【再録】名もなき柔き茨の枷



「市内に逃亡の拠点を置いていると思われますが、それ以上の動向は掴めていません」
 太宰は不機嫌極まりない、と云った態度を隠すこと無く、報告書を読み上げていた。
「尚、三日前に郊外で、昨日は駅前で、それぞれ中原及び佐久間を目撃、奇襲を仕掛けていますが、何方も失敗に終わっています」
 あの夜の明けた翌日から、何故だか太宰が中原中也捜索の陣頭指揮を命じられていた。幹部候補特権を盾に配置換えを要請しようにも、首領直々の命令では従う以外の選択肢は無い。犯人探しやその証拠集めをしようにも、自由に動くことすらままならなかった。
 序に云えば此処は首領である鷗外の執務室で、太宰の目の前には鷗外が立っていた。太宰が報告書からちらりと顔を上げると、鷗外はにこりと続きを促す。
「それで?」
「……中原は、未だ横浜市内に潜伏しているようです」
 太宰がそう云い終わらない内に、鷗外が手を振り被った。
 ここ数日で何度も繰り返されたその行為に、太宰はびくりと反射的に身を竦ませる。ほどなく、ぱん、と甲高い音が鳴り、太宰の視界がブレた。じわりと頬に広がる、鈍い痛み。頬を張られたその衝撃で、報告書を何枚か取り落とす。
 殴られるよりも屈辱的なその痛みに、俯いて頬を抑える。ここ数日で、打たれることにもすっかり慣れて了ったのか、気付けば反射的に歯を食い縛っていた自分を、太宰は内心悪し様に罵った。きっとまた、真っ赤に腫れているに違いない。

 実を云えば、太宰には凡そ犯人の目安が付いていた。
 中原中也と云う男は、マフィアの幹部と云う立場に在りながら、下級構成員の話にも公平に耳を傾け、決して権力に阿ってその目を眩ませることは無い、その性質は気さくで闊達と一般構成員の中では専らの評判だったが、それは必ずしも彼が馴れ合いを好むと云う意味とイコールではない。彼は飽くまで自分の仕事の一環として、一般構成員との関係作りを位置付けている。そのことは、どれだけ親密になった相手であっても、自分の私事には一切立ち入らせようとはしない点に如実に表れ出ていた。例え酒の席をともにしようと、余程信頼を置いた者でなければ、中也が自分のプライベートを垣間見せることは一切無い。況して、それが私室への立ち入りともなれば尚更だ。彼は気に入りの女だって、滅多に自室に連れ込まない。
 そしてその部屋の鍵は、中也自身がその手で管理しているのだ。太宰は、中也がセキュリティの管理を怠ったとは疑っていなかった。だからこそ、犯人は限られて来る。
 詰まる処、中也の私室には、中也と、中也の最も信頼の厚い部下である佐久間と、無断で脱出経路を作っていた自分しか出入りをしていないのだ。勿論脱出経路の整備に限らず業者の出入りは在っただろうが、その場合は必ず三者の内の誰かの同伴が在る筈だった。それに複数の中也の私物を、その持ち主に不自然に思われない程度に少しずつ抜き出せる余裕の在るほど、長期間出入りしている業者は皆無だ。
 そして中也は犯人ではなく、太宰は自分も犯人ではないことを知っている。三人の内二人は犯人ではない。
 だったら答えは明白だった。
 問題は、証拠の無いことだ。
 太宰としては、証拠など無くともさっさと処分して了えば善いと思っていたが――然しそれはきっと、中也の不信を盛大に煽ることだろう。あの男は、馴れ合いこそ好かないものの、一度信頼すると決めた相手はとことんまで信頼する。マフィアの幹部ともあろう男が、まるで生まれたばかりの雛のように他人を疑うことを忘れるのだ。今だって、こんなにも明白に答えが転がっていると云うのに、この瞬間も呑気に地下道をあの男と二人で歩いているに違いなかった。
 だから太宰は敢えて、中也に佐久間を同伴させた。佐久間がさっさと中也に牙を剥いて、そうして中也に殺されて了えば善いと思った。然し中々如何して馬脚を表す様子が無い。中也に罪を擦り付けるなんて面倒臭いことをするくらいなら、さっさと中也を撃ち殺して了えば善いのに。
 其処まで考えてうんざりとすることを、太宰はここ数日で幾度と無く繰り返していた。それが出来ないから、きっとこんなややこしい手を選んでいるのだろう。まったく、何処まで行っても中原中也の持つ「力」と云うのは厄介だった。

