【再録】深色


</h4>一


 ぱん、と軽い破裂音と共に血の匂いが弾けた。地面に押し付けるように潰した頭が一つ。殺した、と認識する間も無く後ろからもう一人。触れる。重力を掛ける。潰す。
 血が弾けて中也の下肢を濡らす。全身汗と粘着質の体液に塗れてぐちゃぐちゃだ。手が滑って仕方無い。ナイフも何もかも疾うの昔に棄てていた。
「っおい、太宰! 後何人だ……」
 息を整えながら相棒の名を呼ぶ。ぷつ、と耳元に電波の届く音がする。通信機器越しに聞こえるのは中也と同じく荒い息。
『そんなの判る訳無いだろ!? 数えてると思った訳!?』
「使えねえな!」
『心外!』
 悲鳴に近い呻きを切って、目の前に迫る敵を二、三纏めて捻り殺す。勿論、太宰に訊いた処で明確な答えが返ってくるとは思っていなかった。太宰だってそれは承知の上だろう。悪態をつかずに居られなかったのは生存確認。それと単なる気晴らしだ。何せ襲撃地が無駄に広い。そんな中で、まるでベルトコンベアで流れてくる機器を加工するみたいに、ただ只管向かってくる敵を死体にする作業をしていると、幾ら中也と云えど絶叫と血の匂いで頭が如何にかなりそうだった。
『精神がひ弱だよね~、肝もちっちゃいとかさあ……』
「煩え!」
 こう云うときだけは、気に食わない相棒の存在も幾分かはマシに見えるのだった。

 大体、作戦の内容からして先ずおかしかったのだ。太宰と中也に潰してこいと指令が下った先が敵の本拠地で、子供に遣いを云い付けるような気軽さで指示されたのが四階建ての大屋敷だ。其処にきっちり収まっていたのが、中規模の組織まるまる一つ。それに対して、ポートマフィアは太宰と中也の二人のみ。幼児にだって明瞭に判る、莫迦みたいな戦力差。
 作戦を立てた奴を呼んでこい、縊り殺すと殺気立ったのも束の間、それでも太宰が十分に策を練り、中也が異能をフルに解放すればこの程度、攻略は造作も無い筈だった。
「チッ、面倒臭えな……建物ごと吹っ飛ばすんじゃあ駄目なのかよ!?」
『君、上の話聞いてた? 捕虜が居るんだってば! それだと殺しちゃうでしょう!』
 作戦通達が開始三十分前なのも巫山戯ていたし、ただ破壊するだけならいざ知らず、敵の殲滅に加え捕虜の救出なんて条件を付けてくるのも救い難かった。
 その上、相手にすべき敵が尋常な量じゃあない。殺しても殺しても湧いて出る。敵の本拠地なんだから当然だ。それも、事前に戦力を削ることもしていない総力戦。明らかな戦略ミスだった。
 太宰と中也の、上層部の判断の、だ。

