【再録】深色



 大体、汚濁と云うのは中也の体を消費して使用されるものなのだ。
 どいつも此奴も、それが判っているのだろうか?
「で、汚濁を使わない中也が――なんだって?」
 ここ一番の極上の笑みを浮かべられている自信が有った。ついでに青筋も。手元の男の頸を両手で絞め上げる。本部の廊下でそれをしたものだから遠巻きに人の視線を集めてしまっていたが、そんなことは如何でも良かった。
 今重要なのは、この男を如何に苦しめて殺すかだ。
「な、急に、何、離せ……ッ」
「やだ」
 ぎりぎりと、太宰が絞めているのは知らない男の頸だった。太宰より太いしがっしりしている。から、頸など吊っても締まり難そうだなあとぼんやりと思う。現に絞め辛い。中也なんかはきっと、手が小さいから私の頸の方が馴染むんだろう。そう考えて、少し気分が上向く。
 この男の言葉で不快なまでに落ち込んだ気分がだ。
「あ、ぐ、太宰……」
「私の聞き間違いかなあ? 『臆病者の役立たず』って聞こえた気がしたんだけど――ねえ真逆、君、その中原とは中原中也のことではないだろうね?」
「ひっ……」
 もう一人、腰を抜かしていた男がどさくさに紛れてその場から逃げ出そうとするのを太宰の目が端に捉えた。人集りに逃げ込まれる前に、素早く手元の男の拳銃嚢から銃を抜き取りその太腿を機械的に撃ち抜く。ぎゃあと悲鳴が上がって、廊下に血溜まりが出来る。
 致命傷じゃあなければ良いけど。その様子を眺めながら、太宰は独り言ちる。味方殺しは始末書がひどく面倒だ。これだけ人目が在ると揉み消しは無理だろうし。ぐるりと見回す。怯える人間、ああ、自殺狂いの狂人がまた何かやってると呆れてるのが半分。中には誰かを呼びに行っている者も居る。都合が良い。自分で呼びに行かなくて良くなった。
 手元の男の顔が、いよいよ以って白くなる。抵抗しようとした手が、力無く太宰の手の甲を引っ掻いていく。意識はもう既に何処か遠くに在るようだ。けれど太宰の手は緩まない。
 選りにも選って、太宰の目の前で中也を貶めたのが悪いのだ。太宰を目に留めて、おお、あのチビは居ないのかと難癖を付けたのが。
 チビは事実だ。けれどその後の言葉は聞き捨てならない。
『お前も大変だな、折角あんなすごい武器があんのに、臆病風に吹かれて使えねえんだろ?』
『あれを使わねえのなら、あの男、只の役立たずじゃねえの』
 だから嫌だったんだ。太宰は嘆息する。汚濁を使うことを強要されることは問題じゃあない。使わずとも太宰の頭脳と中也の異能が有れば事足りた。相棒と並び立った夜を脳裏に描く。二人で居れば、何だって出来た。
 これまでだって、そうしてきたんだから。
 けれど問題は、汚濁を使わなかったその次だ。
「――ねえ、君達、本気でそう思っているのなら君達の方がその中原中也に凡てにおいて劣った生きている価値も無い穀潰しだと云うことを自覚した上で今直ぐにでも死んだ方が善いよ、うん、私は優しいからね、殺してあげよう」
 どれくらい絞めれば殺せるんだろう。男は未だ息が有るようだった。常日頃からの中也の言葉を思い出す。手前は軟弱だ、鍛え方が足りてねえんだ。そう云われたって、加減が判らない。段々腕が痺れてきて、顔を顰める。
 きっと相棒が背負うことになる膨大な視線、その信仰じみた期待の後に、中也が浴びることになるのはそれが満たされなかった不満だ。
 如何して汚濁を使わない。
 あんな輝かしい、奇跡の力を。
 マフィアのくせに、今更命を惜しんでいるのか、と。
 だから相棒を辞めた。太宰が振る形で。汚濁は太宰――人間失格が居ることが前提の能力だったから、相棒を辞めたのであれば汚濁を使わないのも道理と受け取られるだろうと。
 思っていたのに。
「……どいつも此奴も、想定以上の莫迦ばっかりだ」
