【再録】中原中也を知っているか
終.
目的の人物が荷物を抱えて建物から出てきたことをバックミラーで確認し、太宰はゆっくりと息を吐いて脈拍を整えた。
仕掛けるのは一瞬だ。失敗は許されない。
朝早く、人通りも少ない時間帯だった。寒空の下で首を竦めるその人物が、車に接近するまであと三、二、一。
ガチャ、とドアを開けてその人物の前に立ち塞がる。
「!? 手前、何で此処に……」
素早く反応されなかったのは感が鈍っていたのか、それとも他の人間が自分のことを認識すると云う前提が思考から抜けていたのか。速攻が来なかったのを善いことに数歩で距離を詰めその腕を掴んで、にこりと笑んでから煩そうなその口を無理矢理塞ぐ。
「っ……は、だざ、……ッ!」
反論しようとする口に舌を捩じ込んで密着すれば殴り掛かる手が止まる。腕が上手く振り被れないからだ。そのまま半ば縺れ込むように、荷物ごと車内へと強引に引き摺り込んだ。
「……っおい!」
「君さあこう簡単に拉致されるなんて気が緩んでるんじゃない? 元五大幹部の名が泣くねえ」
「実行犯の手前が云うか!?」
唾液を拭ってアクセルを踏み込み、勢い良く発進させれば中也は観念したように助手席のシートへ身を沈めた。ぎろりと向けられる抗議の視線は軽くいなす。
「……なんで来た」
「逆になんで来ないと思った?」
バックミラー越しにその横顔と大荷物を見てうふふと笑う。
今の中也は記録が一切抹消された身だ。何処かの組織に身を寄せようにも、記憶が保たないのだから日毎に転々とするより他は無い。それで日銭を稼ぐなら、この国より外つ国の方が当てがある。幸い、先日の海外出張時に作成した偽造パスポートがある筈だった。それで飛ぶのだろうと踏んだ。本物より偽造の方が使えるだなんて皮肉なものだ。
なんでと訊かれれば、今を逃せば後が無いと思ったからだ。
横濱を離れられては、いくら太宰と云えど記録を残さない人間を探し出すことは困難だ。
はあ、と重い溜め息が隣で落ちる。
「云っただろ、手前とはもう……」
「全部捨ててきた」
「……は?」
素っ頓狂な声が上がる。ちらと見ると中也は全く意味が飲み込めていない顔で、太宰の言葉を咀嚼していた。ハンドルを握っていなかったら、腹を抱えて笑いながら端末で写真を連写し待ち受け画面に設定していた処だ。
間抜け面。
「は? いや手前……なに……は?」
「君と居る為に、仕事も居場所も。全部捨ててきた。……って云ったら如何する」
「軽蔑する」
間髪入れず吐き捨てるように返されて肩を竦める。
「云うと思った」
「莫迦か手前。冗談じゃねえんだぞ。軽蔑する。心底だ。死んじまえよ頭おかしいんじゃねえのか。莫迦。バーカ!」
「十歳児の方が未だ語彙に富んだ罵り方するよ」
「うるっせえ! おい停めろ!」
横から胸倉を乱暴に掴まれて焦る。「うわっちょっと中也危ない事故る事故る!」「そのまま突っ込んじまえよもう!」ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、人を轢かずに何とか暴れる車を抑えて路肩に停める。
人の少ない時間帯で善かった。
自分は異能で死なないだろうからってひどい所業だ。思わず肩を撫で下ろそうとするが、シャツの襟首を掴まれたままでグイと吊るように引き摺られる。
弾みで中也の帽子がぱさ、と落ちた。
耳朶を打つのは地を這う声だ。
「手前判ってんのか。自分の云ってることが」
眼光で人が殺せるものなら、きっと太宰は串刺しだったに違いない。間近でぶつけられる混じり気の無い殺意に、思わず渇いた唇を舐めて湿らせる。
「判ってるよお、君のドジの所為でこっちは大迷惑してるってこと……」革手袋に包まれた手の力は強い。「なぁーにが『君はずっと一人だった』だ、あの頃の私の、君と組まされた暗黒の日々を無かったことにされるなんて冗談じゃない。そう思わない?」
「茶化してんじゃねえよ。だからって手前が理不尽おっ被る必要は無えだろ」
中也は存外冷静だった。太宰の戯けた態度にも今度は血を昇らせず、ただ凍ったような声で太宰を追い詰めるように問う。ひやりと喉元にナイフを突き付けられる以上の緊張感。垣間見えるのは焦りだ。それと強い憤り。
「善人になるんじゃなかったのかよ」思わず、と云った風に襟首を掴む手に力を込められ、首が絞まってう、と呻く。「その為に、全部捨てたんじゃあなかったのかよ!」
「そ、う、だね……」揺らされてくらりと目眩がした。はっと中也が我に返って手を離すと、急な酸素の供給にゲホゴホと勢い良く咳き込む。私は。「そう、私は、人を救う側になるんだ……」
「だったら!」
「でも、それは」自分でも滑稽だと判っていながら、その言葉を口にする。最早手段は選んでいられない。「でもそれは、私が欠ける処無く生きていられればの話じゃない?」
自殺嗜癖としてあるまじき発言だった。中也が息を飲む。けれど事実そうだ。
「私は私の一部が私の知らない何かに成り果ててしまう喪失に耐えられない」
双黒と云う血が流れなければ自分はいずれ壊死してしまう存在だろう。
そして。
「死んでしまっては善行は成せない」
中也が呆然と手を離す。
「……判んねえ。手前の云ってることが」
「中也」
柔らかい髪を手の平でするりと撫でる。逃げるように身を引こうとする中也の体を、柔らかく腕の中へと引き寄せる。
「太宰」
「君は手放せるの」
相棒の顔を覗き込む。
「君は相棒である私を手放せるの」
甘く吐息の触れるような距離だった。やっと焦点を結んだ琥珀色の瞳と目が合った。太宰の薄笑いを映すその目が誘惑に揺れる。
答えなんて決まっている。
四年前から、疾っくに。
「……手前が居なくったって生きていけるに決まってんだろ」
「そりゃあ善かった。私も別に、君が居なくても普通に生きていけそうなんだよね」
軽口を叩き、二人でくすくすと笑い合いながら軽快に車を走らせる。
その日、横濱の街から二人の男が人知れず姿を消した。
了