 ぜえ、はあ、と乱れた息を整える。汗を拭ってずれた帽子を押さえる。軟な鍛え方はしていない積りだが、流石に一時間も暴れ続ければそれなりに疲労は溜まっていた。目に汗だか血だかが滲む。それでも、太宰が捕虜を見付け出すまでは囮の役割は放棄出来ない。
 対象に触れなければ異能を及ぼすことの出来ない、己の異能の性質を少しだけ煩わしく思う。上手く使えば纏めて対象をぶち殺せるが、その余裕が今は無い。これが例えば紅葉の金色夜叉などであれば、動き回らずとも一閃、命を刈り取ることが出来ただろう。或いはQのような詛いの力であれば。
「……詛い、ね」
 自嘲する。そうだ。触れずとも対象を殺して、何もかもを破壊し尽くす、そんな詛いの力なら、中也も一つ持っていた。
 自身の死と引き換えに、暴虐の限りを尽くす異能。
 じわじわと、思考が黒く染まっていく。それを使うことしか、考えられなくなっていく。中也の脳裏に訪れるのは、何時かの夜に近く感じた、眠りに誘われるような甘い誘惑だ。
 善いじゃねえか、使っちまえば。
 汚濁を。
『駄目』
 冷えた声が、一瞬にして中也の脳を貫いた。
 見透かしたように、通信機越しの太宰が淡々と告げる。
『ねえ、本当に人の話聞いてたの? 救出してからでないと潰しちゃ駄目なんだってば。……大人しく待っててよ』
「……ああ」
『……あのさあ』微かな沈黙の後、太宰が気怠げに言葉を溶かした。その声質は冷たいままだ。『私さあ、汚濁なんて使わなくたって、私達は相棒出来てたと思ってた』
 何を当たり前のことを、と中也は思った。
 当然だ。自分達の本質は相棒だ。何が起ころうともそれは揺るぎの無い事実。
 だから。
『君は何時からそんな腑抜けになった訳?』
 そんな安い挑発にも乗らざるを得なかった。判っているのに、頭に上った血が脳の回路を焼き切るのを止められない。
 思考が単調になっていた。沸点が低くも。怒りで視界が真っ赤に染まる。
「オラァ!」
 壁を殴る。無理矢理に重力を横薙ぎに掛け、迫る敵を押し潰す。血が飛沫く。肉が弾け飛ぶ。それでも、太宰が云うのならば中也は大丈夫だった。汚濁など、使わずとも。
「疾っととしろ、太宰ィ!」
 咆哮した。意識を飛ばして、無様を見せるのは御免だった。
『……無事捕虜を救出したから、君も其処から脱出して』
 そう、相棒が告げるまでの記憶は定かではない。

 屋敷の外で、捕虜を連れた太宰と合流した。柄にもなくほっとする。太宰も太宰で、夥しい量の血を浴びていた。
 最後に異能を解放し、屋敷を一気に崩落させる。絶叫と多数の死体と共に崩れるそれを前に押し黙る。
「……」
 汚濁を使えば、楽だったんじゃないか、と。
 この戦力差は、恐らくそれを想定されて作られたものだ。無能な指揮官の手に依って。
「……煩わしいな」
 瓦礫の山を前に、息をする者の居なくなった静けさの中、ぽつりと太宰の呟きが響いた。
 全く以て、同感だった。

