【再録】中原中也を知っているか
二.
「――……」
鏡の前で、するりとシャツを脱いで包帯を外す。
人差し指を己の身体に這わせ、首筋と鎖骨の間をなぞる。其処にあるのは消え掛かった鬱血痕だ。
数日前、ひどく柔らかく抱かれたときの。
――太宰。
鼓膜から注ぎ込まれた甘い声音を思い起こすだけで震えを覚えてしまう。あの夜以来、太宰は誰とも寝てはいない。誰と寝たって、あの充足は得られやしないと知っている。この引っ掻き傷のような熱の残滓が消えるまでは、何によっても上書きしたくないしされたくない。出来るものとも思っていない。
自分達はそうやって、ずっと二人で互いの肌に、心臓に、爪痕を残して自己の存在を確として生きてきた。双黒、などと他者に名を付けられ形取られなくとも。或いは所属する組織が異なろうとも、並び立つだけで気分が昂揚し、自己の輪郭をはっきりと際立たせる存在であることは自分達が一番善く知っている。
誰に認められずとも、自分達は二人で一対だった。
それが少しだけ揺らいだのは、所詮自分も他者の言葉に影響される、ただの人間だったからなのかも知れない。
「……姐さん」
『おや、浮かない声じゃな。首領から聞いたぞえ。お主がらしくなく血相を変えて、おかしなことを云っておったとな』
多分、この人なら何もかもを覚えているんじゃあないか、なんて柄にもなく希望を抱いてしまったのがいけなかったのだ。
自分達を、見守り育てたこの人ならば。
「ねえ、姐さんはさあ」
絞り出した声が思ったよりも硬くなる。
「中原中也を、知っている?」
『……なかはらちゅうや?』
その声を聞いて、ああ、駄目だ、と思った。その先を聞いては戻れない気がした。けれど通話を切り損ねてしまって、澄んだ真水よりも純粋な疑問の声が落ちるのを、ただ聞いているしか無かった。
『何の話じゃ?』
「……いいえ、善いです。何でもない」
ぎゅっと目を瞑って終話釦を押す。耐えられないと思った。元相棒の存在をそんな風に無いものにされてしまうと、己の輪郭まで消えてなくなりそうでひどく不安定な気持ちになる。あんなにはっきりと熱を帯びていた記憶が、ゆるゆると温度を失っていくような心地。
存在の否定に耐えられない。
でも太宰の身体には、残された痕が確かにある。
誰が覚えていなくとも。
「……中原中也は、確かに存在する」
その事実は、誰よりも太宰が一番善く知っている。
一声聞けば解決するのだ。
別に他人に無理に存在を証明して貰う必要は無い。何シケた面してやがる、太宰。その一言が聞ければ凡て解決する。そしたら笑ってこう云ってやるのだ。君こそ何? 下手を打って経歴でも洗浄するの? いやあポートマフィアの五大幹部様ともあろう者が、随分と間抜けなものだねえ、と。
なのに、何をやっているんだろう。
太宰は苛々と、応答しない端末を握り締める。
――お掛けになった番号は、現在、使われておりません……――
◇ ◇ ◇
次の日の朝、太宰が訪れたのは或る集合住宅の一角だった。
誰も彼を覚えていない。本人からも連絡が無い。けれど数日前に会ったのは確かなのだから、その痕跡を辿るのは訳も無いことの筈だ。
ゴミの山に埋もれた蒲団が家主の体積でこんもり膨れているのを、嘆息混じりに見下ろす。
「相変わらず足の踏み場も無いねえ」
「……ああ、君か」
呼び鈴を鳴らしても反応が無いのは何時ものことだった。遠慮無く部屋に上がり込み、薄暗い和室に山と積まれたゴミをがっさがっさ足で掻き分けスペースを空ける。微かに漂う饐えた臭い。この様子を見るに、国木田は暫く掃除に来てはいないらしい。靴下に埃が付着するのはあまり好ましくはなかったけれど、この際わがままは云っていられない。
蒲団の中の眼鏡の男に単刀直入に切り出す。
「ちょっと調べて欲しいことがあって」
「国木田には云えんことか」
