【再録】船上ヱンゲヰジ!


一.


 港に戻った太宰が見たものは、白塗りの巨大な客船だった。今回の依頼状にも書いてあった。大型の豪華クルーズ客船。そしてこれから自分達が乗り込む船でもあるそれを、太宰は惘乎と見上げた。うーん、それっぽい、と一人で唸る。
 偉い人と云うのは船の上でパーティを開くのが好きだったから、こう云う船は昔にごまんと乗ったことが有った。その際気を付けないといけないのは、船上だと逃げ場が無いことだ。此方が狩る側であればそれは有利に働くが、逆だと少々厄介だ。
 そして今回は何方になるか。
 ふと足元を見下ろすと、ざば、と波が打ち付けている。太宰の脚に到達すること無く、土瀝青に中って砕ける白い飛沫。その水分は、頬を撫でる風にも僅かばかり含まれていた。気持ちの好い風だ。潮の匂いのする。
 真昼の太陽の光も柔らかく、未だ冬が過ぎて間も無いと云うのに気候は存外暖かい。これなら海の中も、きっと温かいに違いない。何だか、陽気に誘われている気がした。
 目を閉じて、ふら、と足を滑らせる。
「駄目ですよ、太宰さん」
 然しその試みは敢え無く失敗した。耳に心地の好い声と共に、ぐいと腕を後ろに引かれたからだ。引き戻された体が、どさりと土瀝青の地面に落ちる。
 莫迦、手前、何してやがる。直前まで彼のことを考えていたからか、一瞬そんな声が聞こえた気がして焦ってくるりと振り返る。勿論、其処に居るのが彼である筈は無い。
「谷崎君」
 肩を撫で下ろしてその名を呼ぶと、痩身の青年は眉尻を下げて苦笑した。
「この仕事が終わるまでは勘弁して下さい。ボクらだけじゃ手に負えませンから」
「……でもこの仕事が終わった後は、この仕事を報告するまではって云う」
 そしてその報告が終わったら、次の仕事が終わるまでは、と云うのだ。次の仕事が終われば、そのまた次の仕事まで。
 太宰は微かに笑う。
「君は随分と延命処置が上手くなった」
「別に、以後自殺を一切しないで下さいッて云ッて、聞いて貰えるンならそう云いますけど」
「するねえ」
「しますよねェ。敦君が心配してましたよ」
 ほら、立ッて下さい、折角の洋服が台無しになッてしまいます、と谷崎に促される。その言葉の通り、ドレスコードが指定されていると云うから今日の装いは二人揃って上等な生地のダークスーツだ。太宰の方はその上に、何時もの草臥れた砂色の外套。砂利の付いたそれを、軽く払って立ち上がる。
 出発前、ひどく残念がっていた今の相棒の顔を思い出す。その外套さえなければ、少しはマシに見えるだろうに、と。けれど外套を取ってしまえば恐ろしく容姿が整ってしまうじゃあないか、それだといけない、隙の無い美丈夫と云うのは警戒を生んでしまうものなのだよ、と訴えた。
 何も云われなくなる代わりに、可哀想なものでも見る目で見られた。
 その時の同僚の顔を思い出し、憤慨しながらきゅ、と襟を正す。それに合わせて、おォ、と谷崎の感嘆の息が届く。
 こんなのは慣れたものだった。