 吐き捨てる。相棒解消を吹聴したのに、今だって中也に無茶な任務を押し付ける人間が後を絶たない。その、軽いスポンジみたいな脳で考えた考えを中也に押し付けて、硝子玉みたいな空っぽの目で中也を見定める。彼の功績も努力も何もかもを無視して、誰も彼もが中也の自己犠牲を求めたがる。中也の体が、如何なるかも考えずに。
 役立たずと。
「太宰さん」
 自分達二人が使えないと罵られるのは良い。見返してやるだけだ。けれど汚濁を使わないことで、中也にそんな汚い感情を向けるのは許せなかった。
 中原中也はそんな軽い評価を受けて良い人間ではなかった。
 中原中也が貶められるなんてことが在ってはならなかった。
 中也に傷付くことを強要するのは、私じゃなきゃ――。
「太宰さんッ!」
 名前を呼ばれて袖を引かれた。拍子に男の体を取り落とす。どさりと間抜けな音がして、気を失ったそれが床に崩れた。苛立ちを隠さずに振り返る。
「今度は何」
 其処には真っ赤な顔をした男が息を荒らげて立っていた。今度は知っている男だ。中也の部下。それが百メートルを疾走した後みたいな形相で膝に手を突く。どうも様子がおかしい。
 何より一番の不審点。
「中也が居ないね。アレは如何したの」
 鋭く問うた太宰の声に、中也の部下の肩が震えた。「中原さんを」上げられた表情が悲痛そうに歪む。弱々しい声など、太宰には聞かせたくもないだろうに声音が何処か泣きそうだ。
 中也の部下は、一瞬躊躇った後、意を決したように太宰に縋った。
「中原さんを、助けて下さい……ッ!」

     ◇ ◇ ◇

 瓦礫の山を踏み締める。惨憺たる有様だった。地面には罅が入り、空には暗雲が垂れ込めている。遠くでは鉛の雨でも降っているのか、昼と夜の境目が曖昧なように薄暗い。舞う粉塵に感じる息のし辛さ。空が割れていて、まるで世界の終わりにでも立ち会っているかのようだった。
 そして太宰はこの光景を一度、目にしたことが在る。あのとき終わるのは世界じゃなく、自分達の命の筈だった。中也と見る、死の世界の景色。
「ねえ君達、私あれほど云ったよね? なんで中也を一人で行かせたの」
 太宰の半ば八つ当たりじみた問いに、けれど中也の部下は反論しない。ただ唇を噛み締めて、じっと太宰の後を付いてくるだけだ。誰も彼もが、その目に強い悔しさを宿していて、けれど一言も発さずに太宰の罵倒に甘んじる。
「君達中也が大事じゃないの」
「……ッ」
「……ああ、判った判った、大方分断されたか中也の独断かでしょう、まったく」
 反論が無いのが面白くなくて、詰るのは即座に放棄した。此処で部下をいびっている暇は無いのだ。それに、この方向で話を進めるととばっちりを食う気もした。別に、私はこの男達と違って中也のことは大事でも何でもないんだけど。
「――あ。君達は此処で待機ね。汚濁に巻き込んで殺しちゃったら、私が中也にお説教食らっちゃう」
 暫く行くと、いよいよ以って地面とそれ以外の境が曖昧にぐちゃぐちゃになっていた。それと同時に、行く先に気配を感じる。何か凶悪な、獣のような、――それでいて、太宰にとってはひどく安心を呼び起こす感覚。だからさっさと足手纏いは置いてきた。無言で頭を下げる部下達を尻目に、被害の酷い方へ、酷い方へと歩を進める。
 車は途中で乗り捨てていた。こんな道らしい道も無い状態では、自分の足の方がまだ役に立つ。元々資料上では敵の拠点の一つとして示されていた場所なのに、広がるのは荒野ばかりで在った筈の建物などは見る影も無い。死人も出ている筈なのに、生き物の残骸が欠片も見当たらないのがいっそ不気味だった。鳴るのは瓦礫の崩れる音ばかり。その破壊の爪痕が、異能の主の力の大きさを表していた。
 全力で異能を解放しているのだ。
 勝手に使って、死にでもしたら許さないって、云ったのに。
「あの莫迦」
 歯噛みする。太宰が一緒に居ないように仕向ければ、無茶はさせないだろうと思ったし、しないだろうと思った。中也の周囲も、中也本人も。
