【再録】水底のモノクロオム




 何時ものことだ。
 手前勝手にどぼんと川に飛び込んで、引き上げてやったらまた死ねなかったと喚くのだ。

 人の気も知らねえで。



二.


 目が覚めて、最初に目に入ったのは白い天井だった。
 知らない天井だ――などとありふれた感想を持ったのは一瞬だった。ぼんやりと宙を漂う意識を強制的に覚醒させる。視界と思考を明瞭に。何せ何時寝首を掻かれるか判らない立場だ、目覚めと起床のタイムラグは短いほど好ましい。
 そうして体を起こそうとして――有り得ないほどの激痛が体の中心部を刺し貫いた。目玉の引っ繰り返りそうな衝撃に思わず息を詰めて倒れ込む。シーツが視界の端で舞った。
 中心部、正確には腹だ。腹部の異常を訴える感覚に心臓が軋む。内側の不調から込み上げる吐き気に思わず目を剥く。じわりと嫌な汗が滲み出る。
 生きている、と把握した。
 同時に何が起こったのかも。
「あ、中原さん! 起きたんですね、良かったあ……」
 だから呑気な声を出して寝台に寄って来た己の部下を、力任せにがしりと捕まえてしまったのは、何も痛みの所為だけではない。
「ヒッ!?」
「なあ、人間を殺さねえ程度に一番苦しめるには、どう云う拷問が良いと思う……?」部下の怯えた顔に、自然ににこ、と笑みが零れ出る。「先ずひょろっひょろの腱を切って……それからあのお綺麗な手から爪をゆっくり剥ぐだろ……」
「うわ中原さんの目が据わってる! 相当怒ってる! て云うか痛い、痛いです! その怒りは太宰さんにぶつけて下さいよお!」
 その名前が出た途端、今度こそ部屋の空気が凍った。
「太宰、だと?」
 凍らせたのは中也だ。ぎろりと冷徹な色に染まった金の瞳が、抜身の刃物の冷たさを持って部下の喉元を刺し貫いた。びくりと背筋を這う本能的な恐怖に、部下は今度こそ己の失言を理解する。はくはくと、紡ぎ出そうにも謝罪の声は喉を引っ掻くばかりで出て来ない。部屋に居たもう一人の中也の部下が、慌てて同僚を引き剥がしに掛かる。
「おい、お前は医者を。俺は首領に報せに――」
「動くな」
 針よりも鋭い制止。その言葉を耳にした瞬間、部下二人の動きが飼い慣らされた忠犬の如くぴたりと止まる。リードを引く必要も、痛みを与える必要も無い。従わせるには中也の発する言葉一つで十分だった。部下達は自然、頭を垂れる。
 自分達の主に。
「痛え……。畜生、手土産代わりにしやがって……」
 それを尻目に、中也はゆっくりと上体を起こした。激痛は奥歯を噛んで耐える。鎮痛剤が切れ掛けているだけだろうから、こんなのは何てことはなかった。
 腹に渦巻く、痛みよりなお大きな怒りに較べれば。
 傷に手を中てれば、思い出されるのは歪んだ笑み。愉しげな口元に反して、感情の一欠片も映さない黒い瞳。うっそりと笑う包帯まみれの顔。
 耳に蘇る、別れの言葉。
 ――ばいばい、中也。ご愁傷様。
 ぎり、と歯を食い縛る。
 確かに中也は太宰のことを好かなかった。それは理屈じゃない。あの男に感じるのは、嫌がらせが鬱陶しいだとか、屁理屈が耳障りだとか、そう云うのとは別の、もっと本能的な嫌悪だ。あの男の黒い外套の閃きは、墓場に降り立った鴉の羽を思わせる。流麗に響く声は宛ら不協和音を耳にしたようで、端正な笑みは悪魔のそれを彷彿と。理屈じゃないのだ。あの男の存在自体が、中也の神経を逆撫でる。
 太宰とてそれは同じだったろう。あの男とは仕事の方針から女の趣味まで、何もかもの反りが合わない。この前も、「次の標的が決まった」と自分達の何方もが世話になった人物の名が挙げられたのを聞いて、「へえ、あの人も焼きが回ったね」の一言で済ませようとしたから殴った。今頃あの包帯の下はひどい痣になっていることだろう。太宰は心底非難する目を向けてきたが、中也は謝らなかった。太宰も、何も云わなかった。
