【再録】中原中也を知っているか


第二部 ウィークエンド・アフタヌーン



『あーっ敦くん、元気かい? この前出国前に絵葉書送ったのだけれど届いた? そう、それは善かった……え? ちょっと電話が遠くて……ううん、今は別の国に居るかな。今から来ても私は居ないよって国木田くんに云っておいて。まあ、追われているから此処ももう直ぐ出るけれど!』

     ◇ ◇ ◇

 最初に覚えたのは意外にも、孤独感でも焦燥感でもなく、渇いた心臓を水に浸すような密やかな充足だった。
 飛行機を降りて見上げた空は横濱のそれよりも突き抜けて青かった。渡航も仮宿も手配は凡て太宰が行った。相変わらず他人の記憶には中也の存在は留まらず、ただ『太宰の同行者』と云う体になっていたが、中也は特に気にしていないようだった。必然的に太宰と中也の間での会話が増えた。その金色の目が太宰だけを捉え、太宰に向けてだけの言葉を紡ぐ。そのことが、太宰の中をひどく満たした。
 まるで昔に戻ったみたいだった。

「まずいまずいまずい! ねえ彼等なんで追ってきてるの!」
「そりゃ手前がその情報掻っ払うときにドジ踏んだからだろうが!」
 ぐ、とハンドルを切るとアスファルトとタイヤが擦れてぎゃぎゃぎゃと煩く泣き喚く。焼き切れようが構っていられない。振り切ったかと後ろを見ようとすれば銃声のような音と同時にサイドミラーにピシリと罅が入って、思わずぴんと伸ばした背筋に冷や汗が滲んだ。カーチェイスなんて勘弁して欲しい。やったことないのに。やってやるけど。まあこう云うのは川に飛び込むのと同じで思い切りが大事だ。前を横切る車の群れに腹から無理矢理に突っ込んで、急ブレーキとクラクションの嵐の中を縫うようにして走り抜ける。
 確認する余裕が無くて、後部座席の相棒へと怒鳴る。
「振り切れた!?」
「いや未だだ! 一台しつけえのが随いてきてやがる……」
「はあ未だ!? て云うかさっきから何ごそごそしてるの君!? ちっちゃいから居るか不安になってくるんだけど!」
「一言余計だ手前から黙らせるぞ! ……おっ善いもん入ってんな」
 そう云って後部座席から相棒が引っ張り出したのは、古びた鉄の、片腕よりも一回り大きい砲身。RPGだ。
 所謂ロケットランチャーと云うやつ。
 太宰は前方を横切った車を紙一重で躱しながら必死に叫ぶ。
「あの車屋のおじさん何積んでんの!?」
「あっはっは気前良いじゃねえか! おい太宰、耳ィ塞げ!」
「はっ待っ……」
 相棒が窓から身を乗り出して、車体の片側に重さが移った感覚。止める間も無く瞬間、ズドンと衝撃が腹に来て、車内だと云うのに砲身から排出された熱風と背後の派手な爆発音が同時に襲い来る。爆風に煽られて車体が少し浮いた気さえした。バックミラーを覗けば、立ち上がる黒黒とした煙。
 耳がキィンと痛む。
「っあ――痛ァ――」
「ひゅー最ッ高! 一回やってみたかったんだよなァこれ!」
 ぐらぐらと爆音による頭痛がする中で、相棒の口笛が妙に涼やかに響いた。相手を無事に振り切れたのか、RPGを後部座席に放り込んで器用に助手席へと乗り込んでくる。その少し汗の滲んだ横顔が何とも爽快で、久し振りに見た柄にも無くはしゃぐ相棒の顔に胸が躍る。
 気分は最高潮だった。
 だから少し軽口を叩くだけの心算だったのだ。
「君ねえ私のこともちょっとは労っ――待って」
 気付いて息を飲んだ。
「――中也。その怪我、如何したの」
「あァ……?」
 着衣が黒くて気付かなかった。中也本人が胡乱げな顔で押さえた太腿に、べたりと付いた赤黒い血糊。
 漂うきつい火薬の臭いが風で攫われて、後には段々と血の臭いが濃くなっていく。

