【再録】水底のモノクロオム
なんだって自殺なんざするんだと訊いた。
なんとなく、と答えたから殴った。
そうしたら、少し不満げにしながら、じゃあ、気持ち好いからで良いよ、と来た。あの、暗くて静かな灰色の水底に沈んでいって、苦しくて、視界が段々褪せていくのが堪らなく気持ち好いからだよ、と。
もう一発殴った。
三.
ぶる、と怯えるようにポケットの中の携帯端末が一度震えた。太宰は周囲に誰も居ないことを確認し、そっとそれをポケットから取り出す。一般用ではない方の端末だ。取り上げられないよう隠し持って、けれど恐れから一度も触れなかったそれは、マフィアを離れて一週間が過ぎようとしているにも拘らず未だ僅かに充電が残っていた。太宰は画面に、受信したメッセージを表示させる。黒い双眸に、ぼんやりと電子の青い光が浮かび上がる。其処に並んだのは簡潔な文字列。
『恥ずかしい秘密をバラされたくなきゃ、例の場所に来い』
「……あは」
思わず声が漏れた。如何してこう、相棒と云うのは機を見計らうのが上手いのか。太宰は笑う。標的は殺し終わって、内通者の特定も済んだ。後は壊滅させるだけ。潮時だった。
けれど会うのが少し怖くはあった。建前が有ったとは云え、相棒を殺し掛けたのは事実だ。仕返しに殺されるかな。それはそれで善い。彼の手に掛かって死ねるなら万々歳だ。きっと痛みも無く殺して呉れることだろう。いや、如何かな、若しかしたら憂さ晴らしに散々痛め付けられるのかも知れないけれど、それもまあ、悪くはなかった。
出掛ける支度をしていると、不意に頭首が顔を出した。
「おい」
「なに?」
「城田の奴知らねえか。今朝から姿が見えねえんだよ」
城田とは側近の名だ。補佐役派閥ではない方の。何故だか頭首は最近、補佐役側の人間を側に置きたがらない。ここ数日で、頭首派閥と補佐役派閥の間で取り返しのつかない亀裂が走っているからだ。頭首側は補佐役が頭首の座を狙っているらしいと云う噂を耳にして気が気ではなくなっていたし、補佐役側は幾度かのマフィア襲撃で無駄に部下を死なせたとして、頭首に不信感を募らせている。
凡て太宰が引っ掻き回した所為だったが。
「さあ、知らないけど……。ここ最近物騒だから、心配だよねえ」太宰は殊勝に唇に人差し指を中て、考え込むように小首を傾げる。「まあ、彼ほどの腕の立つ人が、みすみすやられたりはしないだろうけど……そう云えば、昨日の晩から見掛けてないなあ」
やられたかも知れない、と云う可能性を、否定しながら敢えてそちらへ意識を向けさせる。誘導する。勿論、『誰に』なんて云わない。云わなくったって判るほどには、組織内の信頼関係は無に帰していた。
「ねえ。私、ちょっと出て来るね」
「……ああ」
頭首の顔色が、信号機のように鮮やかにさっと変わったのを確認してから、太宰は悠々と与えられた部屋を後にした。
「あ、そうだ」
部屋を出てからぽん、と手を打ち、屋敷の隅の方へ歩を進める。夕刻で、云い渡された任務も無いだろうに誰も居ない。静かだ。その中を歩いて、足を止めたのは使用されていない部屋の一つ。其処から昨日の内に撃ち殺しておいた、城田の死体を引き摺り出す。その死体を引き摺って、誰も居ないのを見計らって隠す。見付かり易いように。
本来であれば組織の他の人間に見咎められてもおかしくはなかったけれど、度重なるマフィアへの襲撃の所為で、この組織も太宰が来た当時から随分と人数が減ってしまった。太宰は笑う。これで万事オーケーな筈だ。
仕込みは万全。後は待つだけ。
上手くいくと善いのだけれど。
太宰は独り言ちながら、馴染みのバーへと向かった。
◇ ◇ ◇