「で、太宰くん、君、これから如何する積り?」
 鷗外の底知れない、闇の沈み込む泥のような一言が、一瞬で太宰の意識を執務室に引き戻した。
「……如何、とは」
「おや、君らしくもない愚鈍な質問だね」
 鷗外はくるりと踵を返すと、椅子に腰掛け、にこりと笑みを深める。浮かべる表情に反して冷酷に光るその瞳は、獲物を狩る爬虫類そのものだ。
 要は太宰から「中也を捕らえる」と云う確約を引き出したいのだろう、この人は。恐らく最初の夜に中也を逃したことも、捜索の指揮を取りながら逃亡の手引をしていることも、全て見透かされている。見透かした上で、敢えてそのことには言及せずに、中也を捕らえろと云う。そして鷗外がこうも回りくどい云い回しを使うと云うことは、捕らえられなかったときの担保も差し出せと云うことだ。
 却説、如何切り抜けようか。太宰がゆっくりと口を開き掛けた瞬間――。
 どん、と建物全体を震わす爆音が響いた。部屋の外だ。
 ほどなく、「侵入者だ!」「逃すな!」と俄に騒然となる。が、それも一分掛からずに収束し、辺りが静寂に包まれる。
 太宰は動かなかった。鷗外も動かなかった。恐らく両者とも、思い浮かべた姿は同じだっただろう。
 ばん、と入り口のフレンチ・ドアが開け放たれる。
「首領、中原です。入ります」
「……莫迦なの?」太宰は思わず呟いた。
 其処には逃亡中にも関わらず、律儀に名乗りを上げた、見慣れた相棒とその部下の姿が在った。

