【再録】名もなき柔き茨の枷



「中原さん、お早う御座います」
「ああ」
 寝室から執務室に向かう途中で、部下を拾う。昨日の拷問もその後の処理も、全てこの男に任せきりだったが、その疲れ一つ見せず今日も時間どおりに中也を迎えに上がるその姿は勤勉そのものだ。中也は何処かで、休暇を遣らないといけないな、と思った。何時も無理ばかりさせている。
「昨晩はお電話に出られず、申し訳御座いません」
「ああ、俺も悪かったよ。いきなり客人が来たもんだから、後始末を頼もうと思っただけだ」あの後、散らかった死体と深夜とは云え街中で銃をぶっ放したことへの後処理が必要だった。中也は、先ず真っ先に頼りにしている部下に電話を掛けたのだが、生憎と繋がらなかった為、別の部下に回したのだ。「悪いな。寝てる処を起こしたか?」
「……いえ、起きてはおりましたが、少々所用が在りまして」
「そうか」
 云い辛そうな部下にそれ以上は追求せず、中也は続けろ、と手を振った。特段、部下のプライベートに口を出す積りも無い。
「今日は特段、首領からの指令は入っておりません。商店街からもトラブルの報告は無く――」
 執務室の扉を開けた部下の言葉がぴたりと止まった。
 何事かと中也も執務室を覗き込むと、其処には太宰が倒れていた。鍵も掛かっていたのに一体如何やって入り込んだのか、なんてのは最早この男には無駄な疑問なのだろう。俯せに倒れた体の傍らには錠剤の瓶が一つ。意識を失った拍子に取り落としたのだろう、深紅の絨毯に白い錠剤が鳥の餌のように散らばっていた。
 太宰が中也の部屋で薬物自殺を図るのは、これで三度目だ。
「おい太宰、手前何時まで寝腐っていやがる」
 目を伏せる部下を尻目に、中也はその死骸よろしく眠る華奢な体を爪先でごろんと転がした。それからなるべく胃の辺りを狙って、力任せに蹴り上げる。
 途端、ばちりと意識を取り戻した太宰が目を見開き、うっと真っ青になって腹と口を抑えた。が、その甲斐も虚しく、くぐもった嗚咽と共にびちゃびちゃと嫌な音を立てて胃の中の物を吐き戻す。部下があーあ、と云う顔で頭を押さえた。
 上等な絨毯が、一分後には吐瀉物に塗れていた。それでも収まらなかったのか、苦しげに呻く太宰の口からだらだらと垂れ流された胃液だか唾液だかが、太宰の服を汚す。
「あ……? お、はよ……、中也……?」
「お早う、太宰」にこ、と中也は微笑んだ。未だ目の焦点の定まらない太宰の髪を引っ掴み、その口元を柔らかい絹のハンカチで拭って遣る。「俺の部屋が死体安置所じゃねえのは知ってるか?」
「だって、此方の方が死んだ後の処理が楽だと思って」太宰は寝惚けているのか、それとも昨日の酒が未だ残っているのか、熱に浮かされたように呟く。「私が私の部屋で死んでも、誰も気付かなくて、きっと死体が腐る頃にやっと発見されるんだよ。そのときには顔なんてぐずぐずのぐちゃぐちゃで蛆が沸いちゃってたりして、誰だか判別が付かないんだよ。そんなの中也だって嫌でしょう……」
「いや、別に……?」
 太宰がどんな風に死のうとさして興味は無かった。中也が太宰の頭を放り出すと、うーんと呻きながら再度意識を手放そうとするので、ぺちぺちと軽くその頬を叩く。
「待てよ。手前のゲロの始末を俺の部下に遣らせる気か」
「いやあ、佐久間さんなら優しいから遣って呉れるって……。ね、佐久間さん」
「恐れながら」佐久間と云うのは中也の部下の名前だった。その佐久間が、如何にも云い難そうに、然し沈痛な面持ちで、厳かに答えた。「裏の川のドブ浚いの方が幾らかマシです」

「また死体が上がったらしいから、今日はそれの検分に行きたいと思います」
「死体ィ?」
