【再録】中原中也を知っているか


三.


 何処を如何やって歩いたのかが定かでない。
 気付けば探偵社の自分の席で、ぼんやりと物思いに耽っていた。
 後輩の声が、明るく背中を追い掛けてくる。
「何処行ってたんですか太宰さん、今日大変だったんですよ!」
「うーんそっかあ、私今日居なくて善かったあ」
「太宰さん!」
 怒ったように毛を逆立てる太宰の後輩は、今日も全身から眩いエネルギーを発して仕事に精を出していた。機敏な動きに合わせてぴょん、と尻尾のようにベルトが跳ねる。最近では随分と慣れてきたのか、大抵は一人か、若しくは泉鏡花の付き添いとして業務に当たっているようだった。子供の成長なんて早いものだよとは善く云ったものだ。
 一丁前に、まるで親のようじゃあないかと苦笑しながら少年に問う。
「ねえ敦くん。若し、若しだよ。或る日突然、私も国木田くんも、探偵社の皆も、世界中の人達皆、君のことを忘れてしまったとしたら如何する?」
「え」
「それで、君は誰だいって訊かれたら如何する」
 ぐたりと頭を机上に凭れ掛けさせて訊く。普通如何するのだろう。明確に求める答えがある訳ではなかった。如何感じ何をすべきか、霧の掛かった先の答えをいまいち掴み損ねていた。
 中島敦は首を傾げて、うーんと眉間に皺を寄せて考える。
「……そしたらもう一度、川を流れてる太宰さんを助けないといけないですね」
 その言葉にぱちりと一つ瞬く。
「もう一度、太宰さんと知り合わないと」
 はにかむように云う後輩に「……そうだね」と微笑む。
 そうだ。元通りを望むのであれば、もう一度、マフィアに拾われなおさなければならない。
 もう一度双黒として、裏社会にその名を知らしめないと。
 けれどそれすら無駄だと云う。他人の記憶に爪を立てようとも、触れた端から霞のように己の指先が消えていくのだ。存在を消される異能。そうして近しい人間に存在を否定されるその齟齬に、正常な精神が――あの男がそんな可愛らしい精神性の持ち主か如何かは兎も角として――耐えられるとは思えない。
 当事者でない太宰でさえこんなにも息が詰まると云うのに。
 それに幾ら戦闘で無類の強さを誇ろうとも、この手の流れには滅法弱いのだ、あの男は。殴れば勝てる。殴れないものには勝てない。だからあの男に向けられる悪意だとか面倒な人の感情だとか、相棒が殴れないものは太宰が裏で排除していた。そう云うものは太宰が制御すべき事柄だった。何者も、相棒の邪魔をすることは許されないと思っていた。
 けれど今回のこの一件は厄介にも太宰の手に余る。
 対策を練ろうにも完全に後手。
 太宰が触れようと人心を手玉に取ろうと、誰も中原中也を思い出すことが無い。
 その事実が、何か大きな、逆らいようの無い濁流となって太宰の思考を飲み込んで、その整然とした並びを無情に乱していた。
 誰も己の存在を認識しない。
 そんな環境で生きる為に出来ることと云えば、精々人知れずこの街を去って、誰も知らない場所で生きていくことくらいではないだろうか。そうすれば少なくとも、それ以上に『心』が傷付けられることは無い。
 ――お前なんか知らない、と。
 そう云って、存在を否定されることは。
 ぎゅっと目を閉じる。きっとあの男も程無くその結論に行き着くことだろう。そして平然とそれをやってのける。それしか方法が無いと判れば、驚くほど物分りの良い男だ。
 ――じゃあな、太宰。もう会うことも無えだろう。
 莫迦じゃないのか。
 ガタン、と椅子を蹴倒すように席を立つ。
「太宰さん? こんな時間から何処に……」
「敦くん、私、ちょっと出てくるね。国木田くんには上手く云っておいて」
「えっ無理ですよ! 重荷過ぎます!」
「大丈夫大丈夫、私が居なくっても敦くんならきっと上手く出来るさ!」
 太宰さ~ん、と嘆く悲鳴のような後輩の声を背に、カツンと軽快に靴底を鳴らして探偵社を出る。
 階下のエントランスを通り抜けると、太陽が遠く橙色に焼けていた。街中に滲む夕闇にそっと身を寄せる。
 中也が己の消滅を受け入れるのと、そのことを太宰が受け入れられるかは別問題だ。
 此処は中原中也が居ない世界、双つの黒が存在しない世界だった。誰もが太宰と並び立った男の存在を認めない。誰も太宰を構成する要素を無いものとして扱うのだ。
 けれど経歴を洗浄しようが所属組織を変えようが、あの男が隣に居たと云う事実は太宰の体からは消しようが無い。どんな傷よりも深く刻まれたそれは、無きものとして歪められることを許容するにはあまりに大きくなり過ぎていた。
 色褪せた世界が、視界の端からじわじわと歪んでいく感覚。其処に染みのように、或る一つの疑問が浮かぶ。
 中也の居ない世界を生きる太宰のことを太宰は知らない。
 相棒――中原中也の消滅とは、即ち太宰自身の死なのではないか、と。

