【再録】中原中也を知っているか
一.
中原中也と云う男が居たのだよ、と彼は云った。
◇ ◇ ◇
その異変に気付いたのは、冷えた冬の朝のことだった。
「……あれ?」
太宰は或る端末の前に居た。戸惑いの声が、罅割れた天井に霧散して消える。
打ち捨てられた事務所のような一室だった。雑居ビルと隣接している為に、日の差し込まないその部屋は随分と薄暗い。存在するのは事務机とパイプ椅子、それに太宰の持ち込んだ端末一台のみの簡易な拠点だ。後は冷蔵庫とか飲料水のペットボトルの群れだとか。ネットワークも最低限。それでも、いざと云うとき個人を特定させずに使い捨てられる点において、日常的な情報収集には向いていた。
非合法組織のデータベースに接続するときなんかは特に。
暖房器具なんて上等なものは置いていなかったから、外套の衿を寄せるようにして悴む手でキーボードを叩く。初めに感じたのは微かな違和感だ。喉に引っかかった小骨のようなそれに首を傾げる。
組み立て前のジグソー・パズルのピースの数が何処か足りないような――其処にあるべきものが抜け落ちているような感覚。
まるで入れ忘れられたみたいに。
もう一度、目を凝らして画面に表示された内容に目を通す。或る機密保管庫の入退室記録だ。構成員は各自割り当てられたICカードを使用して入室するから、番号の一覧と合わせて参照すれば何時誰が入室したかが仔細に判る。そちらはセキュリティが一段階高かったけれど、勝手知ったる古巣だ、太宰の手に掛かれば手間は他とそう変わらなかった。一覧にざっと目を通す。
最初に並ぶのは当然ほぼ凡ての権限を付与されている首領、それから五大幹部の名だ。森鷗外、尾崎紅葉――未だ削除手続きが済んでいないのか死んだAの名まである――と続いて、後はその下に準幹部クラスの人間の名がずらっと連なっている。その辺りからちらほらと、権限の制限が掛かるのだろう、他の名簿には記載のある名前が消えていて、保管庫に入室する権限を与えられていないことが知れる。
何も間違っている処は無い。
なのにどうにも引っ掛かる。
思考を目まぐるしく回転させようとして――ピリリ、と鳴り響いた携帯端末のコールに邪魔をされた。舌打ちして通話釦を押下。
途端、飛び込んできたのは同僚の怒鳴り声だ。
『太宰! 貴様何処をほっつき歩いている! 今日は社内の会議があると伝えておいただろう!』
「あー……御免国木田くん、私抜きで始めてて? 別に後で君が教えて呉れれば、今日は私が居なくとも支障の無い内容でしょう?」
云いながら上の空で端末を適当に肩と頬で挟み、小型メモリに名簿と入退室記録を保存する。途中何度かパスワードの入力を求められ、文字列を迷わず打ち込んでいく。
『たわけ! その姿勢が社の風紀を乱すと云うのだ!』
「御免って。お詫びに今度奢るからぁ」
『俺に詫びて如何する! 善いか、来月は引き摺ってでも出席させるからな!』
「はーい」
画面上で待機中を示すバーが消え、勢いに任せてメモリを引き抜く。今受け持っている依頼の関係で、二日前にダミーの情報を流したばかりだった。保管庫の情報と照らし合わせば、それなりに信憑性の高くなる情報だ。掴まされた人間は必ずそれを確かめに来るだろうと踏んだ。詰まり直近で入退室を繰り返している者が釣れた魚と云う訳だ。
後は長居は無用だ。あって無いような鍵を掛けて、太宰はその場を立ち去る。
後になって漸く思い至った。
欠けたピース、微かな違和感のその正体。
入室権限を付与された構成員の一覧表。その中に先ず真っ先にあるべき筈の――中原中也の名前が無かったのだ。
◇ ◇ ◇
これ、如何云うことなんだろう。
太宰はうーんと深夜の自室でディスプレイを爪弾いた。
薄型端末に挿した小型メモリが、読み込み状態を示してぴかぴかと点滅している。画面に表示されているのは入室権限を付与された人間と割り振られたカード番号の一覧だ。標的の炙り出しは済んでいたからもう用済みのものだったけれど、如何にも気になったのだから仕方が無い。
だって何度見ても、其処に曲がりなりにも五大幹部である中原中也の名前が無いのだ。
太宰は無意識に唇をなぞりながら首を傾げる。
ポートマフィアにおいて、五大幹部は首領に次ぐ権限を持っている。だからその下の人間が入室を許されて、幹部にその権限が付与されないなんてことは基本的にはあり得ない。現に他の幹部の名は一覧の最上部に載っている。
何かまた面倒な内部の権力争いにでも巻き込まれているのだろうか。太宰の思考を掻き乱したのはただ純粋な好奇心だ。中原中也、太宰治のマフィア時代の元相棒。太宰が組織を抜けてから幹部になったと人づてに聞いた。意外だと思った。策謀の中で生き残れるタイプではないと思っていたから。あれは上への反骨心は人並み以上に抱けるタイプだが、外から向けられる自分への敵意にはひどく疎い。
何故ならそれが実害となって表出してから対処しても、何とかしてしまえる実力があるからだ。
暗殺者を差し向けられれば返り討ちに出来るだろう。罠に嵌められ貶められたって、彼の人柄であれば信用を勝ち得ることだって出来ると思う。だから未遂の段階では彼の歯牙にも掛からない。中原中也と云う男の、悪い癖だと思っていた。
例えば仮に組織内で派閥ごとの縄張り争いなんかがあって。
中也をその情報をシャットアウトしようと企む何者か――他の幹部、或いは首領その人である可能性もある――に、機密保管庫への入室権限を何か理由を付けて制限されていたとしたら?