随けられている。そう気付いたのはアジトを出て暫くしてのことだ。幸い部屋を出てから屋敷を出るまでは無かった気配だから、死体を隠したのは見られてないだろうけど。太宰は一つ溜め息を吐く。面倒だ。銃を持って来れば善かったとも思ったけれど、銃の携行は止められているのだから仕方無い。
歩道をふらふらと歩きながら、何気無くちら、と脇に停まっている車のサイドミラーに目を向けると、後ろに居る男が目に入った。あれは確か補佐役派閥の人間だ。ばればれだって。面白味の無い。外套の襟を引っ繰り返す。こんな処に盗聴器まで仕掛けているのに、未だ物足りないんだろうか。
けれど、今頃アジトで起こっていることを考えると、彼は幸運だったのかも知れない。
気にせず何時ものバーに入って、からん、と扉のベルを鳴らす。いらっしゃいませ、と若い男性店員の声が太宰のことを出迎えた。店内を見回すけれど、客の中に見知った顔は無い。「ええとね」自分から呼び出しておいて、未だ来てないのかな。「ジンバック」そう思いながら、太宰はカウンター席のスツールに浅く腰掛ける。
「甘めで宜しいですか」
その言葉にはっと顔を上げて、若いバーテンダーの顔をまじまじと見る。それから胸の名札を。見慣れた顔だった。壁のバイト募集中の貼り紙が剥がされていて、それでああ、と凡て納得する。「うん、それでお願い」ひとつ頷く。
太宰の首肯を受けたバーテンダーが、慣れた動作で瓶を幾つか片手で掴む。その仕草に、太宰は思わず見惚れる。鮮やかな手並みで檸檬色の液体がグラスに注がれていって、それをじっと見詰める太宰の思考が満たされていく。
とくとくと、気泡とジンの織り成す鼓動に気持ちが落ち着く。からんと氷の鳴る涼やかな音が耳を打つ。ゆっくり息を吐くと、弓のように張り詰めていた全身の力が緩んでいくのを感じた。何時しか、随分と気を張っていたらしい。それは今日に限ったことではなく、もっと前、敵のアジトに潜入したときからだ。らしくもなく疲れてたのか、と太宰は自嘲する。それがここに来て、少し安堵じみた感情を抱いてしまった。
空っぽだった思考が鮮やかな色で満たされていって、視覚から口の中いっぱいに淡いジンジャーエールの味が広がる。その味に酔う。こんな風に、気疲れすることなんて今までに無かったのに。一体自分は如何してしまったのだろう。
ちら、と視線を上げる。
そっか。今までは、中也が隣に居たから。
ねえ――と声を掛けようとして、けれどそれはからん、と云うベルの音で遮られた。ちらりと目の前の店員の金の瞳が上げられて、いらっしゃいませ、と低い声が滑る。太宰はち、と舌を打った。見ずとも判る。厄介者め。
「――お待ち合わせでいらっしゃいますか」
今度の声は、見知らぬ客ではなく太宰に向けられた物だった。その滑らかな声に、鼓動が跳ねるのを感じる。なるべく平静を装って、曖昧な笑みを浮かべるのが精一杯だ。
「うーん……そんなような、そうでないような……」
太宰の曖昧な返答に、バーテンダーが微かに首を傾げた。バーテン姿に似つかわしくないその仕草に、太宰は今度は声に出して微かに笑いを漏らす。
「彼が来るかは、判らないんだよね。それに、ほら、後ろの席の男の人見える?」
ぴ、と先程店員の視線が落ちた背後を指差す。
「あの人、私の今彼なんだけどさァ、私が他の男と逢うのが気になるみたいで……本当鬱陶しいよね、この会話もきっと聞かれてるし、不審な素振りを見せたら後で乱暴されるんだよ、きっと……」
「そのお待ち合わせの方に、保護を求めては如何です」
「如何だろう、頼んで守って呉れるかな……自業自得だって切り捨てられそう」
バーテンダーはそれには答えずに、きゅっと仕上げにジンジャーエールを注ぐ。レモンスライスを一添え。入って未だ日が浅いだろうに手際が良い。思わず感心する。
「ねえ、お兄さんならさあ、友人……」カクテルに、少し口を付けて云い淀む。「じゃないな、同僚……うーん……相棒? と喧嘩したら如何する? 私、彼にひどいことしちゃって」