     ◇ ◇ ◇

 その日は掃討戦だった。話し合いでは解決出来ないと見做した上での殲滅指示。中也の得意とする分野だ。異能力者を飼っているらしいと云う噂もあったから中也自らが前線に出た。気分は流石に昂揚していた。執務室に籠もって行う書類仕事なんかより、銃口の先で踊っている方が己の直感は余程善く冴える。
 そうして建物を占拠せしめ、残党を追っている途中、ふと三人の内の一人が此方を振り返って、何か――手を此方に振り翳すような動作した。
 訝しげに見るとぱちりと目が合う。
 まずい。
 咄嗟に飛び退ったのはぞわりと背筋を悪寒が走ったからだ。ポートマフィアなんて組織で命の遣り取りをしていることによって研ぎ澄まされた直感、それと嗅覚。異能には匂いがある。空気の焼け付く直前のような嫌なそれを嗅ぎ取って、ずさっと地面を靴底で擦るように距離を空け防御姿勢を取る。
 然し一向に想定していた衝撃は襲ってこない。
「――?」
 何だ?
 一瞬ふわっと、力を受けたような感触はあった。然し外傷は無い。体を確認し、周囲を確認し、それから敵を見遣ると男達は既に中也に背を向け我先にと遠くへ逃げていた。
 フェイントか。
 舌を打った。このままだと逃げられちまう。
「汚れつちまつた悲しみに――!」
 踏み締めた己の脚に力を掛ける。誤れば自身の体を潰しかねないこの力にも随分と慣れたものだ。一足飛びに距離を詰め、悲鳴を上げる男達の首を三連、ナイフで掻っ捌いた。仕事はそれで終わりの筈だった。見渡すと周囲には誰も居ない。
 部下達を置いてきてしまったようだった。
 取り敢えず任務は完了だと連絡するか、と端末を取り出した処で――中也は思い切り眉を顰めた。
 幾らタップしても、通話機能が機能しないのだ。常ならツータップで部下の一人に繋げられると云うのに、履歴から呼び出して番号を押しても直ぐに機能が終了してしまう。まるで回線自体に拒否をされているようだった。後から考えれば、端末の故障ではなく正しく回線側の不通だったのだろう。
 然しそのときは、先刻の戦闘で壊れたかとさして気にもしなかった。端末を乱暴に衣囊へと放り込み、部下の元へと向かう。

