【再録】名もなき柔き茨の枷
幕間
『がッ……あァァ――!』
隣室に、中也の声にならない絶叫が響き渡る。その様子は、部屋に設置したモニターとスピーカーからも見て取れた。壁越しに遠く聞こえる呻き声と、ぶつぶつと電子音の隙間から漏れ出る掠れた喘ぎが重なる。血を吐くような叫びだ。爪を剥がれ、皮膚を裂かれ。それでも、幾ら肉体を痛みに折っても、心の方は折るのに相当な時間と労力を要するのだろう。中原中也のそう云う処が、太宰にはひどく気に食わなかった。さっさと折れて泣き喚くなり命乞いをするなり、苦痛に迎合して了えば善いものを、その瞳は強い意志を宿したまま決して痛みに屈しようとはしない。何が彼の矜持を其処まで支えるのか、太宰にはとんと見当も付かなかった。
同時に、その儚いまでの頑強な精神が、このドブのように腐った組織の中で一際きらきらと輝いて、ひどく太宰の目を惹いた。
ポートマフィアに入る人間なんてものは、凡そ薄汚れた、如何しようも無い精神の持ち主ばかりだ。人を殺して、人の金を巻き上げて、そうして生きて行くことを選んだ愚か者共の集まり。自分も含め、如何しようも無い屑ばかり。
時折言い訳地味た口調で、この道は自ら望んだものではない、生きて行く為に仕方無く――と云う者も居る。己は潔白だと云う者。太宰に云わせれば、そんなものは糞食らえだ。人を殺して生きることを本当に望んでいないのならば、誇りを持って自害すれば善かった。他人を害するくらいなら、自分が死んで了えば善かった。それを選べなかった愚か者か、若しくは本物の狂人かだけが、この組織では跋扈している。此処はそう云う世界だ。
そんな中で、一際おかしな存在が在った。黒に染まりつつも矜持を失わず、精神を病まず、何を憎むこともなくただ黒の中で輝く闇色。その手を血に濡らしながらも損なわれない美しさに、太宰は如何しようも無く目を奪われた。同時に、その不均衡さをじっと側で見ていると、限り無く不安定な気持ちになって来るのだ。だから太宰は彼のことが嫌いだった。
「貴方もそう思わない? ねえ、佐久間さん」
縛り付けられ、項垂れる部下の男を目の前に、太宰は無線機を取り出した。「もう一枚やっちゃって」と合図すると同時に、モニターの向こうで複数の男が中也を取り囲む。これから行われるであろう残虐な行為に、太宰は薄く笑った。
『ぎっ……う、ッあ』
痛みに耐え、必死に意識を飛ばすまいとする、そのくぐもった苦悶の声に、太宰の目の前に座らされた佐久間は、聞くに堪えないと云った風にぎゅっと目を瞑った。本当は耳を塞ぎたかったようだが、生憎と後ろ手にきつく縄を縛られている為にその動きは叶わない。その悪足掻きは、がたがたと椅子を揺らすだけに留まった。行動が無駄と判り、せめてもの抵抗なのか、ぎり、と歯軋りをしてものすごい形相で睨み付けて来るのが、太宰には何だか愉快だった。
「止めろ! あの人は、あの人は関係無いだろう!」
「そりゃあ、下手人は貴方だからねえ」
ぴたりと煩い佐久間の口が止まった。
「何を、云って……」
「でもさあ、おっかしいと思ったんだよね」太宰はがたがたと椅子を持ってきて、佐久間の前に腰掛けた。頬杖をつき、足を組んで、そうして佐久間を睥睨する。「本気で中也と敵対している人間が中也を犯人に仕立て上げるには、あまりにも証拠を揃えなさ過ぎてる。ボディガードの付いた、恐れ多くもポートマフィアの幹部を暗殺出来る用意周到さと実力を併せ持った人間がだよ? 中也の持ち物をぽいと其処ら辺に置いておくだけなんて、杜撰にもほどがあるじゃない」
佐久間の肩が震える。