「それは」バーテンダーの男は微かに意表を突かれたような仕草を見せる。「謝る以外の選択肢でですか」
「謝りたくない」
「甘えですね」
は、と鼻で笑われて頬を膨らます。けれど自覚は有るのだ。幾ら死なないだろうと思っていたからと云って、そんな都合の良い云い訳は通用しないだろう、と思う。客観的に見れば悪いのは太宰だ。
「でも一応、仲直りはするべきかなあって」
「彼にひどいことをしたのは、何か理由が有ってのことなのでしょう?」
「理由」
云われてぴたりと動きを止める。
そう云えば、自分は何故彼を刺したのだっけ。
無論敵組織に入り込む為だ。けれどそれだけなら、他にも選べる選択肢は多分に有った。少なくとも太宰の頭脳を以ってすれば。けれど計算ではなく感情の部分で衝動的に選んでしまったのはそれだ。
嫌いだとか、そう云う一時の感情ではなくて。
もっと根本的な。
そう、例えるならあの中也を刺した三日月の夜の感覚は、暗く冷たい川に飛び込む前の――或いは顳顬に中てた銃の引き金を引く前の感覚に良く似ていた。高揚した気分の中で、その瞬間を切り取ってしまいたいと願ってしまう、あの瞬間のような。
「それを説明すれば善いのではないですか」太宰の思考を遮って、バーテンダーの男が微かに笑う。「まあ、自分なら――一発殴ってチャラ、と云う処でしょうか」
「その一発が重いから困りものだよね……」
太宰は唸った。相棒は小柄な割に――いや、小柄だからこそ鍛え上げたのだろう――存外力が強い。重力の乗った殺人的な打拳だけは避けられるとは云え、普通の拳も骨が折れるくらいには痛いのだ。その一発で死ななければ良いけど。その可能性を、悲しいかな否定し切れない。
考えながら、じいと目の前の男の動きを見る。小さい割にしっかりとした手が、靭やかにシェーカーを振る。耳に心地好い。さら、と亜麻色の髪が白い首筋から一筋零れた。嗚呼、此方を向いて呉れないかな。
「ね、よく見たらお兄さん、顔が結構好みだ……」
気付けば、ぽろりと本音を零していた。目論見通り男の顔を上げることに成功する。此方を向く胡乱げな金の目。半分冗談。然し半分は本気だ。
「……何のお積りで?」
「仲直りの予行演習かな。顔が好み。匂いも好きだよ。その手の感じ。触って欲しい。……ね、今夜一晩どお?」
つつ、とカウンターに手を滑らせた。そうしてグラスをかたんと置いた男の手に、そっと添える。さらりと撫でると、先程まで冷えたグラスに触れていた男の手に太宰の体温が混じって、触れた部分が火照るように熱くなる。自然、笑みが零れ落ちる。
触って欲しいのは本当だ。久しく触れていないから。
この手にならば、抱かれるのも悪くないんだ。
少なくとも、あの閉塞した屋敷に居るよりずっと心地好い。
「……ご冗談を。酔っていらっしゃる」
「私は本気だけど」
「……なら」男が低く唸った。周囲の客にも聞こえない、盗聴器にも拾わせない、太宰の耳にだけ届く声で囁くように太宰に問う。「なら、何も刺さずとも善かったろう。御蔭で腸が煮え繰り返ってる」
「素が出てるよ、バーテンさん」
ふふ、と笑って席を立つ。そうして尾行役の男の方を振り返ると、男は端末を持って固まっていた。アジトと連絡が取れないのだろう。アジトを出てから二時間。そろそろ頃合いだ。
背後から呼び止める声。
「帰らねえのか」
「残念、未だやることが有るから」
そう云って、財布を取り出す。カウンターの上に落とすのは、代金と小型のUSBメモリ。当初からこれが目的だ。
「お釣りはあげる。ご馳走様でした、ナカハラさん」
「……またのご利用をお待ちしております。クソ太宰」
◇ ◇ ◇