「動くな!」
 ガチャ、と重い金属音に耳を疑った。
 中也を取り囲むのは黒光りする短機関銃の銃口だ。
「――何の冗談だ」
 ぎろりと黒服の集団を睨む。どれも中也直属の部下だった。中也手ずから鍛え上げた小隊だ。冗談で上司に銃を向けるような愚行、許されるものではないことは各々重々承知の筈だ。
「手前等、俺にそれを向ける意味を判ってやってんのか?」
 威圧的にそう問うと、部下の数人かが後退るが銃の構えは崩さない。敵に対する対処としては至極正しい行動だ。
 向ける相手が中也でなければ。
 操られてんのか?
 周囲への警戒を解かないまま探るように見る。部下達の顔には皆一様に緊張が走っていて、異能の力でと云うよりは、己の意志で中也を敵と見做しているようにも見えた。
 表情だけでは判別が付かないが。
(幻覚か、或いは精神汚染か……)
「――撃てェ!」
 厄介だな、と舌を打った。状況が圧倒的に不利だった。敵の異能の正体も何時攻撃を仕掛けて来るかも判らないまま、死なせる訳にはいかない部下達を相手にするのは面倒だ。排出された銃弾を適当に散らし、死なないよう全員を殴り付けて手早く昏倒させる。異能を以ってすれば慣れたものだ。
 然しその間にも、あるだろうと思われた敵の襲撃は無かった。不審に思いながら部下をバンに押し込み、本部へと車を回す。自分の車は人をやって取りに来させれば善いだろう。
「……こう云うときに、彼奴の異能がありゃあ楽なのにな」
 誰ともなしにぽつりと落とした呟きは、何に拾われもせず静かにその場で霧散した。

 本格的に違和感を覚えたのは本部に戻ってからだ。
「お通し出来ません」
「……んだと?」
 そう告げられ、首領の部屋の前で見張りをする黒服のうちの一人へと掴み掛かる。
「如何云うことだ、井口」
 名を呼ばれた男はその能面のような顔に一瞬驚きの表情を刻んだが、流石に首領直属だ、直ぐ様無表情を取り戻す。
「事前のアポイントが無い方はお通し出来ません。所属と名前、用件を承りますので、此方からの御連絡をお待ち下さい」
 その声は硬い。最早顔パスのようになっていた執務室へのアクセスを、こんな形で阻まれるとは思っておらず面食らう。知らぬ間柄でもないだろうに、必要以上に事務的な態度を取られると幾ら職務と云えども流石の中也も気分が悪い。
 それでも中也は怒りを押し殺し、みっつ数えて深呼吸をして、噛んで砕くように云った。
「五大幹部の、中原中也だが」
「幹部……?」
 然し如何も反応が芳しくない。
 挙句におかしなことを云うのだ。
「恐れ多くも幹部の名を騙るとは、貴様一体何を考えているのだ……」
「アァ?」
 怒りに血管が軋みを上げるのを感じた。もう面倒だから押し入ってやろうか。護衛を押し退けようとしたそのとき。
「おや。如何かしたかね?」
「首領! お下がり下さい……!」
「首領」
 ひょこりと顔を覗かせた己の上司に、中也は黒服に構わず帽子を脱いでざっとその場に跪いた。その動作は最早反射だ。中也の森鷗外への忠誠は、何よりも根深くこの身に根を張っている。他の何によっても、それは揺らぐことは無い。
 注がれる視線を感じながら、用向きを厳かに告げる。
「本日任されていた、殲滅任務の報告に参りました」
「君――君がかい?」
「はい」
 訝しげな声音に返答を返す。何かおかしなことを云っただろうか。柔らかな絨毯の毛足の先をじっと見詰め、次の言葉を静かに待つ。
 然し次に発せられた言葉は、中也の予想とは異なり――そして何よりも深く、中也の胸に楔を打ち立てその心臓を抉り取るに足るものだった。
「……善いだろう、聞こう。先ず名乗り給え」
 ――名乗り給え?
 はっとして顔を上げれば、中也を見下ろす鷗外の顔に浮かぶのは幾ばくかの好奇心、それと油断の無い警戒だ。
 やられた、と絶句した。
 これは部下に生じたのと同種の現象だ。中也を中也として認識していない。
 然し現場に居なかった首領が――誰に先んじても策を弄し、他人に隙を見せないこの人が――敵の異能にむざむざと掛かるとも思えない。
 詰まり掛かったのは自分だと云うこと。
 自然、問う声が掠れる。
「……首領。俺は貴方の記憶には無い人間ですか」
「……随分前から構成員一人一人を出来るだけ記憶に留めておこうとしているのだけれど、君は初めて見る顔だよ」瞳を中也の右上方に逸らし、んーと顎に人差し指を添える仕草。「如何やら私を暗殺しに来たのではないようだがね」
 屈託無く笑われて、心臓の芯の部分が軋みを上げた。する訳が無い、そんなこと。首領を暗殺などと。
 今まで自分の積み上げてきた忠誠を否定され、足元が急にがらがらと崩れていくような錯覚を覚える。その場に上手く立っていられているか、視界の揺らいだ中也には判らない。息が吐けずに肺が詰まる。
 けれど振られた小娘のように傷心している場合でもない。現状把握が先だ。辛うじて声を絞り出す。
「首領。中原中也と云う名に聞き覚えは?」
「……無いねぇ」
 と云うことは、幻覚で中也が別のものに見えているのではないのだと云うことか。
 それに嘘を云っている風でもなかった。そもそも、中也を如何にかしたいのであれば、そんな回りくどい嘘を吐く意味が無い。この人が中也を追放したいのであれば、ただ一言、君はもう要らないと云えば済む話なのだから。

