【再録】名もなき柔き茨の枷
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ぴちゃん、ぴちゃんと水滴が跳ねる。それが天井を伝って落ちて来た雨水なのか、自分自身の手から流れ出る血なのか、今の中也には判別が付かない。痛みのあまりに目が眩む。段々と、血の足りなくなっていく感覚が在る。朦朧とする意識の中で、同僚である男の言葉が蘇る。『何をされるか判らない方が、人は勝手に想像して、勝手に恐怖するんだよ』。だったら恐らく、此処で何か考えることの方があの男の思うツボだった。考えるな、考えるな。思考を制する理性に反して、薄暗い視界の一歩先に、何が蠢いているのか判らない中也の脳は、否が応でもその先に在る未知の恐怖を形成する。
その中也の思考を中断するように、指の先にひやりとした感触が在った。滑る金属の感触に、その次に来る痛みが想像出来、中也は思わず身を竦める。そんな中也の胸の内など知らず、その器具は容赦無く、ばり、と中也の爪を剥いだ。
「がッ……あァァ――!」
視界が真っ赤に染まり、食い縛った歯の間からも薄く血が流れ出る。全身に痺れるような痛みが走る。暴れようにも、鎖が手首に食い込んで、その肌に赤く痕を残すのみだった。
ぱしゃ、と血溜まりの中に剥がれた爪が落ちた音がした。後ろ手に拘束されている中也の目からはそれは見えない。ただ、何時も自分達がしていることを自分の体にされているだけなのだから、その情景だけはありありと脳裏に描くことが出来た。未だ爪は、手足を合わせて十七枚は残っている。幾らでも剥がすことが出来るだろう。痛みに慣れているとは云え、同じ痛みが後十七回も与えられるのかと思い、呼吸を乱した中也は心底うんざりする。込み上げる吐き気を抑え、思考を指先の痛みから無理矢理逸らす。
この拷問部屋に囚われてから、随分と長い時間が経っている気がしていた。外はもう夜中なのだろうか。中也はぐたりと椅子に背を預ける。本当は未だ一時間しか経っていないかも知れなかったし、もう翌日の昼日中なのかも知れなかった。日の差し込まないこの部屋で、時間の感覚が正常に働いている自信は無い。その上、意識を取り戻してからずっとこの調子で断続的に苦痛を与えられ続け、それがまた、中也の正常な感覚を狂わせていた。異能を使って反撃しようにも、その度に激痛が襲い来るのだから、まともな思考など働かない。
本来であれば、拷問とは隠匿している情報を得る為に為される処を、中也の周りを取り囲む黒服達は、不気味なほどに中也に何も要求しない。ただ無言で其処に立っているだけだ。そうして一定時間ごとに、中也の爪を剥いで行く。これでは拷問ではなく、まるで単なる稚拙な私刑だ。目的の見えない、ただ甚振るだけの非効率的な暴力に、中也は自分の精神が摩耗していくのを感じていた。黒服の男達の中に、この拷問を指示している筈の見知った顔が無かったから尚更だ。
叫ぶのは最初の二枚で疲れて了い、今は極力喉を潰さないように、痛みを喉の奥で噛み殺していた。それでも未だ、殴打、打擲、爪の二、三枚だけで済んでいるのだから、拷問の類としてはきっと良心的な方だ。自分だったら、指を一本一本を鋸で切断するくらいはやっている。
情報を引き出す為ならば、あの男だってそうするだろうに、何をこんな生ぬるいことをやっているのだろうと、中也は元凶を脳裏に思い描いた。自分をこんな目に遭わせている男。そもそも、何の目的が在ってこんなことをしているのか。中也が犯人でないと云うことは、誰よりもあの男が一番良く知っている筈なのに。
「やぁ。皆元気にやってる?」
ギィ、と重い鉄の扉の向こうから、今まさに思い描いていた男がひょこりと顔を出して、中也は沈んでいた意識を覚醒させた。かっと頭に血が上るのが判る。
