【再録】秘密のふたり
三.
詰まり、あんな処に停めていたのは最初から誘拐が目的だったのだ。エンジンの振動に揺られて薄らと意識を取り戻す。
光の満足に届かない、狭く息苦しい車内。
鼻先で蠢く人間の気配。
気を失う寸前の頭部の痛みを思い出し、血が凍るように全身が強張る。
パニックになりそうな気持ちを必死に落ち着けて、誘拐犯達に気づかれないよう薄目で車内の様子を伺った。誘拐、そう、これは紛れも無く誘拐だ――バンの荷室に詰め込まれ、後ろ手に拘束されたまま何処かへと運送されている。同乗者は、スーツに武装をした男が三人。運転席と助手席にも一人ずつ。如何やら被害者は俺一人だけらしい。ああ、目的は身代金だろうか。然し生憎、俺にはそんなものを払って呉れる家族は居ないのだ。俺を待っているような人間は。存外無計画な奴らだ、と思った。例えそのことに気付いて俺を人身売買組織に売り渡したとしても、俺では大した値は付かないだろうし、折角なら実家に金のある家の子供でも攫った方がリスクに見合った収入を得られたろうに。
然し男達は、無計画で俺を攫ったのではなかった。
助手席の男が、ひひ、と嫌な笑いを発するのが聞こえる。
「ああ……ああ。明日の正午だ。それまでに指定の場所に来い。……部下の命が惜しけりゃな」
電話の相手の声は聞こえない。察するに職場の上司か。他に喋っている者は誰も居らず、外からカーンカーン……と踏切の音が遠くに聞こえて消えた。車内の様子を、ぼんやりとした調子で伺う。上司かあ。莫迦だなあ。A様なら、そんな要求なんて飲まずに俺の命を即座に宝石へと換える。嗚呼、此処までか、と思った。死にたくはなかったが、こうなってしまっては仕方が無い。若し俺の寿命で身代金を支払えるような豪華な宝石が出来たなら、或いはそれで身代金を払って頂く恩情くらいは貰えるのかも知れない。さあ拾え、それを呉れてやるから靴を舐めて有り難がるが善いこの貧乏人のクズ共が、と。嬉々として云っただろう。想像に難くない。
けれど、何時まで立っても俺の体が宝石に変わる様子は無かった。
そうだ、何寝惚けてる。今の俺の上司はA様ではなく。
さっと青褪めた。
中原さん。
ガバリと勢いを付けて身を起こす。
「あっ手前、勝手に動いてんじゃねえぞ!」
ガチ、と頭に固いものを当てられるがそれどころじゃない。俺は必死に不自由な手でポケットを探る。端末が無い。
前を見る。
助手席に座る男が、何がおかしいのかニヤニヤと見せびらかすようにその手の中の物を明かす。無骨な手に握られているのは俺の端末だ。暗い車内で、ぼうっとディスプレイの白い光に映された通話相手は『中原さん』。
「お……お前……何、を」
頭に血が上って、舌が縺れる。この男、なんてことをして呉れるんだ。中原さんはA様と違って真人間なんだ。道義を無視する人じゃない。部下の命が掛かっていれば当然助けに来てしまうだろう。彼の部下がそうであるように、彼もまた『上司としてそうするのが正し』ければ、そう動けてしまう人間だ。
何より、俺を人間らしく扱って呉れた人。
ぐいと髪を掴まれる。
「ほら」
「いッ……」
運転席と助手席の間から身を乗り出す形になる。視界の端にギアが見える位置。自然、視線が吸い寄せられる。アレを。バックに入れてやれれば。そんな考えを読んだようにぐいと顎を掴まれて、口に端末を押し付けられる。
「ほら、手前のママに元気な声聞かせてやれよ」
『――無事か』
中原さんの、冷えた硬質な声。
俺は形振り構わず、電話口に縋るように叫んだ。
「中原さん、来ないで下さい、お願いですか」
ら、と最後まで口にすることは出来なかった。頬を拳で強く殴られたからだ。頬骨が軋み、ついで側頭部を窓へと打ち付けた。そのまま荷室の固いシートに頭を押し付けられて、俺は骨を折られないよう歯を食い縛る。
