打てる手は、もう既に凡て打ってあった。
 無論現状が最善ではない。太宰はそれを良く判っている。依頼は『友人』の救出だったから、出来ればこんな船旅に出る前に敵のアジトに乗り込んで、その人物を救出してしまうのが最善だった。然し思いの外主催組織の特定に時間が掛かってしまったものだから、態々出向く羽目になったのだ。太宰は一つ嘆息する。全く面倒なことこの上無い。
 ではこの場で直ぐに『友人』を探し出し救出すれば善いのかと云えば、それもまた最善とは云い難い。『友人』が未だ生きて『商品』として扱われているのであれば、警備は厳重に決まっているし、こんな閉鎖された空間で行方不明者を出してしまっては大騒ぎになるのは目に見えている。
 大体、『友人』が捕らわれている確証も無いのだ。助け出すのであれば、競売でその姿を確認し、然し手は出さず、港に着いた処で軍警に引き渡すのが一番だった。必要なのは証拠だけ。それだって探偵社員の証言で事足りる。だから何もする必要が無い。何事も無ければ、これほど楽な依頼は無い。
 その筈だった。
 足元に在る、危険物を見付けるまでは。
 太宰は足元の置物をまじまじと見下ろす。
「……爆弾だなァ、ウン、爆弾だ」
 その場にしゃがみ込んで感嘆の声を上げる。無造作に置かれた箱状の装置。階段の下、柱の影。人の往来の完全な死角。
 この壁の裏、何が在ったっけ。慎重に調べながら、船の見取り図を頭の中に思い描く。見覚えの有る外観だ。多分、時限式ではなく、起爆装置からの信号を受け付けるタイプ。その気になれば解除の出来る。威力も結構大きくて、中身は確か、何方かと云うと熱とか火災とかを煽るような。
 嗚呼、それで思い出した。この壁の向こうは確か機関室だ。
「うーん……と云うことはどうせ此処だけじゃない……」
 この規模の爆弾一つでは、正直船は沈まない。精々数十人が死んだり焼けたり潰れたり、生きていけなくなる程度。目的が無差別殺人でないのなら、あまり大した意味は無い。
 大量に在れば話は別だけど。
 太宰はじっと思案する。複数在るなら、全部解除して回るのは短時間では無理だろう。場所も判らないし、先ず確実に途中で敵に気付かれる。気付かない振りをして放っておくのが適当だ。爆発して死んだら、運が悪かったと云うだけで。
 そう結論付けて立ち上がり、自然を装ってその場を後にする。人混みに紛れる。その中に、此方を見張る視線は無い。
 問題は、如何やって爆破させないような状況に持っていくかだ。仕掛けた人間は今この船に乗っている。自分の乗っている船を沈めることほど莫迦げた自殺方法は無い。詰まり、脱出する目処が付いているのだ。
 誰が? 勿論、この船の持ち主である組織ならそんなことをする必要が無い。彼らと敵対し、且つ船の沈没を狙う組織。
「……ポートマフィア」
 ぱち、とパズルのピースが合わさった感覚が有った。弾かれたように顔を上げる。
 瞬間、どん、と軽い衝撃が走った。
「わ」
「!」
 ぶつかったのは腰の辺り。視線を下げる。小柄な少女の旋毛が見えた。
 鏡花だ。
「あ、鏡花ちゃ……」
 安堵の息を漏らし掛けた太宰は、ぴたりと言葉を飲み込んだ。少女の肩が小刻みに震えていたからだ。
 何処か様子がおかしい。
「……鏡花ちゃん? 如何かした?」
 しゃがみこみ、ゆっくりと声を掛けると、漸く太宰を認識したのか少女がびくりと体を震わせた。太宰は首を傾げる。
 呼吸が浅い。顔色が悪く、真っ青と云っても差し支えなかった。それが、精一杯の緊張に身を震わせている。瞳孔が揺れ、視線が定まっていない。
 泉鏡花。マフィア随一の女傑に育てられたこの少女が、滅多なことで動揺する筈も無い。
 その原因となり得るとすれば、それは。
 太宰はゆっくりと、その可能性を口にする。
「……如何したの。若しかして、昔の知り合いにでも会った?」
