【再録】秘密のふたり
そう、そうやって、中也のかわいい部下のままで居れば善かったんだ。
中也の云い付けを守って。
なのに君達は、何時も中也を置いていく。
ちょっとした通過点の話
別に中原さんに恋バナを提供しなければと云う使命感からと云う訳でもなかったが、職場の気になっている女性に声を掛けた。何回か言葉を交わし、趣味の話で盛り上がり、今はそこそこ仲良く話せるような間柄。
ある日、ライブのチケットを貰った。一枚。
手製のチケットに印字されている概要を見た。小さなライブハウスだ。今週末。場所は市内。知っているバンドの名前は無い。アマチュアバンドの集まりだろう。
「私も友達に貰ったんだけど、知ってる人居ないし、その日彼氏と約束してた予定があって」
俺の失恋は、至極あっさりとしたものだった。
「君も興味があるって云ってたし」
それはその子がライブのことを話す様子が余りにも活き活きとしていたからだ。俺は感化されただけ。まあでも、恋人が居ることが露見した途端に彼女の存在が俺の目の前から消えて無くなる訳でもないし、彼女とは恋愛以外の関係も続くのだから蝋燭の火を消すように興味を失くすのもおかしな話だった。
だから俺は、ライブハウスの重い両開きの扉をゆっくりと開けた。
途端、浴びせられるのは骨まで震わせる爆発的な音楽。
光の届かない、地下の窖にカラフルなライトが錯綜する。
熱狂的な演奏と歓声の中、一際力強い歌声が聴こえ、惹き付けられるように視線をそちらに向けた。
ステージの上には、見知った上司が――中原さんが居た。
汗がきらきらと散る。
彼が歌うたび、叫ぶたび観客は熱狂して飛び跳ねる。
驚きはしなかった。ただ、俺じゃなくあの子が来ていたらびっくりし過ぎて失神していたかも知れないな、とは思った。マフィアの幹部が、こんな処でライブ活動をしているなんて。それとも、彼女は幹部の顔を知っていただろうか? 少なくとも、此処に居る人間は知らないのだろう。肩書きで左右させず、ただ己の存在一つでこの観衆を酔わせている。こんな処でも、あの人は強いのだなあと思う。中原さんが操る重力は、何も物理学的に定義されている力だけに限られない。
だから俺も、彼の重力に惹かれている。
そのとき、人波から離れた処からゆっくりと俺に近付いてくる人影があった。ひらりと翻る砂色の外套。騒がしい空間にあっても善く通る声、汗一つかいていない穏やかな笑み。
「やあ」
「……太宰さん」
今度こそ俺は戸惑った。正直、太宰さんとロックバンド、と云うものの組み合わせが繋がらなかった。最前列で手を振り上げてる太宰さんとか、音楽に熱狂してヘドバンする太宰さんとか。いや、無いだろう。
ただ一点を除いては、彼がこんな場所に居る理由が見付からない。
此処に中原さんが居るからと云う理由しか。
けれど、その場に俺も居合わせると云うのが善く判らない。
「……偶然ですか? それとも仕込み?」
「さあ。何方だと思う?」
MCが、バンドの最後の曲だと宣言するのが聴こえた。中原さんはじっと目を伏せて集中している。カッカッカッ、とドラムの合図。掻き鳴らされるギター。響き渡る歌声。
「――貴方のことだから」考え考え、口を開く。「仕込みですよね。用が無ければ、貴方は俺なんかには話し掛けない」
「自分を過小評価し過ぎじゃない。それに、私だって知り合いに会えば挨拶くらいするよ」
「如何でしょう」
中原さんが魂をきりきり絞るように歌いながら、思い切り観客を指差して何かを叫ぶ。煽られて悲鳴が上がる。男も女も。
「……綺麗だ。そうは思わないかい」
呟くように云われた言葉にぎょっとした。
その発言自体に異論は無い。俺が驚いたのは、その言葉が俺に聞かせるように発せられたことだ。
存外、独占欲の強い人だと思っていたから。
反応出来ずに居ると、太宰さんが穏やかに微笑んで云う。
「でも、部下以上の感情を彼に抱くことは私はあんまりおすすめしないよ。彼に心酔した人間から、彼の側には居られなくなる」
「……俺、今日死ぬんですか」
つい、そう訊いてしまう。
「……何故?」
「貴方が俺に意味も無く声を掛けるなんて天変地異の前触れでしょう。明日空から槍が降ってくるか、今日俺が死ぬかなら、後者の方が確率が高いからです」
「如何だろうねえ……あ、ほら、中也が降りてきたよ」
狭いライブハウスだった。だから、楽屋に行くのに舞台を降りて客席近くの通路を通る必要があった。
そのとき、熱狂冷めやらぬ観客の中に、ぎら、と異質な光を見付けた。俺は自分の目を疑う。
剥き身のナイフだ。
後ろ手にそれを握った男はTシャツにジーパンといった極普通の格好だった。目深にキャップ帽を被っている。如何云う動機があるのかは判らない。ただ、真っ直ぐに中原さんを見詰める瞳にはどこか狂気を含んでいる。刺す心算なんだ、と直感した。中原さんを、刺す心算なんだ。
周囲は男の凶行の予兆に気付いていない。
中原さんも。
ゆっくりと近付いていた男の動きが段々と大胆に、早足になる。
――彼に心酔した人間から、彼の側に居られなくなる。