痛みは感じなかった。
ただばくばくと、掴まれた首根っこで血管が爆発するように脈打っている。
「やめろ、やめろォ……ッ!」
「無事は確認させてやったぞ。善いか。来るのは太宰治と、二人で、だ。それ以外は認めねえ。ちょっとでも他の奴等の姿が見えてみろ、部下の命は無いと思え」
男は金の要求をせずに電話を切った。
――まァ詰まり。
――彼等の狙いは、『私達』だと云うことだね。
「へえ……中原が部下を大事にしてるってのは本当らしいな。聞いたかあの声? 彼奴が勝手に襲撃なんざ仕掛けやがったときには如何なることかとヒヤヒヤしたが、中々有益な手じゃねえか。最初からこうしときゃあ善かったんだ」
そこに至って、俺は初めてこの誘拐犯達の素性に思い至った。先日の襲撃、その同一犯のグループだ。昔、中原さんと太宰さんに相当ひどい目に遭わされた。だから、二人を狙って毀損しようとしている。
部下である俺を人質にとって。
俺は死なねえよ、と中原さんは笑っていた。だから自分の身を最優先にしろとも。
来てしまうだろう、と云う確信があった。
彼は来てしまうだろう。例え俺みたいな一構成員を助ける為でも。
心臓が悲鳴を上げて痛んだ。彼が、自分と太宰さんの身の安全と俺の命を天秤に掛けて、後者を優先するかも知れないその選択が辛かった。
本来なら、釣り合うようなものじゃない。
クズ石とダイヤモンドを比べるようなものだ。
「オラ、起きろ!」
失意の中で、俺は何時の間にか眠ってしまっていたようだった。我ながら図太過ぎないか。そう思う間も無く、髪を引っ掴まれ、引き摺るように車を降ろされた。太陽は既に頭上高く太陽が昇っている。
連れて来られたのは或る廃工場の二階の一室だった。先ず俺がタイルの床に跪かされ、次いで同乗していた男達が何時でも俺の頭を撃ち抜けるよう背後にずらりと並び、最後にリーダー格の男――先ほど助手席で電話をしていた男だ――がどかりと椅子に座って操作盤の電源を入れた。電気系統は生きているのか、幾つもあるモニターはどれも工場内部を仔細に映し出していて、寒さで凍えないよう部屋には暖房が回っている。
けれど俺の心は冷え切っていた。中原さんは、死なないと云っていた。そうだ。中原さんはこんな奴等には負けない。きっと此処へ来て、さっさと敵を殲滅してしまうだろう。幹部を相手に脅迫を仕掛けた愚行をその身に知らしめて。あの強力な異能で。そうしてこの件は解決するのだ。
運が悪ければ、俺一人の犠牲で。
そうだ、だから何も問題は無い。そう考えると、妙に気持ちが軽くなって、俺はつい笑ってしまった。
「……ふふ」
「……手前、何がおかしい」
「だって。無駄じゃあないか、こんなの」
そうだ、何も気に病むことは無い。
中原さんは来る。そして勝つ。運が悪ければ俺が死ぬ。
それだけだ。
「中原さんが来た処で何になるって云うんだ。お前達、中原さんを殺す手段を持っているのか? あの人は強い。お前等如きに殺されるほど、柔くない」
「おい、黙れ……」
「それに俺は新人だ。中原さんにとって替えの利かない人材じゃない。あの人は道義から助けに来るだろうけど、人質としての効果は薄い」そう、例えば人質に取られたのが先輩の誰かだったら、優秀だろうし長く中原さんについている分ノウハウもあるから失われるのは惜しいだろう。でも俺だ。「そんなことも調べられない奴等が、中原さんを殺せるとはとても思えない」
口に出すと、ますます自分が無敵のような気がしてきた。そうだ。此奴等には、中原さんと太宰さんへの復讐を果たすことなど出来やしない。
「全員、此処に来た中原さんにぶち殺されるのがオチだよ。これが面白くなくて何なんだ?」