 佐久間に怒られ、散々喚きながら服を着替え、自分の吐瀉物を片付け、ファブリーズを撒いた後に、「そう云えば朝食が未だだった」と太宰は呑気にも朝食を中也に無心した。佐久間が用意したトーストにいちごジャムを塗りたくりながら、太宰は平然とそれを齧る。うへ、と中也は口をへの字に曲げた。よく吐いた後にものが食えるな、とも思ったし、ジャムを塗りながら死体の話をすんな、とも思ったが、どうせ云っても意味は無いのだろう。中也も負けじとトーストにバターを塗りたくる。
 別に、太宰は中也の部下ではなかったから、面倒を見る義理も、朝食を共にする必要も無かった。然し以前、「私、自炊が出来ないんだよねェ」と云いながら太宰が持って来た『元気水炊き』などと云う代物を口にしたことの在る中也には、如何してもその無心が断り切れなかった。水炊きでラリって死なれるくらいなら、乞われた食の面倒くらいは見て遣ろうと、そのとき強く決意したのだ。
 あれはやばい。
「そう、死体。昨日の夜から行方不明になってた、幹部の……ええと、秋葉サン。例によって『幹部殺し』っぽい」
「またか」
 中也は嘆息した。『幹部殺し』はこれで五件目だ。無能が幾ら死のうと……とは中也が昨夜云った言葉だったが、こうも立て続けに起こるとなると、少しばかり厄介だった。幹部が居なくなると云うことは、その能力の高低は如何であれ、縄張りの管理が一時手薄になると云うことであり、ひいては組織の力の低下にも繋がる。一般構成員に動揺を招くことも在るだろう。中也としては、一々突っ掛かって来る面倒な幹部連中が消えて呉れるのは善いことだったが、上層部に牙を剥く存在が同じ組織内に潜んでいると云うのは、組織の一員としてうかうか喜んでもいられない状況だった。
 然し、その検分に太宰が行くと云う。中也には正直、そんな些事に太宰が出向くのが意外だった。内心首を傾げながら、トーストの最後の一口を飲み込み、珈琲に手を伸ばす。
「検分なんぞ、他の奴らに任せときゃ良いんじゃねえのか」
「んー、まあ、報告じゃ上がって来ないこととか、実際に見ないと判らないこととかも在るだろうし」
「まあ、それは在るかも知れねえが」
 中也は渋々ながらも頷く。然し仕事嫌いを公言している太宰が積極的に動くと云うことが、如何にも自分の中でしっくりと来ない。
 ただ、その発言自体は至極最もな内容だった。幹部は基本、実務を部下に任せ、その報告を受け取って次の指示を出すことを主な役割とする。けれど、矢張り現場に足を運ばないと判らないことも多い。この件は管轄ではない為に、中也は其処まで入れ込んではいなかったが、中也が担当だったなら、きっと同じく現場に足を運んだだろう。
「まあ、私は良いんだよ。暇だし」
 ぼろぼろとトーストの食べ滓を溢しながら、太宰は一人頷く。何時もなら行儀良く食えと叱り飛ばす処だったが、まあ、今日はどの道絨毯を替えるから良いか……と遠い目で中也はそれを見守った。ソファには溢すなよと云い聞かせ、本日二枚目のハンカチを、口元を拭うのに使って遣る。
「そうだ、中也は今日は何か予定在るんだっけ。首領から呼び出しとか、掛かってないよね?」
 その太宰の問い掛けに、中也がちらりと後ろに控えた部下を見ると、部下は微かに首を横に振る。それで、今日は特段の予定の無いことを確認する。
「なら、俺は縄張りへの顔見せだ」
「ふぅん」太宰はトーストを食べ終え、ぺろりと食べ滓の付いた指を舐めながら、ひどく思案げに呟いた。「ちなみにさあ、中也ってそう云うののルーチン決めてないよね? 少なくともここ一ヶ月見てる限りでは、その日その日に予定を決めてる」
「……まあ、そうだな。予定が在るときはそっちを優先するが、特に何も無い日は適当に動いてる」
「ちなみに」太宰が自分の珈琲に、ミルクと砂糖を大量に投入する。うわ、と中也は顔を顰めた。甘ったるい匂いが自分の処まで届きそうだ。「中也って手帳とか持ってたっけ」
「いや……? 大きいやつは覚えてるし、そうでないやつは全部部下に管理させてる」
