【再録】深色



 相棒と過ごす夜の闇を、煩わしく思ったことは無い。
「太宰」
 その一言で、必要なことの何もかもが伝わった。中也、と呼ばれるその一言で、相棒の求めることを理解した。視線を交わす必要も無かった。それでも敢えて目を向けたのは、単純に、横濱の夜に浮かび上がるあの男の影を好ましく思っていたからだ。何処か遠くを見透かしたような目が薄く笑い、弧を描いた唇が熱を含んで笑む。それに中てられるのが、堪らなく心地好かった。共に高揚した夜気を纏うのが。
 あの男が隣に居れば、闇の中の景色さえ明瞭に映り、夜空の藍さえ鮮やかに見えた。相棒が策を練って自分が動けば、何だって出来る気がしていたのだ。ただの人殺しの任務だって、一国を滅ぼすのだって、月並みだが世界征服だって。
 それが何時から、こうなったのだか。
 目を閉じる。相棒の居ない夜は昏い。
 あの日、一度死んでからだ。どうせ失う命ならと、死んだ積りで異能を解放した。命を侵食するそれを汚濁と名付けた。俺達の戦略に、その選択肢が加わってしまってから。
「あのさ」
 何時かの夜の太宰の声が、密やかに耳の奥に蘇る。
「私達、相棒、辞めようよ」
 そう云った太宰の本心は定かではない。澱んだ瞳の奥底が、俺にそれを探らせなかった。あの夜太宰は、俺を見ているようで、その実何処か遠くを至極無気力に眺めていた。まるで自殺帰りみたいな。ぽたぽたと陰気に雫を垂らす蓬髪の下で、死に切れなかった目をするのだ。
 よくよく考えれば、これまでだって太宰の考えが読めないことは多々有った。けれど読めなくとも、少なくとも自分のすべきことは――太宰が俺に何を求めているのかははっきりしていた。だから問題が無かった。今回も同じだ。
 今回は、それが相棒解消だっただけのこと。
 別に、相棒を辞めなくても善いのではないかと思ったのは事実だ。汚濁にしか価値が無いと思われているんなら、見返してやれば善い。俺と太宰には、それをするだけの力が有る。
 俺と太宰の本質は、何も変わらないんだから。
 けれど、そうまでして相棒を続ける理由も無かった。元々相性が良い、動き易い、それだけで組んでいた仲だ。組んでいて動き難くなるのなら、相棒を続ける意味も無い。
「うんざりなんだ、君とセットみたいに扱われるの」
 だから手放した。俺も太宰も。それが本心か如何かは関係が無い。ただ合理的に考えて、それが最適解だと判断した。
 これ以上相棒関係を続けて、無遠慮な他人の手に依って、俺達の形が歪められるのは御免だったから。