俺は笑った。男達が、気味の悪いものでも見るような目で俺を見詰める中、リーダー格の男が成る程、と目を細めて立ち上がった。
瞬間、強烈な蹴りが、俺の腹に入る。
「ガッ……」
「なんか一つ、勘違いしてやしねえか?」
倒れ伏す。その後も脇腹に立て続けに蹴りを入れられて息が出来ない。何度も、何度も。
「誰が彼奴等を此処へ呼んだっつったよ? 折角だから教えてやるが、このモニターが映してる場所は此処じゃねえ。もう少し離れた別の倉庫だ。彼奴等を呼び出したのもな。当然だ、俺達が彼奴の異能をもろに喰らいに行くと思うか? アテが外れて残念だったな」
「は」
一瞬、言葉の意味を捉え損ねて目を見開く。
詰まり。
「彼奴等にはこの場所が判らねえ。助けは来ねえぞ。善かったな、手前はこの特等席で、彼奴等が俺等にぶっ殺されるのを見物出来るんだからよ」
まあその後手前も死ぬけどな、と云う下品な笑いが遠い。
詰まり、中原さんは此処には来なくて。
俺はただ死ぬだけ。
此奴等は野放しのままで。
「却説」
男がパキ、と拳を鳴らした。蹲った俺の側に、男の黒い影が落ちる。耳の奥で、A様の声が聞こえる気がした。嗜虐心を露わにした人の声。嘗て枷を嵌められていた首が疼く。
「彼奴等が来るまで殺しはしねえが――俺が約束したのは、殺さないってことだけだぜ。楽しもうじゃねえか、なあ?」
◇ ◇ ◇
体の痛みは慣れた、と思っていたけれど、矢っ張り痛いものは痛いし嫌だ。然し俺への暴行は、開始早々打ち切られることとなった。
中原さんが来たからだ。
モニターの中に、小柄な上司の姿を認める。表情が読めるくらい映像は鮮明で、一瞬その目を見てしまった俺はぞわと背筋を凍らせた。燃える金の瞳、鋭く心臓を一突きする視線。
ひどく殺気立っている。
隣には砂色外套の長身の男性が居て、そんな中原さんを意に介さずに肩を竦める様子を見せた。太宰さんだ。何故あの人が、と一瞬混乱する。そうだ、男は中原さんに、太宰さんと二人で来いと要求していた。然し、あの? 太宰さんが? 正直君の部下が死のうが私にとっては知ったこっちゃないし寧ろ人件費浮いて善いんじゃない? 私これから旬の木苺を摘みに行くのに忙しいのだよとか云って俺達のことを普通に見捨てそうなあの太宰さんが?
失礼なことを考えていると、ちら、と端のモニターの中の太宰さんと目が合った気がしてついサッと視線を逸らす。いや、そんな筈は無い。あのモニターに映っているのは隠しカメラの映像の筈だ。現にもう俺が向き直ったときには、太宰さんは正面のカメラを向いていたのだから。
一応無礼は黙って胸の内に仕舞う。
でも、太宰さんが居るなら安心かも知れない。彼が横から、いや、部下なんて見捨てちゃおうよと云って、そうして中原さんがああそうだなと頷けば、中原さんは俺に構わず全力を奮って連中を打ち倒し、堂々と凱旋を果たすだろう。モニターの中では、連中の仲間と思しき複数の黒服がお二人を取り囲んでいた。中には最初に襲撃してきた黒服も居る。
なのに太宰さんは黙ったまま、表情は何処か神妙だ。
中原さんが、口を開く。
『……部下は無事だろうな』
ザザッとスピーカー越しに聞こえる声はひどく冷ややか。男もインカムに向かって話し掛ける。
「ああ、無事だ。最も、今日一日無事で居られるかはこれからのお前の行動に掛かっているがな」
『……俺の部下にちょっとでも手ェ出してみろ。手前等全員皆殺しにしてやるから』
「おお、怖いねえ。幹部殿にはこっちの居場所までお見通しらしい。……おい、あれを」
男の一声で、一人の黒服がモニターの中で中原さんの前に進み出た。手に持った銃を地面に置き、中原さんの足元へと滑らせる。