「あ、そ」
 一体何の質問なのか、中也の答えを受けて、太宰は珈琲を掻き混ぜながらぶつぶつと何事かを呟いている。そうして上の空で珈琲を口に含んだ後、何とも苦々しい顔をしたので、中也は黙ってスティックシュガーをもう一本開けて遣った。
 太宰の顔が、ぱっと明るくなる。
「じゃあ、今度の誕生日プレゼントには手帳をあげないといけないね。まさか中也が、社会人にもなって手帳も持ってないとは思わなかったから」
「喧嘩売ってんのか手前」
 まさか、と太宰は笑って、漸く飲み干せたマグカップをかたりと置いた。「御馳走様」と席を立つ。中也はそのマグカップをじっと見た。変なイラストの描かれた、何処にでも在るマグカップだ。数週間前から置かれ始めた、太宰専用の。
「じゃあ、また夜にね」
「ああ」今の質問に一体何の意味が在ったのか、中也は首を傾げる。太宰は基本的に意味の無いことはしないが、その意味は本人しか判らないことの方が多い。本人に説明する気が無いのならば、放っておくか、と中也は珈琲カップを傾けた。「あと、俺を呼ぶときは中原さんって呼べ」

     ◇ ◇ ◇

「これはひどい」
 川から上がった死体を一瞥して、太宰は顔を顰めた。壮年の男性の死体だ。乱雑に河原に横たえられているその顔は、太宰も何度か見たことが在った。殺されてからそれほど時間が経っていない為か、腐敗などは未だ進んでいない。十分に水を吸った衣服は、藻に塗れた状態でも、ブランド物である上等のスーツと知れた。
 太宰はその辺を駆け回っていた一般構成員を捕まえて、死体を詳しく調べさせる。スーツは水を吸って変色していたが、見た処破れや銃創などは殆ど無い。在ったとしても、川を流れている内に何処かに引っ掛けたのだろう程度のもので、犯人と揉み合ったときの損傷ではなさそうだった。傷は、首の頸動脈の一掻きのみ。本当に、鮮やかな手並みだった。
「これで五人目です」
「あと誰と誰と誰と誰だっけ」
「ええと、順番に」ぺら、とメモ帳を捲りながら、一般構成員の青年は殺された幹部の名前を読み上げる。「高田さん、間壁さん、浜村さん、奈良さん――」死んだ者の名を、一々メモしているのか。中々律儀な性格だ、と太宰はぼんやりとその様子を見ていた。
「――そしてこの、秋葉さんです」
「……何だか知った名前ばかりだねえ」
 そう思ってぽろりと口に出すと、その一般構成員の青年は、何事かを口にしかけ、そして何かに気付いたかのようにはっと口を噤んだ。その後、ばつの悪そうな顔で太宰からふいと目を逸らす。成る程、そう云う反応が出るってことは、一般構成員にもそう認識されているのか。そんな内心を覆い隠しながら、青年に次の指示を出す。
 少しばかり、拙い状況だった。
 出て来る名前はどれも、縄張り争いやら利権絡みやらで、中也に敵対心を抱いていると有名な幹部ばかりだったからだ。
 知らぬのは本人ばかりとは正にこのことで、本当に、中也だけがぴんと来ていないのだろう。あの男は、そう云った他人からの害意や風評にひどく疎い。何故なら、潜む害意に気付かずに、それが己に明確に向けられてからでも、強引に捩じ伏せるだけの力が有るからだ。気付く必要性が無い。中也は莫迦ではない筈だったが、下手に力の有るが故に、「些末事」として捉える物事の範囲が大き過ぎた。
 それも、今回で改めて貰わないといけないかも知れない。
「太宰さん!」
 太宰に云われて他の人員からも情報を集めていた青年が、走って此方に戻って来る。
「ポケットの中に、こんなものが在ったと」
 構成員から差し出されたものを見て、太宰は僅かに目を見開いた。それは、見慣れたカフスボタンだった。これが、死体のポケットの中に在った? 太宰はそれを、手中で弄びながら考える。
「ポケットの中、ねえ……。ねえ、君、これ、如何思う?」