「太宰……ッ」
「おや、熱烈な歓迎だ。そんなに私のことが恋しかった?」
腹が立つほど何時もどおりのその巫山戯た声音に、ぎりりと歯を食い縛る。殆ど無意識に発動した異能に、ぱきんと周囲の石造りが弾け飛ぶ。けれども太宰は涼しい顔で、その只中に立っていた。中也の異能は利かないのだから当然だ。
手前、一体、何の積りでこんなことを。怒鳴りかけた言葉を何とか飲み込む。今の自分の状況を冷静に思い返す。出血の続いているまま興奮すれば、下手をすれば意識を失う。中也は、努めて平静に、目の前に立った太宰と対峙した。
「中也、中也。今夜は月が綺麗だね?」
「死ね!」
苛立たしさのあまり冷静さなど一気に吹き飛んだ。月なんて何処にも見えやしねえよ、と間髪入れず血反吐と共に吐き出すと、何がそんなに嬉しかったのか、太宰は上機嫌で「重畳、重畳」とその場でくるりと一回転した。挙句「中也が元気そうで良かった」などと云う。椅子に縛られ、全身痣だらけで、爪を剥がれた姿を「元気」と称すならば、さっさと目か頭の病院にでも蹴り込んで遣るのが優しさかも知れない。
「君の部下も別室で取り調べをさせて貰ってるよ。ちょっと痛いやつね」
その言葉に、中也は思わず腰を浮かせた。その動作はがちゃ、と鎖に阻まれる。自分だけならまだしも、自分を信じて付いて来て呉れていた部下が、自分の不甲斐無さの所為で暴行を加えられるのかと思うと、心中がひどく穏やかでなかった。がちゃがちゃがちゃと、背の辺りで鈍く金属の暴れる音だけが響く。嗚呼、糞が、血が足りていればこんな玩具なんぞ紙みてえに捻ってやるのに、と中也はぼんやりと毒突く。
「ああ、駄目だよ、中也ったら。そんなに暴れたら、折角の綺麗な肌が傷付いちゃう」
太宰がふわりと、中也に覆い被さって来た。抱き締められる態勢に、中也は一瞬戸惑う。血と下水の不快な臭いが充満する中で、太宰の外套に染み付いた安い煙草の匂いが、妙に甘ったるく中也の鼻孔を突いた。直ぐ其処に感じる人肌の体温に、一瞬思考が巡る。今なら、喉元に噛み付いて殺せる。
途端、本来爪の在った場所を圧迫され、中也は鈍い悲鳴を上げた。じくじくと、脳が苦痛に侵食される。太宰の触れた部分が不快に滑る。血に濡れているのは、太宰ではなく自分の手だ。激痛のあまりに思考が四散し、何かを考えるのが億劫で、手近に在った太宰の肩を噛みただ只管に痛みが過ぎるの待つ。耳元に、太宰の笑う吐息が中るのが判った。
「俺じゃ、ねえ……」
「最初は皆そう云うものだよ」
痛みに喘ぐ中也の言葉に、ぐたりと預けられた体を抱き締めて太宰は薄く笑う。その底が見えずに、じわじわと、胃の腑を嫌な感じに絡め取られる感覚が中也を捕らえる。
「手前は」口の中で、血が泡立つのが判った。「手前だけは、それを知ってるんじゃなかったのか」
「そうだよ」中也の口から溢れ落ちた血を、太宰はべろりと舐め取って云う。「君と、私と、犯人だけが、君が犯人ではないことを知っている」
落ち着け、冷静になれ、と中也は己に云い聞かせる。この男が何の意味も無く、こんなことをする筈が無い。
「何が目的だ」
幾分かクリアになった中也の声に、太宰があれ、と首を傾げる。舐め取られた口の端が、滑ってひどく気持ちが悪い。
「手前は俺が、犯人じゃないことを知ってる。なら、他でもない手前が、こんな無駄なことをする筈が無え」
「んー」
太宰は少しだけ、考え込んだようだった。中也を解放し、天井を見、床を見、そうして中也をじっと見据えた。その姿に、冷酷非情な自分の上司の姿が一瞬重なって、中也の背筋がぞわりと粟立つ。