「……刃物でしょこれ。近接戦なら避けられたんじゃないの」
「異能の発動が遅れたんだよ」
「ふぅん……」
 ち、と舌を打ってそっぽを向く相棒の傷にぎゅっと消毒液の染みたガーゼを押し付けると、途端痛え! と悲鳴が上がるが無視して包帯を巻き直した。幸いにも、傷はそれほど深くないらしい。
 隠れ家は小さいけれど日当たりの良い部屋だった。壁も床材も木の質感が顕著だ。家具が少なく殺風景だけれど寂しくはない。追われている身である以上大っぴらにカーテンを開ける訳にも行かなかったが、それでも隙間から明るい陽光が零れ落ちていた。寝台の上で向き合って座った中也の髪が、その光を拾ってきらきらと透き通る。
 ふと太宰は包帯を巻く手を止めて、中也の体をまじまじと見た。上半身に無造作にシャツを纏っただけの体には、以前に況して怪我が増えたように思う。一番大きなのは腹の傷だ。先日銃弾を受けて闇医者に掛かった痕が未だ残っている。脇腹にもかすり傷で済ませるには過ぎた傷が複数。背中にもあった筈。以前は――マフィアの構成員であった頃は、こんな無茶な体の使い方はしていなかった筈だ。体が資本だと知っていたから。少しの傷と侮っても何が致命傷になるか判らない。
 今は如何なのだろう。
 目を伏せて、太宰に身を任せる表情からは窺い知れない。
 けれど傷の増えた体は如実に自暴自棄な特攻が増えていることを表していた。その事実に如何にも息がし辛くて、靭やかな筋肉、皮膚を損なうその塞がり切らない傷にゆっくりと指を這わせてなぞる。
 こんなんじゃ、近い内に身を滅ぼす。
 ……と。じっと見詰めていると、至近距離でぱちりと目が合った。中也はその蜂蜜色の瞳で太宰を覗き込むように一つ瞬くと、少しの首の動きだけで軽く唇を触れ合わせてきた。
 柔く、体温を確かめるような仕草。
 そのまま太腿に乗り上げられる。
「……ちょっと。盛んないでよ」
「あ? 手前がその気なんじゃねえのかよ」
「怪我人が何云ってるの?」
 揶揄するように云うと中也は心底嫌そうに顔を歪め、寝台に膝立ちになって太宰を押し倒すような形を取った。そんなことをすれば傷が引き攣れて痛むだろうに、呻き声一つ上げず苛立たしげに太宰の着衣を剥ぎ取っていく。
 何をそんなに自棄になっているんだか。
 心当たりは無いでもないから、溜め息はそっと心の裡に留める。
「……中也、ねえ、此処もそろそろだね」
「……ああ」
 先程入手した情報を依頼人に引き渡して報酬を受け取れば、また暫くは別の拠点に移らなければならない。今度は隣町か、はたまた別の国か。横濱から遠い地をそうやって渡り歩くことに、然程不便は感じなかった。手配は凡て太宰が行えば善かったし、その為の仕事は中也が戦力になれば善かった。ときには中也に掛かっている呪いのようなこの異能が――遭遇したとしても誰も覚えておらず、カメラなんかの記録にも残らないと云う点で――役に立つときすらあった。太宰は中也が居なければここまで都合良く情報屋の真似事など出来なかっただろうし、中也は太宰が居なければそう云った仕事を請けられすらしなかっただろう。役割分担は何時も通り完璧だ。歯車は正しく噛み合っている。
 なのにぎしりと錆びたような軋みを感じる。
 齎されるのは息苦しさだ。
 それは多分、中也も同じだったのだろう。肺に酸素が上手く回っていないのかも知れない。乱暴に口を塞がれて、荒く呼吸を交わらせる。それでも足りずに腕を伸ばして首に齧り付き、シーツをぐしゃぐしゃにして抱き合った。
 そうしていれば少しだけ、息がし易いような気がした。