     ◇ ◇ ◇

「で? 敵は殲滅、捕虜は無事救出……と」
「ええ、任務完了致しました」
 休む間も無く、太宰と中也は上司の屋敷に出頭していた。上司と云っても、然程有能な訳ではない。何せ今回の作戦を立てた張本人だ。必然的に組織上の地位もそれなりだ。これの上に五大幹部が居る。
 その、もうそろそろ初老に差し掛かろうかと云う上司の男が、報告書を眺めながらスーツに収まり切らない巨体を揺すり、不相応な革張りの椅子をぎしりと鳴らす。
「地味な仕事だねえ……」
「そうですか? 八十人鏖殺が地味なら、千人くらい殺せば善かったですか?」太宰が苛立ちを隠さずに云う。「なら、今度はたった二人にやられる程度の雑魚ではなく、もっと大物をご用意下さい」
 上司の面倒は何時も通り口の回る相棒に任せ、中也は半歩下がってその問答を眺めていた。上司の男は、ふぅむ……と呑気に口髭などを撫でている。その姿は、草原の真ん中でのそりと草を食むヌーを思い起こさせた。獲物を狙う肉食獣の視線には、てんで気が付いていないのだ。危機感を持てねえってのは、生物としては致命的な欠陥だな、と中也はぼんやりと思う。太宰の奴がここまで判り易いのは珍しいだろうに。
 哀れなくらいに何も見えていない上司は続ける。
「君達ならもっと、こう……一気に潰せたのではないかね?」
「おや、我等がポートマフィアが、真逆結果より過程を重視する組織だったとは思いませんでした。では先ず今回の作戦の立て方から開示頂けますか?」苛立ちのあまりか、太宰の口調がどんどんぞんざいになる。「どのような過程であんな莫迦みたいな作戦を立てられたのですか?」
「汚濁を使った方が早く済んだろう?」
 瞬間、太宰が全身の毛を逆立てた。
 背後からでもそれが判った。咄嗟にその腕を掴んで抑える。
「……太宰!」
 小声で咎める。この爺に云ったって何にもならねえだろ、と言外に告げる。するとぎろりと睨まれた。怒りを通り越して、その目に宿っているのは殺意だ。それを此方に向けんな。
「殺す」
「殺す価値が有るか? 見ろよ」
 折れそうなくらいに太宰の腕をぎりぎりと締め上げながら、目の前の上司を顎で指し示す。殺気にギラついた太宰の目がそれを捉える。呑気に報告書を捲っている上司を。目の前でこんな茶番を繰り広げていても、未だ気付かないのだ、この男は。太宰が態々手を下すまでもない。
「なのに手前は何をそんなにキレてんだ」
「……ッ!」
 普段なら、歯牙にも掛けない相手の筈だった。その良く回る口八丁で、やあ阿呆の相手は楽で良いねと涼しげに丸め込むのが常の筈だ。なのに如何したことか、あの太宰が怒りで喉を詰まらせたままで居る。これ以上の長居は無用だ。中也は軽く首を振り、上司に向き直る。
「報告は以上です。もう宜しいでしょうか?」
「うむ。退室を許す」
「はい。失礼します。……おら、行くぞ」
 無理矢理引き摺る太宰の体は、何時にも況して重かった。