 じわじわと、透き通った黒が侵食される。

      ◇ ◇ ◇

「……かはらさん……中原さん!」
 悲鳴のような声に意識を呼び戻される。は、と息を呑んだ次の瞬間、足元の地面が抉れた。銃弾だ。混凝土の破片と幾つかの銃弾が、中也の体に中って跳ね返る。
「ち」
 煩わしい。足元の石の破片を飛ばして弾く。石片は真っ直ぐに敵へと飛んでその体を容易に貫いた。悲鳴を上げさせる暇も無い。崩れ落ちる体、それを見て後退り、銃を乱射してくる相手に更に打ち込む。殲滅する。
 戦場で注意を散漫にさせるなど、相棒が隣に居れば笑われそうだ。
『如何したの、中也。遂に痴呆でも始まった』
「……煩えな。もう相棒でもねえくせに」
 聞こえる筈の無い嫌味に毒突く。如何も普段と勝手が違う。居たら居たでひたすら他人の不快を煽ってくる男だったが、居なければそれはそれで此方の調子を狂わせてくるのだからあの男は本当に腹立たしい。
「中原さん? 大丈夫ですか」
「……悪ィ。二の部隊を裏手に回せ。一の奴は俺と来い。他の奴の援護に回る」
 部下の声に我に返って指示を出す。そう、意識を散らしている場合ではない。今まさにマフィアの拠点が襲撃されているのだ。今度は武器の保管庫だ。こんな襲撃を許すとは、上は一体何をやってんだ。流石の中也も不満を漏らしたかったが、それをすべきは今じゃあない。今はただ、目の前の危機を脱することのみに集中しなければならなかった。
「おい、状況を教えろ。ひでえ処に優先的に戦力を回す」
 太宰が居なくとも、中也とて太宰治の相棒を務めた身だ。その気になれば、ある程度の戦略は立てられる。
 然し相手との数の差は如何にも埋まらない。
『中原さん!』
 無線から、切羽詰まった声で向かうのとは別の場所からの要請が入る。如何する。如何すれば被害を最小限に食い止められる。こんなとき、彼奴なら。考えている暇は無い。
「――そっちは俺が向かう! それまで持ち堪えろ!」
 情報収集と指示を部下に任せ、部隊と分かれて地を駆けた。手が足りなかった。或いは指揮を執る司令塔が。
 凡て吹き飛ばしてしまえれば、どんなにか楽だろう。
 然し今の中也にその選択肢は無い。
『……矢張り、何人か太宰さんの捜索に中らせましょうか。きっと何時ものように、サボって川を――』
「彼奴は来ねえよ」
 重力を掛けて、無線からの問いを振り切るように加速する。
 太宰はきっと――絶対に来ない。
「相棒は解消したから」
 だから、夢みたいに何でも出来ていたあの頃の感覚なんて、さっさと忘れてしまうのが得策だった。

     ◇ ◇ ◇

「汚濁はもう使わないでよね」
 一夜明けて、開口一番がそれだった。昨晩のことなどまるで忘れてしまったかのように、太宰は憎まれ口と共にけろりとそう云ってのけた。何でもない風に。
「あ? 元々あれは俺の異能だろうが」無論、中也とて使う積りなど無かった。そうでなければ相棒を辞めた意味が無い。けれど反射で反論したのは何時もの癖だ。売り言葉に買い言葉と云うやつ。「俺の相棒を辞めた手前に関係あんのか」
「でも私が居てこその汚濁でしょ? 君だけでやったらただの異能の暴走じゃない」
 だから使うな、と太宰は云った。 
「仮にも私の『元』相棒が、そんな無様な使い方はしないで」
 太宰はそう云ってうっそりと笑った。或いはどこかで俺達の結末を、予見していたのかも知れない。
「使って勝手に死にでもしたら、許さないから」