     ◇ ◇ ◇

 一度だけ単独で横濱に戻ったのは、「例の件で」と坂口安吾から連絡が入ったからだ。中也には用件を告げなかった。中也も「善いんじゃねえの」と軽い調子で太宰を送り出した。ホテルの一室で寝転がりながら、「手前が居なきゃ仕事は出来ねえし、ちょっとしたバカンスでも楽しんどくよ」と。
「太宰くん、此方へ」
 そう云って案内されたのは或る建物の死体安置室だった。部屋の前から漂っていたひんやりとした空気が、部屋に足を踏み入れることで死の影のように色濃くなる。
 壁に並ぶのは死体を納めた保冷庫の引き出しだ。
 カツン、カツン、と安吾は部屋の中央まで行って、そのうちの一つをガラリと無造作に開けた。入っていたのは白いシートに包まれた死体だ。安吾はシートを全部は捲らなかった。ただ太宰が触れるのに必要な最低限のみ器用に露出させる。
 覗いたのは生気の失われた白い腕。
 安吾曰く、これが太宰の指定した場所で殺されていたのを回収された異能力者の死体と云うことだ。確かに、ちらと見えた首元には見慣れた刃物傷が刻まれていて、殺害が手慣れた者の仕業であることが判る。
 これに触れて、無効化すれば。
 自分達は元に戻ることが出来る。
「――……人間、失格」
 異能を指先に集中させて触れる。
 死体はぴくりとも動かなかった。
 却説、これで戻ったのだろうか。確かめようにも太宰にはその手段が無い。今から電話をして、中也に知っている人間に会って貰ってその反応を――いや。
 太宰は旧い友人に向き直る。
「? 何です、太宰くん」
 確かめる方法が一つある。
「ねえ安吾。中原中也と云う男を知っている」
 安吾は静かに首を振った。
「? ……覚えが無いですね」
「……。そう……」
 その返答で、声に落胆が滲んだことは否めない。
 いいや、気落ちすることは無い。本当は判っていた筈だ。宿主が死んでなお活動を続ける異能力の大半は自立型の異能に限られること。今回は該当しないそれを、無効化出来る望みは薄かったこと。
 判っていたことだ。それでも捨て切れなかった一つの可能性を潰しただけ。
 けれど出せる手札がもう手元に無い。
 表面上は平静を保てていたと思う。内心は千々に乱れている自覚があった。もう何もかもが面倒になって、今直ぐ顳顬に銃でも当てて暴発させてしまいたい気分でもあった。
「……これは機密事項なのですが」
 そうしなかったのは、静かな友人の声に遮られたからだ。
「特務課の監視対象の一人に、特一級の危険異能者が居ます。能力は『殺人事件の犯人であると暴いた相手を事故死させる能力』」
「ああ……。話くらいは聞いたことがあるね。殺人探偵、と云うやつでしょう」
 何も考えないまま反射のように答えると安吾が頷く。
「例えばその彼に指名され、死んだ人間が居たとします。その後、君が人間失格を以って彼に触れる。すると如何なると思います?」
「何も起こらない」そんなこと、深く考えるまでもない。「死はどんな世界のシステムにも優先する不可逆なものだ。死んんだ人間は蘇ったりはしない。それに異能無効化は、異能によって起こった結果には干渉出来ない。異能で破壊された物を修復することが出来ないように。……ああ」
 そこまで口にして漸く安吾の云わんとすることを理解する。
「詰まり、それと同じではないかと君は云いたいんだ。死と同じく、中也の消滅は不可逆的なものであると」
 友人は答えなかった。ただレンズの奥の瞳を逸らし、ぱちりとばつが悪そうに瞬くだけだ。
 然し太宰にはそれで十分だった。
「……そう。今日は有難う、安吾」
 そう考えるならば、もう此処には用は無かった。踵を返して出て行こうとすると、「太宰くん」と呼び止められる。未だ何かあっただろうか。振り返ると、泣きそうな顔をした安吾と目が合う。
「君がそこまでするほど大事な人なんですか」
 それは悲痛な叫びに似た声だった。
「探偵社を辞めたこと、聞きました。君が。選りにも選って君が、そんなことをするほど――」
「安吾」
「だって見ていられない、こんなの、見も知らぬ誰かの為に君が憔悴していくのをただ黙って見ていろって云うんですか!」
「安吾!」
 二人分の強い声が部屋に響いて空気を強く震わせた。
 気まずい沈黙が落ちる。太宰はそのことについて安吾と議論をする心算は無かった。何故なら安吾の中には中原中也の記憶が無い。太宰の中で、あの男がどれほどの割合を占めているかを安吾は知らない。
 縋るような視線を振り切って首を横に振る。
「……大事とか、そう云うんじゃない。ただ、そうしなきゃ生きていけなかった。それだけの話だよ」
 そう、それだけの話だ。
 体内を流れる血の大半を失ってしまっては、人が生きていけないのと同じことだった。