「だ……太宰さん!? 生きてたんですか!」
「おや」
 ふらりと谷崎に連れられて行くと、乗降口付近で敦の泣きそうな声に迎えられた。少年と青年の境界を漂う声。それが乱れた服装で、海に向かってぺたんと座り込んでいる。
「如何したの、敦君」
「てっきり海の藻屑になったかと……思って……」
「え、う、うん……あれっなんでそんな深刻なの……?」
「あら」
 何時の間に兄に腕を絡めていたのか、その場に居たナオミがにこりと機嫌の好さそうな調子で口を開いた。彼女も今日は学生服でなくドレスだったから、その服装も相まって、端から見れば本日の谷崎兄妹は美男美女のアベックそのものだ。
「太宰さん、行き成り居なくなってしまうんですもの。終に海に入水されたのかと思うのは当然ではありません?」
「成る程」
 太宰はぽん、と手を打った。先程まさにその瞬間だった、と谷崎は口を挟まない。
 云われてみれば敦の今の格好は、上着を脱ぎ捨て今まさに海に飛び込まんとする処に見えなくもない。着物の少女――鏡花が押さえていなければ、今頃は海の中だったのだろう。太宰は地面に乱雑に投げ捨てられた上着を拾い、砂埃を払い、持ち主の細い肩に掛けて遣る。
 その間、じっと上目遣いで見上げて来ていた暁色の瞳とぱちりと目が合う。その瞳孔は不安げに揺れている。
「何処行ってたんですか? 僕……」
「心配して呉れた?」
「はい、あ、いえ」
 冗談交じりの問い掛けに、返って来たのは曖昧な返事。あれ。首を傾げて覗き込むと、す、と視線が横へとずれた。
「良く考えれば、無用の心配でしたから」
 あはは……と漏れたのは乾いた笑いだ。太宰はその様子に何となく、眉間にぎゅっと皺を寄せる。
「……私は、敦君が心配して呉れて嬉しいけど」
 云ってその頭をさらと撫でた。途端、消沈していた少年が照れたようにあたふたし出すのだから何だか可笑しい。ぐりぐりと、頭を撫で回しながらふふっと笑う。
「そうそう、この近く、ヘリポートが在るんだ。知ってた?」
「……ヘリポート、ですか?」
「うん。それとヘリの格納庫も」
 何でもないようなそんな会話で、少年の意識は先程の話題から完全に逸れたようだった。それが何だと云うのだろう、とばかりに首を傾げる。
 大仰に反応を示したのは、敦の袖を掴んでいた鏡花だった。常にポーカーフェイスを保つ彼女にしては珍しく、ぴくりと微かにその眉が動く。
「で、ヘリから飛び降りも佳いかなって思ったんだけど」
「だ、駄目ですよ! 藻屑も嫌ですけどミンチも嫌です!」
「うん?」
 太宰は、この子自殺欲を萎えさせるのが上手いなと思った。
「でも保管庫に行ってみても、一台しか無かったんだよね。今日明日中で保管庫に戻って来るヘリは他に無いって云うし、その一台も夜まで動かさないって云うものだから、残念ながら諦めてしまったよ」
「そ、そうですか……」
 虎の少年は、良かった、と口の中で曖昧に呟く。強張っていた肩の力が、漸く抜ける。
 それでこの話題はお終いだった。太宰はうんと伸びをする。これから客船に潜入するのだ、面倒だが出来るだけのことをするしかない。もう一度、船を見上げる。
 不意にくい、と外套の裾を引かれた。振り返って目線を下げる。引いていたのは鏡花だ。此方をじっと見詰めている。
「……ねえ、先刻の、如何云うこと?」
 態々、離着陸予定の記録まで調べたのは、如何して?
 吐息のように紡がれたその言葉は、敦には届かない。ただ太宰に向けて発された声だ。太宰のみに聞こえるように。
 だから太宰も、善い子だと笑って、唇にひっそりと人差し指を立てた。
 今は未だ、ないしょ。

     ◇ ◇ ◇

「船上オークション?」
 不思議そうな乱歩の声が太宰の気を引いたのは、ほんの一週間ほど前のことだった。他にその場に居たのは、確か福沢。依頼状を読み上げていたのは国木田だ。
「そうです。その潜入捜査の依頼が匿名で入りまして……」
「僕いちぬーけた」
 国木田の言葉が終わらぬ内に、はい太宰、と乱歩が依頼状を放って寄越した。何故自分なのか、と視線で問い掛けようにも乱歩の姿は既に無い。見回すと、彼は自分のデスクに戻り気に入りの菓子を吟味していて、その興味はすっかり紙切れからおやつに移ってしまったようだった。桃や緑の色をした四角い駄菓子を、爪楊枝であーんと摘んでいる。
 もう一度、今度はまじまじと依頼状を改める。添付の招待状には確かに「競売を開催致します」と在った。けれど商品が人間とは書いていない。その記述が在るのは依頼状の方だ。

