【再録】秘密のふたり



  二.


「やァ、お早う」
 その翌日、涼風のような声をさせて爽やかに仕事場に姿を現した太宰さんが、何だか此処数日で善く嗅ぐ機会があったのと同じシャンプーの匂いを漂わせていたので、俺は全てを察してしまった。
 中原さんはしないって云ってたのに。
 その中原さんは今は首領に呼ばれて席を外されている。
 代わりに応対するのは先輩の一人だ。この中では一番の古株の。ぴりぴりと殺気立つ部下陣を代表して、苦り切った顔で形ばかりの礼を取る。
「如何してきさ……貴方が此処に……」
 いや、形が取れているかも割と怪しいけれども。
 ふん、と太宰さんも鼻白む。
 態と挑発するかのように。
「私に云わせれば、寧ろ君達が如何して此処に居るのか、だよ。君達、ほんとに自分が中也の部下に相応しいと思っているの? 私達、昨日襲撃されたのだよ。誰か一人でも情報を掴んでいた?」
「それは……」
 嫌な云い方だ。然し正論で、隙が無い。先輩が悔しそうに云い淀む。常日頃から中原さんの一番の部下ですと豪語し(て適当に流され)ている彼にとっては、その言葉は屈辱以外の何ものでもないだろう。
 でもそれは彼に限らない。この場の誰もが皆同じ思いだ。或る者は太宰さんから目を逸らし、或る者は剣呑に太宰さんを睨んでいる。
 そう、俺達は中原さんへの襲撃を事前に予測出来なかった負け犬だ。
 ……成る程。
 俺は次に取るべき自分の行動を理解する。汚れ役を引き受けるのは新人の役目だろう。ふふん、と優越感を漂わせる太宰さんと先輩の間に、ずいと強引に割り込んで話の続きを引き取る。
「太宰さん、昨日、中原さんの家に泊まられたんですよね。中原さんの忘れ物を届けに来られたとかですか」
 何気無く、ボールを投げるようにぽんと訊いた。途端沈んでいた空気が一変して周りがぎょっと俺を見る。
 完全に、うっかり地雷の埋まっている地面をそれと知らず踏んだ哀れな新兵を見る顔だった。視線が妙に生温い。
 そんな中、太宰さんも黒々とした目でじっと俺を見る。

 自殺嗜癖の探偵社員、と云うのが、帰りの車の中で聞いた『太宰治』の情報だった。それ以上は聞けなかった。素性も、中原さんとの関係も。中原さんが、あまり教えたくなさそうだったからだ――口には出さなかったが。ただ、此奴が道端でいきなり死んでても驚かなくて構わない、それが此奴の趣味だからと云う。
 いや、自殺が趣味って。俺はぼんやりと、お二人を後部座席に乗せた車を走らせながら前の主のことを思い出していた。一介の探偵社員がマフィア幹部の『元相棒』と云うのが如何云うことだか判らなかったが、そんなに死を望んでいて、A様のことも知っているなら、あの人に首輪をつけて貰えば善かったのに、と思った。そうしたら直ぐに死ねただろう。間違い無く、俺達の部隊の人間はポートマフィアの組織の中で一番死に近かった。何時だって絞首台の天辺に居たようなものだ。俺が死なずに生き延びてしまったのはただの運。A様が死ななかったら、次に綺麗な宝石になっていたのは俺だったのかも知れなかった。そうならなかったのは、単に運が善かっただけ。
 ……でも、本当にそうだろうか。
 何も無い首を擦る。先刻、中原さんの異能を受けたとき。俺はあのとき、咄嗟に死にたくないと思ってしまった。死ぬのが怖いと。
 でもそれはA様の処に居たときには無かった感情だ。
 だってそんなこと、一々感じていたらとてもじゃないが身が持たない。何時死んだっておかしくない、それは普通のことだと云い聞かせて生きていた。諦めることが、出来ていたんだ。
