【再録】名もなき柔き茨の枷
5
中也は、血に濡れたまま真昼の倉庫街に立ち尽くしていた。
今日の任務は、ポートマフィアに敵対する一派の殲滅だった。既に幕は下り、部下達がこの倉庫街の何処かで死体の片付けに入っている筈だった。本部からもう一人、戦力を後から寄越すと連絡が在ったが、それももう必要無かった。中也とその部下だけで、今日の敵に相対するには十分だった。
そうして最も信頼する部下の顔を思い浮かべ、中也はふと気付く。あの男はもう居ないのだ。自然、体が強張る。
あの事件から、既に一週間が経っていた。
中也の目の前で己の同胞殺しの罪を暴露し、射殺された男の死は、組織の裏切り者の死として処理された。男の部屋からは、ちょっと尋常ではない量の――それこそ捏造ではないかと疑うほど大量の――証拠が押収された。幹部を殺したと見られる凶器、手書きの暗殺計画、そして何より、中也への復讐を決意した旨の手記と、中也を襲撃する為の綿密な計画書が出て来たのが決定的だった。一般に、部下の裏切りは上司にも疑いが及ぶものだが、まるで図ったかのように、中原中也はこの件には関わり無しとされた。
そしてその男の部屋は、今や何の痕跡も無く綺麗さっぱり片付けられているのだろう。まるで最初から、そんな男など存在しなかったかのように。
数日の逃亡劇と太宰による拷問とでひどく体力を消耗していた中也は、その後首領に一週間の休暇を命じられた。疑いが晴れたとは云え、人の口に上った噂が煙のように消えることは無く、必ず何処かしらにその凝りを残す。熱りが覚めるまで、と首領は云った。熱りが覚めるまで、ゆっくりしておいでと。そうして何か必要なものは在るかと訊かれたので、俺はひとつだけ、俺が居ない間の仕事は、全部太宰に遣らせて下さい、と申し出た。首領は笑って、良いよと快諾した。気の晴れることも無い、細やかな嫌がらせだ。
一週間で疲れが取れたかと云えば、答えは否だ。この一週間、中也は仕事を何もせず、自宅で療養していた。名も無き墓の墓参りにも行った。打ち捨てられ、寂れた墓に、一輪花を添えた。皮膚科にも通った。乱暴に剥がされた爪の痕は化膿が酷く、医者も顔を背けるほどだったが、何とか快方に向かっていた。当分手袋は着けられそうになかったが、箸も握れなかった状態から、一人で食事が可能になった。おかしなことに、どんな酷い怪我をしていても変わらず腹は空くようで、毎日自分で料理を作っては、毎日それを口に運んでいた。髪の色は、元に戻すと少し傷んでいた。一週間も経つ頃には、傷だけでなく、体力も大分回復していた。
それでも尚、体には気怠さが纏わり付いた。
気付けば微かな殺気が、周囲の物陰から漏れ出ていた。中也はその視線の煩わしさを断ち切るように、無言でナイフを抜いた。囲まれている。
「……出て来いよ」
そうしてばらばらと物陰から姿を現した敵兵の数は、凡そ二十。装備から見て、恐らくは今日狩った組織の残党だ。その手緩い動きからは、それほどの脅威は感じられない。素人に毛の生えた程度のレベルで、ポートマフィアの幹部に逆らおうとは恐れ入る。
然し気怠い体で相手をするには、少し面倒な数だった。
だからぽつりと呟いた。
「……俺は右半分をやる」
「じゃ、私はもう半分をやろうかな」
ばさ、と外套をはためかせ、長身の男が背後に降り立つ気配が在った。ご丁寧に、登場のタイミングを見計らって傍らのコンテナから飛び降りたのだ。突然の乱入者に敵がざわりと動揺する。影が中也の足元に重なり、背中が一瞬触れ合う。
中也は振り返らなかった。振り返る必要が無かった。ただ、血が沸騰するように熱く、暴れることの出来る場を求めていた。
「好いぜ。手前等全員鏖だ」
「ねえ中也、その『全員鏖』ってやつ、頭痛が痛いみたいで頭悪そうに聞こえる」
「そう急くなよ。手前も後でちゃんとぶっ殺して遣るから」
「ええ、困るなあ。自殺趣味が捗って仕方無いや」
背後で笑う気配が在った。中也も釣られて笑った。二人で居れば負ける気などしなかった。例えこの男が気に食わずとも、今この瞬間はそれだけが、自分とこの男の間に横たわる真実だった。
一瞬の静寂の後、無言の内に、二人同時に地を蹴った。
「君、本当進歩無いよね」撃ち殺した死体を蹴り飛ばしながら、太宰はぶつぶつと文句を云う。「まあ、確かに私にとって未だ君は利用価値は在るんだけどさあ……」
「手前は一体どの面下げて俺の前に現れやがったんだよ」
「あらら、未だ怒ってるの?」
もう一週間だよ、と元凶の男――太宰は肩を竦めた。その声音は相変わらず、人を小馬鹿にしたように軽い。
「犯人は死んで、君の疑いは晴れた。おまけに一週間の有給休暇。万事めでたしめでたしじゃないか」