「え、自分ですか」青年は心底驚きながらも、素直に頷いて自分の見解を述べる。「秋葉さんのものではないそうですし、犯人の遺留品ではないのですか」
「そうだね」と太宰は気の無い風に頷いた。きっとボディガードの何重にも付いていただろうマフィア幹部の首を、その隙を突いて一息で掻き切るほどの技量と実力が有りながら、うっかり袖から釦を落として暗殺相手のポケットに滑り込ませるなんて、余程の間抜けか、不運者なのだろうね、と。「これ、誰かに云った?」
「え……はい。自分ではないですが、先程、上に写真と共に報告したと云っていました。実物の提出はこれからですが、このことは他言無用にと……」はっと其処でその青年が口を噤んだ。今度はばつの悪さではなく、「他言無用だった、如何しよう……」と云う狼狽の為にその目が泳ぐ。太宰はその非常に判り易い百面相を見て、思わずぷっと吹き出した。良く見れば青年は、太宰と同じくらいの年だ。仕事に慣れていないのも、無理なからぬ話だろう。
「ねえ、君、名前は?」
「え、川島ですけど……」
 成る程、川島、川島くんね、と太宰はその名前を口の中で何度も反芻する。名前を覚え、呼ぶことは、親近感を覚えさせる初歩の初歩だ。
「じゃあ川島くん。教えて欲しいんだけど、遺留品って前の人達の現場にも在ったりしたの? 他言無用のやつ、君から聞いたってのは黙っておくからさ、ね、教えて呉れない?」
 不安そうな顔の構成員に、太宰はにこりと人好きのする笑みを浮かべた。太宰は自分の無邪気な笑みが、人の警戒心を溶かすことを知っている。
「大丈夫。私は太宰治と云う。知っているでしょう、幹部候補として入った人材さ。首領の直下で動いている。だからそんな私に教えたって、他言無用の内には入らない。仮にバレて怒られたって、太宰に命令されたって云えば、君の上司も納得する。君には何の責任も無いことだ」
 ね? と微笑んでその耳元に囁くと、青年の強張った表情が僅かに緩んだ。背負った重圧が、不安から、如何しようか、と云う迷いに塗り替わる。こうなって了えば、後ひと押しだ。
 本当、ちょろい、と太宰は笑みを深めた。

     ◇ ◇ ◇

「首尾は如何だった」
「何が」
「検分。行って来たんだろうが」
「ああ……うん。あ、電気は点けないで」
 その言葉に、中也は電灯のスイッチに伸ばしかけていた手を止める。
 外回りの後、部下を帰し、静まり返った夜更けに執務室に向かえば、其処には既に太宰が居た。電気も点けず何をしているのかと思えば、ソファに体を沈め、かちゃん、かちゃん、と回転式拳銃のシリンダーを出し入れしている。その視線はふらふらと宙を彷徨っていて、返って来たのは生返事一つ。様子が少しおかしかった。
 その太宰が唐突に、「ねえ中也、中也は私って可愛いと思う?」と口裂け女のようなことを云い出した。とうとう頭を何処かやっちまったのか、と中也は天を仰いだ。確かに太宰は顔は良かったし、そう云う物好きなら喜んで抱く程度の器量ではあるのだろうが、如何考えてもその背後に渦巻くどす黒さが何もかもを台無しにしていた。
「思わねえ」と一言で切って捨てると、太宰が満足気に頷く。その体からは、太宰のものではない、不快な男物の整髪剤の匂いが漂っていた。

「で? そんなことを訊く為に此処に来たんじゃねえだろうが。犯人の目星は付いたのか」
「目星? 目星ねえ」
 太宰は薄っすらと笑った。月明かりの下で浮かび上がる妖艶な笑みに、中也は思わずその眉をぴくりと跳ね上げた。普段とは比べものにならないほど、その温度が冷え切っていたからだ。鋭く研いだ、刃物のような。まるで最初に出会ったときを彷彿とさせる。そんな薄氷のような、口の端の歪み。
「じゃあ訊くけれど、君、昨日の夜、一体何処で何してた」