 なのに先刻は咄嗟に助けを求めた。
 俺は死ぬことが怖いと知ってしまったのだ。これは幸運なのだろうか。死ぬことに怯えて暮らすより、恐怖の無いまま死んでいた方が幸福だったんじゃあないだろうか。
 そして疑問がもう一つ。
 こんなにも、俺にとって死は怖いのに。
 この人は、死ぬのが怖くないんだろうか。
 人生の幕引きを切望して止まない澱んだ黒い瞳を持つ人。
「……君、Aの処に居た割には物怖じしないね」
 太宰さんは、俺の目をじっと覗き込んだ。俺の方が幾分か身長が低かったから、太宰さんの首を傾げるのに合わせて蓬髪が揺れるのが見える。俺はその視線を、少し避けて答えた。
「人間、如何せ何時かは死ぬんで……」
 そう、それが俺のスタンスの筈だ。人間、如何せ何時かは死ぬ。それはどれだけ足掻こうと逃れようの無い事象で、だからそのときが来たら出来るだけスムーズに生を手放せるよう、肩の力を抜いて、何もかもを諦めて生きた方が心情的に大分楽だ。
 なのに如何して、昨日は。
「……ふぅん? あ、そうだ、おいで」
「? はい」
 俺は素直にその言葉に従って、はらはらと同僚達の見守る中、太宰さんの元に数歩歩み寄る。
 と、ガッと口の中に指を突っ込まれた。
「⁉ あ、が、何」
 それも親指だ。それから反対側の指を二本。何か固いものを奥歯の奥に押し込まれる。
 俺は目を白黒させた。何せ歯医者以外で他人に口の中を弄られたことなんて無かったし、こんなに口を開けさせられたのは親不知を抜いたとき以来だ。俺の口は急な大渋滞に対応し切れず、唾液がぼたぼたと太宰さんの細い指を伝って落ちる。
 同時にがちゃ、と聞こえる安全装置の解除音。同僚達が一斉に銃を向けたのだ、と判った。
 俺の目は依然、太宰さんの酷薄な笑みに、蛇に睨まれた蛙のように釘付けだったが。
「……後輩を離して下さい」
「麗しい同僚愛だ。まぁ、此処で飛び出さないと、先輩失格だものね? 体裁を守る善い行動だ」
「そんなんじゃねえっす」別の同僚が答える。「今オレの頭にあるのは、今此処でアンタを殺せば正当な理由が出来るってことだけだ」
「ふふ、中也に対しての? そう云うの、せこせこ考えてるから何が本当に中也の為か見落とすんじゃないのォ」
「本当に中原さんの為を思うなら今直ぐアンタを此処で殺してんだよ……!」
「ならそうすれば。出来ないのは中也が悲しむからなんて御大層な理由じゃなく、ただ中也に軽蔑されたくない自分の保身の為でしょう」
 殺気が膨れ上がる。けれど無数の銃口と殺意を向けられてなお、太宰さんは物ともせずに笑っている。
 俺の口の中に何か突っ込みながら。
「……まあでも、君等と違って彼は中々見どころがある」
 と、突っ込まれたときと同じくらい唐突にぱっと解放された。俺はえづいてその場に膝立ちで蹲る。一体何だったんだ。ひたすらの混乱。
 見上げると、同僚何人かの心配そうな視線。それと、太宰さんがハンカチィフ――何だか中原さんが何時も持っているものに似ているが気の所為だろうか――で、手に付いた俺の唾液を拭いている。
「却説、"それ"はそんな君へのプレゼントだ。死にたくなったら、それを思い切り噛むと善い。そうすると砕けて毒が流れ出す。即効性だ。なんと、一思いに死ねるよ!」
「いや。毒?」素っ頓狂に声が裏返る。「太宰さんと違って、俺はそんなもの要りませんよ!」
 それに、今の俺に限って死にたくなる、なんてことは有り得ない。
 なのに太宰さんは見透かしたように云う。
「それは如何かな? 折角だから受け取っておき給えよ。私が人にものをやるなんて、滅多に無いことだよ」