「考え過ぎじゃない、中也。何時もの、ちょっとした嫌がらせだよ。そう云えば弱ってる中也のそんな色っぽい声って、中々聞けないよねェと思って」
若しかして初めて奪っちゃった? と何処までも軽薄な態度の男に、じわりと本気で殺意が湧く。ぎしりと拘束具が軋み、ぱきぱきぱきと周囲の床石が割れる音がする。慣れ親しんだ、異能の感覚。次第に体が重くなり、がんがんがんと頭が痛む。ぼたぼたと指先から重さを持って血が失われて行く。漏れ出る自分の異能を、中也は敢えて抑えなかった。例えその為に出血多量で死のうと、この際知ったことでは無かった。この男に直接異能が効かずとも、建物ごと倒壊させて了えばそんなものは関係が無い。中也はぎりと歯を食い縛った。
今、此処で、殺す。
そんな中也の考えを見透かしてか、太宰は中也の首をぎゅうと捕らえた。その細指が、喉を押さえて絡み付く。
「て、め……」
「懲りないなァ。駄目だよ中也、判ってるでしょ?」
ぎりぎりと笑いながら首を締められ、呼吸が困難になる。視界が白く霞み、「ぁ、ぅ、」満足に悲鳴も上げられず、中也の手が後ろ手に宙を掻き、軈て力を失ってだらんと垂れ下がった。「あ、ちゃんと大人しくなった、えらいえらい」などと云いながら顔を覗き込もうとする太宰を、ぎろりと目だけで睨め付ける。太宰がはっと息を飲んで、それから嬉しそうにぎゅうと手に力を込めるのが判った。意識が途切れかける。
「そうそう、それでね中也、犯人がこの部屋の隣に居るんだけどね……」
途端、ばん、と扉が開き、太宰の注意が一瞬そちらに払われる。部下の入室を見た太宰が、中也をどさりと放り出す。
「一体全体何事なの?」
「さ……佐久間に逃げられました!」
太宰は暫く黙った後、色の無い目でカツカツと部下に歩み寄り、がっと震える部下を蹴り付けた。
「何ちんたらしてるの? 直ぐに追いなよ。それで、」
「見付け次第、殺せ」
ばきん、と鎖が割れた。
その音に、太宰が中也の方を振り返る。自ら拘束を解き、ふらふらと立ち上がった中也に、未だそんな力が残ってたんだ、と感嘆半分、呆れ半分の声が太宰から漏れる。
「部下は関係無えだろ……手出しすんじゃねえよ……」
「その部下が犯人でも?」
中也はその意味が判らず固まる。「あァ……?」
「その部下が犯人でもかって訊いたの。ねえ、中也、本当は判っていたでしょう。君のアリバイの無い時間に幹部を殺せて、尚且つ君の持ち物から犯行現場に残す遺留品を準備出来る人間なんて、数えるほどしか――」
「煩え!」
中也は懐から銃を抜き、ばん、と一発発砲した。爪と云う防護を失った指の先が潰れる感覚が在り、思わず悲鳴を上げる。太宰は動かなかった。弾が太宰の頬を掠めて床でばきんと跳ね返った。
目を合わせた。太宰は無言だった。ただ感情の乗らない黒黒とした目が、中也をじっと見据えていた。
「……煩えんだよ」
ガンガンと、頭が痛んだ。おまけに血の足りない所為か、足元がふらふらとひどく覚束無い。それでも、中也は其処に確りと立っていた。血反吐と共に吐き捨てる。
「彼奴が、俺を陥れようとしてたってんなら」中也は何処か現実から乖離したまま、その言葉を口にした。「それなら尚更俺がやる。手前は余計な手出しすんな」
◇ ◇ ◇
ざっざっざっと、月の明かりだけを頼りに中也は草を掻き分ける。直ぐ傍らで、さらさらと水の流れる音がする。外へ出て直ぐに目に入ったのは、見慣れた河原の光景だった。如何やら太宰は、街からさほど離れていない拷問部屋に居たらしい。そう遠くない空に、幾つもの雑居ビルが聳えている。
痛みの為か、全身の感覚が鋭敏になっていた。頬を掠める風にさえ、ぞわぞわと皮膚を刺激される。きっと中也が通った跡の草は血に染まっているのだろう。けれど中也にはそれを確認している余裕は無かった。追われている身でもあるまいし、痕跡など気にせずとも善いだろう。其処まで考えて、薄く笑う。