 なのにまるで、勢いを付けた歯車みたいにその思惑が止まらない。このままだと本当に、あの小さな体がいとも簡単に使い潰されてしまう。
 爆心地に向かう足に焦りが生じる。かつん、と何でもない石に躓いて転びそうになる。それでも速度は緩めない。思い出されるのは唯一汚濁を使った夜。あのときはもっとぼんやりとした月の夜だった。痛みに意識が途切れ途切れになって、瞼の裏に死の息遣いがちらついて。
 どうせ死ぬなら、最期に好きに暴れてやろうと笑って。
 汚濁に身を委ね、異能を解放した相棒の姿。
 ――如何なっても知らねえぞ。
 そう、吐き捨てるように云った彼の、苦渋に満ちた声を思い出す。
 あのとき、私は何と答えたのだっけ。太宰は思い出す。使うのを躊躇っていたみたいだから、君に殺されるのも悪くないとか何とか、多分、そう云うことを云ったような気がする。それは紛れもない本心だ。
 だから。
 相棒の一人も巻き添えにしないで。
 独りで詛いを振りまくような。
 そんな勝手は許さないんだ。
「中也ァ!」
 咆哮する。

 静寂の中に、『それ』は居た。
 小さな背中に滅びた世界を背負って、それは立っていた。何時か太宰が見た姿そのままだ。異能で己の身を喰い尽くし、最早意識も無く其処にただ立っている。然しぴりっと走った電流のような緊張が、太宰の足を遥か遠くで縫い止めた。
 食われる。
 それほどまでに、圧倒的だった。
 中原中也は、圧倒的にこの廃退した世界における支配者だった。
 その場を破壊し尽くして、なおも止まらずに異能で空を割っている。無理矢理にかき混ぜられた空は荒れ狂って嵐が嵐を呼んでいる。無音のまま、どろりと雲が落ちてくる。摩擦の所為か、時折稲妻が走る。
 台風みたいなものだ、と太宰は思った。云うなれば汚濁は、天変地異みたいなもの。人が如何こう制御出来る代物ではないのだ――私以外には。
 だから太宰は、一種の優越感を持って、その厄災に向けて――軽く小石を蹴った。
 勿論届かない。けれど音に気付いた中原中也が獣のようにその体躯を撓らせ、ぎろりと此方を睨んだ。よし、と太宰は無邪気に手を叩いて喜ぶ。無機物の死ばかりが横たわるこの場所に、のこのこと足を踏み入れてきた太宰みたいな人間は格好の獲物に映ることだろう。純粋に研ぎ澄まされた殺意の光に、ぞくりと背筋が震える。ああ、と頬が緩んで、吐息が漏れる。
「中也」
 呼ぶ。その太宰の声は、目の前の獣の意識には全く届いていないようだった。低く唸るその姿はただ太宰を仕留める為だけに動き、鈍く光る黒い瞳は如何やって太宰を殺そうか、そればかりを考えている。其処からは普段の聡明で理知的な光は失われている。
 それが少しだけ、残念で。
「ぐっ……アアァアぁ!」
 血を吐くような悲鳴にはっと我に返る。皮膚が割れ、体の毀損に蹲り、我を失った中也が苦しげに呻きを上げた。多分、限界なんだ。幾ら鍛えていようと、人間の体には限界が有る。
 それでも。苦しげに呻きながらも、中也はふいと手を此方に向ける。その先に、殺意を固めたような重力子を形成する。太宰を殺す為だけに。
「君のさあ、そう云う処、すごく好き……」
 うっとりと呟く。他ならぬ中也が殺して呉れるのであれば、そんな甘美な誘惑は無かった。雨に濡れそぼった蝶が砂糖水の匂いに釣られるみたいに――砂漠を彷徨う渇いた生き物が水場の幻影を見付けたみたいに、ふらりと二、三歩、中也の姿をした異形に近付く。相棒なら、慈悲など欠片も呉れずにこの下らない世界ごと己の体を破壊し尽くして呉れるだろう。太宰の本能の、自殺嗜癖の部分が擽られる。それも良い。私が死んで、莫迦な中也が暴走を止められずに苦しみながら朽ち果てて。二人、心中みたいに死んでいくのも。
「……ただね」