脳裏に響いた、それは或いは俺に許された最後のブレーキだったのかも知れない。
――俺のことは守ろうとしなくて善い。
俺は咄嗟に駆け出していた。そんなのは無理な相談だった。人を掻き分け無理に押し退け、テープを越えて男より間一髪先に中原さんの元に辿り着く。
「中原さんッ!」
「⁉ おい……っ」
庇うように中原さんを背中で押した。一瞬の後、ずぶ、と腹に何かが刺さった感覚があった。鋭い痛みで息が止まって目の前の景色が真っ赤に染まる。男と目は合わなかった。ただ、驚いた様子で後退り、それから舌打ちをして逃げたのは判った。追わないと。そう思うのに動けない。きゃあああ、と先程までとは色の違った悲鳴が上がる中、力無くずるずると床に崩れ落ちる。
完全に倒れる前に、誰かに背中を抱き止められた。
中原さんだ。男の存在に気付かなかっただろう筈も無いのに、何故だかひどく狼狽している。
「手前……なんで、此処に」
「善かった、ご無事ですか……」
「莫ッ……迦野郎! 俺は死なねえって云っただろうが!」
判っていた。目を閉じる。中原さんは強いし死なない。
それでも、守りたかった。
中原さんの為に、死ぬのは怖くなかったから。
「善いか、直ぐ戻る……命令だ。俺が戻るまで、目を閉じるなよ……!」
それから中原さんは逃げる人波を押し退けて、男を追い掛けていった。ああ、あの調子ならあの男は直ぐに捕まるだろう。莫迦だなあ。中原さんを敵に回すなんて。
でも俺はもう限界だった。その様子を見られそうにはなかったし、命令は守れそうもなかった。
観客が逃げ、人気の無くなったライブハウスでじっと目を閉じて静寂に身を任せていると、コツコツと軽い靴音の後に瞼の裏に一筋の影が落ちる気配がある。
「君は善くがんばったよ」
「……これも、策のうちですか……」
目を開けると、太宰さんは少し眉尻を下げて笑う。
「さあ。ただ、少なくともあの男は私が焚き付けた訳じゃあないね」太宰さんの声が思いの外優しい雨のように俺の頬に降った。抱き寄せられ、しゃがみ込んだ太宰さんの膝にまるで子供を寝かせるように体を寝かせられてしまって、痛いとか、怖いとか、そんな感情は全部何処かへ行ってしまった。ただ温かい羊水に包まれているような、穏やかな感覚。「まあ、ポートマフィアなんて職は恨まれることが多いから、遅かれ早かれこう云う結末が待っていたことは確かだ。此処に私が居ようと居まいと、君はこう云う道を辿ったさ。中也の為に死ねるなんて思ってしまった時点で」
そうだ、と俺は今更ながらに理解した。
中原さんが、最初から俺に厳命していたこと。俺のことは守ろうとしなくて善い。自分の身を最優先にしろ。
その云い付けを守らなかった。
そうだ。だから……。
「俺は」げほ、と咳き込んだ。代わりの空気が上手く入ってこない。「俺は、中原さんを守れましたか……」
「……ああ。部下として立派だったよ」
それは太宰さんの同情だったのだろう。これから死ぬ俺への手向けのリップサーヴィスだ。それでも少し、心が軽くなった。成仏出来るかなあ。宝石になるのでなかったら、魂は何処か遠くに行けそうな気がした。それが何の宗教だったかは忘れたけど。俺、無神論者だし。
それで、中原さんは、俺を。
覚えていて下さるだろうか。
「中原さんは……」
云い掛けて、ああ、違うなと首を振ろうとした。実際には吐息が揺れるだけだった。あの人の負担になってはいけない。あの人に失わせてはいけない。
あの情の深い人が俺のことを覚えていると云うのは、俺の死を覚えていてしまうかも知れないと云うことだ。あの人が一番遠ざけたがっていた結末。
なら、俺の望むことは一つだ。
「中原さんは、俺を忘れて呉れますかね……」
太宰さんは、その言葉を聞いて微かに瞠目した。それから、ゆるく俺の血に濡れた手を握る。
「ああ。きっとね」
「そっすか。なら……」
善かった。そう思った。
なら、あの人は何も失うことは無いのだ。
中原さんには、太宰さんが。
居るし。
「……ゆっくりお休み」
その声を最後に、俺の意識は暗転した。
如何したの中也、浮かない顔をして。何かあった?
「……いいや」
ほんとう? いいや、って顔じゃあないけれど。
まるで、飼ってた金魚を埋めた直後みたいな顔してる。
「……別に何も無えよ」
ふぅん……?
「なんでもねえ。こんなことは、なんでもないことだ……」
そう、なら善かった。
「ああ?」
いやね、君がそう云うと、救われる子が一人居るのさ。
「……。太宰……」
ん……もう、しょうがないなあ。心配しなくても、私は暫く此処に居るよ。なぁに、しんじられないの? それは信用して貰うしかないけど……。
でもまァ、そうだね……この世のものは、並べて脆いものさ。この傷は如何したって慣れなくって、癒えもしないのに増えるばっかりだ。嫌になっちゃうよね。それでも、お互い舐め合えば少しは楽になるから、そうして生きていくしかないんだ。
私達、二人。
秘密のふたり 了
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