 気が向いたらまたおいで、とまるで幼子にするように笑う森鷗外の前を辞し、中也は現場へと戻っていた。探すのは死体だ。中也が最後に殺した残党、その内の一人の刺殺体。
 けれど其処には既に何も無く、ただ赤黒い致死量と思われる血痕が大きく染みを作っているのみだった。

     ◇ ◇ ◇

 出来ることは何も無かった。
 そのことにひどい息苦しさを覚える。何時かも覚えた感覚だった。何が起こっているかは判るのに、濁流のようなそれを前に自分はあまりにも無力なのだ。ただ黙って手の中のものが喪われるのを見ているだけ。そのことには随分と慣れたと思っていたが、如何やらそうでもなかったらしい。
 別に放置しておいても善いんじゃあないか、とも思う。元より過去は捨てた身だ。異能に掛かったのは紛れも無くあの男の自業自得であったし、であればあの男一人で解決すべき問題だった。太宰には関係の無いことだ、と切り捨てても善かった。
 そうすれば中也は好きに姿を晦まして、存在の消えた者なりの方法で生きていくのだろう。
 二度と太宰の元には現れずに。
 双黒を経ない、変質した太宰治を残したまま。

 目の前に黒塗りのセダンが緩やかに滑り込んできて、音も無く止まった。そのまま暫く待っていると、運転席側のパワーウインドウがすっと下がる。
 顔を出したのは眼鏡の男だ。ハァと草臥れた溜め息を吐くのをくつくつと喉を鳴らして迎える。
「久し振りだねえ安吾、元気そうじゃあないか」
「嫌味ですか? そうほいほい呼び出されても困るのですが」
「でも電話じゃあなくこう云う密談の方がお好きでしょう、 特務課さんは? ……今日は護衛は?」
「連れてきていません。知られたくなかったので」
「随分と無防備だ」
「君相手なら僕でも勝てますから」
 その言葉への返答は軽く肩を竦めるのみに留めた。確かに太宰は膂力においてはこの男――坂口安吾には劣っていた。何せひ弱に見えても異能特務課のエージェントだ。殴り合いなら負けるだろう。然しそれは太宰が正々堂々肉弾戦を挑んだ場合だ。誰が何時、罠を仕掛けていないと云っただろうか。
 まあ罠を仕掛けていた場合、護衛等簡単に無力化してしまえるから護衛なんて居ても居なくても同じなのは変わりない。それは安吾も判っている。
「取引がしたい」
 そう告げながらガチャ、と開いた助手席へと乗り込む。じゃあ探偵社までお願いしますぅ。あのねえタクシーじゃないんですよ。距離の探り合いにはお互い慎重だ。
「……或る異能者を探しているの。若しかしたら死体になってそっちに保管されているかも。その情報が欲しい」
「見返りは」
「その異能者の異能の特性の情報」
「我々にそれが必要とは思えませんが」
「いいや。特務課は絶対に知らない情報だ。何故なら発動した時点で、君達はそれを認識することが出来なくなる」
「……で。君なら認識出来る、と?」
「監視対象の中で、異能の効果が判らないのに数値だけがやたら高い人間が居るでしょう? その所在地――死んでいるなら死体の場所が知りたい」
「……はったりも過ぎると的を外しますよ」
「でも事実だ」
「如何でしょう」