 ただ、と夢見心地な感覚に身を任せながら、道中部下からくすねた銃を取り出して確認する。弾は十分だ。
「――ただ、この状況を作ったのが、私達以外の他人だってことがひどく気に食わないから――今此処で君に、殺されてやる心算は無いんだ」
 次の瞬間、ぱん、と予備動作無しに中也の目を狙って発砲した。中らなくても善い。動きを止められれば。予想の通り、中也が反射的に重力子を放つ。銃弾が空間ごと抉り取られて消え去った。うわ、喰らいたくない。笑いながら、銃を棄て隙を突いて逆側に回る。中也の捕捉から、一瞬外れる。
 矢張り動きが単調だった。常の中也ならば、こんなフェイントに引っ掛からず、太宰など簡単に捻じ伏せていただろう。地面を蹴って、攻撃の反動で動かない中也に手を伸ばす。触れるだけで良い。それだけで、中也の意識を引き摺り戻せる。
 然し。
「……っ!?」
 ぱん、と地面が弾け、伸ばした腕に痛みが走る。気付けば石片で腕がずたずたに裂けていた。重力子を地面に向かって撃ったんだ。そう判断すると同時に咄嗟に破片から顔を防御して――はっと気付いて飛び退る。鋭い蹴りが、太宰の居た一瞬後を薙ぐ。ち、と舌打ち。
 後一歩届かない。
 じり、と空気の焼ける音に顔を上げると、再度中也の手で重力が歪められている処だった。触れてもいないのに心臓を捻られそうな凶悪な力に、最早乾いた笑いしか漏れない。内側に何を飼っているんだ、この男。食らっても無効化出来るけれど、周囲からの物理ダメージがきつい。
 それに――これ以上、中也に異能を使わせる訳にもいかなかった。近付いて判ったことだが、小さな体の至る処からみしみしと壊れる前触れの音がしているのだ。
 痛いのは嫌だけど――仕方無い。
 中也が何を飼っていようが、それを抑えるのは相棒の役目だし。
「あーあ、やだなあ、でも仕方無いんだ……中也!」
 真っ直ぐに突っ込む。今度は地面ではなく直に撃ってきた重力子を右手で掻き消す。渾身の攻撃が消滅したことに因る、一瞬の怯み。それから拳。ほら、矢っ張り単調だ。その攻撃を、太宰は敢えて腹で受け止めた。
「っぐ……」
 腹に拳のめり込む感覚に、瞼の裏が明滅する。散り散りに引き裂かれそうになる意識を、必死に手繰り寄せる。
 それと中也の腕を。
「!?」
 は、と気付いたように中也が手を振り払う素振りを見せるが、逃す訳も無い。視界の暗転が回復しないまま、手探りで中也の体を、顔を、引き寄せて。
 思い切り、唇で口を塞いだ。
「っ――」
 手の中の獣が暴れようとする。然しただ単に暴れるだけならば揉み合いは太宰に分が有った。伊達に相棒はしていないのだ。異能に依る処の大きい今の中也の動きなど、密着すれば抑え付けることは造作も無かった。
 中也の手の先が、黒く汚染されるそばからじわりと浄化される。否、浄化なんて綺麗なものじゃない。じゅうじゅうと、まるで神経の焼けるみたいな音。きっと太宰が掴んでいる所為で、体の内部で異能の出力が狂って暴れているんだろう。苦しげな呻きが聞こえる。反面、抵抗が段々と弱まっていく。
「――中也、」
 呼ぶ。今度は届いたかな、と。確認する前にずるりと体が重くなった。拙い。そう思う間も無く全身から力が抜ける。限界だ。中也の体に触れ続けることが、出来そうになかった。意識が前のめりに倒れ込む。
 駄目だったか、と瞑目した。まあ、こう云う終わりも悪くない。心地の好い疲労感が太宰の全身を包んでいた。こんな、やりきったみたいな感情を抱いて死ねるのなら悪くなかった。後は、中也が好きに殺して呉れれば。
 そう、重力に任せて摺り落ち掛けた体の動きが止まる。抱き留められた、と気付くのに数秒。
 顔を上げると、中也の瞳が確りと太宰の姿を捉えていた。その表層に浮かぶのは、狂気に猛るぎらついた金ではなく、何時もの理性的な琥珀の輝きだ。それが、月を背にして口を開く。確かめるような、言葉が漏れる。