「首領。お話が有ります」
 この莫迦は、遂に正気を失って特攻でもして来たのだろうか、と云う太宰の一瞬の思案を否定するように、中也の声には一本芯が通っていた。鷗外は満足そうに頷く。
「善いよ。席を外させよう」
 ぱちん、と鷗外が指をひとつ鳴らすと、後ろに控えた近衛兵達が、さっと音も無く退室して行く。敵を前に首領を一人残すと云うのに、その間に一瞬の躊躇いも一言の無駄口も無かったことが、彼らの練度の高さを示していた。そう云えば、彼らは先ほど部屋の外で騒ぎが在ったときも微動だにしなかったな、と太宰は目の端でその姿を捉えながら、ちらりと思う。若し鷗外の首級を狙うとすれば、彼らの存在は中々に厄介だ。
「中原くん。君ならきっと来ると思っていた」
 中也は鷗外を見、それからちら、と太宰を見遣った。と、その目が僅かに見開かれる。如何やら太宰の頬の腫れを目にしたようだった。ぴくり、と帽子の下の形の良い眉が顰められたのを見て、太宰は慌てて、大丈夫だから、と鷗外に見えない角度でくいっとジェスチャアを伝える。大丈夫だから、頼むからその人に隙を見せるような莫迦な真似は止めて呉れ給えよ。
 その意図が通じたのか如何か判らなかったが、中也はその動揺を表に出すこと無く、脱帽し、ゆっくりと鷗外の方へ向き直った。
「首領。二つ、質問させて下さい」
 太宰はその姿を見て、軽く息を飲んだ。中也の、日を当てれば透き通る色素の薄い髪が、偽装の為なのだろう、真っ黒に黒染めをされていたからだ。濡れた鴉の羽の色をした髪の下で、目だけが鋭く光る。
「構わないよ。誰であろう、中原くんからの質問だ。質問することを赦すし、嘘偽り無く、真摯に答えることを約束しよう」質問一つにも、鷗外は周到に重圧を掛ける。獲物を逃がさないよう、その足元を絡め取る。「私の貴重な時間を潰すからには、嘸や有意義な質問なのだろうね?」
 一般の構成員なら、その重圧に耐え切れずに失禁でもして了う処だ。然し流石に幹部まで上り詰めているだけあって、中也はぴくりとも動じない。
「首領が俺の、処分命令を出したと云うのは本当ですか」
「ああ」なんだそんなこと、と鷗外はふっと息を吐いた。「本当だよ」何でも無い風に、さらっと答える。
「首領は。……首領は、本当に俺がやったとお思いですか」
 今度は、血の滲むような声だった。恐らくこの男は、それだけを確かめに此処へ来たに違いない。そんな声。
 その中也の目に宿るぎらりとした光を見て、鷗外はふふっと笑って中也へと手を伸ばした。中也はじっと動かない。太宰は外套の影で、がちんと銃の撃鉄を起こす。同じ音が、中也の背後に控える佐久間からも聞こえた。
 鷗外は二人分の殺気をものともせず、愛おしげに中也の黒く染まった髪を払い、その頬を撫でた。
「まさか」
 その答えに、びくり、と体を震わせたのは中也ではなく寧ろ太宰の方だった。『まさか』? ではこの人は、中也が犯人だと思ってあの命令を出したのではないのか。
 太宰の微かな動揺を黙殺して、鷗外は言葉を続ける。
「君はそんなことを出来る人間じゃない。それは私が良く知っているよ。君は驚くほど――」鷗外の指が、中也の首輪に掛かる。「私に忠実だ。そうでしょう?」
 くい、と鷗外に軽く首輪を引かれ、中也が息を詰めるのが見えた。互いの吐息の掛かる距離で、鷗外に急所を晒していると云うのに、それでも中也は動かない。
 執務室に、ぴり、と緊張が静寂として走る。
「だったら」中也が囁くように、その言葉を口に乗せる。太宰までその音は届かなかったが、唇がゆっくりとそう動いたのを太宰の目が捉えた。「だったら如何して」
「君を捕らえるべきだと、そう判断したからだ」
 鷗外は事も無げにそう口にする。
「君が捕まれば善し、これ以上の無駄な被害は防げる。万一君が逃げた場合は――裏切りの疑い在りとして処断出来る」鷗外の指が、すっと中也の首筋を撫でる。「まさか、此処まで見事に逃げ切られるとは思わなかったんだけど、ね」
 ちら、と向けられた鷗外の絡み付くような視線に、視線を交わし合う二人を凝視していた太宰は思わず目を背けた。太宰にとってそれは窮策だった。鷗外から出たのは処分命令だ。生かして捕らえろとは、彼は一言も云わなかった。それが故意だったのか情報漏れだったのか――結局は恐らく前者だったのだろうが――太宰にはあの時点では判別が付かず、また故意だったとしてその鷗外の真意も読み取れなかった。その中での、苦肉の策だ。マフィアの幹部なんてものは、他の組織からのみならず、組織内でも敵を作り易い。仮に生け捕りが命令だったとしても、大義を与えればうっかり事故に見せ掛けて殺して了おうと云う輩は五万と出て来るだろう。生死問わずなら尚更だ。
 中也ならそんな連中、簡単に退けて了うだろうが、それでも遭遇率は下げるに越したことは無い。
「却説」
 ぱっと中也の首輪から手を離し、鷗外はその場でくるりと一回転した。手を合わせ、まるで手品の種明かしをするかのように、妖艶に笑う。
「そろそろ時間切れだよ、中原くん。気は済んだかい?」
 はっと中也が我に返る。先ほどまで人の気配を感じなかった部屋の外には、殺気が充満していた。
 鷗外が予め、呼んでいたのだ。
 太宰は銃を握り締め、臨戦態勢に入る。恐らく、いきなり蜂の巣になることは無い。何故なら室内には、鷗外と太宰も居るからだ。自分達の首領に中るかもしれない状況で、無闇に発砲する莫迦は居ない。然し、突入されて狙いを定められれば、流石の中也と云えども、多勢に無勢は免れない。
 中也の判断は早かった。
「佐久間!」
「はっ!」
 中也の合図と同時に、佐久間が懐から筒状の何かを取り出し、それを床へと叩き付ける。同時にその物体から勢い良く煙が吹き出した。
 煙幕だ。
 その煙に紛れ、ばたんと乱暴に扉の開く音が聞こえた。部屋の外からは未だ撃って来ない。代わりに、がしゃんと派手に窓硝子の割れる音が響いた。まさか地上から遥か離れたこの上階で、窓から飛び降りるなんて莫迦な真似はすまいと、完全に油断していたのだろう。若しくは鷗外が態と逃したのか。薄っすら煙の残る向こう側には、出口の昇降機を固める構成員の姿が見えた。
「……其処で私を狙わない処が、君の甘い処だ」
 煙幕の完全に晴れた処で、鷗外の呟きがぽつりと聞こえ、良く云う、と太宰は独り言ちた。例えあの状況で鷗外を狙った処で、その首級を取れないことくらい、下っ端風情の莫迦でも判る。況して莫迦でない、あの男なら尚更だ。