 そのとき、ガチャと扉が開いた。この部隊の主が帰ってきたのだ。太宰さんと俺を取り囲むように銃を構えていた同僚達が、皆何事も無かったかのようにさっと手を後ろに回して礼を取る。俺も慌てて立ち上がりそれに倣った。太宰さんだけが微動だにしない。
 けれど何か揉めていたことは一目瞭然な訳で。
「……何やってんだ手前等……」
 全てを察したのか、中原さんが深々とした溜め息を吐いた。それから、「全員仕事に戻れ。席外して悪かったな」と俺達を散らすように手を振り、太宰さんに歩み寄って――そのループタイをぐいっと掴んだ。
 ぐえっと太宰さんの喉が絞まる声がする。
「……で、手前は何でこっちの部屋に来てる。捕虜んとこ居ろっつったろうが」
「あ、ひどいな。私をあーんなに辛気臭い部屋に閉じ込めておこうだなんて」
「ドブ臭え場所は得意だろうが。……で、拷問の成果は」
「拷問なんて人聞きが悪いなあ、止めてよね血の匂いしないでしょ。ちょっと丁寧に聞いただけだよ……」
 太宰さんが袖口を中原さんの鼻先に寄せ、中原さんが疑り深い目でそれをくんくんと嗅ぐ。太宰さんは笑ってそれを見ている。仕事に戻れと云われたにも関わらず、俺はデスクに戻ってからも、何となくそんな二人の姿を目で追っていた。
 太宰さんが囁くように中原さんに耳打ちをして、ついでにちょっかいを出し。
 中原さんはそれを邪険に払うが、決して乱暴な仕草ではなく。
 其処に先日、俺や敵の黒服に対して身も凍るような殺気を纏わせた強者然とした空気は無い。
 太宰さんも先程の嫌味で不遜な態度は何処へやら、ただ猫のじゃれるように中原さんの腕を掴んでいる。
 何と云うか。
 距離が。
 近い。 
「……あの」
「中原さん」
 俺が何か云う前に、ぐいと割って入った影があった。先輩の一人だ。先程太宰さんの応対をしていた。今は手に紙の束を持っている。
「昨日の襲撃犯についてお調べした資料をお持ちしました」先輩が、ちらと太宰さんの方を見ながら、然し感情を露わにしないよう淡々と云う。「……差し出がましいながら、機密事項なら中原さんのオフィスで話された方が善いかと」
 中原さんは、ああ、と今それに気付いた、と云う顔をした。頷く。
「そうだな、悪い。またなんかあったら呼ぶ」
「私が呼んだら三秒で来なよ」
「おい、俺の部下だぞ」
 そう云い合いながら、中原さんと太宰さんは奥のオフィスへと消えていった。
 ……何を見せられてたんだろう。
「あのー……」
「新人んんん」
「ぐえ」
 今度は何か云う前に、同僚の何人かに囲まれてぎゅっと強めにハグされた。云っては何だが正直いかついサングラスの黒服集団に囲まれるのは普通に怖い。俺は必死に抵抗をして何とか黒いスーツのもみくちゃから脱する。
「怖かったなあ! 済まない、守ってやれなくて……」
「いや……若し俺が同じ立場なら一目散に逃げたと思うんで……」
 大丈夫です、と頷く。実際、例え『同僚としてそうするのが正しい』と云う社会的な立場があったとしたって、自分がこんな新人の為に、果たして太宰さんに銃を向ける度胸があったか如何かは判らなかった。A様の処に居たときなら確実にしなかった。マァ、A様も奇行はあれど部下の口に手で何かを突っ込むなんてことはそうそう無かったけれど。
 何か――そう、毒、と。
「先輩、鏡持ってないですか」
「あ、オレ持ってるよ」
 ほい、と投げられた手鏡に慌てて口を映して覗き込む。舌で奥歯を撫でると、何となくヒヤリとした感触はあるものの中々上手く吐き出せない。
 ――死にたくなったら、それを思い切り噛むと善い。
 ――なんと、一思いに死ねるよ!