     ◇ ◇ ◇

「よーお。援護に来たぜ、戦況は如何だよ」
 帽子を押さえて銃弾の雨の中を駆け抜け、するりと瓦礫の裏側に潜り込んだ。流石に始終異能の発動しっぱなしは、汚濁でなくとも体力を使う。ふうと一息吐いて辺りを見回す。
 其処に居たのは無線で救助を求めていた構成員達だ。数がざっと二十程度。成る程、これじゃあ嬲り殺しも時間の問題だったろう。その中に比較的親しい同僚の顔を見付けて声を掛けた。男の顔が綻ぶ。
「中原か! もう一人は?」
 掛けられたその一言に、不意を突かれて一瞬瞠目する。
 まるで、その一人が中也と居るのが当然と。
 思っているみたいな。
 意味が直ぐに理解出来ずに、中也は思わず同僚の顔を凝視した。同僚の目に滲むのは、明るい期待と希望の光だ。これで助かる。この男に任せておけば、と。その感情自体は悪いものじゃない。そうだ、来たからには助ける。中也は端からその積りだ。
 然し、中也の理解と同僚の理解の間には、何か――途轍も無く大きな齟齬が在るような気がした。
「――もう一人?」どことない気持ちの悪さを抑えて、訊く。
「ほら、お前の相棒の」
 声に喜色を滲ませて、同僚はその齟齬の正体を口にした。
「太宰さんだよ」
 俺達はこれで助かる。
 お前達二人に任せておけば、と。
 中也は苛立ちに奥歯を噛む。もう太宰との相棒関係は解消していた。それは組織に触れ回っているし、知らぬ者など居ない筈だ。太宰がそう手を回した。
 だのに、何で此奴は未だそんな期待を抱いてやがる。
 不意に、背後からべとりとした視線を感じて振り返る。「彼奴だよ、二人組の片割れ」「凄いんだろう? 二人だけで、一晩で敵を滅ぼしたらしいじゃないか」「やったな、これで助かるぞ、俺達!」纏わり付くのは何時か聞いた声だ。響く銃声の中で高揚を露わにする声、絶望的な状況の中でも一際輝く目。
 其処に居るのは、中也が援護すべき構成員達ではなく、ただ無邪気に双黒の存在を――汚濁を求める有象無象だった。
 莫迦じゃねえの、と中也は思う。莫迦じゃねえの。あの、あの直後の惨状を見ていないからそんなことが云えるのだ。あれは希望の力などではない。此処に居る人間を多分、全員殺しても止まらない、忌まわしい詛いの力だ。
 そして此処には、それを「いいよ」なんて一言で受け入れる、自殺嗜癖の莫迦は居ないのだ。
「……今日は」気付けば、喉が痛むほどに乾いていた。何とか言葉を捻り出す。「今日は、アレは来ねえよ」
「……なん、で」同僚は、一瞬中也の言葉の意味を捉え損なったらしかった。呆然として、それからへら、と力無く頬を緩めて笑う。可笑しいからではない。他にすべき表情が判らなかったときの顔。「何で来てない。何処で何してるんだ」
「煩えな」
 その云い方が如何にも引っ掛かった。あの男にはあの男の任務が有って来ていないのだ。この場に居ないことを、まるで太宰の怠慢のように詰られるのは不快だった。
「んだよ、俺一人じゃあ不満か?」
「い、いや」中也の迫力に気圧され、ごくりと唾を飲んだ男は、然し気を取り直したように叫ぶ。「お前が居れば百人力だ! だから、なあ、あの力を……」
「悪ィけど」
 その辺のライフルを適当に押し付けて黙らせる。「おい、中原 」未だ何か云おうとした同僚を横目に、外套を翻して振り返る。
「手前等ァ! 俺の力はそう都合良く出来ちゃいねえんだよ、使わねえぜ、自分の身は自分で守りなァ!」
 その瞬間の、変化を何と表現すれば良いか。
 透明な水に絵の具を一滴落としたように、構成員達の目に広がったのは、驚愕、疑念――そして何よりも失望だった。芽生えた期待を、目の前で手折られぐしゃぐしゃに踏み潰されたような。踏み締めた希望の地が、永久に凍土に閉ざされてしまったような。
 紛れも無い絶望だった。それを、ただ一心に中也に注ぐ。
 ――何で使わないんだ。
 ――助けに来たんじゃあなかったのか。
 黙ってろ、と中也は吐き捨てるように思う。此処は戦場だ。頼りになんのは手前の腕だけ。俺等が居ようが居まいが、何時だってそうだろうが。
 ひら、と視線を無視して味方に背を向け、敵の最中に突っ込む。途端、降り注ぐ銃弾。それ等を凡て、身を翻して弾き返す。歪に笑う。
 黙って手前の命に集中してねえ奴から、死んでいくんだ。