 それでも不本意ながら、行動を一緒にすれば息は合ったし仕事の効率は頗る良かった。酒の趣味も合った。これは意外とでかい。仕事終わりに一緒に飲みに行くことが、出会った当初より増えた。胸糞の悪い任務の後に、さんざ酒を飲んで絡めばぽつりと、「そんなの、一々煩ってたら君の身が保たないよ」と呟かれたことを思い出す。あの男なりに、中也の瓦斯を抜いた積りだったのだと思った。礼は云わなかった。その後太宰が唐突に、割れた酒瓶の欠片で手首を切ろうとしたからだ。あの男のあれは最早発作のようなものだったし、殴って欲しそうにしていたからお望み通りぼこぼこにしてやった。恨みがましい目を向けられたがお互い様だ。
 相棒なんて距離の近さ故に相手の痛みが判るものだから、お互い適度に鬱憤を晴らして、上手くやっている積りだった。
 あの男のイカれた自殺嗜癖を差し引いても、その距離で以って太宰との仕事が一番やり易いと、感じていたのだ。
 少なくとも、中也は。
「状況を報告しろ」気を緩めれば駆け巡る思考の奔流を押し殺し、部屋を出て行く動作のまま固まった部下をくいと呼び寄せる。「俺が無事だと知れることが、不利益にならねえか考えろ……」
 少しの発話で息が切れる。情けないことに、思ったより体力を消耗している。そう感じ、目を閉じて体を乱暴に寝台に横たえる。これくらいの傷、如何ってことはないのに。
 若しかしたら、消耗しているのは体力ではなく、精神の方なのかも知れなかった。
 刺突を許すほど、信頼を置いていたのは事実なんだから。
「当時の状況を報告します。血塗れで倒れていた中原さんを見付けて拾ったのは立原さん」ぴん、と糸のように張り詰めた部下の声に耳を傾ける。「二日前、埠頭に倒れていた中原さんは意識不明の重体。失血のショックに拠るものです。立原さんが直ぐに医療班に連絡して下さったので、幸いにも一命は取り留められました。縫合手術も問題無く完了しております」
 立原ね。中也は瞑目する。後輩が浮かべたであろう焦った顔が、容易に思い浮かんだ。同時にその処理が迅速かつ適切なものであっただろうことも。後で飯でも奢ってやろう。
「傷は一箇所、腹部の刺し傷のみ。幸いにも内蔵に傷は付いていなかったので、早ければ二週間ほどで……」
「……待て」
 刺し傷のみ? そんな筈は無い。
 腹を探る。それから背中を。刺されてから、撃たれたような気がしたのは気の所為か? 否、と首を振って否定する。朦朧とした意識の中、響いた銃声を思い出す。
 然し太宰は自前の銃を持たない。以前に中也がそう脅したからだ。あまりにも手軽に拳銃自殺しようとするから、銃を持つなら腕を切り落とすと。
「中原さん!?」
 寝台から飛び起きて、無造作に掛けられていた己の外套を引っ掴んだ。汚れた布の匂いを確かめる。塗料の匂い。
「……ペイント弾」
 ――中也を殺したと見せ掛ける為の。
 詰まり本気で殺す積りは無かった?
「中原さん、お願いですから安静に……!」
「太宰は」
 抑えていた激情を堪え切れず、懇願の色を浮かべる部下に掴み掛かった。
 じゃあ何で刺したんだ。
 殺したように見せ掛けて敵に取り入りたかったのなら、実際に刺す必要は無かった筈だ。御蔭で軽く死に掛けた。
 腹の傷が、じくじくと痛む。 
 こんな、中途半端に傷だけ付けて。死ぬか如何か、まるで賭けるみてえな巫山戯た真似。
「太宰は何処行きやがった!」
 あの野郎、一体何の積りでこんな。