『この競売で、人身売買の行われる可能性が御座います。
 数日前から行方不明になっているわたしの友人が、
 その組織に捕らわれていると云うのです。
 どうか、斯くも非道な輩を懲らしめ、
 友人を助けては頂けないでしょうか。』

「……成る程?」
 その後には、友人とやらの特徴が連々と書いてあるのみだった。曰く小柄で、曰く艶やかな亜麻色の髪を持ち、あの子は寂しがりやだから、きっと心細い思いをしているに違いありません、云々。その記述を信じるならば、その友人とやらは嘸や素敵な女性であることだろう。
 人身売買。太宰はぎゅっと目を瞑る。犯罪組織の業務の中でも主要なものだと云えるだろう。大抵の場合は、臓器のバラ売りだ。移植の需要と云うのは一般人が思うより大きいし、売り過ぎて尽きると云うことは無いからそれが一番好まれる。それに一度殺してしまえば、臓器が逃げ出す心配も無いし。だからその場合、『友人』の生存の可能性は限り無く低い。
 但し何事にも例外はある。商品の人間の見目が佳い場合。その場合なら、人間として瑕疵の無い状態に破格の値段が付けられる。趣が変わって来るからだ。移植用ではなく、愛玩用に。この場合は生存の望みが在る。
 その辺りは嘗ての太宰の管轄ではなかったが、然し市場を知らない訳でもなかった。競売であれば、人間を鎖に繋ぎ、その外見を良く見えるように大衆の元に引き摺り出して、さあ何円からと値段を付ける。恒常的にやるにはあまり効率は良くないが、上手く行けば一発の利益が大きい。数人売ればそれだけで、一組織が独立出来るほどの資金が得られる。
 だから当然、武装や警備も厳しい筈だ。こう云うのは武装探偵社でなく、軍警の管轄ではないのだろうか。
 然し潜入して証拠を掴むとなると、矢張り探偵社が適任か。
「太宰。お前、何か判るか?」
 国木田の問いに、ぱちりと目を開け依頼状を指で弾く。
「――招待状の紙と洋墨が、今の日本じゃあ市場に流通してないものだ。恐らく競売の主催は海外系の組織だろう――最近、日本進出と期を同じくして行方不明事件の増えた組織は幾つか在るよ。人の競売をやる可能性は在るね、マァ、依頼主が如何やってそれを知ったのかは知らないけど」
「すると依頼は罠か」
「さあ、そこまでは。案外、義憤に駆られた正義の味方かも」
 巫山戯た回答を聞き流し、国木田が渋面を作る。
 聞けば依頼料らしき金額は既に振り込まれていたらしい。然し依頼人は誰なのか、如何やってそのことを知ったのか。
 太宰と国木田の間には、殊更重い空気が落ちた。口に出さずとも、考えていることは恐らく同じだった。