     ◇ ◇ ◇

 そう、あれは確か、数日前の朝のことだ。
「相棒を解消されたと聞きました」
「中也の為だよ。君達も判っているでしょう」
「……薄々は」
 誰だ? 何を喋っていやがる。身を起こそうとして――思うように体が動かないことに中也は気付いた。瞼さえぴくりとも開かず、ただ意識が覚醒と微睡みの間を行き来していた。
 疲労のあまり、前後不覚に寝入ってしまったことは覚えていた。背に馴染んだ感触は、きっと執務室のソファのものだ。少し腿の辺りに重みを感じるのは、部下が気を利かせてブランケットの類でも掛けて呉れたんだろう。其処に落ちる声。
「頼むから独りにさせないでよ。君達が側に居れば、無闇に使わないと思うし……」
 聞き覚えの有る囁きが、微睡む意識に染み込んでくる。それが如何にも心地好くて、中也の覚醒を躊躇わせた。
「はい。此方としても、その積りです」
「本当、君達は中也の為となると途端聞き分けが良くなるね。私が相棒でなくなって、嘸や嬉しいことでしょう」
 それに返る答えは無かった。ただ、相手がふんと詰まらなさそうに鼻を鳴らしたのが聞こえた。
「じゃ、精々宜しくね」

「――そう云えば、今朝俺の部屋に来てたのは手前か?」
 ふと訊いたのは、何となくだ。そう云えば今朝のあれは何だったのか、と考えていた処に太宰と出くわした。全身ずぶ濡れだったから、またか、と思う間も無く「やあ中也、今日は絶好の自殺日和だね」と来たもんだ。中也は自分の上等な外套が濡れないようにだけ、一歩下がる。今朝は未だ濡れてねえなと思ったんだがな。そこまで考えて、成る程、あの声は若しや太宰だったのではないかと問うただけだ。
 なのにその問いはひどく予想外だったのか、太宰は微かに息を詰めた。その黒い瞳に敵意まで宿らせる。一歩体を引く仕草。警戒したときの癖。
「……起きてたの? 間抜け面だったから完全に寝入ってると思ってたのに、盗み聞きとは趣味が悪いね」
「いや……」
 起きていたのかと訊かれれば、起きてはいなかった。ただぼんやりと声が耳に入ってきていたに過ぎない。内容も声も、凡て朧げだ。判るのは、自分の部下と誰がが喋っていたのではないかと云うことくらい。
 如何答えたものか、と思案する中也の表情に、太宰も判然としない雰囲気を感じ取ったのか警戒を解く。それからにんまりと、嫌な笑みを浮かべる。
「別にィ? 中也が私が居なくて毎晩めそめそ泣いてないかって訊いてただけだよ、呼出状届けるついでにね」
「誰が泣くかよ。此方は寧ろ毎晩夜中に女の声で起こされることが無くなって清々してるわ」
「あ、そう……? オカズ提供出来なくなって御免ね」
「誰が、手前」一瞬頭が真っ白になって言葉が詰まる。誰が手前と何処ぞの女のセックスなんかで抜くか、死ね、「手前マジで殺す……」
 勢い首を絞めれば、太宰が存外ぐええと嬉しそうに唸ったので心底気持ち悪くてその体を放り投げた。相棒を解消して正解だったと思う。相棒をしていた頃の自分は、何でこれに耐えられてたんだ。さっぱり思い出せない。
「それより中也、先刻の呼び出しもう行ったの?」首を擦りながら、太宰はもう先程の遣り取りなど忘れてしまったかのように訊いた。
「いや、未だ見てねえ」そう云やそんなもんも有ったな、と中也は懐から呼出状を取り出す。「誰からだ? おっさん?」
「いや、幹部の人」
 ふぅん、と興味無さげに頷くと、君ね、私が届けたのだからちゃんと読み給えよと呆れたように太宰が肩を竦めた。よく云う。手前だってこの前、何処ぞの幹部からの呼出状を塵紙にしていやがったくせに。
 物云いたげな中也の視線に気付いて、太宰はにこりと笑う。
「私、他に任務有るし」誰もそんなこと訊いてない、と云う中也の声は挟ませない。「抑々もう相棒じゃないし。絶対に行かないから安心して」
「判ってるよ」
 ――だから後日、任務中に太宰を探しに行きましょうかと部下に訊かれたとき、中也は即座に首を横に振った。
 実際、太宰は来なかったのだ。