 部下二人の間に、一瞬躊躇いが落ちた。答えても善いものか如何か。そう云う躊躇い。中也は確信する。此奴等知ってて黙ってるのか。そうして更に揺さぶろうとした瞬間、
「私が説明しようか」
 がちゃりと扉が開き、中也は思わず息を詰めた。その人物の登場が、あまりにも突然だったからだ。
 本来ならば、こんな、一構成員の療養している部屋になど態々赴くことの無い人物。
「首領」
 中也は部下を解放し、その場に深く頭を垂れた。目の端に白衣がひらりとはためき、窓から差し込む陽光を受けて眩しく光る。ポートマフィアの首領――森鷗外の医者然とした格好は、この部屋の一種病室的な雰囲気にも佳く馴染んでいた。
「様子を見に来たんだ。何せ君と太宰君はうちの大事な人材だからね」
 でも矢っ張り君は大人しくしていなかったねと、促されるままに寝台に横たわる。「調子は如何?」「動きに支障は有りません」「そう。良かった。でもあまり無理すると、また発熱して倒れるよ」また? またとは如何云うことだろう。中也が疑問に思って訊けば、埠頭で倒れた中也は、傷の所為か炎症を起こしてひどく発熱していたらしい。これは立原に頭が上がらないなとぼんやり意識を這わせる中也の腹を、鷗外の骨張った指がすっと辿って去って行く。
「そうそう、太宰君のことなんだけど」
 その名が出た途端、ぴりと緊張が走る。走らせたのは中也だ。思わず顔を上げた。鷗外はただ、緩く笑いを見せるのみ。
 中也が如何反応するかを、恐らくは判っていながら。
「ポートマフィア幹部の太宰治君は」鷗外は朗々と、詩劇か何かを読み上げるように言葉を紡ぐ。「懇意にしていた人間と、身投げ心中を図って行方不明」
 唐突なその言葉に瞠目する。
 身投げ心中? 何だそれは。聞いてない。
「そして偶々その場に居た中也君は、痴情の縺れに巻き込まれて太宰君の相手に刺されて重傷」
「は」
「そう聞いてる」
 痴情の縺れで。女、或いは男に刺されて?
 そんな訳が無かった。目の前が真っ白になって、腸がぐつりと煮え繰り返る。誰だ、そんな適当な報告をした奴は。中也がそんな理由で死に掛けたとでも云うのか。太宰がそんな理由で中也を刺したと。
「そんな下らねえ理由で――ッ」
「では君は何か知っているのかい」
 問われてはっと息を詰める。
 切り付けるような言葉に思わず顔を上げると、森鷗外その人がじっと此方を見詰めている。その深紅の瞳が孕む感情は、部下を叱咤するそれでもなければ、年下の男を見守るそれでもない。その性質は観察。何処か愉快な色を含ませながら、中也の生態をつぶさに捉えようとする視線に、中也は自分がモルモットにでもなったような感覚に陥った。昂った激情が、すっと音を立てて血の気と共に引いていく。
「太宰君の行方について、何か心当たりが有るのかな?」
 面白がりながら、探るような問い。この人が、態々こんな一構成員の部屋にまで足を運んだのは、恐らくそれを訊きに来る為だったんだろう。
 「太宰治が俺を刺してマフィアを裏切りました」。そう答えるのは簡単だ。そしてそう答えたが最後、太宰の命は無いのだろう。この人は裏切り者には容赦が無い。太宰は草の根分けてでも見付け出されて殺される。
 それも相当無残に。
「――いえ」
 気付けば口を突いて、するりと出たのは否定の言葉だ。意外と冷静な声音をしている、と何処か淡々と分析する自分が居た。首領に嘘を吐くなんて暴挙、自分がこれほど何の抵抗も無く出来るとは意外だった。拳を握るが震えは無い。
 生きたまま皮を剥がれ、内臓を引き摺り出され、縁石を噛まされ頭蓋を砕かれるだろう太宰に同情でも湧いたってのか。
「……そう? マァ、君の無事が確認できただけでも良かったよ。もう少し休んでいると善い。太宰君は――何時ものことだからその内ひょっこり出て来るでしょう」
 それが生きてる状態でか死んでる状態でかは知らないがね。
 そう愉しげに呟きながら、もう用は済んだのか鷗外はばたんと扉を開けて部屋を出て行った。微動だにせず直立していた部下達の緊張が和らぐ。室内に一時、平穏が取り戻される。
 けれど中也の頬は変わらず硬直したままだった。口に手を中てる。先刻、其処から飛び出そうとした言葉を反芻する。
 ――そんな下らねえ理由で、彼奴が俺を刺す筈が無え。
 なら一体どんな事情が有れば、相棒を刺すに足る理由となり――ひいてはマフィアを裏切ることが善しとされる理由になると云うのか。中也には理解がし難い。

