【再録】深色


終幕


 その夜を境に、状況は一変した。抗争において常に後塵を拝していたマフィアが、突如として反撃を開始したのだ。
 新たに幹部の地位に就いた太宰治が冷徹かつ的確な指揮を行い、その指示に従って中原中也が拠点を潰す。異能で――或いは人智を超えた化け物の力で。
 頭が変わればこれほどまでに戦況が変わるのかと驚嘆するほど、その変化は劇的だった。
 あの夜――奇跡的に原型を留めて見付かった幹部の死体は明らかに敵の襲撃に依り殺されていた。これに幹部候補であった太宰が遺憾の意を示し、構成員に大弁舌を振るった。必ず復讐を誓おうと。その成果か、マフィア内の戦意も今は飛躍的に向上している。抗争はマフィア有利に傾いてきていた。
 或いはそれは、構成員の脳裏に揃って焼き付けられた、あの夜の恐怖を忘れる為の強がりだったのかも知れないが。

 そして今宵も、短機関銃の怒声が鳴り響く。
「たった数人で乗り込んでくるとは、舐められたもんだなァ!」
 その銃弾を軽く往なして落とす。中也のその一連の動作の間、太宰は余裕の笑みを浮かべて微動だにしない。その様子にひどくむかついたが、苛立ちは腹いせにちょいと摘んだ銃弾を捻じ曲げて弾くだけに留める。「雑魚か」
「き、貴様、真逆重力遣い……ッ!」
「と云うことは、貴様等……『双黒』か!」
「そうそう、そうだよ」ひらりと黒外套を翻した太宰に、敵どころか味方も逃げ腰になる。「おい、お前ら、あれを使う心算じゃあないだろうな……!」「さあ、如何だろう。て云うか、そうじゃないなら君達は何を期待して私達を此処に案内したの?」歌うように太宰が仄めかすと、背後に居た男は何か云いたげに口を開閉した後、結局何も云わずに車に転がり込むように乗り込んだ。バタン。戸の締まる音。その間に中也は足元の銃弾を弾き、敵の体を貫いて殺す。その背後で響くエンジンの音。まるで何か恐ろしい獣にでも追われているような様子で走り去っていく黒のセダン。
 逃げた男達の瞼の裏には、あの夜の光景が嘸や鮮やかに蘇ったことだろう。太宰の部下が上手く誘導して、死人は出なかった筈だ。出なかったからこそ、構成員の誰もが知っている。割れた空を、跡形も無く消え去った屋敷を――生物の息一つせず、空気さえ死んだように静かになったあの夜を。
 汚濁を使わせれば、次は自分達の命が無いことを。
 あれ以来、誰も自分達に汚濁を使えとは云わない。
「やだなあ」
 くつくつと、太宰がそれを見送りながら、愉快そうに肩を震わせる。その包帯塗れの体に月を背負いながら、「こんな雑魚相手に、汚濁なんて使う訳が無いよ、ねえ中也」と至極上機嫌に振り返る。
 その尻を――中也は思い切り蹴り飛ばした。
「あ痛ァ! 何 」
「『何 』じゃねえよ。何が使う訳が無いよだ、あんなに『汚濁は使うな』とか云ってたくせに、結局あの夜も俺にやらせたろうが」
 太宰は尻の痛みに顔を顰めながらも、何が可笑しいのかあれ、そうだったかな、と笑って首を傾げた。首を傾げながら、「私、云ってなかったっけ?」と悪びれもせずに云う。
 夜の海の色をした瞳を細めて。
「だって私はさあ……別に君が壊れようが何しようが構わないんだよ。寧ろ折角汚濁があるんだし、有効活用しないと損でしょ」
 それは君もそうでしょ。そう云われて中也も頷く。確かに、俺だって目の前のこの男が如何なろうが知ったことではない。
 だが。
「だけど。私以外が中也にそれを望むのは許さないし」
 一歩、太宰が歩み寄る。カツン、と月の影から中也の体を覆うように立つ。中也を見下ろす太宰の目は、今度は真っ直ぐに中也の方を向いている。
「君が私以外の為に、それを使うのは許さない」
「……そうだな」
 太宰の熱に中てられるのが堪らなく心地好くて、中也も釣られて笑った。向けられる視線に、自分達が同じ感情を共有していることを自覚する。必要なことは何もかもが伝わるし、相棒の求めることは何もかもを理解出来る。
 夜の闇は、もう煩わしくない。
「俺も、手前以外に望まれんのは御免だ」
 少なくとも太宰以外の人間に望まれてこの力を使うのは、もういいな、と思った。
 安くないのだ。俺も、太宰も。
「汚濁を遣るときは。ただ手前の為だけに」
 すいと太宰の手を取って、その指先に口付けた。
「……ちょ」太宰の珍しく焦ったような声が聞こえて、何か在ったかと顔を上げる。「君、ちょっと気障が過ぎるんじゃない?」その耳は暗闇でも判るほどに真っ赤だ。自分で云い出したことのくせに。笑ってその手を離す。
 然し今度は太宰が離そうとしない。
「太宰?」
「……じゃあさ。遅くなったけど、いい?」
「あ?」
「相棒。再結成でも」
「……俺とセットみてえに扱われるのは、うんざりだったんじゃなかったのかよ?」
 誂うように云うも、太宰が押し黙って反論しないものだから何だか中也まで体のむず痒い気持ちがしてくる。改まって申し出られると、擽ったさが先に立つ。
 相棒を辞めた夜だって、もうちょっとマシな雰囲気だった筈だ。そう、中也は太宰を抱いていて。太宰がそっと告げたんだ。あのときのことを思い出しながら、太宰のタイを引き寄せる。「何、」顔を上げた太宰の白い首筋に唇を寄せ、包帯の上からその肌に思い切り噛み付く。
「っ、ちょっと中也……!」
 微かな抗議に、薄く口角を持ち上げる。
 相棒を辞めるのが、嫌じゃないのかと訊かれれば、嫌ではないと答えるしかなかったが。
 相棒でもいいかと訊かれれば、いいと応える以外の選択肢など何処にも存在しなかったから。 
「……訊くまでもねえだろ」
 相棒なんだ。何処まで行ったって。
 太宰を見る。そわ、と首筋に手をやった太宰が、睫毛を震わせて瞑目するのが判った。「正解じゃなくても良いんだ……」歯を食い縛るように、ぽつりと呟く。「君と一緒なら、正解じゃなくても」
 太宰の腰を捕らえる。抵抗は無い。ただその身をゆるりと中也には委ねるばかりだ。
 その頬にそっと手を中てて、解けていた糸が絡まるようなキスを交わした。

 一度だ。
 一度だけ、本能のままに能力を解放したことが有る。それを人は双黒と呼び、力の象徴として畏れた。
 けれど、称える人間はもう居ない。
 双黒。その言葉が指し示すのは俺達の命の果てであり、
 それは、俺達が初めて一緒に抱いた生の形だった。

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