     ◇ ◇ ◇

「くそっ……」
 足がふらつく。血が足りてない。不覚にも、敵の攻撃を幾つか食らってしまっていた。味方を庇う為に。それでも守り切れずに、四人、目の前で死なせてしまった。中也の居ない処では、もっと酷かったことだろう。自分の無力さに歯噛みする。俺にもっと力が有れば。
 然し弱音を吐いてはいられない。敵の襲撃を退けた旨を、報告に行く必要が有る。その為に態々この幹部の屋敷にまで怪我を押して戻ってきたのだ。
 態々中也を呼び出してこの任務を与えた、幹部の元へ。
「中原さん」
 だから、無人の廊下で見知らぬ構成員に道を塞がれても、相手をしている余裕は無かった。
「……気安く呼ぶんじゃねえよ。誰だ手前」
「今回の襲撃で、十数人が死にました」
 十数人じゃねえ、二十一人だ。中也は心の中で舌打ちする。云った処で、如何なる訳でもない。
 良く見れば、男の服もボロボロだった。土の汚れや血の染みが新しい。廊下いっぱいに敷き詰められた豪奢で上品な絨毯の上では、その姿は何だか浮いていた。中也だって他人のことを云えた義理では無かったが。漂うのは濃い硝煙の匂い。如何やら先刻まで同じ戦場に居たらしい。
 それが、中也への敵意を剥き出しにして立ち塞がっている。
「汚濁を使えば、もっと助けられたんじゃないですか」
 その押し殺した声に、中也は男をじっと見た。男の目に浮かぶのは、遣り場の無い怒りと、煌々と燃える正義感だ。多分、あの場に居た誰しもが浮かべた疑問を、自分が代表してぶつけなければならない。間違ったことは、自分が正してやらねばならない。そう云う熱を、男からは感じる。
 対する自分は今、多分、氷よりも硬質で冷ややかな、感情の乗らない目をしているに違いなかった。
 何時も相棒がしていたみたいな。
「ああ、……そうかもな」
「貴方が殺したも同然でしょう! 貴方が汚濁を使わなかった所為で……ッ」
「そうだな」懐に手を伸ばし、煙草の箱を取り出す。汚濁を使っていれば、あれほど敵の攻撃を許しはしなかっただろう。その点については、男の云う通りだ。とん、と一本、箱から出して咥える。「ところで手前のその、味方を平気で見殺す俺みてえな冷血漢の前に立って――余計な口を利いて。手前だけは無事で済むと思ってる処は、少し滑稽だな」
 火を点け、ふーっと一息、紫煙を吐く。そして笑う。
 今の中也の動作に、欠片も警戒を示さなかった男に対して。
 考えなかったのだろうか。煙草の代わりに拳銃が出てきて、自分を撃ち殺してしまう可能性を。思い至らなかったのだろうか――今此処で、中也が異能を発動させて自分を縊り殺してしまう可能性に。
 男は中也の視線に、漸く自分の立っている位置を把握したのか、はたと中也を見つめて警戒も露わに一歩下がった。動揺に瞳が揺れ動く。滲むのは冷や汗だ。先程までの正義感は何処へ行ったのか、今はただ怯えの色しか見えない。莫迦だな。そう笑う中也が、こつんと一歩近付くにつれ、じりじりと男が後退る。
「こっ……この期に及んで、未だ味方を傷付ける心算か 」