大体君、自分の仕事全部此方に振って行ったでしょう、もう大変だったんだから、と恨みがましく口にする太宰を、中也はぎろりと睨め付ける。此奴の口にする「めでたし」ほど胡散臭いものは無かった。何がめでたいものか。中也は大切な部下を喪い、その体は休養を要するくらいにはぼろぼろだ。まったくひどい目に遭わされたものだと思う。
そして何より、この件に関しては太宰が全面的に正しいことが、中也から立ち直る気力を奪っていた。
太宰の云うことはその悉くが正しい。佐久間は死んで、中也を脅かす人間は居なくなった。組織にとっても、中也個人にとっても、それは大きな利得だった。
それでも、中也の胸の奥底に、小さな蟠りだけはずっと変わらずに残っていた。自分の大切な部下に、最期にして遣れることは無かったのか、もっと最期の言葉を聞いて遣った方が良かったんじゃないか。それだけがずっと、柔らかい刺のように、心臓の奥に刺さっている。
「君さあ」
緩慢な動きで、ゆらりと太宰が前に立った。太陽から中也を隠すように、長身が中也を覆う。その表情はひどく曖昧で、何を考えているのか判らない。退けよ、と中也が低く唸ろうとしたその口を、一瞬早く人差し指で塞がれる。
「これでそんな腑抜けになっているようじゃ、君、そのうち死んで了うよ」
一種の艶かしさを持って、その細い指がゆっくりと唇をなぞって行った。薄ら笑いに反して、太宰の視線はその体温と同じほどにひどく冷たい。その黒い瞳に映る自分の姿をじっと見つめる。暫く、二人分の浅い呼吸だけが波の合間に聞こえていた。それからそろりと、唇に添えられたその手が、頬をなぞり、髪を弄び、顎に添えられ、親指がぐに、と唇をこじ開けようとした処で――中也は鬱陶しくなって手を払った。今はそう云う気分じゃない。
「あらら、残念」
太宰はちっとも残念そうではない顔で笑うのみだ。
判ってはいた。こういうことは、この先何度だって在る。ポートマフィアなんて血で血を洗う組織に属している以上、部下の死やら、裏切りやら、そんなものは日常茶飯事だ。その覚悟も無しに、幹部になった訳ではなかった。理屈では判っていた。然しこの感情を、理屈で上手く始末を付けることが、中也には出来なかった。目の前の男のように、何時だって、合理性のみを追求出来る訳ではない。
「……まったく、私の相棒は仕方無いなあ!」
「あァ?」
太宰はまるで戯曲を踊るようにその場でくるりと回った。肩を竦めて中也の手を取り、その甲に唇をそっと寄せる。
「そんなに心配しなくても、私はちゃんと傍に居てあげるよ」
「別に、手前何ぞに傍に居て貰わなくても俺は……」
「気楽でしょう」
中也の苛立ちを遮るように、太宰は含みを持たせて笑んだ。
「傍に置くのが、私なら、気楽でしょう?」
「……、ああ」
太宰の言葉に、中也は静かに目を閉じた。確かに自分でも判るほどに、精神が少し疲れていた。
部下のことを信頼していた。
その結果、あの男は自分を置いて勝手に逝って了った。
首領には信頼されていると自負していた。
その結果が処分命令だ。
そして一時その身を預けた太宰には、拉致監禁の上拷問だ。今は何かを信じる余裕が、足りないジグソーピースのように抜け落ちていた。
だからこそ、今の中也には太宰の隣の居心地が良かった。要は信じなければ良いのだ。この男は自分の利点になるのであれば、容赦無く中也を売るのだろうし、容赦無く中也を壊すのだろう。先の事件が良い例だ。けれどそれで良かった。この男がずっと中也の味方であるなんて、信じなくて良いのだ。信じなければ、裏切られもしない。そしてこの男は、傍に居ながらその関係を維持する中也を赦すのだろう。
「そうだな」
中也は太宰の手を払い、懐から煙草を取り出した。がちんと火を点けると同時に、一本頂戴と横から手が伸びる。仕方無えなと中也がジッポを差し出すと、此方を貸してよとふわりと笑って、太宰は中也に顔を寄せた。煙草から煙草にじわりとその熱が移るのを、二人吐息の掛かる距離でじっと見る。
此奴は何時だって合理的に最大の利益を追求する。戦場で、背中を、その身を預ける覚悟を、信頼に依らなくて良いことが、今の中也にはひどく気楽だった。
その感情が例え、この男の作り出した状況で、自分がこの男の掌の上で踊らされているだけだとしても、今だけは。
「暫くは、手前の相棒とやらに付き合って遣るのも悪くねえ」
その言葉に、太陽を背に煙草をすいとすくい上げた太宰が、ひどく満足気に笑ったのが見えた。
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