「昨日の晩? そりゃ、手前が一番良く知って――」中也は其処で言葉を切った。昨日の晩。それは中也と、誰より太宰が一番良く知っている筈だった。何しろ二人して飲んだくれ、謎の集団に襲われて、その尽くを鏖殺した処だ。それを判らないほど、この男が蒙昧な筈は無かったし、この男が自分を相手に、記憶を失うほど酒に飲まれる訳も無い。であれば、その問い、その疑いは、太宰が発したものではなく――。
「まさか」
 太宰は答えない。ただ酷薄な笑みを深くするだけだ。
 それだけで判って了った。中也が疑われているのだ。
 中也はゆっくりと太宰の目を見た。薄暗闇の中でその目は、じっと此方を窺っている。その目に虚偽の色は無い。中也は煙草を取り出し、火を点け、たっぷりその煙を吸った後、ふーっと静かに吐き出した。
「俺じゃあ、ない」
「だろうね。でも、そうは思わない人間も居る」
 太宰が何を云っているのか、言葉の意味は理解出来るのに脳がすんなりと飲み込まなかった。馬鹿馬鹿しくて、取り合う気にもならない疑いだ。
 俺が殺した? まさか。一体何の為にだ。
 見て、と太宰は何かを取り出した。それは見紛う筈も無い、数日前から失くなっていた中也のカフスボタンだった。なんで持ってる、とは訊かずとも、薄々判り始めていた。
「今日、現場で見つけたんだ。他の四人の死体の傍でも、それぞれ何かしらが見つかっているそうだよ。ハンカチ、万年筆、それにネクタイピンが二つ。心当たりは無い?」
 心当たりも何も、全て中也の私室から失われ、ここ一ヶ月探していたものだ。なるほど詰まり、誰かが自分の持ち物を使って、自分を陥れようとしているのだ、と中也は理解した。ご丁寧にも中也の私室に忍び込み、所持品を盗み、それを現場に残して、恰も中也が犯人であるかのように見せかけようとしている。
「中也」
 一体何処のどいつが……と怒鳴り散らそうと息を吸い込んだ処で、太宰の指がそれを封じた。
「犯人探しは大事だ。君の身の潔白の証明の為にもね。でも、実際に疑いが掛かったらそうも云っていられない。君と私、それから犯人以外は、君が犯人だと思って向かって来る」
 つい、と太宰の人差し指が中也の唇をなぞって行く。ひどく気持ちが悪かった。何処の誰とも知れない人間から、向けられる悪意が。中也を貶めるなら、正面から堂々と向かって来れば良いものを、こそこそ隠れ、闇に紛れて毒を撒く。その陰湿な悪意が、自分にべったりと纏わり付く感覚。
「身を隠した方が善いよ、中也。このままだと、きっと君、裏切り者として処断される」
「そんな真似……」出来るか、と怒鳴りかけて、太宰がすっと目を細めるのを目にし、中也は大人しく口を閉じた。太宰に怒鳴るのは筋違いだ。左右に首を振って嘆息し、灰皿に煙草を躙る。「……そんな真似、ますます疑って呉れって云ってるようなもんだろうが」
「どっちにしろ変わらないよ、君の処分命令がもうじき出る」
「処分命令? そんなもん、首領が」口にしてから、自分の上司の顔を思い浮かべる。あの人が、使える異能を持つ自分を、そう簡単に切り捨てるとは思えなかった。「あの人が許す筈が無え」
 そう、思っていた。
「その首領直々のご命令だ」
 その一言が、無情にも中也の幻想を粉々に打ち砕いた。その言葉を耳にした瞬間、思いの外その言葉が自分に与えるダメージの大きいことに、中也は一時愕然とする。がらがらと、足元の崩落して行く感覚。急速に、口内の水分が失われて行く。太宰の笑みが、一瞬ひどく遠くに見えた。
「……一体そりゃ、何の冗談だ、太宰」
「ほんとだよ」
 平静を装う傍らで、中也の心臓は大きく軋んでいた。首領に切り捨てられる、そのことがどれほど自分の中で大きな意味を持つか、想定していなかった訳では無い。ただ、現実にそれが訪れるとなると話は別だ。中也はその想像に恐怖する。あの、春の陽のように穏やかに微笑む目が、湛える穏やかさそのままに、にこりと笑って、君はもう要らないね、と云うのだ。その様、その声までありありと思い描くことが出来て、中也はひゅっと喉を鳴らした。何時の間にか、呼吸を止めていた。