太宰からのUSBメモリには、必要な情報が凡て詰まっていた。敵組織の構成、戦力、内通者の情報。だからもう太宰を向こうに戻す必要は無かったが、かと云ってぐずぐずと、戻る戻らないの問答をしている内に内通者に逃げられては堪らない。アレはアレで何とかするだろう。
だから中也も、己のすべきことをする。
「本当、舐めた真似して呉れたよな……」
ぴちゃん、と水だか血だか良く判らない液体が伝い落ちる此処はマフィア御用達の拷問部屋だ。鼻を突くのは酷い悪臭。中央で吊るし上げられているのは内通していた男だ。太宰も中也も、直轄の部下ではなかったが、確かにこの男の地位ならば襲撃を早い段階で察知し、敵に報せ、逃がすことが出来ただろう。無駄に終わった三回の襲撃を思い描き、中也はち、と舌を打つ。
男の視線は既に定まっておらず、その口から漏れるのは唾液と不明瞭な怯えの声。
「ば、あ、貴方は、刺されて死んだ筈では……」
「そう、それだ」中也はがん、と男の足に打ち付けた釘を蹴り抜く。ぎゃあと悲鳴が上がる。嗚呼、未だまともに痛覚が残ってたか。如何やら痛め付け足りねえようだ。「大体手前等があんな風に煽んなきゃ、太宰は莫迦やらなかったし俺はこんな苛々しなくて済んだんだよ……」
なおも男に痛みを与えようとした中也の手を、止めたのは艶を孕んだ女の声だった。
「童」
次いで中也の手首を引くほっそりとした手。女の手だ。力尽くで振り払っても善い。然しそれをした瞬間、胴体を離れて飛ぶのは中也の首だ。ゆっくりと、拳を下ろして振り返る。
「……姐さん」
其処には幹部の一隅である尾崎紅葉が、華やいだ色の扇で顔を覆い隠し、うっそりと笑って立っていた。背後には夜叉。紅く色付いた目元の端が、すっと細められる。
「首領からの指令じゃ。今回の一連の件、此奴を処刑することで収めよと。故に今此処で其奴を壊すことは、この紅葉の名に於いて許さぬ」
「……首領から」
ならば中也に逆らう道理は無い。それに。
「……元より壊す積りは無えよ」
「如何だか。そなたはあの男のこととなると見境が無い」
くす、とまるで子供にするような笑い声に、一瞬カッと頭に血が上って、腹の傷が痛みに疼く。然し一瞬だ。何故なら図星であることを判っているから。首を振って息を吐く。
下手に反論すれば、誂われるだけだろう。
「……どっちみち壊すんだろ。可哀想にな」
「おや。妾は壊さぬようにお人形遊びをするのは得意じゃ」
「それが一番えげつねえんじゃねえか」
紅葉の部隊がやると云うのであれば、この男は己の行いをそれはもう不足無く、文字通り死ぬほど後悔することだろう。であれば、中也が拘る理由はもう無い。背後に待機していた自分の部下に目で合図して、拷問部屋から引き上げさせる。
それよりやらなければならないことが有った。未だ保てば良いが。腹の傷を抑え、カツン、と靴を鳴らして外套を翻す。
「却説、此度の騒動、誰かさんの功績が大きいように思う。行方が判らんままであるのになァ」惚けた声が、中也の背を追った。「さっさと迎えに行ってやったら如何じゃ?」
誰に云われずとも、その積りだった。
◇ ◇ ◇
アジトに戻ったときには、凡てが終わっていた。
其処で太宰と尾行役の男が目にしたのは、血塗れの惨劇、しんと死の匂いに静まり返った屋敷、変わり果てた死体の山だ。先程まで生きていた、見知った顔がばたばたと死んでいるのを見て尾行役の男が呆然としていたのを、太宰は拾った銃で遠慮無く撃ち抜いた。男の体は自分の死に気付く間も無くばたりとその場に倒れてしまう。はい、死体の仲間入り。
ふふ、と太宰は銃を放り出して微笑む。呆気無いものだ。一週間やそこらで、強固に団結してた組織が自分一人の為にこんなにも簡単に仲間同士で殺し合って、壊滅してしまうのだから呆気無い。念の為屋敷の中を見て回る。