何の心算だろう。これからお前達を蜂の巣にする、と云う宣言だろうか。無抵抗な二人への銃撃。それでも、中原さんにはあの強力な異能がある。中原さんならきっと大丈夫だ。常人では、あの人に掠り傷一つ負わせられないだろう。
そう高を括っていた。
男の次の一言を聞くまでは。
「それで隣の男を撃て」
「……は」
一瞬、時間が止まった。
その言葉を聞いた中原さんが、モニターの中でゆっくりと視線を移す。自分の足元へ。次いで、自分の隣へ。
中原さんの隣に居るのは。
太宰さんだ。
「……――!」
「お前がその男を殺せ、中原。そうすれば、部下の命だけは助けてやる」
中原さんと太宰さんは、じっと目を見合わせた。その視線の間にどんな言葉が交わされたのか、俺が聞くことは叶わない。ただ、何かの確認が成されたのは確かだ。
軈て、中原さんがモニターに向き直る。
『……んなこと』静かな声。『出来る訳、ねえだろう』
「ならお前の部下が死ぬだけだな」
ごり、と俺の頭に銃口が押し当てられる。ひ、と漏れる声は俺のものだ。
詰まり、中原さんが太宰さんを撃てば。
俺は助かる。
太宰さんの命と引き換えに。
恐怖と、それ以上の何かが、無い筈の首輪の痕を辿って俺の首を締め付けた。それで善いのか。善い訳がない。けれど如何しようも無く震えが止まらなかった。一瞬後には頭に風穴が空いているかも知れないのだ――今保っているこの意識が、強烈な痛みと共に消滅して、自分が何者でもなくなってしまうのは怖かった。首輪を嵌めていたときと同じ。断頭台に居るようなものだ。
けれど俺が助かりたいと願うことは。
中原さんに太宰さんを殺して欲しいと願うことだ。
――でも、恋人じゃあなかったな。
そう云った中原さんの、少し寂しそうな横顔を思い出す。中原さんにとって、太宰さんは何よりも大事なものの筈だった。俺なんかとは比べものにならないくらい、絶対的な存在だ。
だから一蹴して、俺なんか構わずに暴れて呉れて善かった。
俺の方を殺して呉れ。
そう思った。
なのにモニターの中の中原さんは、足元に滑らされた銃をゆっくりと拾い上げる。
『……俺に。太宰か部下かを選べってのか』
「善いな、その顔! 貴様のその顔が見たかったんだ、中原中也! マフィア幹部が、ザマァ無いな!」
『手前……』
ぎり、と歯を食い縛る音さえ聞こえるようだった。けれど中原さんは、拾った銃を手放そうとしない。どころか、そのまま真っ直ぐ太宰さんの方に向き直る。
「やめろ……」
誰に向けるともなく、掠れた声が出た。
「俺を」俺は懇願した。喉がきりきりに引き攣れて、声が震えた。「俺を、撃って呉れ……頼む……中原さんが、部下を大事にしてるって云うなら、その方が、よっぽど」
「黙れ」
「っぐ」
銃の台座で殴られ、衝撃に一瞬意識が飛ぶ。そこに降ってくる、男の嘲笑うような声。
「善いか、手前も如何せ後でゆっくり殺してやるんだ。それまでの間、上司の無様な姿でも目に焼き付けとくんだな」
なら、尚更中原さんが太宰さんを撃つ必要なんて無い。
なのに、中原さんは太宰さんに銃を向ける。
『……太宰』
縋るような、救いを求めるかのような弱々しい声。
やめてくれ。
貴方がそんな声を出さないでくれ。
『太宰……俺、俺は』
『……善いよ。中也』
太宰さんはただ微笑んで、中原さんの手を握った拳銃ごとそっと両手で包んだ。その声は信じられないくらいの優しさを内包していた。
俺は耳を疑う。
如何して貴方まで、俺を見捨てて呉れないんだ。
『部下を死なせたくないんだろう。自分の所為で、誰も死なせたくない。判ってる……君の気持ちは、私が誰よりも善く知ってる。でしょう?』
太宰さんが、中原さんの目を覗き込むように身を屈めた。中原さんが、顔を逸らして目を瞑る。
『……手前はわかってねえよ』