 信号が黄色から赤に変わる処だった。車が止まる。沈黙が落ちる。どちらもただ前を向いていた。
 フロントガラス越しに広がるのは重く垂れ込める曇り空だ。
 先に口を開いたのは安吾だった。
「らしくなく焦っていますね、太宰くん」
 声の調子は淡々としていた。太宰も平坦な声で返す。
「そう、焦ってる。断られたら手段を選ばないくらいには」
「手段を選ばないのは何も君だけじゃありませんよ」とんとん、とハンドルを軽く指で叩く音。「僕だって、このまま君を連れ帰って拷問に掛けるかも知れない」
「拷問!」ご親切な忠告に、思わずふふっと笑ってしまう。
「下品だねえ拷問なんて誰が云った? 私の方は少し人質を取っただけだよ。私が帰らなければ、特務課の大事な施設の内の何処か一つが粉々に爆破されちゃうかも」ただし、強請るのは本意ではないと付け加える。「別に死体の引き渡しを頼んでるんじゃない。ただ少し、触りたいだけだ」
「……見付からないかも知れませんよ」
「可能な限りで構わない」
「……。善いでしょう」
 それを了承の意と取って、ばさりと持っていた封筒から資料を渡す。太宰が知る情報、それと中也から聞き取った情報を照らし合わせた異能の特性を簡易に纏めたものだ。安吾はそれを脇に置いてあった書類鞄に仕舞い、車を発進させた。信号は、何時の間にか青になっていた。
「行き先は探偵社で善かったですね」
 ああ、と頷く。それ以上安吾は何も云わなかった。心無しか、声音が労るようで太宰の芯の辺りに染み入った。
 元より意味の無い行為であるかも知れないことは承知の上だ。仮に太宰が異能者の死体に触れたって、効果は打ち消せないかも知れない。それに抑々、死体が見付からない可能性の方が高い。話を聞くに恐らく死体の処理はマフィアの領分だ。けれどその死体を特務課が――異能者の管理を掲げる秘密組織である彼等が――横から掠め取っていない保証も無い。異能者の死体など格好の研究材料だ。特務課が直接弄くらないまでも、喉から手が出るほど欲しい機関は山程居る。確保しておいて再利用する方が、マフィアに焼かせるよりも余程エコだ。
 それに太宰が直接死体を確認した訳じゃあない。中也がその判断を誤るとも思えなかったが、若し未だ生きて歩き回っているなら無効化の成功率は増大する。可能性は自分の足で潰すのが性分だ。
 太宰とて、こんな己の記憶と齟齬のある、歪な状況に取り残されるのは御免なのだから。
 けれど若し、死体に触れても戻らなかったとしたら?
 忘れ去られたまま、中也も姿を消し、太宰独りがその痛みに耐えなければならないのだとしたら。
「……ねえ、安吾?」
「何です、太宰くん」
「若しさあ、……いや」
 その問いを口にしかけ――矢張り思い直して「何でもない」と首を横に振った。肩透かしになってしまったからか、安吾の視線が訝しげに揺れる。
「えっ何です。気になるんですけど! 君のそう云う身勝手な処善くないと思いますよ僕」

 善く考えれば、安吾の答えは四年前に既に決まっている。
 何もかもを捨てることを条件に、一つの存在を存続させることが出来るしたら、君なら如何する、などと。
 それこそ安吾にとっては愚問だ。