ばしゃん、と血溜まりが跳ねる。靴が汚れる。けどどうせ元から黒色だ。黒に黒ずんだ朱が混じったって、大して変わらず黒く見える。
漂う陰鬱な空気に少し息が詰まりそうで、太宰はひとつ深呼吸をする。屋敷の中は、外よりももっと血の匂いで篭っていた。生き物の匂いが充満しているのに、不思議と呼吸の音は一つとして聞こえない。皆一様に死んでいるのだ。死体が彼方此方に転がっていて、生温かい生命の残り香だけが、薄っすらと空気を湿らせている。先刻まではどれもこれもが生きていたのだ。生きて、仲間内で殺し合っていた。
太宰はただ、切欠として一人か二人殺しただけなのに。
邪魔な足元の体を蹴っ飛ばす。ごろん、と弾みで首が胴体から離れて転がった。その若い顔は恐怖の為に歪んでいる。と云うことは、補佐役派閥の方だったのだろう、彼は。行き掛けに太宰が隠した死体を見付けた頭首側の人間が激怒して補佐役派閥に危害を加える、けれど頭首に不信感を募らせた補佐役が横暴に耐え兼ねて反撃し、見事仲間内での殺し合い。この殺戮劇で太宰が書いたのはそう云う脚本だ。口を大きく開けた彼は、果たして断末魔の悲鳴を上げることが出来たのだろうか。まあ如何でも良いか。太宰は拾った首を放り出す。
ぴく、と目の端で動いた死体を念入りに撃ち殺して。顔を確かめるが頭首ではない。あれもこれも、転がった体を一つ一つ見ていくが、それらしき男の姿は無かった。太宰は首を傾げる。死んでいるならそれで善い。流石に元凶である頭首を逃がすほど、補佐役派も間抜け揃いじゃないと信じたい。然し自分の目で見たことしか、太宰は信じられない性分だ。後で安吾にでも捜索を頼むか、と思いながら念の為に幾つか拳銃を拾って懐に入れる。それからもう一度、今度は外へと扉を開けた。
途端、滑り込んでくる清潔な夜の気配。
澱んだ血の匂いから開放される。
然し太宰の気分はなお晴れない。
却説、如何しようか。黒色の外套の上に夜気を纏い、屋敷の周囲を闊歩しながら、太宰はゆっくりと思案する。
当然、マフィアの幹部である自分にはポートマフィアに戻る以外の選択肢は無い。このまま戻らなければ、それこそ首領が総力を上げて太宰の身柄の捜索に乗り出すことだろう。今回、今まで黙認されていたのは、太宰の行動が組織の利益になると判断されていたからだ。それと、太宰がマフィアと云う組織から離れて生きてはいけないだろうと云うあの人の傲慢も、多分に入っていたのだろうけど。
けれど幾ら黙認されていたとは云っても、太宰が行ったのは敵組織を使っての構成員の殺害だ。黙って姿を晦ませば、それこそ粛清対象となり得る。マァ太宰とてみすみすと処刑される心算は無かった。安吾からも手を回して貰っているし、後は戻り次第上手く首領に説明すれば善い。客観的な証拠の確保が出来ないと云っていたから、今回の件は寧ろあの人にとっては僥倖以外の何物でもないだろう。方法は任されていたし。こう云うエコは好きな筈だ。そして内通者を生贄に差し出したから、マフィアの面子は辛うじて保たれている。
環境は整えてある。だから戻るのには何の問題も無い。
問題が有るのは、自分の感情の方にだ。
太宰はぼんやりと、空に浮かんだ月を見上げる。相棒を刺したときは確か、鋭い銀の三日月の夜だったことを覚えている。今は朧月だ。雲に覆われて、薄明かりを夜空に散らしている。それが太宰の心の奥底を映し出す。
果たしてマフィアに戻ったとして。
中也の隣に戻ったとして。
自分は中也を毀損せずにいられるのだろうか。
次に見下ろしたのは、青白く照らし出される自分の手だ。もう血の匂いも色もしない。あの夜のことが、まるで全部夢だったようだ。今だってずっと、夢心地。
あれが最適解だと判断した訳ではない。なのに太宰を突き動かしたのは、興味、好奇、それ以上の本能的な欲求だ。
相棒に死んで欲しかった? 其処まで憎んでる訳じゃない。