 冗談めかして問うと、鏡花はゆっくりと顔を上げた。その目に宿るのは、薄暗い光だ。敦と一緒に居るときには極力見せないようにしている、深淵を覗き込むような、希望も何も映さない目。
 昔の太宰と同じ目。
 太宰は鏡花のその様子に微かに瞑目する。自分の中の推測を、確信に変える。
「……そう。それは災難だったねえ」
 然し次には労るように、にこっと笑って鏡花の頭を撫でる。規則的に、ゆっくりと。少女を安心させるように。
 強張っていた肩の力が、ゆるゆると溶ける。通路の照明が、影の落ちていた彼女の顔をぼんやりと照らして晴らしていく。
 それを見届けてから手を上向きに差し出すと、少女は少し迷って、おずおずと己の手の平の重さをそっと重ねた。
 その指の先は、陶器のように未だ冷たい。
「敦君の処に、戻ろうか?」
 少女はじっと身動ぎもしなかったが、軈てこくりと頷いた。
 大丈夫かな、と太宰は少女の手を引く。こんな状態で戻れば、敦はひどく心配するだろう。如何したの、鏡花ちゃんと。然し敦に心配を掛けたくない鏡花は口を噤むに違いない。少し落ち着いてから戻った方が、善いかも知れない。
「……ちょっと落ち着いてから戻ろっか」
 云って少女の手を握る。自分が抱き締めて落ち着かせてやっても良かったが、然し消し切れている自信が無かった。
 自分の中の、マフィアの気配を。
 ぎゅっと心臓の辺りが締まる感覚が有る。
 ――貴方の血は、マフィアの黒です。この国の誰よりも。
 元職場の後輩に中る女性に云われた言葉を思い出す。その通りだ。こんな時に。敵が居るかも知れないと云う事実に。
 楽しくって仕方が無いのだ。
 この船上パーティを主催した組織に対して、今日まで襲撃が無かったと云うことは今日襲撃が有ると云うことだ。この闇取引を恙無く終わらせてしまえば、マフィアは人身売買を黙認したことになる。主催組織は調子に乗るだろう。
 別に弱小組織一つ、調子に乗るのは構わない。何時だって、直ぐに潰せるのだから利用して使い捨てたって善い。
 然しその弱小組織が、慈悲から見逃されているだけなのを勘違いし、周辺組織が同じようなことをやらかすと面倒だ。一つ一つの規模は大きくなくとも、数が増えればその処分には手間が掛かる。それにこう云う界隈は、舐められないこととか、沽券って結構大事なのだ。それを守るには初手で完膚無きまでに叩き潰す必要が有る。
 だから今日、確実にマフィアは襲撃して来る。
 勿論構成員の一人や二人乗り込んで来た処で、太宰の敵にはなり得ない。
 太宰が脅威に思うのはただ一人。
 思い描いて薄く笑う。
 鏡花がびくりと怯えるように、太宰の外套に獅噛み付いた。
「……却説、一体誰が来てるんだろうね?」

     ◇ ◇ ◇

「わあ……すごい……」
 きらびやかなホール。此処にも毛足の長い絨毯が敷かれていて、見上げるほどに高い天井から下がった数多のシャンデリアが、室内を豪奢に演出していた。その中に、溢れる密やかな歓談の声。丸テーブルには真白い布が掛けられていて、その白を埋めるように並んだ食事が鼻孔と食欲をひどく擽る。
 吐息と共に漏れ出た敦の感嘆の呟きに、太宰と谷崎はちら、顔を見合わせた。仕事でないときに連れて来てあげられれば、もっと良かったろうに、と。それに鏡花とナオミが居れば。
 結局、鏡花はあの後体調が優れず、今はナオミと部屋で休んでいた。本人は敦の側に居ると云い張ったが太宰が止めた。敦君は、そんなに弱くないから大丈夫だと。
 太宰はグラスを傾ける。
 ぐるりと会場内を見回す。其処に見知った顔は無かった。マフィアの人間は来ていないのだろうか、と太宰は首を傾げる。招待客に紛れ込んでいるものとばかり思ったのに、はて。
 無論、太宰が組織に在籍していたのは四年前であったし、自身が抜けてから今までに入ったような末端構成員であれば幾ら太宰とて顔など判る筈も無かった。そんなものを一つ一つ覚えているほど、太宰も暇を持て余している訳ではない。