 口の中に何時でも噛み砕ける毒がある、と思うと当たり前だが全く落ち着かなかった。詰まりそれは、俺が思い切り力を入れれば、俺の意思と関係無く毒が口の中に流れ込むと云うことでもある。死にたいと、思ったか否かに関わらず。例えばトイレで気張ったときに間違って噛んでしまったら如何するんだ。
 便器の上でうっかり服毒。
 嫌だ。
「ところで――お前にも情報を共有しておくぞ」毒を何とか口から出そうと四苦八苦する俺を横目に、先輩が続ける。「昨日の奴等は恐らく以前『双黒』に潰された組織の下位組織に所属していた連中だ。中原さんと太宰さんの被害を直接は被っていないようだが、親組織の壊滅によって資金繰りが悪化、金を返済出来ず質の悪い組織に潰されている」
「ほあ」
 間抜けな声を出すと、双黒ってのはあのお二人の昔の呼び名ね、と解説が入る。この辺りの組織は違法な取引を生業としている者も多い。当然、金の借り先は正規の銀行とはいかない。
「その際、相当ひどい目に遭わされたらしいな。昨日お前が持ち帰ってきた男は、其処の元構成員だ。恐らく逃げたもう一人の男も、その元締めも。……組織的に動いているなら、総勢二十名程度と考えられる. 目的は復讐だろう」
 成る程、と俺はただ頷くばかりだった。
 なるほど、だから二人を狙ったのか。
 然し、尋問で吐かせた情報を果たして太宰さんが此方に共有したのだろうか。先程の嫌な笑みを思い出す。あの人が、そんなことをするようにも思えなかったけど。
 俺の視線に気付いたのか、先輩がにやりと笑って自分の薄型端末を指差す。
「中原さんをお守りする方法は、何も戦闘で矢面に立つだけじゃあないってことだ」
 それは中原さんのあの言葉を意識してのものだった。『俺を守ろうとしなくて善い』。でも、その言葉に素直に甘える訳にもいかない。自分達に出来る範囲のことを。そう云う発想が無かった俺は、素直にこの先輩のことを頼もしい、と思った。
 頼もしくて、俺はつい追加ではい先輩と手を挙げる。
「一つ訊いても善いですか」
「善いぞ。何でも訊いて呉れ」
「太宰さんって中原さんの何なんですか。元相棒って」
 云ってましたけど。
 云い終わらないうちに先輩の表情が見る見る凍り付く。
 俺は悪くないよな、と咄嗟に思う。何でも訊いて呉れと、云ったのはこの先輩だ。
 重々しい頷き。
「……………………その通りだ。元、相棒でいらっしゃる。昔、一緒に仕事をしていらっしゃった」
「中原さんが探偵社だったんですか? それとも」
「太宰さんが、ポートマフィアだったんだ。ああ見えて五大幹部だった。当時、中原さんより地位は上だ」
 成る程、とほぼ全ての事象に合点が行った。だからA様のことも知っていたし、あんなに鷹揚な態度を取ることが出来ていたのだ。「あの人は、若年ながらマフィアで莫大な功績を挙げていた。けれど四年前の或る時期を境に突然失踪され、気付いたときには探偵社員になっていたんだ。理由は……判らない。……俺達には、知りようの無いことだ」
 若しかしたら、中原さんは知っているのかも知れないが、とでも云いたげだった。太宰さんは、中原さんにだけはその理由を告げたのかも知れないが。
「付き合ってたんですか」
 豪速球を投げた。
 先輩の目玉が飛び出んばかりに見開かれた。
「――ァ――は――何――誰が――誰、と」
 先輩がはくはくと、酸素の切れた金魚みたいに喘ぐ。誰が誰とって。俺の質問は明白だった筈だが、先輩はまるでブリキ人形みたいにギギ……と首を揺らし、回答を拒んだ。
 現実逃避以外の何物でもなかった。
 軽薄そうな先輩の一人が、面白がるような口調で口を挟む。
「矢っ張りお前もそう思う? 思うよなあ……いや、オレは反対だしあの人の方には出来れば死んで欲しいんだけどさー。でもまあ、中原さんがアレと付き合ってた現実は事実としてあるよな……今は如何か知らねえけど。敵同士だし。一応」
 もう一人、別のスキンヘッドの先輩が固まった先輩の背中を擦ってやっている。此方はひどく神妙な顔だ。
「おい、新人にもバレてるじゃないか。もうそう云う体で接した方が善いんじゃないのか」
「みっ――認められるか……ッ! 中原さんが、あんな男と交際をなどと……ッ!」