無数の画面から顔も上げずに間髪入れず返されて笑う。蒲団の中のその男――田山花袋は太宰の同僚である国木田独歩の親友だ。偶に探偵社がその異能力を頼りに調査を依頼する。武装探偵社にあるサーバー室も、元は田山が構築したものだと聞く。
けれど太宰はいまいち信用されていないらしい。隠そうともしない警戒の滲む声に肩を竦める。
「今回は誰を害する案件でもないから許してよ。ただ、そう――ポートマフィアのデータベースが、ここ数日の間に誰かに弄くられてないかを見て欲しいのだけれど」
「……『弄くられていないか』?」
もそもそと動いていた蒲団の動きがぴたりと止まる。
「正確には、過去に遡って不自然に情報が削除されていないか、だ。ここ一週間の間に、過去十年くらいの記録から或る人物に関する記述を一気に削除して回った人間が居る。その履歴と、出来ればどの端末から弄ったかが特定出来れば上々だ」
「成る程?」
気怠そうに相槌を打つ田山は此方を見もしなければ蒲団から手を出すこともしない。ただスッと無音で左端の画面が切り替わったかと思うと、太宰の依頼内容が高速でワープロソフトに書き込まれていく。相変わらず不気味な光景だ。少なくとも夜、無人の部屋で遭遇したくはない光景だな、とぼんやりと思う。
そのカーソルが、ある程度内容を打ち込んだ処でちかちかと点滅して止まる。其処で田山が初めて蒲団から顔を出して振り返った。眼鏡の奥で視線が焦点を結ぶのに暫く掛かる。
「……その人物の名は判るか?」漸く出た質問はそれだった。
「名?」
「或る人物の記述が削除されているのだろう。その人物の名だ」
ああ、と頷く。伝えても意味は無いと思うけれど。
「そうだねえ……曲がりなりにも幹部だから、きっと貴方も目にしたことがある名前かも知れないね」
求める返事が返ってこないことを知りながら、太宰は確かめるようにその名を口にする。
「中原中也と云うのだけれど」
◇ ◇ ◇
足を運ぶ先は元相棒が善く使うセーフハウスの一つだ。
ばしゃ、と水溜まりを踏み締めて歩く。大抵こんな雨の日は、近所のスーパーで酒とつまみを買い込んで、一杯やっている筈だった。其処に邪魔をして文句を云われながら飲むただ酒が一番美味しいのだ。
何時もなら。
「え? ああ、あの家は随分前から空き家ですよお……」
「……。そうですか……」
大家のその言葉に、此処も駄目かと太宰は嘆息する。しとしとと、雨で濡れそぼつ足元にじっと視線をやる。じわじわと、靴下に水が染みて不快な感覚に侵食される。
電話も通じない。セーフハウスにも居ない。自宅は家具が凡て撤去され伽藍堂のもぬけの殻ときた。
まるでこの世界の何処にも、元から中也なんて居なかったみたいにその影を掴めない。
そんな訳は無いのに。
首元を押さえ、傘をくるりと回して思案する。
「……少し鍵をお借りして上がらせて貰っても?」
「ああー、済みませんそう云うのウチ、不動産屋さん通さないと怒られるんですよー」
「大丈夫です、入居したいときはそちらを通しますから。本当、少しだけなんです」
そう云ってにこりと微笑む。少し濡れた髪が頬に掛かるように小首を傾げると、大家はごくりと息を飲んだかと思うと案外簡単に鍵を手渡して呉れた。少し独りにして欲しいのだけど、と云えばどうぞどうぞと促される。そんなにちょろくて善いのだろうか。まあ助かるけれど。終わった後お茶でも如何ですか、の問いはさらりと躱してタクシーに乗り込み此処まで来たのだ。
元相棒が使っていた筈のセーフハウスのその一つ。
物音一つしない、ひんやりと薄暗いその部屋に。
「……君、何処に行ったの。中也」
『手前、何しに来やがった……あっ酒勝手に開けんな!』
寝台のあった筈の場所にごろりと寝転がった。だだっ広いフローリングに蓬髪と砂色の外套が好きに広がる。天井を見上げれば、LED灯の取り外された跡が微かに見えた。
家具の類は綺麗に取っ払われている。太宰の記憶に或る筈のそれらは、元から存在しないようにも思えた。
静かだ。
目を閉じると、締め切った窓の外からしとしとと雫の打ち付ける音が聞こえる。