心中したかった? そんなのは真っ平御免だ。心中は美女とと決めている。
それに、死なないと思っていたからやったのだ。まあ確証は無くて、結果的に生きていたから幸運だったのだけれど。でも次もしない保証は無い。次も殺す心算の無い保証は。
本当に衝動的なものだったから、自制が効かない自信が有る。中也と居ると特に、気分が上擦って冷静になれない自分が居ることを自覚しているから。
腹にナイフを入れた瞬間の、驚きに見開かれた満月のような金の瞳を思い出す。
後悔はしていなかった。
中也をこの手で毀損することに、不思議と抵抗が無い。
それが一番、怖かった。
そっと懐から銃を取り出す。顳顬に中てると、冷えた銃の温度が感じられ、その冷たさに安らぎすら覚えて目を瞑る。
どうせマフィアに戻って、中也を何時か殺してしまって、この手で失ってしまうのなら。
今この瞬間を切り取ってしまった方が。
余程有意義なのではないか。
そうして、太宰はその引き金を――。
ぱん、と予想していた衝撃は頭ではなく肘に来た。蹴り上げられたのだ。そう認識する前に銃を取り落とす。からん、と砂の地面に銃が落ちた。弾は出ない。引き金を引く前に防がれたのだ。太宰はそれをじっと見る。
「何、やってる……」
視線を上げると、目の前には少し息を荒らげた小柄な男が居た。怒気がゆらりと背後の空気を揺らしている。その存在が纏う空気は鮮やかな金。宛ら太陽から立ち上るフレアのような。夜だと云うのに、その眩しさに思わず目を眇める。
「……ふふ。中也だ」
ひっそりとその名を呼ぶと、男は片眉を跳ね上げた。
中原中也。太宰の相棒。
その男が其処に立っているだけで、世界が色を取り戻す。
「見て判らない? 自殺だよ」
うっそりと笑う。こう云うときに、如何返されるかは知っていた。『死ぬなら俺の目に付かないとこで死ね』だ。全く、冷たいんだから。足元に転がった銃を、今度は自分で拾えたことだけが幸運だ。これには確実に弾が入っているから。
「――勝手に俺の目に付かねえ処に行くんじゃねえよ」
あれ。想定していたのと異なる言葉に、太宰は一つ瞬きをする。然し相棒は太宰の戸惑いなどにはお構い無しで、太宰の手を引いて踵を返す。引っ張られながら見る相棒の首筋は、月明かりの下でも判るほど何故か赤い。
「ねえ、ちょっと待っ……」
瞬間、ぎらりと目の端で銃口が光った。
「中也!」
強くその手を引く。重い筈のその体が予想以上に簡単にバランスを崩した。次いでぱん、と響く乾いた銃声、銃弾が中也の腕を掠めて夜の闇へと掻き消える。中也の腕を傷付けて。その事実に一瞬太宰の目の前がかっと赤く染まって、反射的に殺気の覗いた方向へ銃弾を撃ち込んだ。勢いに任せて、二、三発。それから相手の顔を確認する。
「ああ、見付けた……」
奇妙な納得と共に、太宰は曖昧に頷いた。建物の脇の草叢に転がっていたのは、行方の判らなかった敵の組織の頭首だ。如何やら虫の息らしい。
「おい、太宰、待て……」
未だ膝を突いたままの相棒の静止も聞かず、太宰は頭首の体に歩み寄り、その頭髪を引っ掴んだ。呻き声が聞こえたが特に反撃は無い。死に掛けてるなら楽で良い。もう片方の手も念の為撃ち抜いて、引き摺って縁石を探したけれど、無かったので俯せた頭を踏み付けた。却説、弾は三発入っていたかな。弾倉を取り出して確認する。
「あのさあ、如何して君如きが中也を毀損しても善いと思った訳……? 良く判んないよね」
「それ、手前が云うのかよ」
揶揄するような言葉に振り返る。
「私は良いでしょ!」
「相棒だからか?」
帽子の下の、中也の瞳が薄暗がりから太宰の姿を捉えた。
「俺が、手前の、相棒だからか」
その瞳に流れるのは澄んだ疑問の色だ。相棒だから、壊すのか。手前は俺を壊したかったのか?