「今回の件で、中也が犯人とされた理由は二つ。一つは、殺されたのがどれも中也と敵対していた幹部であったこと」中也は毛ほども気にしていない相手だったろうが、と太宰は吐き捨てる。「もう一つは、犯人の遺留品として、中也の痕跡が現場に残っていたことだ」
太宰は佐久間の反応を見ながら、淡々と事実を並べ立てる。云うなればこれは、謎解きパートと云うやつだ。犯人を、心理的に自白へと追い詰める為の。
「然しこの、痕跡と云うのが如何にもお粗末だ。もっと、ベッタリと血と指紋の付いた中也のナイフとか、そう云うものを用意すべきじゃないかい、普通? 殺された幹部のポケットに中也のカフスボタンが入っていただなんて、そりゃあ、殺すときにうっかりそんなものそんな処に入らないよ。……態と入れない限りは」
見る者が見れば、中也が犯人でないことくらい、ひと目で分かりそうな。そう云う証拠の置き方だった。
「中也に罪を擦り付ける、その意図は明確なのに、何処か手際が悪い。最初は訳が判らなかったよ、中也に罪を擦り付けたい犯人と、何処かで誰かが中也が犯人でないと気付いて欲しい犯人と、二人居るのかと思った。……これは本当に推測だけど、貴方はさ、中也に絆されたんじゃないの」
「……私が中原さんに、罪を擦り付ける理由が無い」
「そんなもの、今更訊く? 何、私と思い出話でもしたいの」
やっとまともに口を開いた佐久間に、太宰は大袈裟に肩を竦めた。佐久間が過去に、中也に家族を鏖殺されたことくらい、疾っくに調べは付いていた。動機は復讐。在り来り過ぎて欠伸が出る。その凶行が中也の個人的な感情に基づいて行われたものではなく、ただ任務でやっただけだと云うのだからお笑いだ。そんな復讐、中也ではなくポートマフィア自体にするのでなければ、お門違いも良い処だ。
きっと中也は部下にする男の過去なんて、一々調べなかったのだろうが。
「貴方には向いてなかったんだよ。復讐なんて」
そして中也にも向いていなかった。復讐の対象なんて。
仮に中也が、復讐を決意した当時の佐久間が思い描くような、人を人とも思わぬ冷酷非道な男であったならば、此処まで決意の刃は鈍らなかったのだろう。けれどきっとそうではなかった。中也は残酷なほど、聡明で、闊達で、部下思いだった。その手が血に濡れていようとも、その腐臭を感じさせないような、そう云う性質の持ち主だった。復讐の目標をやるには、彼はあまりに真っ直ぐ過ぎたのだ。だからこの男も、忠実な部下を演じる内に情が移った。
佐久間の失敗は、其処で復讐を諦めなかったことだ。
情が移った時点で復讐なんて止めておけば善かったものを、その感情を受け入れられなかった固い頭が下手に自分の使命に忠実で在ろうとしたから、こんな無様なことになったのだ。中也に罪を擦り付けながら、一方で中也の逃亡を助け、最後までその身を守ろうとするなんて、愚かにもほどがある。
そんな佐久間を、ただただ、哀れだな、と太宰は思った。
「――却説。此処まで真相が判っていて、私が貴方を一思いに殺さないのは、なんでだと思う?」
「……中原さんの、無実を証明してから死ねと云うことか」
「んん、半分はそうだね」
流石は中也の部下だ、と太宰は思った。話が早くて助かる。
「もう半分はね、中也に説明して欲しいんだよ」
云いながら、太宰の脳裏に或る言葉が蘇る。
――きっとね、太宰くん。君も同じことを考えると思うよ。私と同じことを、私と同じようにね――。
恐らく、かの人も同じことを考えたのだろう。証拠が無くても、佐久間を殺して了うことは簡単だ。然しそれをすれば、中也からの信頼は地に落ちる。一番重要なことは、如何に中也を納得させた上で佐久間を殺すか、だ。