「却説、太宰くん」
「……何です?」
 獲物を逃した直後とは思えない、喜色を含んだ声が太宰を呼んだ。白衣の裾が、少女のスカートよろしくばたりと閃く。その着衣の色に反して、太宰を捉える鷗外の目は底の無い闇を含んだように昏い。
「先日の夜に、中原くんを逃したのは君でしょう。責任を持って、この件を解決し給え」
 出来るね? と疑問の形を取ってはいたが、有無を云わせないそれは正しく命令だった。太宰は唾を飲み込む。嫌な感じに、空気が軋んだ。
「解決、で良いんですね? 処分じゃなくて」
 鷗外は答えない。ただ、薄く笑うだけだ。
「……判りました。私兵を少しお借りします。マァ、努力はしてみますよ。……それと一つ、私からもご質問が」
「善いよ、聞こう。何かな?」
「犯人の目星が付いているのなら、如何して直ぐに射殺しないんです。疑わしきは罰するべきだ」
「んー」
 太宰が侵入者の去って行った後を指し示すと、鷗外ははて、何のことやらと無邪気に首を傾げた。そのままふいと、天井に視線を移し、床を見、白金燭台を見、扉を見て――最後に、太宰のことをじっと見据えた。
「きっとね、太宰君。君も同じことを考えると思うよ。私と同じことを、私と同じようにね」
 それは何だか、言外に、君は私と似ているのだよと云われているようで不快だった。
 きっと図星だったから、尚更だった。

「そうだ、太宰くん」
「……未だ何か」
 立ち去ろうとした太宰の背に、鷗外の声が掛かる。途端、太宰はぐらりと眩暈を覚えた。先程までの緊張感とは異なる、妙な感覚に襲われる。まるで、背中から手がずぶりと入り込んで来て、胃の腑をごそりと掴まれる感覚。その不快な感触に、じわりと汗が滲む。上手く息が出来ない。
「何、ほんの老婆心と思って聞いて欲しいんだけどね」
 その声音は何処までも柔らかく、太宰の内蔵を絡め取る。
「君は未だ若い。私を謀ろうとするのなら、もうちょっと経験を積んで、色々なことに思いを巡らせられるようになってからにしなさい。……と、説教臭く云うと、若い人は反発したくなるのかも知れないけれど」
 ぞわぞわと、悪寒が全身を走った。何時ものように、飄々と振り返ることが出来なかった。これ以上此処に存在すれば、きっと自分は体内を余すこと無く解剖されて死んで了う。そんな予感。
「次は精々、失敗しないことだ」
 見えない手が、遂に太宰の首に絡み付いた。それはじわじわと、然し確実に、太宰の喉を締め上げる。ひゅ、と喉から出る空気が掠れて、太宰は自身の息を絞った。ぎゅっと閉じた瞼の裏に、微かにちらつく影がある。いいぜと笑って、何の疑いも無く自分に身を預けた馬鹿な相棒。