     ◇ ◇ ◇

 情事の後の気怠い体を俯せて、枕に頬杖を突きながら朝焼けをぼんやりと見ていた。ホテルのテラスから覗く水平線の際を、薄闇に入り混じった淡桃の陽光がじんわりと染め上げている。ふーっと煙草の煙を吐き出すと、代わりにひんやりとした静謐な空気が肺を満たした。
 朝の匂いがする。
 ガチャ、と部屋の外で風呂の戸の開く音がして、中也がシャワーから出てきたことが知れた。そのまま跫音が此方に向かってきて、太宰の居る寝室の扉を開けた処で少し止まる。
 振り返ると、下着を身に着けただけの姿の相棒が、面倒そうにタオルでがしがしと髪の水分を拭っていた。
「……未だ寝てろよ」
「ねえ、中也」
 ジッと煙草を灰皿に躙っていると寝台のスプリングが軋む感覚。覆い被さるように首筋に顔を埋められ、うなじを唇でなぞられると石鹸の匂いが鼻先をくすぐった。微かに笑いながら身を捩る。
 ずっと以前、死体に触れたことは未だ中也に告げてはいない。云ったって詮の無いことだ。だったら告げていたずらに中也の心中を乱すより、知らせない方がずっと善い。
 この閉塞感は、自分だけが抱えていれば善い。
 中也にはきっと元に戻す方法があると云い続けていれば、自分達は変わらず正常で居られるだろうと。
 そう思っていたのに。
 体を返して中也の旋毛をじっと見る。
 依頼を熟して人を救って報酬を受け取って、食事をして睡眠を取ってセックスして。別に横濱に居た頃と、何ら変わりの無い日々だった。お互いが居れば満たされている筈だった。
 歯車が欠けたのは何時だっただろう。
 気付けばぽろりと言葉を零していた。
「中也。久し振りに、海に行きたいね」
「――……。ああ、そうだな」
 それだけで正しく伝わったのか、答える声は笑いで少し掠れていた。「なんだったら、今から行くか」そう云って中也は身を起こし、椅子に引っ掛けてあったシャツを拾って出ていく。微かな鼻歌が聞こえたのは、果たして気の所為だったのか何なのか。
 太宰の片割れは何時だって、太宰の望みにひどく聡い。