「アレは頑固だから、部下が犯人だなんて、理屈では判っていても固い頭が中々納得して呉れない。それは貴方も良く知っているでしょう? 義理とか人情とか、そう云う鬱陶しいものに嫌に厚い男だ。貴方もそう云う処に付け込んで、今までのうのうと部下をやって来た訳だからね」
太宰の言葉に、色を失っていた佐久間の目に初めて怒気が宿った。「違う」と震えた声がその喉奥から絞り出される。何が違うものか、と太宰は瞑目した。同じだ。太宰も、この男も、結局は。同属嫌悪だと、初めに云ったのはこの男の方だ。
「だからね、私が勝手に貴方を殺したら、きっと中也に口を利いて貰えなくなっちゃう訳だよ。其処で貴方には、中也の目の前で自白した上で、自害して貰わなきゃならない」
「……私がそれをする義務は無い。貴様は精々中原さんに、ゴミを見る目で蔑まれてろ」
「ふふ、佐久間さんたら元気が良いね。その口が中也の前でも良く回ることを祈るよ」
太宰は立ち上がって、その生意気な口に靴の先を蹴り込んだ。みしりと嫌な音と共に血が飛び散る。今ので歯が何本か折れただろうが、そんなものは知ったことでは無い。太宰は佐久間に歩み寄って、その拘束を解く。
「そうそう、余計なことを喋ったら殺すからね」
太宰のその一言で、殺意の宿った佐久間の瞳が、一瞬困惑に染まった。なんだ、そんなこと。どうせお前は私を殺す積りなんだろう、どの道死ぬならそんな脅しは怖くも何ともない――そんな表情。
「何勘違いしてるの? 殺すのは貴方じゃない。中也だ」
その一言で、一転、空気が凍り付いた。
あからさまに狼狽した様子の佐久間に、太宰は思わず笑い出しそうになる。当然だ、誰が易々と生ぬるく逃してなど遣るものか。ポートマフィアなんて組織に所属しておきながら、この期に及んで未だ軽々しく希望を抱こうなんて、一体如何いう神経をしているんだろう。
「余計なことを喋ったら殺す。目的を果たさずに自害しようとしても殺す。説得出来なくても殺す。中也を、貴方の目の前でだ。それはもう惨たらしく殺すよ。貴方も、あの綺麗な顔を腫らして、生きたまま生皮を剥がれる中也を見たくはないでしょ?」
「そんなこと」佐久間の唇が血色を失い、ぶるぶると震え出す。「そんなこと、出来る訳が無い」
「そう思う? 云っておくけれど、私は中也を殺すことにも、殺される方がマシと思うくらい甚振ることにも、正直何の躊躇いも無いよ。何だったら、この手でアレの細首を絞め上げたって良い」
きっとその鳴き声は甘美なのだろうね、と太宰は微かな酩酊を示してみせた。あの誇り高い男が、扼頸の苦しさに喘いで、藻掻いて、そうして離せ、太宰と懇願する声は、嘸や嗜虐を震わせるものに違いないのだろうね。ねえ、貴方もそう思わない? そう云って笑う。
ぎり、と血の出るまで己の歯を食い縛る佐久間の姿を見て、哀れだな、と太宰は思った。そんなに苦しむのなら、最初から復讐なんてしなければ良かったのだ。他ならぬ自分で仕向けたことなのに、その対象を人質に取られて、挙句この有り様だ。本当に哀れでならない、と太宰は密かに溜め息を吐いた。合理性を突き詰める性質の太宰にとって、そう云った自己矛盾を孕む存在ほど、訳の判らないものは無かった。
「まぁ、精々がんばってね」
そうにこりと笑って、太宰はぽんと目の前の男に自動拳銃を手渡した。選択肢を与えたのだ。勿論弾は込めてある。気が変わったら、太宰を撃ち殺そうとしても良いし、自害しようとしても良い。
但し、その場合の中也の無事は保証しない。
悪魔め、と呟いた声を、太宰は聞き漏らさなかった。悪魔、結構じゃあないか。神に反逆して、その身を地に貶した者の名だ。そうしてまで手に入れたいものが在ったのだ。今の太宰の気分を表すには、ぴったりの言葉だった。
今度何かの機会が在ったら、使わせて貰おう。