落ち着いた太宰さんの声とは裏腹に、中原さんの声はガラスを引っ掻いたようにひどく痛々しい。
『手前はなんにも、判ってねえ……』
太宰さんは、中原さんのその言葉には触れなかった。ただ踊るように、そっと中原さんの手を取って導いた。
自分の胸に。
銃口を。
『仕方無いさ。ちゃんと部下を救ってあげなね。……それに、君に殺されるなんて本望だな』
『太宰、俺は』
『あいしていたよ、本当に』
「やめろ……やめてくれ……」
見ていられなくなってモニターから目を背ける。
「あの人にとって大事な人なんだ、何よりも大切なんだ、だから――」
「やれ!」
パン、とモニターの中で一瞬閃光が弾けた。
どさ、と崩れる、太宰さんの体。
床にじわじわと広がる、赤黒い染み。
「あああぁあぁ‼」
俺が。
俺が殺させたのだ、中原さんに、太宰さんを。
モニターの中の中原さんは、太宰さんの体を抱くことも無く、ただ放心したように虚空を見上げた。ぶらんと切れたゴムみたいに、銃を持つ腕が下がる。その目は悲しみも怒りも映していない。敵に向ける殺意も、気をつけて帰れよと俺に向けた晴れやかな笑顔も、もう何も映すことは無いのだ。
ただ糸の切れた人形のような茫洋とした表情。
中原さんを、あんな風にしてしまったのは。
俺だ。
心臓が何度も小さく爆発していた。耳鳴りがひどい。取り返しが付かないじゃないか。俺が攫われさえしなければ、こんなことにはならなかったのに。俺さえ居なければ。
俺が配属されなければ、俺がA様に殺されていれば。
こんなことには。
俺、俺が。
不善に脳裏に、呪いの言葉が響く。
――死にたくなったら、それを思い切り噛むと善い。
――そうすると砕けて毒が流れ出す。
――なんと、一思いに死ねるよ!
中原さんが黙って自分の頭に銃口を向ける。
俺さえ居なければ。
「うっうわあああ‼」
俺は必死に、奥歯のそれを噛み砕いた。
――キィ――ィ――――ン……――
音叉を叩いたような静謐な音が、辺りに響き響き渡った。
音源は俺の奥歯だ。小型の音響弾のような音。
俺は未だ生きていた。口の中に、毒は流れ込んでこない。
毒じゃないのか。
あの法螺吹き。
俺は一気に脱力してしまった。黒服の一人に「くそっ」と蹴り飛ばされて、無抵抗のまま慣性に任せて床を転がる。死にたい。鬱屈とした気持ちの中で、視界にどろりとした黒いものが溢れ出す。もう。何もかも如何でも善い。じわじわと、部屋の中を黒いものが侵食していって、黒服達を塗り潰す。死ななければ。俺の心の暗い部分が、どんどんと目の前を満たしていく。次第にその黒いものは刃の形を取って、黒服達を襲って――。
……いやこれは。
はっと我に返ると、黒服達の悲鳴が確かに聞こえた。その黒い物体を相手に必死に撃退しようと、或る者は発砲し、或る者はナイフを振り回している。
俺の幻覚じゃあない。
部屋を縦横無尽に走る、それは黒い布だ。
一閃、壁が切り裂かれる。
「羅生門!」
「月下獣!」
モニタールームに一対の白と黒の影が飛び込んで来たかと思うと、瞬く間に黒服達を全員伸してしまった。ついでに俺も殴り倒されそうになって、逃げ腰になった処を着物の少女に抱き抱えられて間一髪で躱す。
「おい、芥川! 勝手に動くなよ、太宰さんに協力しろって云われてるだろ!」
「笑止。人質を救うのによういドンで運動会ごっこでもする心算だったか? 第一、協力するのは貴様が音響弾の鳴った場所を聞き分けるまでだ、それ以降の協力関係を了承した覚えは無い」
「減らず口を……! お前一人じゃ此処まで辿り着けなかったんだぞ!」
「貴様とてその貧弱な虎の爪では到底此処を制圧など出来なかったろう。僕に感謝するんだな軟弱者」
「お前の方が体力無いだろ……!」
「性根の話だ! 第一、貴様のように体力だけあっても何の意味もあるまい!」