「何で止めた!」
「煩え! ちったあ頭冷やせ!」
 部屋を出るなり掴み掛かってきた太宰の手を躱し、代わりに拳を腹に叩き込んだ。加減はしたが正当防衛だ。太宰の体がくの字に折れ曲がって、顔が見る見る真っ青になる。眺めていると、一瞬恨みがましい目を此方に向けて、それからぐたりと崩れ落ちた。取り敢えず、嘔吐感で頭は冷えただろう。よし、と中也は満足して頷く。
「さいあく……」足元から聞こえる呻きは無視した。
 太宰を抱えて廊下を引き摺る。棄ておいても構わなかったが、外で出たゴミは持って帰る性分だ。それに。
「俺も悪かったよ」
「……何が?」
「汚濁を使おうとしたこと」
 使った方が楽なんじゃないか。そう考えたのは事実だ。けれど太宰がいい顔をしないのも知っていた。何せ使った後は塵も残らず世界が死に絶える。だから名付けた。汚し濁らせる、詛いの力。軽々しく使うものでないと、判っていたのに。
 少なくともその件については謝罪してやろうと、引き摺られるままに床を這う太宰の方に目をやると。
「……はあ」
 半目の太宰とばちりと目が合った。おまけに当て付けのような深い溜め息。君、莫迦じゃないのと云わんばかりのその態度に腹が立ったから予定変更。謝罪は無しだ。掴む位置を首根っこから髪の毛に持ち替える。
「痛い痛い痛い! この暴力男! DV止めて!」
「だったら手前はその思わせ振りな態度を止めろよ」
 ふん、と鼻を鳴らす。この男の何時ものアレだ。ちょっと頭が回るからって、知った風に他人を莫迦にする。今に『だって、君があまりにも何にも判ってないからさあ』と口角を嫌味に持ち上げてぺらぺらと理由を喋り出すんだろう。第一声を発した処を殴ろう。そう、拳を固めた瞬間。
「だって」
 ――息を飲んだ。
 太宰の声が、何時に無く弱々しかったから。
「だって、君、なんにも判っていないんだもの……」
 その、呟くような一言を最後に太宰はぱたりと黙り込んだ。中也も黙った。二人の間に、硝子玉みたいな沈黙が落ちる。
 ともすれば少しの衝撃だけで簡単に罅割れてしまいそうなそれに、中也は何故だか触れられずにいた。ひそひそと、廊下を行く二人を目に留め、噂をする声だけが無遠慮に横を過ぎていく。
 判ってない?
 何をだ。
 汚濁を当てにされんのが煩わしいなら、汚濁無しで凡て熟してやれば善い。汚濁しか脳が無えと思われんのが嫌なら、汚濁無しで見返してやれば善いじゃねえか。それをするだけの力が、自分達には有った。何より、汚濁無しでも支障は無いだろうと、云ったのは他でもない太宰だ。
 それ以外に、何を判れって云うんだ。
「……中也」
 張り詰めた声に振り返る。手放した蓬髪の下で、黒い瞳が揺れていた。その表層に浮かぶ光は慎重に物事を図っているときのものだ。それと僅かばかりの不安。
 今から口にする言葉が、本当に正しいか如何かを迷っている。あの太宰治が、珍しいことに。
「何だ」だから促した。
「あのさ」太宰は言葉につっかえながら、ぎゅうと何かを覚悟するように目を瞑って、序に蹲った姿勢のまま中也の手を手袋越しに握って、それから口を開く。「私達さあ……」 
「あの二人」
 そのとき、密やかな太宰の囁きに無遠慮に割り込んできたのは男の声だった。自然と声のする方に視線が向く。
「『汚濁』の奴らじゃね?」
「ああ、例の、二人で敵を壊滅させたって云う……」
 そう、横を過ぎながら噂をしていったのは一般構成員の二人組だった。悪意よりも期待や憧憬を滲ませて、無邪気に不躾に、屈託無く笑う。「凄えよな、一面何も無え更地に変えちまったらしいぜ」「今回の抗争、楽勝なんじゃないか」其処まで話した処で、真逆聞かれているとは思わなかったんだろう、ちらと目が合った途端そそくさと去っていく。
 一般構成員にまで汚濁の話が広がってやがるのか。何だか鬱陶しいなと舌を打ちながら、太宰の方へ意識を戻す。
 けれどもう、太宰との間の緊張の糸はぷつりと切れてしまったようだった。太宰はぺたりとその場に座り込んで、先程の構成員達の背中をじっと見ながら、曖昧な笑みを浮かべていた。そう云う雰囲気の中でしたい話じゃあなかったんだろう。
「……矢っ張り、何でもない」
 乾いた声だ。ひりつく喉を、無理矢理開いたような。
「……何だよ」
 だから中也も、形だけ聞き返して息苦しい空気を撓ませるように笑った。太宰の思わせ振りな態度は、然し今度は中也の逆鱗に触れることは無かった。今ので何となく、太宰の云いたいことが判ってしまったからだ。
 この男の捏ねる理屈は判らないことも多いが、感情ならば汲める。この距離なら、先ず間違うことは無い。