そしてあの男はそれを善しとする。或いは気付きすらしないのかも知れない。彼にとって実害は無いから。
そう云う可能性。
けれどそれにしては妙だった。太宰が見ている入室記録は権力争いなんかに関係が無い、ちんけな保管庫の一つに過ぎない。派閥の趨勢を左右するような内部の決定事項や他組織との会合を記録したものなんかはもっと厳重に保管されて、ICカードではなく暗証番号を別途個別に振られている筈だ。此処に入っているのは精々過去の取引資料くらいのもの。こんな部屋に入れなかった処で、大したダメージにはならない。
そこまで考えて、太宰はぱちぱちと目を瞬いた。うーんと伸びをして、そのままゴロンと布団の上へと寝転がる。
視線の先では蛍光灯が夜の気配を弾くように光っている。
材料が足りない気がした。
それに考え過ぎかも知れない。
案外、酒でも飲んで暴れて出禁になっただけとか。愉快な想像にふふ、と思わず笑いが漏れる。酒癖の悪さは何時まで経っても変わらないから。
目を閉じる。乾いた目にゆっくりと睡眠欲が染み渡って、意識がふわふわと眠りに落ちていく感覚。
今日はノックの音は響かない。
◇ ◇ ◇
笑い話にならなかったのは、その現象が保管庫一つでは済まなかったからだ。
「……何、これ」
アクセスしたのはポートマフィアのデータベース。別に元相棒が何かの陰謀に巻き込まれていようがいまいが、今の太宰には全く関係が無いし何かしてやる義理も無い。無いが、情報は自衛の為に集めておくに越したことは無い。
或いはからかうネタにでもなれば善い。
そんな軽い気持ちで見た心算だった。
そうして調べた入退室記録。過去の戦果報告や議事録、人事異動の記録に至るまで。
その尽くに中原中也の名前が『無い』。
「……」
ひんやりとした廃事務所内で、太宰は何故だか薄ら寒さを覚えた。自然と頬が強張る。
無い? 如何云うことだ?
数瞬の思考の後に、カチッと画面を切り替えて検索画面に或る日付を打ち込む。調べるのは十数年前の過去の襲撃記録の一つだ。太宰と中也が、一夜で或る組織を壊滅させ、二つ名で呼ばれ出したあの襲撃。
双黒。その響きが何だか妙に口に馴染んで、襲撃よりも四苦八苦して提出した報告書を何度も眺めたものだった。あの記録にだけは、自分と中也の名前は確実に載っている筈だ。
「……あった」
某年某日。敵対組織の名、所業、その襲撃に成功したこと。此方の損害は零。この作戦では異能者の成果が目立った。
中でも以下に目覚ましい戦果を上げたのは。
「太宰治と、……」
太宰治。以上。
一番の功労者である男の名前が消えていた。
太宰は天井を見上げた。ぐる、と椅子を回転させる。ぐるぐると、視界で天井の格子模様が回る。
十数年前の記録だ。派閥争いで陥れられていたとしても、其処まで遡って消す意味が無い。労力に見合うメリットが。
だってこんな。まるで中也なんて最初から居なかったかのような消し方。
あるとすれば、何者かに向けて隠蔽工作をしなければならない可能性。中也が身を隠さなくてはならなくなって、データベースから意図的にその名前を消した?
