【再録】秘密のふたり
終.
「ねえこれ先刻指示した情報載ってなくない? 入れといて。それ終わったらこの該当する日時のリスト化とこっちの事件の容疑者の抽出、あとお茶」
と或る事務所の一室で、太宰さんから矢継ぎ早に出される指示に俺は必死に首を横に振った。
「む、無理です」
「えー。私がァ危うく死にかけたのはー、誰の所為だったかなー?」
「う……」
それを云われると弱い。
俺は項垂れて、太宰さんから明示された資料とファイルとフラッシュメモリの山をどっさりと受け取った。
先日太宰さんの命を危険に晒したのは、間違い無く俺だったのだから。
◇ ◇ ◇
「血糊……?」
「そうだよ。防弾チョッキの上から血糊の入った袋を付けておけば、死んだ振りくらい訳ないことさ。少なくともモニター越しならね。何、私が君を助ける為に死んであげると、真逆本気で思った? そんな訳ないでしょう。云っておくけれど君、私の策の外で死に掛けていたら当然見捨てるからね」
種明かしをされれば簡単だった。
指定の場所に出向き、俺が居れば中原さんが一暴れして奪還すれば善い話だった。然し、直接邂逅すれば例え人質を連れていたとしても勝ち目が薄いと、敵は恐らく予見しただろう。どんな楽天主義者でも。
だから人質が遠隔地に居たときの為の、プランBを用意した。太宰さんが死んだ振りをして、俺の居場所が知れるのを待つ策だ。
死にたくなったら、これを噛めば善いと云って。
毒と偽って、俺に音響弾を仕込んで。
「最初に倉庫街で襲撃を受けたとき、君は顔を見られていたでしょう? そして彼等は襲撃に失敗している。奴等は君を助ける為に手を緩める中也も見ている訳だから、マァ、これを利用しない手は無いね」
誘拐を予測していたのか、と云う俺の問いに対する答えはこうだった。
詰まり太宰さんは、自分が撃たれる様子を見た俺がきっと自害したくなるだろうことさえ予測して、今回の策を仕込んだのだ。
自分の死も――俺の感情さえも利用して。
あ、悪魔だ。
「じゃあ君には、中也の部下であるにも関わらず情けなくも敵に誘拐された罰として、私の雑務を手伝って貰おう。一週間、私の手足として奴隷のように働き給え!」
――そして今に至るのだった。太宰さんの用意したこの事務所は探偵社から近いらしく、朝と夕方に顔を出して俺の仕上げた仕事を確認しては再び業務をどさりと置いていく。たまに自身も滞在をして、幾つか置かれた端末の前に陣取ってヘッドフォンをしながらタブレットを操作している。さーっと高速で下にスクロールされていく画面、頻繁に調整される音源のチューニング。如何やら彼は、彼の日常に必要とされる膨大な量の情報収集を此処でしているようだった。
そして俺がやらされているのは、恐らくその間の探偵社の業務の一環だ。機密のようなことは何も判らなかったが。
と云うか、機密を盗むとかそんな余裕は無かった。
何せ業務量が容赦無い。気を抜いているとすぐに夜になってしまうから、昼飯を食べる時間も惜しんで情報を調査して資料を作る。帰る時間も勿体無かったから泊まり込み。挫け掛けて、もう少し手を抜いても善いんじゃあないか、と魔が差したり、夜はちょっと書類を涙で濡らしたりもした。
濡れた書類は翌日太宰さんに「やり直し」と突き返された。
然し俺が太宰さんの処に奉仕に出されることは、中原さんも当然承知している。そもそもこれは、それくらいしないと君も部下に示しが付かないでしょと提案されたペナルティであって、妥協する訳にはいかなかった。
俺が扱き使われる一日目に此処を訪れた中原さんは、ひどく済まなそうに俺に対して帽子を脱いだ。
「直ぐに助けに行ってやれなくて悪かった」
そう云う中原さんは、太宰さんの策を俺が攫われた直後まで知らされていなかったらしかった。多分、知っていたら反対したのだろう。部下に自分の身を最優先にしろと云う人だ。だから別に中原さんに謝って頂くことじゃあ無かった。一番悪いのは俺を誘拐した黒服達だし、次点で油断して間抜けにもうかうか攫われてしまった俺だ。
だからこうして労働をしている。仲間を危機に晒して何もお咎め無しと云うのも締まらないだろうと云う判断だ。それは俺も納得済み。俺が太宰さんの元で働くと知った同僚達からは、同情のラインが山程来たけど。