 相棒を辞めよう。そう続けようとしたのだ、太宰は。

     ◇ ◇ ◇

「予め云っておくけど」
 すっかり冷静さを取り戻した太宰が双眼鏡を覗く。今日も今日とて太宰と組まされての任務だった。昼間だと云うのに空を暗く塗り潰す雲は、何処か鉛玉を思い起こさせる。時折ガタンと車体が揺れるのは、道が舗装されていない所為だ。救援要請の入った施設は、組織の拠点としては珍しく郊外の山中に在った。前方にその影は未だ見えない。ただ重く垂れる雲に立ち上る黒煙。無線から、頻りに入る被害状況の報告。
「今回は、全員助けるのは無理だからね」
「……助けられる奴を見捨てるんじゃなきゃ、問題無えよ」
 前方の観察は隣の太宰に任せ、中也は後部座席のシートに身を沈める。
 太宰の発言は、中也が味方の犠牲を嫌うことを知ってのものだ。太宰にとっては構成員など使い捨てだが、中也にとってはそうではない。だから大抵は、太宰が中也に合わせる形で任務を遂行していた。太宰治の頭脳を以ってすれば犠牲を少なく出来ることを、中原中也は知っている。
 然し時折、太宰は中也に釘を刺す。出来るだけ助けるようにするが、無理なものは諦めろと。
 指揮官が無能でなければ、こんな確認は不要なのに。
「あのクソジジイ」
「本当にね」
 今回は直属の上司でなく、その上の幹部からの指令だった。恐らく首領からは徹底的に叩けと指示が出ていることだろう。拠点を襲撃された上に襲撃者をおめおめと生きて帰しでもすれば、マフィアの沽券に関わる。
 その為には、殲滅が必要だが。
「云っておくけど、汚濁は駄目だからね。敵は殺せるけど、味方も殺しちゃうし、それに」太宰は嫌そうな顔をしながら渋々告げる。「君加減出来ないでしょ……あと設備の破壊で始末書と首領のお説教食らうから」
「判ってるよ」
 そう、矢張り今回も汚濁は使えない。
 だのに太宰と中也にしか、指令を出さなかったのだ、あの幹部は。聞けば同僚は動くことを止められているという。本来であれば構成員総出で襲撃者を抑えなければならない処を、幹部権限で止めた。何とか部下の同行は認めさせたが、それでも足りない。とんだ失策だ。
 何だってそんな、アレを使わせたいのだか、と中也は呆れ混じりに溜め息を吐いた。どいつも此奴も、アレを必殺技か何かと勘違いしていやがる。
 そんな良いもんじゃねえってのに。
 汚濁は。
「……げ」
 不意に双眼鏡を覗き込んでいた太宰が不明瞭な戸惑いの声を漏らす。ちょうど拠点の建物の見える頃合いだ。それと共に何か見えたのかも知れない。
 太宰が端末を取り出しながら喚く。
「ねえあんなお粗末な装備と部隊で投入命じた莫迦誰!? 私聞いてないんだけど」
「っは!? 貸せ!」
 有無を云わせず双眼鏡を引っ手繰った。ドアウインドウから身を乗り出す。明かりが無い為不鮮明だが、確かに前方に建物が見え、建物沿いに黒ずくめの集団が移動している。あの動き、あの装備はマフィアのものだ。然しあの少人数で、敵が万全の体制で襲撃している拠点を? 気が違えているとしか思えない。時折無線から流れてくる被害状況を考えれば、異能持ちか、或いは強襲部隊の黒蜥蜴レベルを投入しなければ無駄死にだ。
 そしてあの黒は、紅葉ではない。
「……あ、もしもし広津さん? 今さあ黒蜥蜴って此方来て……は!? 今日は全員本部!?」
「俺が出る!」
 後部座席のドアを蹴り開ける。触れてなくても重力子を飛ばすくらいなら出来る筈だ。ルーフの縁を掴んで身を乗り出す。集中。世界を制する、異能の力。汚れつちまつた悲しみに。じわりと思考と指先が黒く染まる。
 と、一瞬にしてそれがさあと掻き消えた。中也の腕を掴む手が在る。
 太宰だ。
「駄目」
「あ? ちょっとだけだよ、手っ取り早く建物ぶっ壊しゃ彼奴等だって突入止めて止まんだろ!」
「君、悪かったって云ったじゃない!」太宰が悲鳴のような声を上げる。「汚濁を使おうとしたの、御免って」
 なのに如何して。ぎり、と掴まれた手首が締まる。痛え。顔を顰めて太宰を見るが、無言の抗議は受け入れられない。
「煩え、俺が使って済むんならそれで善いだろうが!」
「君、本当に莫迦だな! 良いから黙ってて!」
 剥き出しの苛立ちをぶつけられ、一瞬言葉に詰まる。その隙に車内に引き戻され、後部座席に体を強かに打ち付けた。「おい、」は、と息を呑む。
 太宰はもう聞いてはいなかった。「敵の規模が総勢五十であの被害だと異能持ちが居るとして……」ぶつぶつと呟きながら、端末で部下を呼び出す。
「もしもし私! 君達半分裏手に回って、瓦斯の一番と三番の使用を許可する! もう半分は引き続き正面で出来るだけ敵を把握して、あと中也に道を作って」
 部下に指示を出しながら、流れるような動作で中也の携帯端末も抜き取っていく。
「君の部隊も使うね。……あ、私。ねえ、私の言葉を中也の言葉と思って良く聞きなよ。先ず右の通用口を固めて……」
 その的確な指示をBGMに、ゆっくりと息を吸って吐く。そうだ。汚濁は使わない。使わなくても、大丈夫だ。俺には太宰が居るから。
「中也。頭冷えた?」
「……ああ」
「よし」
 キッと車が停まる。
「君は正面から突破して。汚濁は使わないでよ――助かる人間を助けたいなら。……あと」
 車外へ出て、地面を蹴る脚を数瞬止めた。太宰がぽつりと決意したように切り出す。
「あと、今晩、君の部屋に行って善い?」
 大事な話が有るから、と太宰は云った。