埃一つ無いフローリングがひんやりと気持ち好くて。
胸の辺りの、風通しが善くて。
何処か、物足りなささえ感じるのだ。
中也が居ないことを、認識してしまうと。
「中也……君、何処で何やってるの……」
こんなの、まるで私が中也を求めてるみたいじゃあないか。
冗談じゃない、と。そう否定する気力も無く、喘ぐように喉を晒して深く呼吸を身体へと流し込む。
彼の居た筈の空気を、逃さず肺に取り入れるように。
中也。
そのとき、ピリリ、と無機質なノイズが響いた。携帯端末の着信音だ。ぐたりと床と同化したまま、衣囊を探って通話に出る。
「はい、太宰……」
『田山だ』
意外な名前に息を飲む。
「……随分早いね」
『それを見込んで儂に依頼したのではなかったのか。……依頼の結果だが』
「うん」
『結論から云えば、この一週間――否。この一ヶ月でポートマフィアのデータベースが大幅に改竄、若しくは変更された痕跡は無かった。更に云えば――』田山はそこで、躊躇うように一旦言葉を切ってから続ける。『中原中也と云う人間に関するデータの存在した形跡など、欠片も見当たらんかった』
「――そんな訳無い」
ぽろりと無意識の内に口から零れ落ちたのは否定の言葉だ。当然だ。上体を起こして思考を巡らせる。
「そんな訳無い。他人の記憶から消えてもデータの記録はあるはずでしょう、だって誰かが『消そう』と意図しなければデータなんて消えない、元々無かったなんて有り得ないんだから――或いはデータを消すことも出来るのか? けれど痕跡を残すことも無いなんて……異能は記憶操作と記録消去の二種 ……? いや……」
ぐるぐると、思考が熱を持って回転する。詰まりこれは。如何云うことだ。誰が何をやっている?
遮ったのは田山の声だ。
『元々無かったと、そう云っとるぞ。……本当に存在するのか? その、中原中也と云う男は』
「中原中也は存在する」
空気を裂くような声音が出た。じわりと血の滲むような錯覚を覚える。端末の向こうの声が黙り込み、そこで漸く太宰は己の醜態を自覚した。内心チッと舌を打つ。
それでも言葉を止める訳にはいかない。
「それは、私が一番善く知っている……」
中原中也が存在しないとしたら。じゃあ自分と双つの黒として並び立った、あの男は何だったと云うんだ。
太宰治の、元相棒は。
それにおかしいのはそれだけじゃない。
大家曰くずっと空き家だったこの部屋が、如何して太宰が寝転ぶのに抵抗も無いほど埃一つ無いんだ。
「……中也は確かに、此処に居たんだ……」
ふと、床に座り込んだまま横に目を向けると、幅木が妙に傷付いているのが見えた。何だ? 近付いてまじまじとその部分を見ると、何だか幅木の下に僅かな隙間が生じていて、其処から小さな紙片が顔を覗かせている。
指で引き出すと、其処には見慣れた書き文字がひとつ。
『何時ものバーで待ってる』
「……あぁ、ほら」
感嘆の吐息が思わず漏れた。筆圧が高く、はねの強い字だ。何度だって見てきた文字。その筆跡を、元相棒である自分が見紛う筈も無い。
そっと、その字を人差し指でなぞる。
「中也……」
それは、太宰が久し振りに触れた中原中也の痕跡だった。
◇ ◇ ◇
ガラン、とバーの入口にぶら下がった重いベルが太宰を中へと迎え入れた。その音が聞こえたのか、店内に微かに流れるジャズから気を逸しチラと顔を上げた男の姿を見て、太宰は声を荒らげないようにするのが精一杯だった。
どれだけ探したと思ってる。
そんなこと、口が裂けても云える筈も無い。
それに、そんなに必死になんてなってないし。
だから装った態度は平静そのものだ。ひらひらと手を一つ振って隣のカウンター席へ滑り込むように座る。
何時もみたいに。
「やあ、中也。生きてたんだ?」
「よお、太宰。御蔭様でな」
言葉と言葉に摩擦が無い。そのことがひどく心地が良い。風の吹いていた胸の隙間が瞬時に満たされるこの充足。頼んだ酒を一口煽ると味がしたので目を見開いた。そう云えばここ数日、味のするものを口にしていた記憶が無い。