「……だざい?」
「……うん」
 自我を取り戻したのだ。それを見届け、太宰はもう一度、「うん」と頬を綻ばせ、にこりと笑って――。
 中也の頬を、力の限り殴り飛ばした。

 珍しく、中也の体が吹っ飛んだ。飛距離が無い分勢い良くその辺りの瓦礫の山にがしゃんと突っ込む。
「……ってェだろうが! 何しやがる!」
「自業自得でしょ。君こそ何やってんの?」顔を顰めて拳をひらひらと振りながら、端末を取り出し中也の部下に連絡を入れる。無事の確保の連絡と、救護班を呼ばせる指示。「一人で汚濁使ってさあ、莫迦じゃないの?」
「あ!? 手前に云われたか、……」
「……自覚有るでしょ。今回ばかりは」
 黙り込んだ中也の体から服を引き剥がす。「触んな」「黙って」中也の顔色を伺いながら、慎重に体を辿っていくと仏頂面が時折痛みに歪んだので、其処を取り敢えず手持ちの応急セットで処置する。本当は内臓も筋肉もずたずたの筈で、顰め面程度じゃ済まない激痛に襲われている筈だった。見える傷は止血をして、動かしてはいけない箇所だけ軽く固定して。満身創痍の小柄な体に、先刻までの清々しさは何処へやら、今は腹の底の煮える思いだった。誰がいいと云って、こんなぼろぼろになってるんだ。
 それに火を注ぐのは中也の一言だ。
「邪魔しやがって」中也が吐き捨てるように云う。その目は伏せられていて良く見えない。「なんで来た」
「なんで?」
 一瞬、手当ての手が止まる。なんで? 莫迦にしてるんだろうか。
「汚濁はもうやらねえつったろ……」
「じゃ、このザマは何」
 見下ろす。何時もの陽の光を通す淡い髪色はくすんでいて、靭やかに鍛え上げられた体は血と泥で汚れていて、その内部は重力を歪めた負荷に侵食されているのだ。こんな状態で、真逆汚濁を使っていないとでも云い張る心算なんだろうか。遂に莫迦になったのだろうか。
 けれど中也は続ける。
「手前も云ってたじゃねえか。これは、俺の異能だろ。重力操作だ」げほ、と中也が咳き込んだ。押さえた手の平に滲んだ赤を見て悲鳴を上げたのは太宰だ。「中也!」「汚濁は俺の異能と手前の異能で出来る技だろ。手前が居てこその汚濁だ。俺だけでやったら、ただの異能の暴走だ……」
 呆然とする。確かに太宰はそう云った。だが、だから使うなと、そう云わなかっただろうか。
「君、云ってることめちゃくちゃだよ……」
「だったら手前はこれで良いのか!?」勢い手を弾かれた。顔を上げた中也の、燃えるような金の瞳がぎらりと光る。「手前は俺達の関係が汚濁なんざの為のものと思われても良いのかよ……俺達は汚濁の為の装置じゃねえだろうが、手前は単なる俺の停止装置じゃねえだろうが巫山戯んじゃねえぞ!」
 胸倉を掴まれて揺さぶられる。「中也」思わず声を上げた。「中也、痛い」。その一言で、漸く我に返ったのか、散漫になっていた怒気が押し殺される。
「俺は――俺は、相棒って言葉をそんな安っぽい意味で使った覚えは無えし」段々と、強張っていた全身から力が抜けていくのを見て取って、太宰は慌てて中也の体を抱き留めた。一瞬ひやりと嫌な予感が背筋を這ったが、如何やら相棒は眠いだけのようで、うつらうつらと頭を揺らし始める。「手前を停止装置としてしか見なかったことなんざ無えんだ……」
 太宰は思わず腕の中でうと、と意識を眠りへと寄せる相棒を見る。その手を握る。幾つもの夜を一緒に越えてきた手だ。相棒の、手。
「……俺が壊れちまえば、思考停止してる奴等も、汚濁がそんな便利な必殺技なんかじゃねえ、容易にぶっ壊れるもんだと気付くだろ」
 後に残ったのは静寂だけだった。中也はそれきり黙り込んだ。太宰も。二人分の息だけが響く。それ以外の音はしない。何せ周りは全部、壊れてしまっていたから。荒廃した世界に、二人きりだ。