     ◇ ◇ ◇

「あのさ」
 太宰がそう切り出したのは、交わす言葉もそこそこに、一頻り体を重ねた後だった。寝台の中で、微睡む中也の意識にその声がするりと滑り込んでくる。柔らかい声音が、消耗し切った体にひどく心地が好い。
 お互い連日の任務で体はぼろぼろだった。特に今日のは酷かった。情報も戦力も無いまま突入して、無理な突入部隊も生き残りも救助して、敵を殲滅して。それでも何人かは取り逃してしまったし、殺させてしまった。相手は万全の体制で襲撃してきていると云うのに、此方はたった二人なんだから幾ら太宰と云えど手に余る。体は傷だらけで、疲労が泥のように纏わり付いていた。
 けれどそれより鬱陶しいのは、自分達に向けられる視線だ。あの最悪の夜の――汚濁と名付けた夢の様な力を持つ二人組。そんな期待や畏怖や打算や欲望を含んだ薄暗い視線がここ数日べっとりと絡み付いていて、動き難いことこの上無かった。
 それでも、太宰の肌の白さがそれに依り損なわれることは無い。しっとりと湿った肌を撫でると、ぴくりと太宰が反応を返した。そのほっそりとした手が、ゆっくりと中也の肌を辿る。先程までの興奮を煽る目的ではなく、もっと慎重に、形を確かめるように。
「あのさ」
 それで、云う。
「私達、相棒、辞めようよ」
 太宰の声は、平坦だった。暗がりの中から此方を見詰める黒い瞳は、相も変わらず底が読めない。
 けれど中也の耳は、声の端の微かな震えを捉えてしまう。
 何せ相棒だから。
 頬に掛かった黒髪を払う。太宰が応じて目を閉じたから、その唇に柔らかく口付けた。遠慮がちに唇を寄せる仕草に焦れて、半ば強引に太宰の熱を割り開く。太宰の不安を一緒に引き摺り出すみたいに。
「ぅ……」
 吐息が漏れる。眉根は嫌そうに寄せるくせに、もっと寄越せと全身を擦り付けてくる。そのくせ相棒は辞めると抜かすんだ。柄にも無く感じてるみてえな、その表情を止めろと思うが、自分も平静な顔をしている自信は無い。
 お互いに、余裕が無かった。
「……驚かないんだね」
「なんとなく、そんな気はしてたよ」
「ふぅん……」
 首筋に噛み付くと、太宰が呻いた。白い肌に痕を残す。
「っ、君は、嫌じゃないの……」
「いいとか、嫌とかじゃねえだろ」
 そう、いいだとか嫌だとか、そう云う感情論で相棒を組んでいる訳ではない筈だった。だから相棒を辞めるのも、いいとか嫌だとか、そう云う感情には基づかない。
 合理的か如何か。自分達の間に在るのはそれだけだ。
「手前が、このまま俺と相棒を続けんのが動き辛えってんなら、解消するだけだろ……」
 ただ少し、卑怯だなとは思った。
 嫌じゃないのかと訊かれれば、嫌ではないと答えるしかなかったから。
 そして太宰も嫌だとは云わない。
「そう、そうだよ、うんざりなんだ、君とセットみたいに扱われるの……」
 何もかもを拒絶するように、太宰がぎゅうと目を瞑る。
 他人の手に依って裂かれるほど脆い関係である積りは無かったが、自分達が意志を持ってしまえば話は別だ。離れようと思えば、絡まった糸が解けるように、簡単に元の一人と一人に戻ることが出来る。その関係を、手放すことが出来る。
 後はもう、何も無かった。ただ別れを惜しむように、もう一度だけ肌を重ねた。それで終わりだった。

 中也の去った部屋で、太宰はぼんやりと視線を宙に彷徨わせていた。これで良かった。これで。
 手を伸ばす。夜の空気越しに、遠い天井をするりと撫でる。纏っていたシーツがはらりと落ちて、同時に肌に残っていた相棒の熱も薄れていく。独りの夜は、ただただ寒い。
 それでも。
「失いたくないと思うものは、必ず失われる……」
 首筋を撫でる。其処には、中也の残した痕が在る筈だった。
「……失う前に手放すのが、せいかいだ」

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