「また碌に食ってねえんだろう」
そう云う相棒の方こそ、一週間振りの姿は少し痩せているように見えた。痩せている、と云うか。疲れていると云うか。頬が疲労にやや強張っていて、衣服にも何時もの張りが無い。なのに纏う空気が妙に穏やかで、何処か違和感を覚える。
けれど中也だ。舌が自然と滑らかになる。
「なんだ、死んだかと思った」
「手前じゃねえから死なねえっつったろ」
相棒がカクテルグラスを傾けて、くつくつと可笑しそうに喉を鳴らす。その云い振りからして、自分の身に何が起こっているのかは既に把握しているらしい。帽子の下の色素の薄い髪が、肩の動きに合わせて流れるように揺れる。
気付けばその色に惹かれるように、右手をすっと髪に差し入れて無意識に頬を撫でていた。
「……あ」
しまった、と思ったのは掌に中也の熱を感じた後だ。
けれど中也は太宰の手にまじまじと視線を注いだかと思うと、「……ん」とその熱に頬を委ねるように目を閉じた。頭部の重みが加わる。そのままそっと親指で喉を軽く擦れば、まるで猫みたいに気持ちよさそうな声を漏らすのだ。
冷えていた指先に、求めていた相棒の熱が伝わって。
此処に中也が居るんだと確かに判る。
「消えたと思ったか?」
その問いにちらと相棒を見遣れば、見透かすような琥珀色の瞳と目が合った。随分と挑発的に笑って、太宰の掌に柔く歯を立てる。「俺が居なくなったと」
「……でも君は此処に居るでしょ」
「ああ。そんで手前は来ると思ってたよ」相棒は何でも無い風に太宰の手をその身から離した。「何があっても、手前だけは必ず此処に来ると」
「へえ。ご期待には添えた?」
「及第点。遅えよ」
「厳しいなあ」その言葉にはーあ、と態とらしく溜め息を吐いて頬杖を突く。「此処まで来るのも随分と面倒だったと云うのに。大体何なのだいあれは、横濱中、まるで君が……」
そこまで云い掛けて、太宰はぴたりと己の口を噤んだ。まるで、君が。その先の言葉を現実に口にするのは躊躇われた。
その事実に、質量を与えてはいけない気がしたのだ。
まるで君が元から居なかったみたいになってて、なんて。
中也の方を盗み見る。渦中の本人だと云うのに太宰の胡乱げな視線を意にも介さず涼し気に酒を飲み、挙句馴染みのマスターに追加の注文までする始末だ。悪い、注文を……ああ、メニューは要らねえ。バイオレットフィズを一つ。
「……何が起こってるの」
「異能だよ。手前だって見当は付いてんだろ」
「異能……ね」
異能力。その定義は殊の外難しい。自然法則を歪め得るものが大半だが、その性質や規模は様々で画一的な説明を当て嵌めることが出来ない。強いて云うならこの世界に蔓延る、システムエラーのようなもの。自然科学では解明出来ない現象を引き起こすものを総称してそう呼んでいる。その全容は、専門機関が挙って解明を進めているものの今のところ誰も把握してはいない。
それでも推測することは出来る。
「初めは記憶操作の異能だと思った。森さんか――他の、君のことが邪魔な何処かの誰かが――君の知り合いから君に関する記憶を奪って回ってるんだと」
でもそうじゃないんだ、と名探偵が推理を披露するように淡々と思考の組み立てを口にする。それだと無理が生じると。犯人は黙って聞いている。その手袋を外した指が、つっと菫色に染まるグラスの縁をなぞる。
「そもそも記憶操作の異能だと規模が大き過ぎるんだ。仮に森さんや姐さんにまで記憶操作の異能を掛けられる人間が万が一にも居たとして、その異能者が君に関わった人間を一々調べ上げて異能を掛けて回ったとは考え難い。単純に時間が無いし、対象とする人間の規模が膨大過ぎる。ポートマフィアの上層部から末端構成員、敵対した組織の人間、二週間前に飲み会の帰りに泥酔して乗ったタクシーの運転手。君を知る人は山ほど居る。なにせ幹部だ」
中也が茶々を入れるように笑う。
「何処まで辿ったんだよ。相っ変わらず手前の調査能力は変態じみてんな」