 あ。復活した。
 ダン、と机が拳で激しく叩かれる。ちょっと涙声だ。
「そうは云うが、それが中原さんの選択なら俺達が尊重せん訳には……」
「嫌だーッ! 中原さんは清楚で聡明な良家のご息女と清いお付き合いの末ご結婚されるんだ! 子どもは二人が善い! 海の見える屋敷で新しい家庭を築かれるんだ! 時々お子さんの写真を見せて頂くんだ……!」
 軽薄そうな先輩が肩を竦めて云う。
「子どもみたいな駄々捏ねないで下さいよ先輩」
「幸せな光景がベタ過ぎるし捻りが無くないか?」
 スキンヘッドの先輩からの突っ込みも割と容赦無い。
「そもそもそんないい感じのお嬢さんのアテあるんすか?」
「あったら疾っくに見合い写真を揃えてるに決まってるだろ! くそっ、かくなる上は俺が良家になって娘を産むしか」
「今からだと大体二十五歳差だな」
「先輩、元気な娘さん産んで下さいね」
 毒は結局、吐き出すことは叶わなかった。

     ◇ ◇ ◇

 幸いにも、太宰さんが俺達の仕事場に姿を見せたのはその一日だけだった。或いは、中原さんがもう来るなと制止していたのかも知れない。険悪になるから止めておけと。
 けれど出勤してくる中原さんの言葉の端々から、太宰さんが相変わらず中原さんの屋敷に寝泊まりしている様子は伝わってきて。
 存外逃げ隠れが上手いのか、中原さんと太宰さんを狙った連中の拠点は未だ見付かっていなくて。
 そして俺達のオフィスの備え付けの救急箱からは、胃薬が急速に減っていった。

 その日も俺は業務を終えて、帰路に就こうとしていた。お疲れ様です、と受付の事務の女性に頭を下げて本部を出、警備員の男性にも挨拶しながら正面ゲートを潜ろうとして――ああ、そうだ、今日は違うんだったとくるりと踵を返す。
 ここ数日、決まって見慣れないバンが駐車場の正面入り口に付けていて、車が出し辛いったらないのだ。何時も居るのかは知らないが、俺の退勤時間前後は頻繁に。だから正面ゲートから遠い方の、もう一つの入り口から出られるように今日は車を停めていた。あれは誰かの送り迎えだろうか。マァ、続くようなら警備に連絡して、退去を促して貰おう。
 そう思いながらキーを取り出して、通用口に回ろうとしたところでばたりと中原さんに出くわした。
 中原さんも、外套を着て、外出なら先ず持たないバッグを手にしている。周りには誰も連れていない。
「お。今帰りか」
「はい。中原さんも?」
「ああ」そう云うと、中原さんは、そうだ、と正面ゲート脇の休憩スペースを指差して云った。「善かったら一服してかねえ?」
 中原さんの提案に、俺は一も二も無く喜んで通用口へと向かっていた体を引き戻した。向かうのは敷地のはずれだ。休憩スペースと云っても、精々自販機が何台かあって、灰皿の周りに幾つか腰掛けられるオブジェがあるだけ。昼下がりには休憩に来る構成員もそこそこ居るが、肌寒い季節であることもあり、日の暮れ掛かっている今は誰も居ない。
 其処に、中原さんと二人腰掛ける。
「飲みもん何が善い? 奢ってやるよ」
「善いんですか⁉ じゃあカフェオレで……そう云えば中原さん、今日は車じゃないんですか? 何時もこっちじゃなくて通用口から出てますよね」
「今日はアイツに使わせてる。人虎――いや……同僚に用があるっつってたから、多分、今頃は探偵社だろ」
 アイツ。中原さんがそう親しげに呼ぶ相手は、残念ながら一人に限られる。先日「襲撃に備えて暫く一緒に行動することが増える」と俺達に共有したからか、中原さんはあまり隠すこと無く太宰さんのことを話すようになった。最近同僚皆が荒れている原因でもある。器用にも、皆中原さんに気付かれないように荒れているので、中原さんにはご自分の発言が部下にどんな影響を及ぼしているのか、恐らくあまり自覚が無い。
 俺が思わず渋面になったのを見て、中原さんが笑う。
「この前は散々だったろう。悪かったな」
 ガコン、と缶珈琲が二つ、自販機の取り出し口に落ちる。中原さんのはブラックだ。
「いえ……。あの。一つ質問しても善いですか」
「答えられることなら」
「太宰さんと中原さんって、付き合ってたんですか」
 沈黙が落ちて、風の音が妙に大きく足元を浚っていった。