 然しマフィアであれば、その顔を見ただけで何となく「そう」だと判る。臭いが独特なのだ。香料の問題ではなく。同業であれば直ぐに判るであろうあの、何処か精神の饐えたような臭いは、そう簡単に消せるものではない。
 だと云うのに、太宰の視界に引っ掛かるのは主催組織の人間と思しき人間だけだ。大勢居るそれが雑な殺気を隠そうともせずに、ぐるりとホールの壁に沿って立っている。華やかな中央部とは打って変わって、人の目の無い、照明の落ちた壁側の空気は今にも破裂してしまいそうだ。警備の為なのか恐らくどの人間もその服の下に武装を隠しているのだろうが、中にはあからさまに袖から銃の見えてるのも居る。
 如何にも物騒極まりない。
「太宰さんは、流石に慣れてるンですね」
「……えっ、あっ、うん?」
 谷崎の問いに思考を中断し、不自然でない程度の笑みを浮かべて向ける。いけないいけない。のめり込み過ぎだ。
 不測の事態に備えるのは重要だが、今現在の状況の把握が疎かになるのは頂けない。幾ら予測しても、それを狂わせる不確定要素と云うのは必ず出て来るのだから、一定以上の予測は効果が薄い。
 それに。今回の主目的は、飽くまで依頼の遂行だ。
 谷崎に合わせて目を遣ると、前方に設置された舞台では、既に競売が始まって半刻が過ぎようとしていた。商品が舞台上に出され、スポットライトを浴び、さあ何円から! 其処の番号札のお姉さん! と司会が順繰りに回していく。飛び交う声が賑やかだ。太宰達の手元にも一枚、354と部屋番号の書かれた札が、手の付けられないまま置いてある。
 舞台上では今まさに、華族の令嬢のものだったと云う蒼玉の宝飾品が、百二十九万円と云う価格で競り落とされた処だった。舞台に上がるのは、洋装を身に纏った極普通の女性だ。裏世界との繋がりなんて欠片も無さそうな。
「……普通の競売ですよねえ」
「そうだね。今の処は未だ人身売買なんて……」
 頷こうとした太宰の言葉を、スピーカーからの一際大きな声がぶちりと勢い良く遮った。
「お次は本日の大目玉ァ! 『異能を制御する指輪』だ――」
「ん!?」
「え!?」
 敦と谷崎の声が綺麗に揃う。太宰も一瞬耳を疑った。
「異能を……制御する……!?」
「……ああ、確かにそう聞こえたね」
 太宰がさっと視線を巡らせたのは、舞台上にではなく周囲の人間にだ。案の定、何人かの目の色が変わった。これを目当てに来た人間も居るのだろう。咄嗟に敦の首根っこを引っ掴む。
「止めておいた方が善い」
 がたん、と席を立ちかけた敦が、後ろに引っ張られて再度すとんと腰を下ろした。太宰に向けられる抗議の視線。
「太宰さんっ!」
「こんな衆人環視の中で手を出すなんて、それこそ自殺行為だ」別に巫山戯てる訳じゃない、と敦の目を見て云い聞かせる。「この世には、ああ云う物を手に入れる為には、何人か人を殺したって構わないと思う連中だって大勢居るんだから」
 敦は少し考え、それから自分の挙動を恥じ入るような顔をした。「……済みません」「別に謝ることじゃないさ」びっくりしただけでしょう、と太宰は笑う。
「それに、手に入れた処で本物かどうかは判らないしね……」
 そう敦には云った。けれど。太宰は考える。万が一あれが本物で、悪用されると都合が悪い。
「ねえ谷崎君、ちょっと相談が有るんだけど」
「何です?」
 ちょいちょい、と耳打ちする。目の先では、312と書かれた札の男性が指輪を落札していた。身形の良い男性だ。資金繰りは良好と見える。
「あの指輪が欲しいから、こう、細雪で上手いことやって呉れない?」ひそひそと、声量を落として囁く。「私、舞台に行くときに、ぐるっと迂回してあのテーブル寄って掏るから」
 ぱちり。谷崎の琥珀色の目が瞬く。
「掏る」
「うん。ピックポケット」
 それを聞いた谷崎は、ううんと渋面を作って考え込む。