或いは――組織を裏切って処刑にでもなっただろうか。
組織からその存在の一切を抹殺しなければならないくらいに、ひどい裏切り行為を行って。
「……」
そんな訳が無い、あの男が。先ず真っ先にその可能性を否定したのは太宰の感情の奥底の部分だ。あの男が組織を裏切る筈が無い――私に何の相談も無く。
違う、と首を振った。太宰に相談が無いのは善いのだ。そうじゃなくて。あの男の忠誠心の高さからして、組織を裏切る筈も無いし。万が一裏切るならば、組織を敵に回すそれ相応の後ろ盾を用意するくらいの知恵はあるだろう。内務省異能特務課や海外の異能集団。太宰治への打診も選択肢の内の一つだ。そう易々と、抹殺を受け入れるとは思えない。
けれどただの工作や嫌がらせにしては、あまりに手が込み過ぎている。
◇ ◇ ◇
なんだかひどく落ち着かなかった。砂色の外套を、建物の影に馴染ませるように路地裏に立った。ジャリジャリとコンビニで買ったライターを鳴らし、くわえていた煙草に火をつける。久しぶりの煙草の味はひどく苦い。
そのまま、見上げた建物と建物の間に切り取られた曇り空へとくゆる煙を眺めること数分。
路地の奥から一つの人影が姿を現した。
「……待たせたかね」
「いいや。時間ちょうどだ、広津さん」
流石、と。
太宰はその人影に呼び掛ける。裏の世界の住人らしく、影から溶け出すように音も無く現れたのは片眼鏡の紳士然とした男だ。昔馴染みの顔。広津柳浪。ポートマフィアの実働部隊、黒蜥蜴を纏める百人長。
こう云うことは、データで見るより実際に顔色を伺いながら探った方が早いとは二十数年生きてきた中での経験則だ。
「君から急な呼び出しとは珍しいな」
「少し訊きたいことがあって」
「ふむ。何かね」
促され、取り出された煙草にライターを差し出しながら、然り気無さを装って訊く。
「アレの調子は如何?」
「……アレ? ……ああ」広津は首を傾げたが、直ぐに太宰からそう言及される存在に思い至ったようだった。「調子、かね? 相変わらずの激務だが、それほど悪くはなさそうだよ。合間に休息も取られているしね。何時も通り、エリス嬢に『このお洋服を着て呉れ給え』と――」
「待って」思わず静止を掛ける。違う。「森さんもだけれど、そうじゃなくて。私が訊きたいのは」
一瞬、その名を出すことを躊躇う。
「中也が如何しているかってことなんだけど」
「中也?」
惚けるような反応だった。けれど流石に歴戦の経験からか感情を一々表に出すようなことはしない。片眼鏡に隠れたその表情は、中々如何して読み辛い。
「その反応だと、矢っ張り外には出せない理由なんだ」広津の言葉に何か妙に引っ掛かるものを感じながら、太宰は一つ頷く。「名前が消えていたから、一体何かと思って。組織内でも伏せる方針なんだ? 何? 裏切りでもしたかい?」
「いや、済まない。君が何を云っているのか、理解しかねる」
静止を掛けたのは、今度は広津の方だった。煙草を肺に吸い込む手を止め、考え考え、太宰に問いを投げかける。
「中也と云うのは、組織内の君の知り合いの名か?」
「……何?」
意味が判らず、一瞬思考が固まる。
致命的な隙だった。然し百人長はそれを突いてくるような真似はしなかった。ただ黙って太宰の反応を待っている。この男が中也のことを知らない訳が無い。けれど嘘を吐いているようには見えない。
思考の乱れを感知するのに止められない。
「何云ってるの、中原中也だよ。私と相棒だとか双黒だとか呼ばれていた、あのちっちゃい、帽子の」
そう云うのに、広津の首は傾いたままだ。
挙句おかしなことを云う。
「君は独りだっただろう」
ひと気の無い寂れた路地裏に、静かな声が響いた。
「君は何時だって独りだった。その類稀なる頭脳と采配で誰も他者を寄せ付けなかった。屍の山に立つ君を、黒の王と呼ぶ者も多い」
「……広津さん」
煙草を取り落とすように棄てた。うっかりしていた、と思った。大前提を確認すべきだった。
無論、太宰に非は無かった。
何故ならその前提は、太宰にとって存在するのが至極当たり前だったから。
「中原中也を、知っている?」
片眼鏡の紳士は、慎重に、然し不思議そうな顔を隠しもせずに端的に云った。
「誰かね、それは」
◇ ◇ ◇
記憶操作の異能だと当たりを付けた。