 二人きりで、何もかもを共有していた時間が戻ってくる。その感覚に、太宰は一つ息を吐く。それからゆっくりと息を吸って、平静な表情を貼り付ける。喜色を覆い隠して。
「なあんだ、君、それで怒ってたの」
 一言。精一杯、莫迦にする調子で。
「あ?」
「てっきり、君が汚濁を使わない所為で仲間が死んだとかの云い掛かりを真に受けて、一人で敵を潰す莫迦な真似を強行したのかと思った」
「は」
 戯けて云うと、中也も応じて鼻で笑う。
「死んだ奴は、運が悪かっただけだろうよ。そんなもんまで、俺が背負う積りは無え」
 嘘だな、と思った。この相棒ときたら、妙に義理堅い処が有るから、きっと罪悪感に魘されたことも一度や二度ではないに違いない。けれどそんなことをしても何にもならないことも判っているから、太宰の前ではその痕跡を見せない。
 それなら今は、別に善い。
「私もさあ」此処に来るまでのことを噛み締める。中也に向けられる畏怖の視線とか、むかついたから絞めた男の頸とか。碌な物が無い。「私も、君が装置なのは御免なんだよね……」
「……そうかよ」気の無い返事だ。構わず続ける。
 何時だって、相棒は太宰が呼ぶ一言で、太宰の求めることを理解して呉れるから。
「中也。君がいい顔をしないと思ったから云わなかったけど、こんなことするなら私も我慢の限界なんだ。だから、ねえ、君に選択肢をあげる」
 云って、人差し指をぴっと立てた。
「一つは、君の考えた通りに、君がこのまま体を使い潰して使い物にならなくなる展開」
 続いて中指を。
「一つは君が此処で独占欲に駆られた私に殺される展開」
 中也は黙って聞いている。
「そしてもう一つは――」

 それを聞いた中也がぱちりと瞬いた。そんなこと、考えもしなかった、とでも云いたげな間抜け面だ。そうでしょうそうでしょう、流石私でしょう。太宰は何だか嬉しくなって、ふふっと笑った。中也もそれに釣られて笑う。
「……それは、中々。良い案だな」
「でしょ?」

     ◇ ◇ ◇

「し、失礼します!」
 黒服を纏って部下と共に数人、慌ただしく執務室へと入室するのを、幹部の男は欠片の警戒も見せず鷹揚に顔を顰めて迎え入れた。
「何だ、騒々しいな。少しは落ち着きを覚えたら如何だ……」
「緊急事態です! 中原が単身、敵を殲滅したそうです!」
「そうか」自分達を代表して報告を始めた男に、目の前の幹部は至極面倒そうに頷く。神経質に、机の端を指で叩く。「良いことではないか。何をそんなに焦っている」
「それが――例のあの力を使って、凄い勢いで周囲を破壊しながら、此方に向かってくるんです!」
「な、何ィ――!」
 同時に、屋敷全体がずん、と地鳴りのように揺れた。
 幹部が慌ててカーテンを引いた窓の外は既に阿鼻叫喚だった。窓から見える屋敷の北側の部分が崩落し、人の体が塵のように十把一絡げに放り出される様はいっそ爽快だ。硝子がばりばりと外側に剥がれ、屋敷に侵入した嵐の存在を示す。今直ぐ逃げれば間に合うだろうが、この幹部がそこまで冷静な判断を出来る男なら、今回の抗争でマフィアがこれほどまでに苦戦することも無かったろう。中也が汚濁を強いられることも。案の定、焦った幹部が見苦しく喚く。
「ええい、あの莫迦は何をやってる! 折角の汚濁を味方に使って如何するのだ、今直ぐ止めさせろ!」
「無理です、異能が強力過ぎて誰も近付けないんです!」
「止めるには、もっと人手が必要でしょうね」
 悲鳴のような報告に至極冷静な分析が入ると、幹部は部下を追い出すと同時に、護衛をしていた黒服達にも指示を飛ばす。「くそっ、お前達も行け!」と全員を室外へと放り出す。
 ばたん、と扉が閉まった。一瞬、室内がしんと静まり返る。
 残ったのは、幹部の男と――妙に冷静な黒服が一人。
 それが、何故此奴は残っているんだ、と幹部からの訝しげな視線を受け止める。
「おい、何をしている。お前も行かんか」
「……ふふ」