 中也。

 太宰はばちりと目を見開くと、自分の体に絡み付く手を半ば強引に振り切った。失礼します、と振り返ること無く足早に部屋を後にする。
 鷗外は何も云わなかった。
 ただ柔らかい爪痕だけが、太宰の心臓の奥深くに、確かに刺さった感触が在った。

     ◇ ◇ ◇

 中也は自身の縄張りに在る宿で、ベッドにその身を沈めていた。慣れない黒髪が、シーツの上でうねる。
 古びた安宿だ。この夏横浜は三十七度の最高気温を記録したと云うのに、エアコンは愚か家電用品の類はただの一つも置いておらず、廊下の蛍光灯も時折ばちばちと点滅している。快適さや設備の充実度と云う点では下の下だろう。然しそれ故に、監視カメラや電子的な宿泊記録も無く、足の付くような情報の漏洩を心配する必要が無い。それを理由にこの安宿を利用する客は少なくなく、今の中也もその一人だった。
 建物が古いと云うのも魅力的だった。襲撃の予兆が、先ず音として建物を伝って知れる。そして襲われれば、即座に壁を破って逃げることが出来る。最新鋭の流行りの宿泊亭では、中々こうはいかない。
 然し宿の主人にこれ以上迷惑を掛ける訳にはいかないので、出来ればそれは最終手段に取って置きたかった。
 中也はひとつ、寝返りを打つ。
 数日前、首領の元へ殴り込みに行った後に転がり込んで来た中也を見て、宿の主人は何も云わずに部屋の鍵を投げて寄越した。此処は中也の縄張りだ。であれば潜伏場所として真っ先に疑われることは必至であり、事実中也が姿を隠してからきっと何度も中也の行方や事情を聞かれたろうに、それでも中也に部屋を貸すと云う。中也は一度だけ、主人に深く頭を下げた。済まねえ。そう云うと、主人は振り返りもせず不機嫌そうに一言、客が頭を下げる必要は無え、と来たものだから、中也は黙って鍵を握り締めるしか無かった。手袋越しに掌に刺さった鍵の感触は、今でもありありと思い出せる。
 今は、部下である佐久間を主人の見張りに付けていた。中也に宿を貸したことで、宿の主人に不利益が――もっと云えば、攫われて嬲られた挙句に海に沈められるようなことが在っては申し訳が立たない。
 中也は呻く。自分が当然に行使していたマフィアの力を一晩で失って、人一人守るのさえ神経を使う。その現状の、何もかもが歯痒かった。

 太宰はあの調子では、犯人探しは上手く行っていないのだろう。アレが幾ら優秀とは云え、首領の直下で動かされていれば、自由に身動きは取れはすまい。
 とすると、次に取れる自分の行動は何だ。じっと目を閉じる中也の脳裏に、首領の言葉が蘇る。
 首領は「君はそんなことを出来る人間じゃない」と云った。中也が犯人ではないと知りながら、態と中也に刺客を放ったのだ。何の為に? 中也を捕らえ、これ以上幹部を殺させない為に。犯人の目的が中也への罪の擦り付けだとすれば、中也が自由の身でない状態で犯行を犯すことは、緩やかな自殺行為に繋がる。だったら中也を捕らえた後で、ゆっくりと犯人探しをすれば善い。その理屈は一見、筋が通っているように見える。
 だったら、と中也は思う。だったら、何故処分命令だったのだろう。捕縛命令で善い筈だ。首領はああ云ったが、その言葉の裏にはもう一つ何か意図が在るように思えてならなかった。いまいち首領の真意が読めない。
 中也が死んでも善いと思った? それも恐らく在るだろう。このまま幹部を大勢失い続けることを、中也一人の命で止められるのなら、中也だってそうした筈だ。然しそれでは、根本的な解決には至らない。中也を犯人として処断すれば、本当の犯人を処断出来ないのだ。
 一体、首領は何処まで読んでいる。中也は身を起こし、サイドテーブルに投げ出した緑灰色の箱に手を伸ばした。上手く思考が纏まらない。苛々と取り出した煙草に火を点け、肺に煙を入れる。
 仮に。仮に中也が逃亡することまで計算に含まれていたとしたら。そうすれば差し向けられたのが、中也を本気で殺す積りの無い雑魚部隊であったことも頷ける。中也の異能を以てすれば、あの程度簡単に退けられることは、首領が一番良く知っている。本気で中也を殺害しようと云うのではなく、一種のパフォーマンス。誰かに圧力を掛ける為の。
 詰まり、疑いを掛けられている、自分がこの件について責任を持って始末を付けろと云うことか? 此処で始末を付けられないようなら、お前は組織には要らないと。中也が犯人を見つけられれば善し、出来ずに大人しく処分されるのであればそれでも被害が防げて善し。何方に転んでも、首領に損は無い。そう云う圧力。
 それが一番、正解に近い気がした。だとすれば、中也が正しい犯人を見つけなければならない。中也は嘆息した。
 そもそも、中也の寝室に忍び込み、所持品を盗み出せる人間と云うのが、中也にはとんと思い浮かばないのだ。あの部屋に入ることが出来るのは、中也と佐久間だけの筈だ。中也の私物を盗み出せる隙など凡そ無いに等しい。……まあ、太宰の奴は勝手に入っていたようだったが。
 ……まさか。