     ◇ ◇ ◇

 中也、と。
 名前を呼ばれた瞬間、安堵してしまったのは事実だ。
 俺を躊躇うこと無く招き入れた男の声が存外耳に心地善くて、堪らなくなって噛み付くようにキスをした。それ以上を求めて体を重ねた。太宰には、普段と様子の違うことに若しかしたら勘付かれていたかも知れない。それでも善かった。互いの心中は夜の薄暗がりが覆い隠していた。だから無防備に己の情動を曝け出した手で太宰に触れた。
 太宰は拒絶せずに俺の手を受け入れる。
「中也っ……、ちゅう、ぁ、や」
 掠れた声が耳朶を打って、それでああ、俺は確かに此処に居るのだと数日振りに足の感覚が戻る。
 痕の残るほどに首筋に噛み付き、背を撓らせる体を掻き抱きながら、この男さえ自分のことを覚えていたなら、きっと満たされるのだろうと思った。
 他の誰に忘れられても。
 誇張でなく太宰さえ居れば生きていけた。息をして。心臓を動かし。鼓動を刻むことが出来る。
 この男の隣に居れば。
 けれどその選択肢を選ぼうにも、棘のように刺さって抜けないのは四年前のペトリュスの味だった。自分のものだと――少なくとも己が占有していたと思っていたものが、己の与り知らない処で零れ落ちた後のあの喪失の苦さが何時までも喉奥に引っ掛かっている。
 太宰治は中原中也に依存しない。
 なら、中也も太宰に依存することは出来ない。
 太宰と中也が思う相棒とはそう云うものだった。自分達は常に並び立っていなければならない。命を等分して握らなければならない。その前提を崩してしか存在し得ないのであれば、中也は太宰の前から姿を消すことしか出来ない。
 双黒とは、自分達の存在を規定する最も根幹の部分だ。それだけは、決して侵してはならなかった。

     ◇ ◇ ◇

 けれど中也をこのまま逃す心算は無かった。
 当然だ。そんな勝手、許されるものではない。自分達は常に並び立っていなければならないのだ。己が占有しているものを、むざむざと取り零すような真似は出来ない。

 でも手前はそうじゃなかったと中也は云った。
 俺ばっかりが手前を求めるのは道理じゃねえ、と云った。
 じゃあ並び立てば善いんだろうと太宰は思った。
 私も君無しじゃあ生きていけなくなれば善いんだろう、と思った。