「出来なくはないですけど……。でもそンな、舞台に上がる隙なンて何処に」
 ガタン、と大きな音がした。谷崎と同時に振り返る。其処には、蹴倒された椅子が転がっていた。敦の席だ。
 見れば敦が真っ青になって、唇をわなわなと震わせている。
 その目の先。舞台の上では、黒髪の美しい女性が質素な布を纏い、金属製の首輪をじゃらりと付けられて、その場に引き摺りだされていた。
 体に鮮やかに残る痣の群れ。その目は伽藍堂を映したように虚ろだ。それでも彼女の美しさは損なわれない。
 だからこそ、商品にされる。
 観衆の、好奇の視線を浴びながら。
 まるで人権なんて無い、宛ら家畜のように。
「……わあ。本当にやるんだ」
 人身売買。
 飛び掛かろうとした敦の、今度こそ全身を抑え込む。
「太宰さんッ!」
「待ち給え、敦君。彼女の髪は亜麻色ではない。依頼状の『友人』ではないよ」
「そんなこと悠長なこと云ってる場合ですか!」
 ぶわ、と敦の髪が逆立つ。瞳孔が大きく開いている。太宰が触っていなければ、虎化していてもおかしくない。
 太宰はううんと首を傾げる。彼女は見も知らぬ他人なのに、如何して君がそこまで必死になるの。
「今私達が行っても、何にもならないよ」
「でも!」
「敦君。『今は』、我慢しなさい」
 後で助けるから。太宰が噛んで含めるように云い聞かせると、敦は渋々ながらも席に着いた。谷崎はその間も、舞台を剣呑な目で見守っている。多分彼も人身売買などは嫌な口だろうに、それでもきっと幾分か探偵社での経験が長いだけ、飛び掛からない耐性が有った。
 舞台では、何人もの商品が淡々と競り落とされ贖われていた。その様子を、敦は憤懣遣る方無いと云った風に口を開く。
「あんなの、あんまりです」
「そうかい?」
 怒り冷めやらぬ、と云う語調に、若いなあと太宰は思う。自分以外の身の上をそうやって案じることが出来るのは、若さ故の正義感からだろうか。太宰なんかは、その感覚はもう疾っくの昔に枯れ果ててしまっている。
 でも、例えばだよ敦君。
「あすこの御婦人は、今落札されたね。一千万円で落札されたね。と云うことは、彼女には一千万の価値が有ると云うことじゃあないか」
 そう云えば隣に座る少年の首に掛けられた賞金は七十億だ。
「何の価値も認められずに生きるより余程マシじゃない?」
「でも人はそんな価値が無いと生きていけない訳じゃない」
 思わず太宰は敦を見遣る。
「……です」
 敦が顔を伏せる。太宰は何か云おうとして――谷崎が漸く柔和な笑みを取り戻し、「まあまあ」と其処に割って入った。
「一本取られたんじゃないですか? 太宰さん」
 谷崎が、その場の空気をやんわりと絡め取る。そうだ、太宰も敦も、別に喧嘩をしに来た訳ではない。「そうだねえ、これは一本取られたな」戯けたように肩を竦める。
「じゃあ仕方無い、隙を見てこの競売を中止にするよう……」
「さァて、本日の大目玉だァ!」
 スピーカー越しに響く司会の声に、太宰は苦笑して振り返った。大目玉は指輪じゃなかったの、と何の気無しに舞台の方を見遣る。
 その瞬間。
 心臓の動きが、一瞬止まった。
「……なんで」
 ぽろ、と口から漏れたのは、常に無い無防備な疑問の声。
 如何して君が。
 如何して此処に。
 どう云った言葉を発しようとしたのか、自分でも良く判らなかった。良く考えればその可能性は十分に在り得たろうに、そうして彼の存在を待ち望んでいたのは自分だったろうに。言葉の形を取り損ねた不明瞭な音が、口の先から漏れていく。

 するり、と先ず観客の目に留まったのは清潔そうな白い布だ。それが淑やかに擦れる音。誰も彼もが息を呑むその静寂の中、『彼』はゆるりと舞台へ上がった。
 次に観客を支配したのはその音だ。ひた、ひた、と水面の様な沈黙を打って響かせる。素足が床に吸い付く音。