「変態ついでに調べたけれど、君に関する記録、本当に綺麗さっぱり消えているね。特務課も真っ青だ。ポートマフィアのサーバーだけなら兎も角、君の使っているクレジットカードやら家やら車やらの名義、この前の海外出張時のホテルの宿泊記録、数日前に出来た近所の店のポイントカードの履歴まで」指折り数えて上げていくと、中也の顔がゲッと引き攣ったように強張っていく。人を変態呼ばわりしたんだからそれくらいでドン引きしないで欲しい。「勿論、君が使ったのは偽名だったりしただろうけど、それすら綺麗に残ってない」
そう、対象人物の記憶の消去、或いは対象の記録の削除。その異能をそう定義してしまうとどうも話がおかしくなる。不可能ではないだろう。だが現実的ではない。それにそんな異能があって中也を毀損することが目的なら、もっと効率的で手っ取り早い方法は幾らでもある。
だから。
「何のことは無い、異能の対象は『君』なんだ。この世界でただ君一人だけが、厄介な異能に掛かっている」
「――へえ? そりゃ如何云う異能だよ」
口にするのも莫迦莫迦しい異能だ。
けれどそう結論付けるより他は無い。
「対象の存在を、遡及してこの世界から消し去る異能」
「八十点」
その言葉に思わずむっとして云い返す。
「私の考えに何か欠けている処があるとでも?」
「そうムキになるなよ、元最年少幹部殿。大体は合ってんだから。……ここから先は俺しか知り得ねえ部分だ」
何だか適当に流すような態度に苛立ちが募る。ここまで手間を掛けさせておいて、未だ勿体振るのだろうか。刺すような視線を中也は難無く躱し、とんとん、とバーカウンターを指で叩く。それからゆったりとした仕草で頬杖を突いた。
浮かべる笑みが妙に穏やかだ。
「遡及して存在を消されたと云ったな。大体は合ってる。急に拠点が無くなったから仕方無くホテルを渡り歩いてるんだけどよ、カードも口座も使えねえからこれが面倒臭えったらねえの。御蔭で酒が欠かせねえ。マスターに忘れられてからも、かれこれ一週間このバーに通い詰めだ。……マスター、済まねえ。昨日頼んだやつを」
中也はそう云ってメニューも見ずにさっさと注文してしまう。何時もそうだ。『マスター、何時もの』で大体済ませる。今は何時もの、は通じないから毎日来て昨日のを、と頼んでいるんだろう。どうせキールばっかり煽っているのだ。
けれど予想に反して、注文を受けたマスターはグラスを拭く手を止めて品の善い微笑みを浮かべるだけだった。
挙句云う。
「お客様、失礼ながら当店は初めてでいらっしゃいますでしょう」
「は」予想外の言葉に、一瞬ぱちりと瞬きが止まる。
昨日来たんじゃないの?
説明を求めるように隣に座る相棒を見ても、中也はただ「この通りだ」と肩を竦めるだけだ。無論、この男が嘘を吐いているとは思わない。ここで中也が嘘を吐く意味も無ければ、太宰が中也を疑う意味も無い。
詰まり。
薄暗い店内に、ジャズ・ミュージックをBGMにして囁きような声が落ちる。
「記憶が二日と保たねえんだよ。昨日も一昨日もこの調子だ。ただ俺と会ってる時間中、記憶は持続しはするみてえだな。別れてから半日なら問題無え。一日過ぎてくると怪しい。記録も一緒だ。ホテルの一泊程度なら問題無えが、それ以上となると宿泊記録から消えちまうらしい。……ったく、カードキーは紛失扱い、挙句寝てる処に別の客が来ちまうんだから散々だぜ……」
太宰の脳は、段々とことの大きさを理解をし始めてきていた。事態は想定よりも深刻だ。記憶が失われただけならまた埋め直せば善い、記録なんて無くても如何にかなる、何せこの男の所属する組織は裏の事情に精通した天下のポートマフィアだ。戸籍やら何やら、失われたものの代わりを用意するくらい訳は無い。
失われただけなら。
「効果は過去に遡及するだけじゃない。未来に渡っても持続する」