 沈黙を破ったのは福沢だった。
「太宰。行けるか」
「……判りました」
 指名を受け、太宰は首肯する。悩んでいても依頼がこうして有る以上、探偵社は動かざるを得ない。然し舞台は船上で、万が一のときに逃げ場が無い。探偵社の安全を第一に指揮を取る必要が有る。その為の現場判断を適切に行うのであれば、太宰が最も適任だとの判断だろう。太宰もそれが間違いだとは思わない。
 それと同時に太宰には、自分が適任だろうと思うもう一つの予感が有った。
 人身売買。この横浜で。
 それは即ち、マフィアのテリトリーを荒らすことを意味する。
 最近現れた海外系の組織となると、何よりも日本で商売を始める為の土台が欲しい処だろう。然し大方の流通経路は、マフィアがその根本を牛耳っている。根を張る為に、選べる選択肢は二つに一つ。マフィアに尻尾を振って阿るか、マフィアの領分を侵すかだ。
 然し仮にマフィアから許可を得ているのであればこんなもの、態々船を動かしてまで開く必要は無い筈だ。避けたいのは何も警察組織からの介入だけではないのだろう。
 依頼状を裏返す。其処に名前は書かれていない。けれど薄っすら透け出て見える、鉛毒のような誰かの意図。
 こんなやんちゃ、あの人が許そう筈も無い。
「……じゃ、同伴は谷崎君と敦君で」
 無論、自分一人で熟せるならそれに越したことは無かった。けれど谷崎の能力が有れば助かる。細雪。あの異能は作戦の幅がぐんと広がる。何が起こるか判らない敵地で、持てる手札は出来るだけ増やしておきたい。
 そして万が一にも太宰と谷崎が別行動になったときは、彼を守る必要が在る。それには敦が適任だろう。そう考えての人選だった。社長の了承を得て席を立つ。 
 太宰は逡巡した。携帯を取り出し、通話機能を立ち上げる。
 あらゆる手を打つ必要が有った。

     ◇ ◇ ◇

 その後、「兄様が行くなら私も」とナオミが挙手し、「豪華客船……」と鏡花の視線が突き刺さり、結局大所帯となってしまったのだ。引率の責任は重大だ、と太宰は笑う。
「さ、行こうか」
 鏡花の手を裾から剥がし、船へ向かう。その途中。
 同じような格好の、着飾った男女が船に吸い込まれていくその下で、同じく大小様々なサイズのコンテナが船へと運び込まれていた。然しその量が異様に多い。乗客の荷物かと思えば、それも如何やら違うようだ。
 初めに異変に気付いたのは鏡花だ。
「……火薬臭い」
「え?」
 すん、と少女が鼻を鳴らして呟く。続いて敦も首を傾げる。谷崎兄妹は匂いこそ判別出来ないものの、何処かその異様さを嗅ぎ取ったようだった。
「……おかしいですわ。これは客船で、目的は二日間のクルーズ。なのに、あんなに積み荷が必要なものですの?」
 ナオミの指摘した通りだった。客船は二日間の周遊の後に、この港へと帰って来る。荷を何処かへ運ぶと云うことは無い。競売用の商品にしても、客が持って帰れない規模になる筈は無い。
「……若しかしたら、行き先すら違って来るのかもね」
 目を閉じ、瞼の裏にシナリオを描きながら太宰は呟く。
 二日目の終わり、船が帰港する頃には、軍警を港で待機させておくよう国木田には頼んである。本当に船内で闇取引が行われれば、探偵社員が軍警にその事実を告げるだけでその場で現行犯逮捕。手筈は十分に整っている。
 二日経って帰って来なければ、大規模な捜索を組んで貰う手筈も。
 却説、と太宰は思考を巡らせる。然し此処に来て不確定要素がまた一つ。恐らくは銃火器の輸送。それだけで銃撃戦の起きる可能性がぐっと増える。己の手中に無い状況が、どんどん広がっているのが目に見えて判る。
 己が、少なからずその状況を楽しんでいるのも。
「……ふふ、きな臭くなってきた」

 その時、火種の中にふと懐かしい匂いを嗅ぎ取った。
 花の薫りと、彼の息遣い。
 思わず振り返る。
 その名を呼ぶ。
「……中也?」

 然し其処には何も無い。ただ、途切れ無くコンテナが運び込まれているだけだ。
「追い求め過ぎか……」
 は、と太宰は自嘲した。こんな無様な独り言を聞かれたら、笑われてしまいそうだった。
 それか心底気持ち悪そうな顔をされるか。
「太宰さん?」
「ああ、いや」
 突然足を止めた太宰を、四人が振り返ってじっと見ている。太宰は柔らかい笑みを頬へ貼り付けた。止めた足を進める。
「何でも無いよ」
 タラップを踏み、客船へと乗り込む。
 蓬髪を撫でた春の風が、柔らかく波の上を滑っていった。
2/8ページ
スキ