 はっと我に返る。だがそれが、真実だと云う証拠が何処に在るのだろう。首領が中也を切り捨てるなんて質の悪い、これは何時もの、太宰の手の込んだ嫌がらせではないのか。その希望を持って、太宰を見た。
「太宰」
 自分でも驚くほど、掠れた声が出た。心臓が悲鳴を上げているのが判る。
 それを見た上で、敢えて見ない振りをして、太宰はゆっくりと中也の手を取った。
「嘘じゃないよ。信じる信じないは君の自由だけど、私は嘘は吐いてない」
 太宰にしては珍しく、噛んで含めるような物云いだった。その声音は、まるで聞き分けの無い幼児に相対したときのそれだ。中也にはそれが心底気に食わない。けれど、食って掛かるほどの気力を持ってはいなかった。動揺に目が眩む。
「私のこれが、組織への裏切り行為じゃないかって君は思うのかも知れない。それを根拠に、私がそんな裏切りをする訳が無いから、これは正しく冗談なのだと思うのかも知れない。でも、本当に冗談じゃないんだ。単純に、末端の私にまで未だその命令が来てないだけ。上はもう動いてる」
 その言葉を証明するかのように、ぎらりとした殺気が窓の外に見えた。同時に、夜の静寂に満ちた空気が、大勢の人間の足音で震える感覚。
 このままでは、囲まれる。
「来て」
 脳が痺れていた。中也は茫洋とした思考のまま、ただ太宰に手を引かれ、私室に向かう深夜の廊下を駆けた。

「待て! 其処の――」
「煩い」
 ぱん、と出会い頭の発砲で、声を上げた武装した男が絶命した。その死体には目も呉れず、血の流れる横を太宰と中也は駆け抜ける。視界に入っているのは未だその一人だけだったが、今の銃声は館内に響き渡っただろう。「ち、思ったより早いなあ」と太宰が悪態を吐くと同時に、物陰から数人が飛び出して来た。太宰が迎撃態勢に入り、高らかに叫ぶのが、何処か遠くに聞こえる。
「君達、云っておくけれど、これは正当防衛だよ。判る? 帰ったら、君達のボスに――はて誰だかとんと見当も付かないけれど――確りとそう伝えてね、マァ、生きて帰れたらの話だけど。嗚呼、愚かにもこのポートマフィアの中原中也に歯向かおうなんて、彼の顔と武勇を知らないの? 一体何処の組織の手の者なんだろう!」
 謳いながら、太宰は天井に向けて二、三発発砲した。趣味の良いペンダントライトが割れ、急に辺りがふっと暗くなる。
 灯りの落ちる前に、中也の目は捉えた。敵は暗視スコープを付けていない。そして太宰は、その外套の膨らみから見るに、手持ちの回転式拳銃以外にも武器を隠し持っている。
 ならば、此処から先は太宰の独壇場だ。
「太宰、其処を退け! 我々は首領の――」
「煩いって云ったよね」
 ぱん、と至近距離の発砲に、敵の頭が弾け飛ぶ。「なんだ、首領ったら、動かしてるのは未だ雑魚ばかりか」と太宰の呟く声が聞こえた。確かに、と中也はぼんやりと頷いた。命令したのが首領か如何かは兎も角、敵を襲撃するのに、不用意に声を上げるものではない。中也を殺すのに太宰が障害となるのであれば、例え幹部候補であろうと太宰ごと排除すべきだった。退け、なんて悠長に問うなど莫迦丸出しも良い処だ。
 同時にふわりと、中也は理解する。詰まり、太宰の考えていることはこうだ。此方が「我々はポートマフィアの首領、森鷗外の私兵だ。其処の中原中也に出頭命令が出ている。抵抗すれば首領への反逆と見做す」と云う大義を聞いて了えば、大人しく捕まる他無いが、要はその大義を聞かなければ善いのだ。「いきなり武器を持った謎の集団に襲われたので応戦しました」であれば、「まあ、それなら名乗らなかった彼らも悪いから仕方無いよね」となる。
 ……なるか?