 中也の思考を中断したのは、外から響いた轟音だった。同時に鳴り出す、携帯の音。
『中原さん。襲撃です』
 通話釦を押すや否や飛び込んで来た佐久間の声に、中也は素早く立ち上がり、煙草を躙って外套を羽織った。部屋を出、退路を確認する。敵は未だ建物内には侵入して来ていない。壁は破らずに済みそうだった。「被害は」
『今の処、我々だけを狙って来ているようです。周辺の人々に被害は在りません』佐久間の後ろから、ばたばたと慌ただしい音が聞こえる。追われているのだろう、その喧騒は街の外のものだ。宿からは出ている。『裏手から逃げて下さい。私はこのまま、追手を引き付けて逃げます」
「ああ」
 通話を切って建物の裏から出ると、日が丁度頭の真上に来た処だった。昼日中からご苦労なこった。中也は外套を翻し、路地を駆けた。

 つけられている、と気付いたのは、宿を出てから数分も立たない内だった。姿は見えない。だが確実に気配だけは感じるそれは、初日の夜に襲撃して来た連中とは比べ物にならないほどに統率が取れていた。ここ数日で中也が網羅した用水路や地下への経路を、静かに、だが着実に、中也の侵入を防ぐように兵が配置されている。この様子だと恐らく兵だけでなく、指揮官も相当頭の切れる奴と見て良かった。
「チッ、面倒だな……」
 かんッと街角の空き缶を蹴飛ばして、中也は路地を右へと曲がる。こう的確に配置されて了っては、何処かに一時的に身を隠してやり過ごすと云うことも出来ない。身を隠せそうな場所への経路を取ろうとする度、立ち塞がる敵の気配を、或いはその点を狙う狙撃手の視線を感じる。一見敵と遭遇せずに上手く逃げているように見えて、その実かなり周到に、逃走経路を一箇所に絞り込まされていた。
 誘い込まれている。
「……気に食わねえな」
 そうしてそのまま走った先は、コンテナの積み上がった倉庫街だった。両脇を倉庫に阻まれた、袋小路に追い詰められる。目の前には、果てまで広がる澱んだ海。
 ざっと中也が足を止めると、それに呼応するかのように黒服の男達が次々に姿を現した。今まで何処に潜んでいたのか、その数は十や二十では利かない。自分一人に大袈裟なことだ、と中也は初めて彼らの姿をまともに目にした。一揃えの銃器、高い練度、一言も無駄口を叩かないその態度。恐らくは首領の私兵だろう。一糸乱れぬ連携で中也の退路を塞ぐその姿に、中也はじっと瞑目する。
 太宰は逃げろと云った。犯人探しは此方でやるから、と。然し中也の疑いは、一向に晴れる気配は無い。であれば、自分が此処で取れる手段は、全力で抵抗するのみだ。
「……良いぜ。全員返り討ちにしてやるよ!」
 潮風が頬を掠めた。見慣れない自分の黒髪が目の端で揺れる。自分の異能を以てすれば、敵が何人であろうと問題では無い。外套を脱ぎ捨て、意識を集中させる。三、二、一。
 かっと目を開き、息を絞る。上がる体温。血管のぎゅっと収縮する感覚。視界に入る、世界が広がる。
 異能発動。
「『汚れつちまつた、悲しみに』――!」