太宰は過去、その経歴を洗浄する為に二年、存在を晦ましていたことがある。誰とも会わず誰にも知られず、ひっそりと過ごさなければならなかった期間だ。日の下を歩けず、かと云って日陰に戻ることも許されなかった時期。勿論日々の生活の中で他人との細やかな交流はあったが、それも転々と拠点を移していたから彼等の記憶に留まっているか如何かは怪しい。
誰の記憶にも留まらない。誰も太宰を認識しない。この世界で居ないものとして扱われ、繋がりを断たれるその現象。
思い出すのは魂の渇いていく空虚だ。
押し込められるように過ごした六畳一間の息苦しさが蘇る。
あのときは未だ、必要なものは凡て特務課連中が用意して呉れていたから何不自由無く過ごすことが出来た。空虚を紛らわす痛みもあった。
太宰治と云う人間として、誰と口を利かずとも。
二年と云う期限があって。
すべきことの為の期間だと判っていたから。
けどこれは。
「俺は未来永劫、この世界から亡き者にされちまったって訳」
――中原中也? 誰だい、それは。
此処まで幾度と無く聞いた言葉が鼓膜の内側で響いてぎゅっと目を瞑る。
横濱中、まるで君が元から居なかったみたいに。なってて。
中也はただ淡々と事実を告げるのみだ。常と変わらない声音の裏を読み取ることは出来ない。
太宰は今度こそ、自覚的に隣に座る相棒へと手を伸ばす。
「……触っても?」
「無駄だ」
簡潔な拒絶に、目を伏せてただ一言、そう、と頷いた。
詰まり、太宰の部屋を訪れたあの夜には既に異能に掛かっていたと云う訳だ。
そうして太宰を抱いて試した。
太宰が己の存在を覚えているかと云うことと。
太宰に触れることによって、その異能が解けないかと云うことを。
「……まったく、そんなことの為に私をあんな風に抱いた訳? なんてひどい男だ」
「何とでも云え」
ふん、と鼻を鳴らすその仕草に罪悪感など微塵も感じられなかったことだけが太宰の心を幾分か落ち着けた。そのことに関しては太宰も揶揄こそすれ本気で憤ることは無い。お互い利用し合うことに、今更新鮮な感情など覚えない。
「……で。君はこれから如何する心算」
だからこの押し殺した怒りは、別に利用されたことに対してではなかった。
抜き身の鋭い声が二人の間の張り詰めた空気を裂いた。必要以上に腹の底のどろどろとした熱を声に乗せてしまったと思った。けれど感情の抑制が上手く働かない。この男相手だと何時もそうだ。カウンターに無造作に置かれた手を思わずきつく握れば思いの外冷えていたそれに熱を奪われる。
覗き込むように視線を向けられ、ばちりとかち合わせた目は薄暗い店内でもはっきりと判るほど爛々と光る金色。
まるで面白がるかのような。
「『如何』?」
「君、真逆このままおめおめと存在の消えたまま終わる心算じゃないでしょう。なのに未だ私の前にその異能力者を連れて来ていないのは一体全体如何云うこと」
「異能力者は俺が殺した」
中也の返答は簡潔だった。一瞬意味を捉え損ねる。
「……なんて?」
「うっかり解除させる前に殺しちまった。解除の方法は無え。……手前ならいけるかと思ったがそれも駄目だったしな」
「それ」
それは。
言葉に詰まる。異能力者本人はもうこの世に居ない。けれど異能は解除されていない。人間失格でも無効化することは出来ない。
それの意味する処は。
「解除の方法は無えってこと」
はっと気付いた。
この妙に穏やかな態度は諦めた者のそれだ。
中也はこのまま消える積りなのだと。
「……でも解決方法は一つだけある」
でしょう、となおも絞り出すように云うと、そこで初めて中也の視線が訝しげなものに変わった。何を云い出す積りだとその瞳が揺れている。判らない。太宰だって判らなかった。
口の中がからからに渇く。
けれどこのまま中也を見逃す訳にはいかなかった。横濱からの存在の消滅、その事実を受け入れたかような態度が妙に気に障った。放っておけばこのまま消える心算なんだろう。そう判るのは、きっと一番近い存在だったからだ。
だから余計に許せない。
勝手に存在の消滅を受け入れるなど。