「ああー、後で二倍にして報復しなくちゃいけないから、何処の組織だか見ておかなくちゃいけないのに、こうも暗いと良く判らないなあ!」
 太宰は如何にも芝居掛かった口調で大仰に振る舞いながら、然しその手では着実に敵の頭を撃ち抜いて行く。実際に首領がそう頷くかは別として、太宰は無理矢理にでもその理論を押し通そうとしているらしかった。
 敵に口を開く隙を与えず、太宰は道化を演じ続ける。一歩、窓から差し込む月の光を帯びたその目は、ぎらりと狂気地味て見えた。
「君達、まさか神の教えを知らないの? 目には目を、歯には歯を、右の頬を撃たれたら左の頬も差し出さなくっちゃ!」
「……めちゃくちゃだろ」
 呆然としたまま、中也は太宰の背後に忍び寄っていた影を蹴り飛ばした。予想外の衝撃音に、何が起きたのかと飛び退った太宰は、一瞬遅れて事態を把握する。蹴り上げられた中也の脚と、窓を突き破って敵の落ちた後を交互に見、何とも云えない微妙な顔をし、それからつんとそっぽを向いた。
「……復活するの、ちょっと遅いんじゃない」

「此処」
 敵の追撃を振り切り、太宰と中也が向かった先は、中也の私室だった。部屋に飛び込むなり、太宰は迷うこと無く本棚を引き摺り、壁紙を捲り、その奥の隠し扉を開ける。何時の間にそんなものを作っていやがった、と呆れるように問うと、「幹部の癖に逃げ道の一つや二つ、用意してないなんて有り得ないよ」と太宰が莫迦にしたように肩を竦めた。
 必要無かったんでしょう、と太宰は云った。君の実力なら、敵が一個小隊だろうが反撃すれば赤子の手を捻るように鏖殺出来るから、要らないと思ってたんでしょうと。そう云われればぐうの音も出ない。生命だけでなく、社会的地位――マフィアなんて云う反社会的組織内の地位に社会的も糞も無いが――を脅かされた場合のことなんて、毛ほども考えていなかったのは事実だ。
「佐久間さんを呼んである。犯人探しは此方でやるから、その間、出来るだけ長く時間を稼いでよね」
 太宰の云うとおり、扉の向こうには中也の最も信頼する部下が控えていた。そして太宰は、扉には入って来ようとはせず、躊躇い無く戦場へと戻ろうとする。中也は思わず、「太宰」とその名を呼び止めた。「なに、中也」と太宰が振り返り、そうしてぎょっとしたのが判った。中也の目が、暗がりでも判るほど据わっていたからだろう。
「……君、まさか、『首領の命令なら死んでも良い』なんて莫迦なこと考えてないよね」
 たっぷり十秒は思案した後、中也は静かに答えた。
「首領の命令は絶対、だろ」
「別に、君に『死ね』って命令が出た訳じゃない」太宰が本当に、焦ったように首を振った。莫迦じゃないの、とでも云いたげだ。「多分、君を殺すだけなら、明日呼び出して銃を手渡して『これで自害して?』で事は済む。首領がそうしないってことは、何か在るんだ。だから」
「俺がこそこそと逃げ回るのが嫌いなの、知ってるよな?」
 中也が苛々と煙草を取り出そうとしたその手は、太宰にすくい取られた。存外強い力でぎゅうと手首を握られたものだから、思わず顔を顰める。痕が付いたら、如何して呉れる。
「私を優先してよ」
 その言葉に、中也は静かに瞑目した。疑いを掛けられているのは中也だと云うのに、まるで助けて貰うのは自分であるかのように太宰は縋る目を中也に向ける。聞いたことも無いような声で、中也に哀願する。
「マフィアの掟より、君の矜持より、私を選んでよ。ねえ、頼むから」太宰は中也の目を捉えながら、中也の手の甲に見せ付けるように口付ける。「私と心中すると思って」
「……俺を生かしたいんじゃねえのかよ」
 中也が掠れた声で笑うと、太宰も釣られて笑った。いいぜと云うと、御免ねと云う。今日だけだ。今日だけは、少しだけ、心が弱っていたのかも知れなかった。だから中也は、太宰にその身を任せた。
 とん、と胸を押され、中也の体は佐久間の腕の中に収まった。太宰。もう一度呼び掛ける間も無く扉が閉まる。ばたん、と無情にも閉じたその扉の向こうからは、もう何の音も、返っては来なかった。

 部下に先導され、中也は暗闇の中を駆ける。如何やら隠し扉は下水道に繋がっていたようで、薄暗い通路を走る横で水の流れる音がする。がさがさと、物音がするのは鼠の仕業か。全ての音がぼんやりと反響し、方向感覚を狂わせる。