公衆電話のボックスの中で、長い体を折り畳むようにして息を吐いてしゃがみ込む。
あの後、広津の肩に触れてもう一度問うた。中原中也を知っているか。否。じゃあ昔私と相棒を組んでいたのは誰。君はずっと一人だっただろう。今の五大幹部は? 質問の意図が読めないが。そうして広津の口から出てきたのは、太宰の記憶では準幹部であった男の名前。
然しその他にも投げ掛けた質問に対しては、特段記憶の混濁は見られなかった。
中原中也に関する事柄以外は。
厄介な異能だと思う。あの男に関する記憶だけを抜いた上、整合性のある代替の記憶まで植え付けているとなると、余程強力な記憶操作だ。太宰の人間失格を以ってしても、元凶である異能力者に触れなければ解消出来ないのだろう。
却説、これは元相棒のミスなんだろうか。ヘマをやって敵の異能を喰らった。それとも地位簒奪の為に準幹部の男に罠に陥れられた? 一般構成員の記憶が弄られているだけならいざ知らず、黒蜥蜴の百人長までもが掛かっているとなればマフィアにとっては由々しき事態だろう。
或いはあの人も承知の上でのことなのか。
体をずり上げ、のろのろと受話器を上げてチャリン、と十円玉を入れる。押すのは馴染みの番号だ。此方に戻って来る気になったら、何時でも連絡して呉れ給え。そう云って渡されている番号でもある。
ぴ、ぽ、と数字を押し込む電子音の傍らで、ごろごろと地響きのような雷の音が聞こえる。空に垂れ込めた雲の鉛色が、ますます太宰を陰鬱な気持ちにさせる。
十一桁。押し終わってぎゅっと目を閉じた。耳に響く呼び出し音。この瞬間だけは何時まで経っても慣れやしない。胃の底がぎゅうと引き絞られる感覚がする。
四コール目で、ぷつっと通話開始の合図。
『……はい、もしもし?』
「……森さん」
絞り出すようにその名を呼ぶ。受話器が手汗で滑る気がして鬱陶しくて仕方が無かった。強張った肩から力を抜くことが、この人を前にすると上手く出来ない。
例え電話越しであったとて。
『……ああ、その声は太宰くんかい?』ポートマフィアの首領その人の、太宰の名を紡ぐ声は相変わらず軽快だ。軽快でありながら、鉛のような毒を含ませる声。『珍しいねえ、君から連絡など。それに如何したのだい、まるで――そうだねえ、「心」が傷付いたような声をしているよ。君が直接、私に弱った顔を見せて呉れないのが残念でならない』
「していません」
そんな顔、と吐き捨てるように答える。この人は如何云う心算で中也の存在がそこかしこから消えていることを許しているのだろう。それを探ろうと思った。幹部交代を容認したのか。処刑したと云うのであればそれはそれで善い。太宰が気を遣る対象が減るだけだ。この人の意図する処でないのであれば、マフィアの方でさっさと解決しろと。
だから単刀直入に切り出した。
「貴方に仕えた狗の存在をあんなに綺麗に抹消するだなんて随分と可哀想なことをしますね」
データベースからも部下の記憶からもその存在を消して。まるで中原中也など元から存在しなかったかのように扱う。
割に合わないと思った。組織の為と聞けば見境無く火の中でも飛び込み、フリスビーを投げられた犬のように確実な戦果を上げてくるあの男の献身ぶりに対して、その処遇は割に合わないと。
なのに電話口の向こうからは要領を得ない返答が一つ。
『……ふむ? 心当たりが無いが』
「中也のことですよ」
瞬間、嫌な予感が悪寒として背筋を走った。中也のことだ。ならば当然首領は把握しているだろうと思った。ポートマフィアが記憶を操作する異能者を飼っているにしろ、敵対組織の異能者の仕業であるにしろ。首領である森鷗外だけは、絶対にその異能には掛かっていない。だから致し方無く情報収集の相手に選んだのだ。この人だけは、敵にも味方にも自らにその異能を掛けることを許さない。
その筈だ。
だから、中也くんが如何かしたのかい、と訊いて呉れれば善かった。
せめて、それを部下の名だと認識していることさえ判れば。
外ではポツポツと雨が降り始めていた。電話ボックスの硝子に微かに雨粒が吹き掛かるのを目で追いながら、ああ、彼はね、と笑いを含んだ返答を待った。
『「中也」……? ええと、それは一体何のことだったかな』
ガシャン、と思わず受話器を台へと叩き付けた。