「『人間失格』」
 その声と共にぱし、と横から腕を捕まれ、ずるりと急激に体が重たくなった。あまりにも自然に、中也の意識の外から不意を突いた攻撃に、咄嗟に反応することが出来ず、ぐらりと体を傾ける。全身に鉛の張り付くような感覚。それと同時に、自分の体に起きた違和感に気付く。
 異能が発動しない。
 此奴、何時の間に接近していやがった。傾ぐ視界の中で横へ視線を流すと、ガスマスクを装着した男が確りと中也の腕を掴んでいた。体躯は痩身、髪は蓬髪。何処か見覚えの在るシルエット。
 マスクの奥で、其の瞳がにいと笑った。
 この手際。
 中也の脳裏に、相棒を名乗る男の顔が浮かぶ。中也は一瞬、心の底から後悔した。自分がこの距離の接近を無意識裡に許すほど、この男に気を許していたことを。
「最初から、こうしておけば善かったんだよね。無駄足踏ませて御免ね、中也」
「太宰ぃ……ッ!」
 中也が叫ぶのと、無言で中也を取り囲んでいた黒服達から瓦斯が撒かれるのは同時だった。視界が白く霞む。如何やら刺激性の在る瓦斯ではないようで、目や鼻の粘膜が痛むことは無かったが、吸えば意識の落ちることは明白だった。それが判っていながら、中也は自分が異能発動の瞬間に飲み込んだ息を吐き出すことを止められない。何の準備も心構えも無く息を止めていられる時間なんてものには限度が在る。ガスマスクの男――太宰の手を振り払うまでは良かったものの、それ以上は体に力が入らず、中也はがくんとその場に膝を突いて了った。
 ぎり、と歯を食い縛ると同時に、長身のひょろりとした影が中也の上に落ちる。中也の体は動かない。目の前に立つ男が、一体どんな顔をして自分の前に立っているのか、中也には全く判らなかった。
「だざ……これは……ったい……んの……」
「あれ、嘘。未だ動けるの? やだなあ、鯨も四秒で昏倒、なんて梶井くんが云ってたから信用したのに、騙されちゃったかな」
 頭上で太宰のからりと笑う気配が在った。がっと髪を掴まれ、無理矢理に顔を上げさせられる。あーあ、髪、こんなに黒くしちゃって、折角の綺麗な色が台無しだ、と太宰が嘯く。
「てめ……ぶっ、ころ……」
「あは。良いね、相棒のことをこんな目に遭わせる私のことなんて、殺して呉れて構わないよ」太宰はそう云ってマスクを外し、何でも無い風に笑った。その声は、あの日の夜、自分を選べと懇願して来た男のものと同一とはまるで思えない。
 中也には、何が何だか判らなかった。あの夜、この男を信用すると決めた、自分の判断は間違っていたのか。太宰は結局、俺を犯人だと断じたのか。それとも首領に云われて仕方無く? それにしては、嫌に楽しそうだ。矢張り、自分を捕らえに来たのだ、この男は。
 吸い込んだ瓦斯の所為で曖昧になって溶けた思考が、軈て一つの結論に辿り着く。

 自分は此処で、死ぬのか。

「中原中也。君を同胞殺しの疑いで捕縛する。なに、直ぐには殺さないから安心しなよ。ちょっと痛い目は見て貰うかも知れないけど」
 遠退く意識の中、軽薄に響く太宰の声に、「御免ね」と云う言葉が微かに混じったような気がして、中也はゆっくりと意識を手放した。
 信頼したことが間違っていたと云うのであれば、その信頼に殺されるのも、存外、悪くはないのかも知れない。
3/6ページ
スキ