急に目の前で多分低レベルな云い争いが繰り広げられて、何が何だか判らなかった。しかも二人の少年のうち一人は、俺の見知った人間だ。芥川さん。上級構成員の。如何してこんなところに。
取り敢えず「あ、ありがとう……ございます……?」礼を云うと、芥川さんにギロリと睨まれた。あっ駄目だ。死神のようなその形相に、俺は再度死を覚悟する。成る程、敵に囚われた愚かな構成員を始末しにきたに違いない。そう目を瞑った俺の耳に、今度は善く知った声が飛び込んできた。
それと新たな乱入者が駆ける跫音。
「新人ーッ! 無事かーっ!」
叫んで飛び込んできたのは、手に手に銃を持った同僚達だった。白い方の少年が、部屋に雪崩込んできた新たな黒服達の出現に目を白黒させている。
「ポートマフィア……⁉ あ、芥川、お前が部下を頼るなんて、明日は槍でも降るのか……?」
「……違う。僕の部下ではない」
芥川さんが首を横に振る。
そう。彼等は、中原さんの部下だ。
俺達は。
「せんぱ……むぐ」
何かを云い終わる前に勢い善く飛び付かれてハグされた。着物の少女がすっと支えを放棄したので、後ろ手に手錠を掛けられている俺は碌な抵抗も出来ずに倒れ込み、後頭部を強かに打ち付ける。
痛い。
「お前ーっ何攫われてるんだーっ!」
「先輩そんなこと云って先刻までメチャクチャ心配してたくせに~! まあ兎に角無事でよかったっす! 俺もう葬式で号泣する先輩の鼻かんであげるのヤなんで」
「縁起でもないことを云うんじゃない。いや、だが……居場所の解析が間に合って善かった……」
同僚達に代わる代わる抱き締められ、敵に殴られた体の節々が痛んだ。そのときになって、漸く俺は、ああ、助かるんだ、と実感を持って事態を受け入れることが出来た。強張っていた体から力が抜けていく。彼等は俺を助けに来て、そして俺は死ななくて済んだんだ。
然し、一緒になって喜ぶことは出来なかった。
だって、俺の所為で太宰さんは死んでしまったのだから。
『まったく、随分騒がしいね。君等を呼んだ覚えは無いけど?』
そのときスピーカーから聞こえたのは、聞き覚えのある声だった。俺はぽかんと口を開ける。
ついでに同僚達がゲッと顔を顰めた。
如何して、貴方の声が聞こえるんだ。
中原さんに撃たれて死んだ筈なのに。
『君、間抜け面は止めなよ。そんなんで中也の部下が務まる訳?』
此処に居ないのだから、俺の表情が判る筈も無いのに、その人ははっと鼻で笑って見せる。
まるで何もかも見通しているみたいに。
モニターの中の、太宰さんは。
『あーあまったく、信じられない。普通私から撃つ? シャツがどろどろ。これ、洗濯しても落ち難いのだからね』
「……太宰、さん……?」
驚き過ぎて、危うく目玉を取り落とすくらいモニターをまじまじと見詰めてしまった。その人は、胸元を血で真っ赤に染めながらカメラの中央でひらひらと手を振っている。先程まで、死んでいたとはとても思えないくらいに。
撃った張本人も、先程の悲痛さなど何処吹く風だ。
『シャツくらい捨てりゃあ善いじゃねえか』
『それもそうだ。じゃあ脱いで善いかな……?』
『はいはい、さっさと風呂入りに帰るぞ』
元相棒の男を適当に往なし、最後にモニターに映ったのは中原さんだ。周囲の地面にはばたばたと黒服達がまるでドミノのように倒れ伏している。中原さんは傷一つ負ってない。当然のように。
ぐい、と急にフレームに中原さんの手袋が映り込んだ。モニターの映像が上下に動く。如何やらカメラの角度を調整しているらしい。丁度善い角度を見つけたのか「よし」と小さく呟いて、ついでに帽子の角度も少し整えて、画面いっぱいに俺達に無事な顔を見せ。
中原さんは、安堵したようにほっと笑った。
『――ほんとに御免な!』