 別に、明確な回答を得られなくても善かった。ただ、今のところ俺の元には噂レベルでしか話が入ってきていなかったから、中原さんに対して如何云うスタンスを取って話せば善いのかは判っておきたかった。付き合っていた前提で話して善いのか、それとも隠しているのなら、知らない振りをしておいた方が善いのか。
 中原さんは直ぐには答えなかった。ただ無言でプルタブを引き、カシュッと珈琲を開封しながら、ちら、と横目で俺を見遣る。
「……昔か? なんでそう思う?」
「雰囲気が、なんかそんな感じかなって」
「他の奴らは?」
「あー……なんかあんまり触れたら駄目かなって、皆さん話題を避けてますけど、薄々そうだろうなーって思っている派がほぼ全員、絶対信じたくない派が一名っす」
「へえ」
 中原さんは愉快そうな笑みを浮かべながら、懐から煙草を取り出した。あ、とつい癖でライターを差し出すと、ちらりと帽子の縁から金の瞳が覗く、その色に一瞬目を奪われた。ん、と目を細めて煙草の先を差し出す、無防備な仕草。
 夕焼け空に、細く紫煙が揺れる。
 ……何だか少し、熱い。
 俺は少し深呼吸をして、ざわついた鼓動を静めた。カフェオレを一口。その間も中原さんは、慎重に言葉を選んでいたようだった。逡巡の後、そうだな、と前置きが入る。
「……相棒ってえ関係が、恋人みたいなもんだと捉えるならそうかもな」中原さんは、一言一言、区切るように云う。「寝食は共にしてた。あの頃は、お互い何考えてるか大体判ったな。誰よりも近い距離に居たのは事実だ。それこそ、一般的な恋人や親兄弟なんかよりも」
 中原さんは、俺への説明と云うより、まるで独白でもするみたいに、確かめながらその事実を話す。
 じっと遠く、ビルを行き来する人達を眺めながら。
「でも『恋人』じゃあなかったな。……あの頃は別に、そうなる必要は無かったんだ。関係性に他の名前を付ける必要は」
 そう告げる中原さんの目元は、どこか柔らかい光を帯びている。
 ああ、と俺はすとんとその理解を受け入れた。多分、付き合っているとか付き合っていないとかは、きっと些細なことなんだ。
 中原さんにとって重要なのは、ただ太宰さんが側に居るか如何かで。
 俺はそれ以上、過去を詮索するような真似はよそう、と口を閉ざした。何より無粋と云うものだ。それは中原さん自身が奥底にしまっていた感情であって、俺が一時の好奇心で暴いて善いものではない。
 そう思って止めて――次の質問をする為に、真っ直ぐ虚空に手を伸ばす。
「はい先生。相棒のヨリは戻したりしないんですか?」
「お前、結構ぐいぐい来るよな」中原さんが笑う。言葉ほど声音に拒絶の色は無い。「つーか、相棒じゃなくなったのはアイツがマフィア辞めたからなんだよ。アイツの意志が無えんだから、ヨリは戻んねえだろ」
「でも太宰さん未だ中原さんのこと気になってますよね」
 云うと中原さんが吹き出す。
「くく、お前それ最高。今度アイツにも云ってやって呉れよ」
「太宰さん中原さんのこと好きですよねって? 俺今度こそ横濱湾に浮べられません?」
「いや……うん……」
 中原さんが、流石にそれは、と云い掛けて口を噤む。
 ……浮かべられるんだ。
 飲み終わったブラックの缶珈琲が、ふわっと宙に浮いてゴミ箱に吸い込まれていった。灰皿に押し付けられる吸い殻。中原さんが立ち上がる。
「で、手前は? なんか善い相手居ねえの」
「え。居ませんけど」
「おい」
 すっと声にドスを利かせた中原さんの目が据わって、俺は思わず後退った。毎回思うが、中原さんの睨みは迫力があり過ぎる。幾らこの何分かで僅かながら親交を深められたような気がするとは云え、怖いものは怖い。
「俺にだけ話させといてそりゃねえだろ。また訊くからな。次までに絶対ェ善い相手見付けとけよ」
「えー」
「上司命令」
「探しときますぅ……」
 とは云うものの、俺には恋愛事など興味が無いから困ってしまった。ぼんやりと、ビルから出入りする人の流れを眺めながら考える。何せ、今までそんなことを考える余裕が無かった。A様の私設部隊では男と女の扱いは完全に別で、其処で得たものはと云えば俺の恋愛対象は男より女だなと云うことくらい。然しまぁ、逆に考えれば失うものが何も無いと云うことでもある。なら、適当に可愛い子に声を掛けてみることにしよう。そうだ、先刻の受付の事務の子とかは如何だろう。先日、警備員とアマチュアバンドのライブが好きだと話しているのを聞いた。切欠があれば、きっと声が掛けやすい。