     ◇ ◇ ◇

 中也が車を停めた。
 春先の海だ。人っ子一人見当たらず、襟足を撫でる風も未だ肌寒い。けれど静かで、海辺はただ波のさざめきに満ちていた。日は大分昇ってしまっていて、空全体がほんのりと朝の気配に色付いている。横濱とはほんの少し色彩が違うな、と太宰は思う。目の前に広がる海だって、蒼よりも緑の方が強い。きらきらと表面で陽光を反射をしているその様はトルマリンのようで、透き通ったそれに足を付ければ浮いてしまいそうだった。
「あ、おい」
 中也が止めるのも構わず、靴を脱ぎ捨て外套を脱ぎ捨て、身軽になって砂浜に降り立った。
 乾いた砂が足裏にさらさらと心地好い。
 ぱしゃ、と足の甲に掛かった水の冷たさががじんと皮膚に染みる。
「其処で善いのかよ」
「此処が善いじゃない?」
 丁度爪先に波の掛かるくらいの処に座り込んで膝を抱え込むと、車から降りてきた中也も態々距離を詰めて座ってきた。腕が触れ合って、肌寒さが少しだけ和らぐ。こう云うときばかり優しいのだから。うふふ、と笑いが漏れるがその意図は掴みかねたようで、帽子の下から怪訝な視線を返される。
「つーか俺等耐性ありすぎて薬なんか効かねえんじゃねえの」
「そう云うと思って、ありったけ持ってきました」
「……相変わらず用意周到だな」
 じゃらじゃらと、取り出したのは大小様々の睡眠薬の錠剤をたっぷりだ。海の水で飲む訳にはいかなかったから、水筒も積んできたしコップも持ってきた。まるで遠足みたいでうきうきする。レジャーシートを広げるのは流石に絵面が間抜け過ぎたから辞めたけれど。
 冷えた海水は、もう足首を濡らし始めている。
 ぷちぷちとシートから錠剤をひたすら出す作業には思ったよりも手間取った。持ってきたは善いけれど、どの程度飲めば適度に効くだろうか。致死量を飲もうとすると逆に吐き戻してしまうから、多く飲めば善いと云うものでもないのは経験則から知っている。加減が難しいなあとぼやきながら単純作業に耽っていると、伏せた目をすいと上げる気配があった。
「太宰。俺は……」
「聞きたくない」
 顔は上げなかった。
「私の判断が間違ってたことがあった? 一度だって無かっただろう……なるべくしてなったことだ」それに、と付け加える。「こうして君に最高に最低な思いを植え付けている訳だしね。嫌がらせは大成功と云う訳だ。今の気分如何?」
 中也は少し黙った後、心底嫌そうに吐き捨てた。
「最悪」
「私も」
 その声を聞いたら如何にも満足してしまって、躊躇うことも無く一気に錠剤を十数粒ほど煽った。まあこれくらいが丁度善いだろう。
 中也は何時の間にか手袋を外していた。
 繋いだ掌の温度は温かい。
 寄り掛かると、中也も此方に体重を預けてきた。首筋に掛かる髪がくすぐったい。そのまま規則的な波の音に揺られ、うとうとと船を漕ぎながらふと脳裏を過ったのは相棒と二人、与えられた子供部屋での思い出だ。あの頃は太宰も中也も善く喧嘩をして、けれど寝台は一つしかなかったものだから、お互い意地を張って寝ずに夜更かしをしたものだった。戦争相手と一緒には寝られない。尾崎紅葉が部屋の様子を覗きにくるまで、ずっと冷戦を続けていた。
「……で、早く寝なかったら、姐さんカンカンになって……あれは夜叉よりすごかったよね……」
「そうだな……あの頃は、存外それが怖かったよなァ……」
「姐さん、本気で落としに掛かってきてたものね……」
 そうだった、そうだった。その後もこんな風に寄り添い合って眠ったのだった、とふふと笑う。思えばマフィアなんて奇特な組織にあって尚、あの人達はあの人達なりに自分達に愛を注いで呉れていたように思う。他にも同僚であったり、部下であったり、……友人であったり。その温かさに触れたものは数知れない。
 今となっては遠い記憶だ。彼等は既に、そのことを覚えていないのだから。

 失いたくないと思うものは必ず失われる。けれど逆らいようの無い、何か大きな流れによって無理矢理分かたれるより、己の意志で手放した方がまだ毀傷は少ないと云うものだ。
 目を閉じれば、波の音が近い。
 それと清潔な石鹸の匂い。
 中也の匂いだ。
「おやすみ、中也」
「……おやすみ、太宰」

 最期のキスは、少しだけ潮の味がした。

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