眼前に、ほどなく佐久間の背中が見えた。未だに部下が自分を陥れようとしたなどと云う与太を信じられないまま、中也はばん、と一発、威嚇の為に発砲した。指先に激痛が走ったが、そんなものには構っていられない。ぽたり、ぽたりと血の落ちる感覚を、歯を食い縛って耐え抜く。そう云えば、太宰は何故自分から銃を取り上げなかったのだろう。微かな疑問が、脳裏を過って過ぎ去って行く。
前を行く佐久間の足が、止まったのが見えた。振り返る。その表情は、月を背負っている所為で良く見えない。
己が部下に背負われる満月は、欠けること無く美しかった。
本来であれば、目の前の男は自らが犯人だと誤認を招くような振る舞いはしないだろう、と中也は思った。優秀な男だ。戦闘能力にも秀で、事務管理能力も申し分無い。中也は、この男になら何を任せても良いとさえ思っていた。そうでないなら部下になんて置きはしない。軍隊上がりを思わせるその寡黙さは凛として好ましく、誰よりも信頼を置いていたのだ。
マフィアなんて組織には勿体無いくらいの。
そんな男、だった。
「動くな」
そう銃口を向けながら、ゆっくりと佐久間に歩み寄る。佐久間は何も云わない。中也には、未だに信じられなかった。
太宰がこう云うことで嘘を吐かないのは事実だ。けれど、太宰だって人間だ。間違うことも在るだろう。何時かの夜を思い出しながら、中也はその可能性に賭けた。
……賭けたかった。
「近付かないで下さい」
漸く顔が見えるまでに距離が縮まった処で、冴え冴えとした声が中也を刺した。それで、中也は自分の立てた淡い仮定が完全に崩れ去ったことを知った。
「手前だったのか。何もかも」
「……そうです」
ふわふわと、脳が宙に浮かぶ感覚がした。その声が、全く現実味を伴って中也の中に入って来ない。佐久間の目が、何の感情も映さず、何時も通りの色だったのも、それに拍車を掛けたのかも知れない。チリチリと、二人の間に虫の息だけが落ちる。
「そうか」
口から滑り落ちたのは、驚くほど平坦な声だった。それを落とすことで、中也はすとん、と自分の足が地に着いたのを感じた。思ったより、衝撃が少ない。冷静に、目の前の情景を捉えられている自分を感じる。彼奴の云ったとおり、何処かで判っていたのかも知れないな、と中也は自嘲した。此奴が犯人だと、何処かで予感していたのかも知れない。ただそれを、事実として認めたくなかっただけで。
「理由を訊いても善いか」
「……在り来りな話です。この組織に入る前に、貴方に身内を殺されたんだ。だから復讐をしようと思った。けれど、上手く行かなくて」
中也の脳裏に、ポートマフィアに入ったばかりの佐久間の姿が薄く蘇る。佐久間は本部ビルの守衛をしていた。お早う御座います、と誰にも軽く頭を下げるその姿は職務に忠実で、例え警備なんて細かな職務でも杜撰にしない勤勉さが伺えていた。中也の目にはそれが好ましく映ったのだ。そのときから佐久間が中也に対して明確な殺意を持っていたのならば、それを見抜けなかった自分が愚かだったのだろうし、見抜かせなかった佐久間が優秀だったのだろう。悲しみは無かった。そこまでの決意を持ち、事実標的の部下の座にまで上り詰めたその執念に、中也は寧ろ、敬意を表したいくらいだった。
だのに。
「……それなのに。俺がそこまで憎いなら、如何して俺を最後まで陥れなかった」
「……耐えられなかったんだ」それは中也が初めて聞く、佐久間の悲鳴混じりの声だった。「貴方が苦しめられるあんな声を、一秒でも長く聞いていられなかった。貴方が苦しむのを見るくらいなら、死んだ方がマシだった」