 その上、下水道と云う特殊な空間の中では、聴覚だけでなく嗅覚も使いものにならなくなることにほどなく気付く。何しろ汚物の臭いがひどく、息をするのもままならない。中也はハンカチを口に、何とか吐き気を堪える。刺激臭にじわりと涙が滲むが、こんなものは生理的なものだ。悪環境で凹むほど、自身が軟な精神構造をしている覚えは中也には無い。
 寧ろ堪えるのは、誰かが自分を陥れようとしていること、首領から切り捨てられたかも知れないこと、太宰に庇わせて了ったこと。そうして傷付けられた自分の矜持だ。

 太宰の心配はしていなかった。
 暗雲が立ち込めているのは、これからの自分の身の振り方の方だ。

 走りながら、段々と怒りが込み上げて来る。良く考えれば、中也がこんな風に逃げなければならない道理は何も無い。自分は何も――少なくとも『幹部殺し』については何も――していない筈なのに、何故こんな目に遭わなければならない。罪を擦り付けられるだけならまだしも、反撃することすら許されず、こんな茶番に身を窶すことを強要されるなど、中也にはひどく耐え難かった。元々、危機を目の前に逃亡など、中也の性には合わないのだ。襲撃者に一発蹴りを入れた程度では、この怒りは収まらない。
 噴き出す怒りは、遂に中也の足を止めて了った。
「……なんで俺が、太宰の奴を危ない目に遭わせてまで、こそこそと逃げ隠れしなきゃならない」
 その、誰か判らないが中也のことを陥れようとしている奴をぶっ殺せば終いの話じゃねえのか。
 怒気を孕む声が、空気を震わせる。喉はもう掠れなかった。
 けれど、太宰の云うこともきっと正しい。今日思う存分暴れ、向かって来る敵兵を全滅させた処で、中也に掛かる疑いは益々深まるばかりだろう。であれば、疑いが晴れるまで、身を隠すのが懸命だ。
 懸命の筈だ。
 頭では理解していた。ただ、この腸の煮え繰り返る怒りのやり場が、中也には見つからなかった。糞、と壁を殴り付ける。がん、と鈍い音が、地下の空洞に広がった。
「中原さん」
 部下の佐久間が、じっと此方を見つめている気配を感じた。暗がりの中でその表情は上手く読み取れないが、何やらひどく落ち着き無く、此方の様子を窺っている。
 その視線に、ふと中也は我に返った。
 自分は一体何をしているのだろう。部下にこんな情けない姿を見せてまで、守るべき矜持が何処に在る。
 中也は、自尊心を飲み込む。
「……良いだろう」
 中也は煙草を取り出し、火を点けた。暗い下水道内に、一瞬ジッポの灯りが閃く。胸いっぱいに煙を吸い込み、それからふーっと紫煙を吐き出す。
 マフィアの幹部たるもの、いつ何時も冷静さを見失ってはならない。感情に身を任せるなど以ての外だ。それは幹部に選ばれたときから、肝に命じ続けて来たことの筈だろう、と中也は慎重に自戒する。今こそ冷静さを保つときではないのか。感情に流され、合理さを失った者から死んで行く。常に大局を見て動かなければ、この世界では生き残れない。此処はそう云う世界だ。
 そうしてこれまで自分は、生きる為なら何だってやって来た筈だ。飢えて泥水を啜ることも、仕事で幸せに溢れた一家を血も涙も無く惨殺することも、情報を得る為に男に体を売ることも。この世で忌み疎まれるべき行為は全てして来た。だったら、他愛も無い罪を被せられ、追い回されることくらい、今の自分にとって訳は無い。そんなもの、今までに舐めて来た苦渋に比べれば、驚くほどに無味無臭だ。
 何をカリカリとしていたのだろう。あの太宰が、犯人探しはやると云った。ならば今は、自分は自分に出来ることをすべきだ。
 暗闇の中で、中也はじっと煙草を燻らせる。
 腹は括った。
「なら俺は、生き残る為に出来る手を打つだけだ。先ずは首領の真意を訊きに行く。付いて来いよ、佐久間」
 そう云って外套を翻し、かつんと一歩靴を鳴らすと、佐久間がふっと緊張を解く気配がした。背後でちゃか、と銃を仕舞う音が聞こえた。
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