「……お。芥川か。珍しいな」
 中原さんが声を上げたのは、ちょうど本部の敷地を出ようとしたときだった。その声に俺も顔を上げる。俺達の横を通り過ぎようとして立ち止まった、影のように黒衣を纏った細身の人は、俺だって知っているくらいの有名人だ。芥川さん。組織の上級構成員。善く街で指名手配をされている。
 俺は少し腰が引けるが、中原さんは気にせず話す。
「あれ? 然し手前、今日は非番って樋口から聞いたが」
「……いえ。人に呼ばれていただけなので」
 芥川さんが渋々、と云った風に答える。とても幹部との歓談を楽しむ雰囲気ではない。如何に受け答えすれば最小限の発言だけでこの場を切り抜けるかに神経を尖らせている顔だ。中原さん、中原さん。この人、何だか帰りたそうですよ。
「人ォ?」
 然し中原さんは遠慮しなかった。胡乱げに眉を顰める。
「人っつったって、手前を呼びつけるなんざ……」
「あ、じゃあ俺はこれで」
「ん? おお、ああ」
 さっと手を上げて立ち去る体勢を取った。途端、芥川さんにギロリと睨まれてヒエ、と身を縮込める。だって、話が長くなりそうだったし、俺より身分の数段上の方達の話に首を突っ込む訳にもいかないだろうし。「そう云えば、先刻ひぐち……さん? が、芥川さんのことを探しているのを見掛けましたよ」一応助け舟を出すと、刺すような視線が心無しか和らぐ。「では、僕はこれで」「ああ」芥川さんが、長居は無用とばかりに踵を返して本部ビルの方へ立ち去る。

「……なあ」
 最後に軽く呼び止められ、帰ろうとしていた足を止める。何でしょう、と首を傾げると、中原さんはそれを口にすべきか如何か迷う素振りを見せていた。俺は思わず姿勢を正して次の言葉を待つ。
「あのな……。御免な」
 え。いきなりの謝罪に面食らう。心当たりが無い。
 それに仮に若し何かあったとしても、こんな下級構成員に中原さんが謝る必要など無いのだ。寧ろ謝るべきじゃない。なのに、中原さんは柔らかそうな髪をがしがしと掻きながら気まずそうに続ける。
「いや……アイツがまた妙なこと企んでそうだから。なるべく部下には被害を出さねえようにしようとは思ってんだが、巻き込むかも知れねえ」
 また『アイツ』だ。太宰さん。
「いえ……中原さんが謝られることではないので」何となく今なら胃を痛める同僚の気持ちも判るな、と思いながら首を横に振る。「俺を故意に殺そうとしないだけで、俺にとっては十分です」
「お前、その基準は改めた方が善いと思うぞ……」
 そもそも、マフィアなんて組織に居れば何にだって巻き込まれる可能性はあるのだ。それが太宰さん起因であっても、そうでなくても。だから大丈夫。
 そう告げると、中原さんはそれもそうか、と頷いた。
 にかっと笑う、年相応の笑顔が眩しい。
「それだけ。じゃあな。気を付けて帰れよ」
「はい。中原さんも」
 ぺこ、と頭を下げて去る。 


◇ ◇ ◇

 中原さんと別れた後、俺は車を出す為に駐車場へと向かった。あ、と気付いたのはその途中だ。しまった、此方から行くと車まで遠いんだった。実際、今日も正面の入り口には黒いバンが停まっていて、邪魔なことこの上無い。俺はバンを大きく避けて、駐車場へ向かう。
 と、突然バンの扉がガッと開いた。
 中から複数の男達が、一斉に俺に飛び掛かってくる。
「! な――」
 一瞬だった。俺は突然のことに反応出来ず、碌に抵抗もしまま黒いバンに引き摺り込まれる。
「其奴で間違い無いな。周りに人影は」
「此奴だ――間違い無い、あの日確かに奴等と居た黒服だ」
「よし。発進しろ」
 お前達は何なんだ。
 如何してこんなことをする。
 善いからこの拘束を解け。
 様々な言葉が脳裏を駆け巡ったが、結局一つとして口に出すことが出来ないまま後頭部を乱暴に殴られて、俺は敢え無く気を失った。
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