     ◇ ◇ ◇

 静寂の張り詰めた武装探偵社の事務所で、カチ、コチ、と時計の針だけが鳴っている。扉を開く音は存外大きく響いたが、事務所に目覚めを齎す程の力は無い。手に持った封書を弄ぶ。
 短針が、四の位置を少し過ぎた処だった。
 冬のこの時期では陽の気配も未だ遠く、暗い室内で非常灯の緑色だけがその存在を主張している。
 静かだ。
 冷えた空気が肺に刺さる。
 誰も出社していない。大抵、武装探偵社で最も出社が早いのは社長だ。九時始業だと云うのに、七時過ぎにはもう来て茶など啜っている。そうして畑仕事帰りの賢治、少し欠伸を抑えながら与謝野、始業きっちり三十分前に国木田と続く。敦と鏡花、谷崎とナオミは連れ立って出社することが多い。
 彼等の机を横目に、未だ薄暗い事務所内をすいと横切って奥へと進む。電気は点けない。数年も勤めた場所なのだから慣れたものだ。廊下の最奥の部屋へと進み、その重厚な扉をピッキングしようとして――その必要の無いことに気付く。ノブを回せば、何の抵抗も無く扉は開いた。
 一瞬、蛍光灯の光に目が眩む。
 けれど部屋の主である社長の姿は無い。朝の四時だ。当然未だ自宅で夢の中だろう。主が座るべき椅子は向こうを向いたままだ。
「……でも、貴方が居るとは思いませんでした」
 椅子の向こうへと投げた、それは紛れもない本音だった。
「乱歩さん」
 云うと同時に、くるりと社長の業務椅子が回転した。その背に隠れ、体を沈めるように座っていたのは、眠たげに目を擦る我が社稀代の名探偵だ。
 結局最後の最後まで、この人の思考を推し量り切ることは出来なかったなあと太宰は苦笑する。太宰は乱歩に何も話していない。元相棒のことも、今回のことも。
 それでも知られているだろうと予感はしていたが。
 真逆、此処でこの人が出て来るとは思わなかったのだ。
 何時から此処で待っていたのか、名探偵はひどく不機嫌そうに唇を尖らせる。 
「ノックくらいしなよ」
「これは失礼しました。……全部、お見通しなんですね」
「止めはしないぞ」
 名探偵は憮然とした顔で云った。その後ではっとしたように首を横に振る。
「いや、止めた方が善いのか? けれどお前は止めた処で僕の有り難い助言になど耳を傾けもせずに行くんだろう。この不孝者め。馬の方が未だ云うことを聞くくらいだ。お前達は何時もそう。行けば死ぬと云ったって聞く耳なんて持ちやしない」独り言ちるようにぶつぶつと言葉を落とすのは、早過ぎる思考の流れを留めておく為だ。他人事ではないから善く判る。と、息を吐いて一言。「そう云う目をしている」
 そう云って見透かすように太宰に視線を注ぐ名探偵の目には、何か太宰には知り得ない、様々な事象が映っているのかも知れなかった。数少ない太宰の予想を超えた人、終ぞ太宰が越えることの出来なかった思考だ。
 手に持った封書をひらひらと見せる。
「……社長に宜しくお伝え下さい」
「やだね。自分で云いなよ」
 返答は取り付く島も無い。
「冷たいですね」
「僕はこれでも、お前の頭脳を結構買っていたんだ」
「おや、そうだったのですか」
「お前が辞めると、僕が楽出来なくなる」
 太宰が首を傾げてその意味を考える。辞めると楽出来なくなる。から。
「……若しかして、引き留めて下さっているのですか」
「真逆!」
 ドン、と演説の前振りのように机を拳で叩く音が執務室に響いた。名探偵は憤るように朗々と善く通る声で云う。
「引き留めるものか、何処へなりと行くが善いさ! 例えお前達の行く先が地獄であろうと僕だけはその選択を祝福してやろう、この、僕が! ……お前達のこと、覚えててやる」
 太宰は瞠目した。思った以上に的確な指摘だったからだ。この人も徒人である以上、その記憶からはあの男に関する何もかもが綺麗に消え去っているだろうに、それでも太宰を通してその影を読み取る聡明さに舌を巻いた。
 目を閉じる。
「……有難う御座います。私も、乱歩さんが探偵社に居て下さったこと、感謝しています。御蔭様で、退屈さに窒息せずに済みましたから」
 云いながら、手に持っていた封筒をそっと社長の机上へと置いた。
 名探偵は何も云わない。
 背を向け、社長室を辞して執務スペースに出ればこの数年のことが思い起こされる。濃密な時間を過ごした気がした。敦くんはきっと私が居なくとも大丈夫だろう、強い子だから。自分が拾った後輩のデスクの表面をそっと撫でる。国木田くんには悪いことをした、何せ最後まで彼の予定を狂わせっ放しだったのだから。ああ、来月は君に引き摺られて会議に出ることは叶わなさそう。また怒られるかな。
 思いの外、未練となり得る要素を残してしまっている自分に少し笑った。
 だったら、これで善かったのだろう。本格的に、捨てられなくなるくらいに執着をする前に離れられて善かった。
 失いたくないと思うものは必ず失われる。けれど逆らいようの無い、何か大きな流れによって無理矢理分かたれるより、己の意志で手放した方がまだ毀傷は少ないと云うものだ。
 後悔は無かった。
 人を助ける仕事は、きっと何処でだって出来るのだから。

「……莫迦な奴」
 未だ朝の訪れない執務室の中で、名探偵が独り、机上に置かれた辞表をじっと見詰めていた。
4/7ページ
スキ