「手前さあ」喚く男を眺めながら、ゆっくりと、煙を肺に沈める。「俺は『手前は誰だ』と訊いた訳。俺は手前のことを知らねえんだよ、顔も、名前も、――味方か如何かも」
 あからさまに怯んだ態度に、中也は思わず笑ってしまう。駄々を捏ねる幼児のように感情をぶつけたいだけの相手に、取り合う必要は無い。口だけだ。
 一歩、二歩。距離を詰める。男も数歩後退った後、ばっと振り返った。その先は壁だ。逃げ場は無い。
 中也はその男の手を優雅に取って――手の甲にじりと煙草の先を押し付けた。「ぎっ、」上がりそうになる悲鳴を、ふいと口先に火をちらつかせて封じ込める。
「――口の利き方に、気を付けろ」
 囁くように一言。それで解放してやった。ひらりと外套を翻し、箍が外れたように悲鳴を上げる男に背を向ける。
 煩く動く口の中に煙草を放り込んでやっても良かったが、手の甲を焼くだけで済ませてやったのは男の言葉が至極正論だったからだ。汚濁を使わなかったことが怠慢だと云うなら、犠牲となった二十一人は中也が殺したも同然だった。
 だから、見逃してやろうと思った。
「貴方も、太宰治も、使えない――!」
 ――その言葉を聞くまでは。
 ぱん、と空気の割れたような破裂音がして廊下の窓が凡て砕けた。男の悲鳴が重なるが知ったことではない。気付けば男の胸倉を掴み、その場に引き摺り倒していた。
「おい、今何つった?」
「ひ……」
 壁にぴしりと罅が入る。細かく石片が散る。重力操作だ。けれど抑える積りはさらさら無い。
「『太宰治が、使えない』? おいおい、面白い冗談だな……」
 怒気を含んだ声が、何処からか聞こえていた。随分と冷静でないそれが、自分のものだと認識するのに少しの時間を要する。知らず口角が上がる。当然、愉快な気分からではない。
「事実でしょう、汚濁を使わないんなら何の為に重力遣いと二人組を組んでたんだ! 異能無効化なんてクズ能力、他に使い道が有るか 」
 眩暈がした。視界が煮えた怒りで真っ赤に染まる。
 太宰治の使い道が、他に有るか、だと?
 ――君はなんにも判ってない。
 あの男が云いたかったのは、詰まりこう云うことだったのだろうか。汚濁を実際には使わなくとも、敵味方問わず殲滅する能力を持つ二人組であると、その評価を受け入れるだけでも太宰の価値がいとも簡単に歪められる。それが判って、あの男は相棒を辞めようなどと云い出したのだろうか。
 中也と行動を共にすることにより、己の価値が歪められることを厭って。
 だとすれば、中也とてそれは本意ではなかった。
 あの男に、異能無効化しか価値が無いと思われるなど。
 それは紛れも無い、太宰治への侮辱だ。
「――少なくとも」
 声が割れた。力を入れすぎて、指先の感覚が無い。
「少なくとも、此処で俺に憂さ晴らしにぶっ殺される手前よりは有るに決まってるだろうが!」
 激情のままに、男の体を生死も構わずボールみたいに蹴り飛ばした。足先に伝わる、肉の抉れる感触、内臓と骨の軋む音。壁に打ち付けられた男は、それでも解放されたことを認識し、必死になって失禁の跡を残しながら逃げていく。
 中也はそれを追わず、じっと足元を見下ろした。
 靴が少し、汚れていた。
 然し汚されたのは靴だけではない。