然し業務量を見た中原さんは笑って一言。
「まあそんなもんか。なら大丈夫だな」
「ひえ……」
業務に埋もれ、ひいひい云っている俺を見て眉一つ動かさなかった処を見ると、若しかして、中原さんの部隊では結構これが日常茶飯事の業務量なのでは。つーっと俺の顳顬を汗が伝う。仕事、新人だから、免除されていただけなのでは。
疑念に駆られる俺に、容赦無く叱咤の声が飛ぶ。
「ねえ、お茶。早く。十秒以内に」
「はい、ただいま……」
あと三日。一週間は長い。
「然し、一つ計算違いはあったけれどね」
俺の入れた紅茶――「まずい」と云って一度淹れなおさせられたやつだ――を優雅に飲みながら、太宰さんは小首を傾げて呟くように云った。
足を組んでソファに掛けると、すらりとした手足が映えて此処が古びた事務所であることも忘れるくらいに絵になってしまう。
「聞きたい?」
見惚れているとそう訊かれた。いいえ――と云ってもこの人は喋るんだろうな。俺は少し諦めの気持ちを持って、次の言葉を待った。
そんな俺に太宰さんは容赦無く「いや手は動かしなよ」と云う。鬼だ……。
「……そう、本当は、敵は先に私に『中也を殺せ』と命じるものだとばかり思っていたのだよね。君が攫われた後に作戦を話すとき、中也にもそう云った。だって、異能の関係でいけばそれが妥当でしょう?」
釈然としない顔をしていると、「ああ、私の異能力は、触れたものの異能を無効化する能力なのだよ」と意外にも丁寧な解説を付けて頂けた。異能無効化。それは詰まり、太宰さんが中原さんに触れていれば、あの強力な異能が使えなくなると云うことだろうか。
あの、周囲のもの全てを平伏させる圧倒的な異能の力。
「常人では中也にはかすり傷一つ付けられない。けれど私が――『人間失格』が触れていれば話は別だ。ただの人に成り下がった中也なら、人間と同じように撃ち殺すことが出来る。多分ね。だから私達を二人で呼んだのだと思っていた」じっとカップを見詰める太宰さんの薄茶の瞳が、紅茶の波紋を映して揺れる。「まァ、一体私が死んだ後に彼等が如何やって中也を殺す心算だったのかは知らないけれど」
本当は、私が中也を撃ち殺す予定だったんだ、と太宰さんは云う。
「だから、中也が死んだ時点で君が合図を出すと思っていた。けれど先に死ぬのが私だったから。私が死んだところで、果たして君は例の音響弾を発動させるだろうか、とは考えた。一瞬、失敗かなと思った……いや流石に中也を殺させるくらいなら君に死んで貰ってたけど」
俺は頷く。ですよね。
それでこそ太宰さんと云うものだ。
その太宰さんが、ところで、とずいと俺に顔を寄せる。思わず手を止めてしまうがだってこんなの不可抗力だ。男の俺から見ても整った顔は、間近で見ると更に美術品のようで、下手に近付いて割れてしまわないかとガラス細工を前にしたみたいにドキドキしてしまう。透き通った肌、ぱちりと長い睫毛。ふわっといい香りが漂う。
何時も、上司が付けている。
そう云えば、もう狙われることは無くなったのに未だ中原さんの家に泊まっているんだろうか。
と云うか近い。
「な、何ですか……」
「君、私が殺されたのを見て、死にたくなったの?」
好奇心に満ちた瞳が、俺の鼻先できらきらと煌めく。
「私が死んで悲しかった? 辛かった? 後を追って自殺しようと思った? ふふ、君、私のことが好きかい?」
俺はぶんぶんと首を横に振る。いや、太宰さんにそう云うような感情を抱くことは万が一にも有り得ない、と思った。思い返しても毒を噛み砕いたあの一瞬、太宰さんへの恋慕や情欲の喪失により動いた訳では絶対にないと断言出来る。
ただ、あのときは。
……いや。
「答えたくないです……」
「ええー、君の所為で私死に掛けたのに?」
「それでも駄目です。と云うか、善く考えたら全部が全部俺の所為な訳じゃなくないですか……?」
聞けば全部最初から太宰さんの策の内だったと云うのだから、六対四くらいで太宰さんにも責任があるんじゃあないだろうか。あれ? 俺なんでこんなに扱き使われてるんだ……?