「私と居れば善いんだ。中也」
熱に浮かされたように、気付けばそう云っていた。
何か云い掛けるように口を開く中也から目を逸らす。そう、太宰と居れば善い。誰が覚えていなくったって、太宰が中也のことを覚えている。
それで何の不足があるのか。
「そうでしょう。別に君が人の記録に留まらなくったって、必要なものは私が凡て用意すれば善い。人の記憶に残らないと云うのなら、私が君を認識していれば善い」
要はかつての太宰にとっての異能特務課のように、その存在を認識し、繋ぎ止められる存在が一人でも居れば善いのだと思った。そうすれば、自分の存在の不確かさに幾らか心が渇くことはあっても、少なくとも体が生き永らえられることは太宰が身を以って立証済みだ。
「君には、私だけが居れば十分だ。そうでしょう」
このまま、中原中也と云う存在を無かったことにすることだけは出来ない。その一心で、口を突いて言葉が出てくる。生かすことが先ず第一だった。独りで消滅を受け入れさせるなど論外だ。握る手に力が入る。一度この手を放してしまえば、この男は太宰が探し出すのも困難なほどに鮮やかにその身を消してしまうのだろう。そんなのは御免だった。此処に繋ぎ止めておかなければならない。
異能解除の方法なんて、探していればきっと何時か見付かるのだから。
「……そうか。確かに、そうだな」中也も太宰の意見に同意するように深く頷いた。「俺には、手前だけが居れば善い」
「だったら」
「昔もそうだったな」云い募る言葉を遮られて口を噤む。何を云い出すのかと思えば、中也の瞳がすいと逸れた。カウンターの向こう、酒瓶の並べられた棚の辺りを彷徨うその視線は茫洋としていて掴み処が無い。
「俺達は双つの黒と呼ばれていた。手前が頭を使って、俺が動く。インカム越しに手前の声を聞く、あの瞬間が何よりも満たされる気分だった。手前の策が一番俺を有用に使えた。手前の指揮で踊るのが、一番背筋が震えた。……汚濁を抜きにしても、だ」
昔話をしたい気分じゃない。何が云いたいのか判らなくて首を横に振ったが、中也は構わず続ける。
「あのときもそう思ってたよ。俺には手前さえ居れば善いと」
「でも手前はそうじゃなかった」
静かな言葉が太宰の肺を突き刺した。
そこで太宰は漸く理解した。
誰に存在を認められずとも、太宰を利用すれば不便の無い日常生活を送れるのだ。誰が覚えていなくとも、太宰さえその存在を認識していれば自分達は満たされる。
それを理解して尚、何故この男が行方を晦ましたのか。
何故この男が、太宰を利用しようとせず表舞台からの消滅を受け入れようとしているのかを。
カタン、とスツールから立ち上がる音にはっと息を飲む。
「――中也」
「手前には俺さえ居れば善い訳じゃなかった。手前には、俺より優先すべきものがあった。俺を手放してまで手に入れてえものが。……別に責めてる訳じゃねえぞ。ただそうだったと云う事実の話だ」
「中也!」
伸ばした手は呆気無く払われる。
動作に反して、その声音はどこまでも穏やかだ。
「確かに手前を頼れば、俺はこの世界の異物ではなくなるんだろう。手前さえ俺を覚えているなら、俺は満たされるんだろう。……そんで手前に俺は必要無えのに、俺ばっかが手前を求めんのか? そんなのは道理じゃねえだろ」
なおも追い縋ろうとガタンと乱暴に席を立った太宰を、金の瞳が射竦める。その表層に浮かぶのは拒絶の色だ。透明な壁に阻まれたように、一瞬足が竦む。
違う。道理とか。関係が無い。
だって互いを必要とするのは当然だ。
私達は相棒なんだから。
云い返そうにも喉奥が急速に渇いて引き攣れる。
あのとき。太宰が中也を――中也との相棒関係を切り捨てて、組織を抜けたのは紛れも無い事実だ。
「じゃあな。もう会うことも無えだろう。……手前と居るのも、中々楽しかったぜ」
そう云って、元相棒が己に背を向け店の扉を潜るまで。
太宰はその場に影を縫い止められでもしたように、其処を一歩も動けなかった。