 その様子が可笑しくて、堪え切れずについ笑ってしまった。不審げな視線を受け、遮光眼鏡を外す。幹部の目が、見る見るうちに驚愕に見開かれる。
「お前、真逆――太宰」
「はい、太宰です」
 こんばんは、と一礼して。
 返す手で銃を突き付けた。
「な、にを」
 真逆、こんな莫迦げた芝居でいとも簡単に命の危機に晒されるとは思ってもみなかったんだろう。唐突に現れた銃口に、濁った瞳が中央に寄る。酸素の切れた金魚のようにぱくぱくとその口が開閉する。其処に、照準を合わせる。
「却説、何でしょう」囁くように太宰は云った。屋敷の崩れる音は未だ遠い。暴走した中也の足音は。「貴方は如何して今から死ぬのだと思います?」 
「ま、待て、こんなことをしてただで済むと思っているのか!」
「いいえ?」
 引き金を引いた。ぱん、と軽い発砲音と共に、幹部の男の額に穴が開く。どんな人間でも頭を撃たれれば絶命する他無いし、それは目の前の男とて例外ではなかった。上等なスーツに身を包んだ体が、流血と共にその場に崩れる。呆気無い。
「……ただどころか、お釣りを返して頂かないと」
 ぽつりと独り言ち、さらりと手触りの良いカーテンを引いて窓の外を窺い見る。少しだけ欠けた不安定な月が、黒雲の合間からそっと顔を覗かせていた。その下で行われているのは、徹底的な破壊行為だ。荒れ狂った獣が、北側から屋敷を踏み潰していく。その嵐の通った後は屋根が剥がれ壁が剥がれ、見えた骨組みさえもぐしゃぐしゃだ。その光景が、ぼんやりと月光に包まれている夢心地。
 いい夜だ。
 こんなにも月が綺麗だから、汚濁を使ってしまうのも仕方無かった。何せ敵の拠点を壊滅させたは善いけれど、残党が屋敷に入り込み幹部の命を狙ってきたのだ。暗殺だ。けれど杜撰な作戦の所為で暗殺者の追跡にまともに人員を割くことも出来なかったから、汚濁を使わざるを得なかった。
 だから仕方無い。
 そう云う設定。
「ああ、本当にいい夜です。ねえ、そうは思いませんか? ――首領」
 こんばんは、と。不意に執務室の暗がりに声を掛けると、宵闇に紛れてするりと人影がまろび出た。音も無く現れ出た影が、淡い照明に照らされ人の形を取る。森鷗外。町医者の格好をしたその男こそ、マフィアの首領その人だ。如何してこんな処に居るのか、なんて問いは無意味だろう。この人は何処にだって居るのだ。その優れた戦術眼で以って、ポートマフィアの細部を見極め己の手足として能く使う。だから何処に居たって、不思議ではなかった。先刻までは居なかった場所に、現れても。
 珍しいのは、その表情が顰め面だったことだ。
「騒がしいと思ったら、矢っ張り君かい。太宰君」
「中也も居ますよ」
 呆れたように云われたので、単独犯だと思われては心外だと破壊音の方を指し示す。と、空に向かって一際強烈な重力子が放たれたのが見えた。一瞬空を焼く稲妻のような閃光が閃いた後、夜の闇とは違う異質な禍々しい黒が、空間を侵食して夜を飲み込む。恙無く、大暴れしているようだった。
 そのようだね、と頷く鷗外の顔は険しい。
「判っているだろうけど遣り過ぎだよ、太宰君。この状況、如何落とし前をつける気かな」
「私が幹部になります」
「君が?」
 そうだ。何を複雑に考えていたんだろう。
 誰かが中也に壊れることを望むのが癪だった。己の相棒に、勝手に犠牲を払わせようとするのが気に食わなかった。それをしないことで、中也に汚い感情が向けられるのも。
 なら、誰も彼にそれをしないほど、自分が地位を持ってしまえば善いのだ。太宰には、それをするだけの力が有る。
 この際だ、序に徹底的に恐怖心を植え付けてやったらいい。
 誰も汚濁の名を二度と口にする気が起きないよう。
「……ふふ。君が?」
 沈黙を破ったのは鷗外だった。難しい表情は何処へやら、一転少女のように首を傾げ、くすりと可笑しそうな苦笑を漏らす。さら、と烏の濡羽色をした髪が揺れる。