深く考えると泥沼に嵌りそうで、俺は追求するのを止めた。
けど。俺は太宰さんに向けていた視線を、目の前のモニターに移す。確かに、俺は如何して、あのとき撃たれた太宰さんをモニター越しに見て叫んだのだろうか。あれが本当に毒だったら今頃俺は死んでいたのだ。そう考えるとぞっとしない。
死ぬことを考えたら、今だって怖い。
でも、多分、太宰さんではなく中原さんが撃たれていたとしたら、俺は自分が生きていることに耐えられなかっただろうし。
中原さんから太宰さんを奪うこともまた、それと同義なんじゃないだろうか、と思う。
中原さんが、死んでしまうと云う点で。
「……ところで、太宰さん」一向に俺への至近距離の観察を止めない太宰さんの端正な顔をチラと見る。「あの、なんかこう……俺を誑かそうとしてます?」
「おや、勘が善いね」そう云うと、太宰さんがすっと俺に近付けていた顔をあっさりと引く。「何、この程度の誘惑で心揺さぶられるような、そんな意志の弱い人間なら中也の側に要らないかと思って」
悪戯っぽい笑みに、何故か背筋に寒気が走る。
あれ? 詰まり今のは試されてたのか?
要らない、と判断されていたら俺は如何なってたんだ。
……怖い。
と、そのとき、太宰さんがふいと窓の外に目を向けたかと思うと、軽くステップを踏むように俺と不自然に距離を取った。何だろう。然し理由は直ぐに知れた。
部屋の外から、階段を上ってくる跫音がする。
ガチャ、と開いた扉から顔を出したのは、矢っ張り仕事帰りと思しき中原さんだ。
「よお。やってるか」
「いや君、居酒屋じゃないんだから」
ああ、と納得した表情をした心算だった。成る程、道理で太宰さんが浮足立ったステップを踏む筈だと。然し太宰さんに至近距離で詰め寄られてしどろもどろしていた顔が未だ戻りきっていなかったらしい。中原さんが俺と俺から不自然に距離を取っている太宰さんを見比べて、訝しげに訊く。
「……何話してたんだ」
「うふふ、内緒。ね?」
「ええ、まあ……」
少し照れたように笑う太宰さんは、先程まで俺だけと話していたときとはまるで別人のようだ。
ああ、この人も中原さんが大事なんだなと思わされる仕草。
「……ふぅん。おい太宰、ちょっと」
然し反面、中原さんの声は妙に硬かった。こっち、と太宰さんの手を引いて事務所を出ていく。外は建物共用の廊下だ。何か秘密の話だろうか。中原さんが出て行ったのは、俺を気遣ったのと邪魔されたくなかったのと両方だろう。
然し悲しいかな、この事務所は壁が薄くて。
人が何を話しているかとか。
「善いから」
「ちょっと、中也、なに、ん……っ、ぁ、は」
何をしてるかとか。
聞こえるんだよなと一瞬思ったが俺は聞かなかったことにした。俺は何も聞いてない。モニターに向かってガタガタとキーボードを揺れるくらい鳴らしながら仕事に集中する。
「んぅ、ぁ…………ん、ちょっと」
「あ? 俺にこうして欲しいから妬かせようってヤツじゃねえのかよ……」
「違……いや……キスは欲しいけどさあ……」
ガタガタガタガタ。安物だからか、キーボードからキーが一枚取れて飛んでいった。
今なら、同僚達の気持ちが痛いほど判る。
「……太宰さーん! もうそろそろお帰りの時間ですよね⁉ 後は俺やっとくんで、こっちは大丈夫っすよ‼」
今度は俺のキーボードじゃなく部屋の外がガタガタと鳴った。かと思うと、扉から中原さんが顔を出す。
「ああ。此奴は俺が引き取ってく。きついだろうが、後二日、よろしくな」
「はい」
「中也の処に返すまでにボロ雑巾になってるかもね……」
「此奴だって俺の部下だぞ。んなことで潰れる訳ねえだろ、なあ?」
同意を求められ、反射で頷いてから後悔する。いや、無理です、割と潰れそうですと喉まで出掛かる。
けれどその言葉を吐き出すことは叶わなかった。それより何より、中原さんの「俺の部下だ」と云う言葉に、嬉しさを感じてしまっている自分が居る。
お二人を事務所から追い出して背中を見送りながら、その達成感を噛み締めた。
自分の身を最優先にしろ、と中原さんは云った。
俺だって、死にたくないと思う。
でも、それより優先すべきことが出来てしまった。俺には死ぬより耐えられないこと。
中原さんに、二度と失わせたくない。
その為なら、死ぬのもきっと怖くないんだ。
了