 纏っているのは他の商品である人間と同じ、粗末な布である筈だった。然し彼が纏ったそれは、宛ら絹の輝きだ。金属製の首輪は彼の頸を装飾する宝飾品、手枷は手元を彩る花。
 其処ではあらゆる何もかもが、彼を拘束する為ではなく、彼に傅き、彼を際立たせる為に存在していた。
 そうして気後れなど感じさせない高潔さに溢れる力強さで、彼はゆっくりと歩を進める。
 誰もが、彼に呑まれた。
 彼に意識を囚われた。
 それほどまでに、圧倒的だった。
 中原中也と云う男は。
「中也」
 スポットライトの下で、亜麻色の艷やかな髪が光彩を放った。その下で、鳶色の瞳が一瞬ぎらりと光って直ぐに伏せられる。
 此処に引き摺り出される人間なんてものは皆目に生気を宿していない者ばかりだと云うのに、ぎらぎらと殺気に溢れたその目ははっきり云って異色の一言だった。判り易い。潜入するのに、そんなに周囲から浮いて大丈夫なの。相変わらず、嘘が向いていないと云うか、何と云うか。
 自然、頬が綻ぶのが判る。
「中也」
 吐息に乗せるようにその名を呼ぶ。
 彼は太宰には気付かない。気付かないまま、しおらしく舞台上に立っている。然し太宰は知っている。幾ら猫の皮を被っていようと、彼の本質は獰猛な肉食獣だ。獲物が掛かるのを待っているのだ。
 外見に纏う靭やかな色香と内包された兇悪さが、舞台上で完成された芸術のような完璧な均衡を保っていた。
 誰も彼もが、彼の虜だ。
 太宰だって、くらりと眩暈を覚えた。興奮、劣情。そして同時に湧き上がる、抑えようもない怒り。
 今から数多の人間が、彼を品定めして値段を付け、欲に塗れた視線で以って彼を無遠慮に眺め回すのだと思うと、心底我慢がならなかった。想像ですら寒気がする。彼を引き立てる照明も舞台も、何もかもがただ汚らわしい。
 気付けば競売用の札を上げていた。
「あ、ハイ! 其処のお兄さん、お値段をどうぞ!」
「百億」
 どよめきが起こる。それでも彼は気付かない。絞られたスポットライトの下で、眩しそうに目を眇めるだけ。
 気付かないなら好都合だ。
 太宰の後に続く者は誰も居ない。
「太宰さん、ちょっと、僕等お金持って来てないですよ!? て云うか中止にするって先刻」
「そんなもの、谷崎君が出すよ」
「えぇ!? ボクですか!?」
「谷崎君」
 す、と太宰は厳かに、テーブル上から紙ナプキンを抜き取り、それを静かに指し示す。
「小切手だ」
「無茶振りだ!」
 谷崎が真っ青になって首を横に振る。然しその紙ナプキンは瞬く間にひら、と小切手に変わった。相変わらずの見事な異能だ。感心しながらそれにさらさらと名と金額を書き入れる。「有価証券偽造罪……十年以下の懲役刑……」なんて青褪めた声は聞こえない。
 立ち上がり、ぐるりと迂回して舞台の方へと歩いて行く。誰もが羨望、或いは嫉妬の眼差しを太宰の方に向けていた。感じるのはこの上無い優越感だ。
 当然だ。誰にも渡す心算は無かった。
 小切手を主催に渡す為に、数メートル手前で立ち止まる。流石に落札額が高額過ぎたのか、不審げな目で見られるが、そんなことは如何だって善いのだ。何処から如何見たって正しく振り出された小切手なんだから、早く手続きをし給えよ。
 その間も、太宰の視線はただ一点に注がれる。

「中也」
 今度ははっきりと、その名を呼ぶ。
 彼は漸く、太宰に気付いたようだった。そっと伏せられていた瞳が、彼が面を上げる動作に合わせて光の下に露わになる。と、太宰を捉え、そうしてその目がぎょっと見張られたのが見えた。
 だざい。
 彼の薄い唇が、そう形取る。その声まで脳裏にはっきりと描くことが出来て、自然と口元が緩んだ。
 捕まえた、と思った。足跡、残り香。彼の気配。
 ちゃり、と渋々主催の人間から購入者の証を渡される。小さな鍵だ。商品である人間の、首の拘束を解く為の。
 それを掲げ――漏れ出る喜色を抑えられずに、太宰は声高らかに宣言した。
「その飼い犬、この太宰が貰い受ける!」
3/8ページ
スキ