「ええ。貴方だってそれを望んでいたでしょう? 無能な者がのさばるのは、合理主義の貴方にとって我慢ならない筈だ。少しばかり予定が早まったかも知れませんが」
「そうだね。――けれど幹部になる前に、君は味方殺しの罰を受けなきゃならない」
「私は私刑には掛けられませんよ」うっそりと笑う。「汚濁で木っ端微塵になった荒野から見付かるのは、この幹部と、それを殺そうとした敵組織の男の二人分だけです。そう云う脚本ですから」
 それに、と太宰は続ける。
「それに、私ならこんな男よりずっと上手く――マフィアを勝利に導ける」
「そうだね、それは」鷗外は、何処かこの問答を面白がっているようだった。ほっそりとした指が宙に円を描く。一振りで、太宰の命を立つことも出来る指が、だ。「それはひどく合理的だけど」
 暗く血のように赤い瞳が、太宰をじっと捉える。
「感情的に考えて。部下を殺された私が君を許すと思うかい?」
「おや。身内を殺しての地位簒奪は定石でしょう?」
 だから敢えて地雷を踏みに行った。ひゅ、と息を飲む気配が在る。向けられる視線が鋭さを帯びる。体の芯を貫くようなそれに、太宰は緩やかに口角を上げる。
 感情的に考えて。この遣り取りの末に太宰を殺すのは、みっともなく弱みを曝け出すことに他ならない。
「……本当に、可愛くない子だねえ、君は」
 一呼吸だけ。その間だけだった。鷗外が、鋭く研いだ殺気をゆっくりと仕舞う。やれやれと、軽い溜め息。
「善いだろう、好きに遣ると善い。ドジを踏まないようにすることだ。……あと」
 再度闇に溶け込もうとした鷗外が、ふと太宰を振り返った。未だ何か。胡乱げに見遣ると、鷗外は人の好さそうな調子で苦笑した。
「中也君を、大事にし給え」
 その言葉を最後に、ポートマフィアの首領は姿を消した。上々だ。目下の懸念事項は消えた。後は中也の暴れた後を処理するだけだ。
 それにしても。
「……大事に、か」
 呟いた自分の唇をふと撫でる。大事にする心算なんて毛頭無かった。今だって汚濁を使わせているし、きっとこれからも必要であれば何度だって強要するだろう。中也も是としか答えない筈だ。大事になんて、出来る訳が無い。
 けれど、失う前に手放して他の誰かの手に依って失わせるくらいなら、自分の手で潰してしまった方が余程マシだった。瞑目する。正解じゃないかも知れない。でもそれで良かった。

 外では屋敷の崩落が始まっていた。却説、そろそろ迎えに行かないと。廊下に出て、逃げ惑う構成員の波を逆流する。途中、逃げ出したものの腰が抜けたのか無様に転がっている男を見掛けた。「ねえ大丈夫?」と訊くも、その目は太宰を捉えない。瞳は恐怖に彩られている。
「ああ……黒が……黒が、迫って、」
「おやおや」
 これはまた、お手本のような気の触れ方だなと肩を竦め、男を窓からよいしょと投げ捨てる。今回は、こう云う人間にこそ生き延びて貰わないと困るのだった。
 生き延びて、この惨劇を語り継いで貰わないと。
 北側で響いていた破壊音が、段々と近付いてくる。窓から覗く空は暗雲が垂れ込めて、今にも落ちてきて世界を圧し潰してしまいそうだった。響く悲鳴。一事が万事順調だった。
 ほら、この程度、君の敵じゃあないでしょう。そう太宰が云えば、そうだな、と相棒なら目を閉じて頷くだろう。制圧するなら先ず警備の薄い北側からだ。派手に騒ぎを起こして、その隙に幹部の男を殺す。ここまでは順調だ。本部ではないから、屋敷は一時的に統制を失っている。さあ、後は君が徹底的に暴れて、構成員の戦意を喪失させて。殺さなくても善いから。
 思い知らせてやるんだ。
 今後誰も、自分達の邪魔をしなくて善いように。
「やっちまえ、中也ぁー!」
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