違う、そうじゃなくて。
「それは君が」
相棒。それ以上である筈が無い。
けれど相棒と云うのは詰まる処別の生き物だ。相棒だからと云って、太宰に、中也のことを損なう権利など無い。
「君が、私の……」
なのに、一体何だと云うのだろう。
唐突に、ぐしゃ、と果物の潰れるような音が足元で響いた。スラックスにびしゃりと生温かい液体が掛かる。嫌な予感がして、うえ、と太宰は顔を顰めて靴の下の死体――正確には死体だった物を見下ろした。強力な重力に潰されたそれは、最早ただの肉塊だ。血が靴下を濡らして靴の中にまで入り込む。これで歩いてはぐずぐずになって気持ち悪くなるのは目に見えていた。ひどい嫌がらせだ。全部目の前の短気な重力遣いの所為。
「ちょっと何して呉れてるの!? 中也の莫迦!」
「煩え、帰るぞ」
相棒が立ち上がり、ぱん、と砂を払って外套を翻した。だから仕方無く太宰も死体を離れ、その背を追い掛ける。何時だって勝手ばかり。「待ってよ……」追い縋ろうとして――伸ばした手の先の小柄な背中が急にぐらりと傾いた。
「中也!」
慌てて駆け寄って抱き留める。けれど太宰の腕には中也の体は重過ぎて、二人揃って地面にずるずると座り込んだ。
いきなり何。腕の中の中也を見遣れば、先程より顔が赤い。火照っている。額に手を中てると熱が有って、苦しげに息が上がっていて。体を引っ繰り返すと痛みに端正な顔が歪んで、じわりと嫌な汗が滲んでいた。
太宰ははっと中也の腹に目を遣る。きっと炎症を起こしているんだ。今、中也が動いていることを当たり前みたいに受け入れていたけれど、死ななかったとは云えまともに動ける方がおかしいのだ。目を覚ましたのがつい数日前で、それから休み無しで現場に出て、太宰の対応に追われていたのならこうもなる。
「だ、ざ……」
相棒の苦しげな呻き声が聞こえる。ぜいぜいと、息が熱を持って速度を速める。これは急いで運ばないと拙い。慌てて自分の端末を取り出すも電池切れで、舌打ちしてぐったりした相棒の懐を探る。パスワードのロックがもどかしい。解除して、医療班へ連絡。
今居る場所を告げて、通話を切る。相棒はもう意識を失っているようで、これでは自分で立つことも出来ないだろう。太宰は少し思案してから盛大に息を吸い、思い切り踏ん張って相棒の体を担いだ。肩にずしりと体重が掛かって顔を顰める。意識の無い人間と云うのは存外重い。
二人が居るのは屋敷の敷地内だったから、少なくとも車の通れる道までは出なければならない。
全く、如何してこんなになるまで無茶をしたのだか。
「……太宰……も、何処……にも……」
「え? 何?」
中也の口から譫言のような言葉が漏れた気がしたけれども佳く聞こえなかった。聞き返している気力も無い。触れた部分から相棒の体温が自分に移って混ざるのを、何処か他人事のように感じながら、ずるずると相棒を引き摺って行く。
このまま中也が死んだら如何なるんだろう。
空を仰いで、今更ながらに思い出す。中也の居なかった数日間。死んだかも知れないと思い過ごした独りの夜。
覚えたのは夜の海に沈む感覚。音も光も、痛みも色も、太宰治と云う存在を刺激する何もかもが失くなって。
何処か落ち着く、灰色の水の底みたいな。
けれどきっと、独りでは耐えられない。
色褪せた痣を抱えたままでは。
太宰は眉尻を下げて、それからちら、と傍らの相棒を見、心底弱ったように呟いた。
「私、矢っ張り、君に死んで貰ったら困るよ……」