     ◇ ◇ ◇

「……今回の襲撃の報告は以上です」
 被害と戦績の数字を読み上げ終え、中也は一旦言葉を区切った。机上に資料を提出する。執務机に歩み寄る度、中也の靴を柔らかく吸い込む絨毯に染みが出来、時折窓硝子の破片がぱらぱらと散る。気に留める気は無かった。
「そうか。御苦労」
 その、鷹揚な労いの言葉に中也は内心で唾を吐く。先程の構成員の男の暴言に、苛立ちが未だ心臓の奥に凝りのように残っていた。此処の絨毯は、瓦礫の山と違って柔らかく踏み心地が好い。空気は鉄錆の匂いがしないし、悲鳴や呻き声も聞こえない。死んでいった人間は紙の上ではただの数字の累積だ。こんな処から、一体何が見えるんだか。
 こんな処――何時もの上司の部屋ではない。今居るのは或る幹部の執務室だった。執務机に陣取るのは壮年の男。周りにはぐるりと護衛の黒服。上司よりもその立ち居振る舞いには隙が無い。幹部なので当然と云えば当然だが。
 屋敷自体もマフィア本部から少し離れた処に立地していて、その中に戦闘員、非戦闘員も含め百単位で部下を抱えている。
 詰まり中也にとっては完全なる敵地だ。
 でも君の敵じゃあないでしょう、とあの男なら笑ってそう云う筈だった。そうだな。目を閉じて頷く。制圧すんなら先ず警備の薄い北側からだ。派手に騒ぎを起こして、その隙に目の前のこの男を殺す。本部ではないから、屋敷は一時的に統制を失うだろう。うん、其処を君が徹底的に暴れて、構成員の戦意を喪失させて。殺さなくても善いから。息をするように隣で戦略を組み立てていた男を思い出す。
 俺達の相棒関係は、汚濁を使う為のものではなかった。
 太宰治は、汚濁の為の装置では。
「早速で悪いが、敵の拠点を一つ潰してきて呉れ給え」
 だのにどいつも此奴もそれを太宰に求めているのかと思うと、そんな現状はひどく耐え難かった。ぞんざいに放られた作戦資料を拾って捲る。案の定、あまりにもお粗末なそれは作戦などと呼べるようなものではない。中也が敵の数百人を鏖殺することを前提とした、穴だらけの頭陀袋みたいな指令書だ。バレないように舌打ちをする。
「恐れながら、部下に休息が必要です」
「君は?」
 間髪入れず問われて言葉に詰まる。
「君は休息が要るかね」
 じ、と狡猾な光が中也を捉える。中也は逡巡した。ここで休息が必要だと云うことは簡単だ。然し。
 ――今回の襲撃で、数十人が死にました。
 これまでの抗争を思い返す。未だこんな――抗争中の敵に何度も襲撃を許すような――無能な男が幹部の座に居座っていられるのは、偏に現場の兵の熟練度に依るものだ。悲惨な作戦書でも何とか撃退出来てしまっているから、現場を見ていない人間はそれで十分だと判断している。中也が出なければ、また一般構成員が酷い作戦内容で投入されることだろう。
 然し中也が単独での襲撃に是と答えれば、被害はきっと圧倒的に少なくて済む。味方の無駄死にも。自分自身の体を見れば疲労こそ溜まっているものの、作戦自体に支障は無い。
 それに――それに。中也の異能を使用するのに、太宰治が不要であることを知らしめなければならない。
 いい加減、うんざりだった。
「不要です」
「なら何も問題は無い。一人で行ってきて呉れて構わないよ――ああ、勿論、あの男を連れて行くのでも善い」
 その言葉は軽く黙殺して踵を返す。今から直ぐにこの屋敷を発てば、作戦には十分間に合う筈だった。その背を幹部の高笑いが追う。
「何、君の強大な力を見せ付けてくれば、敵など皆畏れ慄いて逃げるだろうよ! 君の異能は危険だと資料には在ったが、いざとなれば此方には人間失格も有ることだしな!」
 それを耳にした瞬間、気付けば扉を蹴り開けていた。どかっと響く音、弾け飛ぶ蝶番に、一瞬執務室が静まり返る。
「……鬱陶しいんだ。どいつも此奴も」
「何?」
 ぎろりと幹部を睨む。男がびくりと身を震わせ、周りの黒服共が一斉に懐に手を伸ばすが、知ったことじゃあない。
 限界だった。あんな詛いの力を奇跡のように称えられることも、力を使うことを求められることも、自分達の関係を歪められることも、何もかも。
 あれは、そんなものじゃあないんだ。
 汚濁も、太宰も。
「……俺は、太宰との関係をそう云う風に貶める積りは無えんだよ」
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