自分の主張が支離滅裂だと、佐久間は果たして判っているのだろうか。頭上に輝く満月が、やけに大きく見える。
「……そうか」
銀色の月を見上げながら、中也はぼんやりと頷いた。本心から、悪いことをした、と思った。部下の規範となるべき処を、最期に上司のそんな情けない声を聞かせて了った。それだけが、唯一の心残りだった。
風が凪いでいた。
中也はシリンダーを回し、込められた弾を確認する。爪を剥がれた指が痛み、力が上手く入らない。それでも何とか苦労して、撃鉄を起こして銃を構える。照準が、微かに震えた。
佐久間はその手の銃を構えない。
「そろそろお別れの時間だ、佐久間」
「中原さん、お願いです、最後にひとつだけ……」
懇願するような声に、中也は一瞬指を止める。ポートマフィアの一隅として、愚か者の弁解は聞くべきではないのだろう。躊躇わず引き金を引くべきなのだろう。然し中也はそれをしなかった。
それが罠でも良かった。いっそ罠なら良かった。
けれど男には、中也を騙して引き金を引く様子は無かった。ただ、泣きそうな顔で笑うと云う器用な芸当をやってのけた。まるで引き攣れたように、その頬が歪む。
「あの男には気を付けて下さい。あれは悪魔のような男だ。あの男を、貴方の側に置いて逝くことだけが心残りだ」
「あの男?」
「だ――」
佐久間がそれ以上言葉を紡ぐことは無かった。ぱぁん、と何処か遠くで銃声が鳴り響いた。
中也の目の前で、血がぱっとしぶいた。
佐久間の体が、糸の切れた人形のようにどさりとその場に崩れ落ちた。中也は思わず駆け寄り、その体を抱き起こす。佐久間は既に事切れていた。かっと目は見開かれたまま、その額に空いた穴からどくどくと命だけが流れ出す。溢れるように流れ出る血が、生暖かく中也の下肢を濡らす。
「あーあ、だから云ったのに」
中也は反射的に振り返った。其処には、ゆらりと蓬髪の男が立っていた。空気を裂く鋭利な瞳。空に浮かぶ月のように冷えた表情。その手には何も持っていない。佐久間の頭部への着弾の角度から、狙撃点は其処ではないことが知れる。部下に殺らせたのだ。その手の合図、一つで。
「べらべらと、余計なことを喋るからそうなる」
「手前」
かっと頭に上る血を、自分でも驚くほど制御出来なかった。激情に任せて太宰の胸倉を掴み上げる。視界がぶれ、ばきりばきりと周囲の地面が割れ始める。異能の制御をしている余裕は無かった。
然し太宰はその天変地異を意にも介さず、心底面倒臭いと云った風に、中也の手をぱしんと払った。
「君もだ、中也。何を躊躇うことが在ったの。さっさと撃てば善かったでしょう」
中也は激高した。感情のままに太宰を殴り付ける。
「痛ったいな……」
その苛立った声に、は、と中也は我に返った。太宰の頬が、首領の部屋で見たときと同じように赤く腫れ上がっていた。
自分は。自分は一体、何をしているのか。
地面に倒れ込んだ太宰が、頬を押さえて立ち上がった。まるで何事も無かったかのように、ぱん、と外套を一払いする。
「あんな奴どの道殺すのに、何そんなに怒ってるの?」
正論だった。判っていた。佐久間は敵で、太宰が正しい。
頭で、判ってはいた。
荒い息のまま、中也は煙草を取り出した。がちがちと、ジッポを擦るが怒りに震えた手では中々思うように火が点かない。苛々と舌を打つと、横からすっと火が差し出され、煙草の先に灯りが灯った。見れば太宰が素知らぬ顔で、ポケットにライターを仕舞う処だった。月が雲に、一瞬隠れる。
「……俺は、手前の、そう云う処が嫌いだよ」
煙と共にゆっくりと、抑えに抑えた憎悪を吐くと、太宰は虚を突かれたようにきょとんとした顔を見せ、それから冷え冷えとした月明かりの下で、花の咲くように笑った。
「奇遇だね。私も君の、そう云う処が大嫌いだ」