 隣に居れば、あの男の考えは何だって判ると思っていた。
 あの男の複雑怪奇な思考回路を凡て把握出来ていたとは云わない。然し隣に在る存在、気配、息遣い、少しの動作で、少なくともあの男が何を考えているのかは手に取るように判った。だから息だって合わせることが出来た。それは云わば糸電話のようなもので、一方が発した空気の振動が、糸を伝って伝わって、もう一方が聞く仕組みに似ている。細かな震えさえ音となり言葉となって、中也に太宰の意志を伝えるのだ。まるで太宰が中也に囁き掛けているかのように。
 事実、バーで中也の隣に居た男は確かに、中也と共に敵を返り討ちにし、捕虜として捕らえて拷問に掛ける、その積りだった筈だ。
 それを気紛れに心変わりをして。
 今では全く聞こえない処に居る。
 糸電話の糸は切れたままだ。
 そのことが、中也をひどく不快にさせた。

 あの野郎。一体何の積りでこんな。

     ◇ ◇ ◇

 って、今頃は怒り心頭だろうな、と。
 与えられた部屋の浴室で、太宰はシャワーを浴びながら項垂れた髪から滴る水滴をじっと眺めていた。髪を伝い、黒く染まったかに見えたその雫は、ぽたりと太宰の先端を離れた途端色を失くして透明になる。そうして重力に従って、排水口へと吸い込まれていく。
 体は湯で温まっている筈なのに何故だかひどく冷えている気がした。
 手を二、三度軽く握る。指先は温度が感じられなくて血が通っていないようにも思えたが、皮膚の下には青く細い血管が浮き出ている筈だ。湯気に隠れて佳く見えないけれど。
 代わりに思い出されるのは、昨夜に太宰の手の平を染めた鮮やかな赤色。鉄錆の匂い。驚きに見開かれた目。
 手に残るのは、相棒を刺した肉の感触。
 痛快だった。あの頑強な相棒を、自分の手で損なったのだ。胸の空く思いがする筈だった。
 元々、敵の内部に潜り込む心算は有ったのだ。予定通りの潜入捜査。けれど間の悪いことに、偶々中也が一緒に居て、偶々中也の始末を条件にされた。だから刺した。それだけのこと。元よりあの相棒が、あの程度のことで死ぬとは思っていない。
 それに嫌い合っている相手を刺したのだから、太宰の心は痛快である、筈だった。
 なのに。太宰は冷えた自分の手を握り締める。力を入れ過ぎた所為で指先が白くなる。そう、きっと相棒は今頃怒り心頭だろう。生きていればの話だけれど。
 若しかしたら、死んでいるかも知れない。
 だとしたら太宰が殺したのだ。
 この手で。
 そのことを――相棒の命がこの世から零れ落ちた可能性を掴んだ途端、唐突に寄る辺無い暗闇に放り出される感覚に襲われた。じっと耐えるように、太宰は目を瞑る。この感覚には覚えが有る。何時もの。夜の川に入水したときのそれだ。最初は気分の高揚と共に、どぼんと水飛沫を上げて飛び込むのだ。それから段々、上下も左右も失くなって、ただ音も光も無い世界へと沈んでいく。指先が痺れていって、視界がちかちかとモノクロオムに染まっていく。
 そう、こんな風に。
 何時の間にか止めていた息を大きく吸って、太宰は指先をじっと見た。色が無い。目を瞬く。
 空気の中に居るのに、何となく息がし辛い気がした。喘ぐようにはくはくと口を動かすと、温い水飛沫が入って来る。苦しい。けれど同時に胸に去来する安らぎに、その場にじっと蹲る。体がどんどん重たくなり、水底にどんどん沈んでいく、その感覚を離さないよう耳を塞ぐ。冷えた風呂場のタイル、背中を打つシャワー。どれも太宰を温めるものではない。
 若し中也が死んでいたら?
 ゆっくりと、その考えが脳に染み込んでいく。今の太宰にそれを確かめる術は無い。相棒を刺し、明らかに敵側に寝返ったように見えるにも拘らず、未だこの組織では余所者扱いだ。頭首の周りの人間からはそこそこ良い待遇を受けてはいるものの、派閥の異なる人間からは疎まれているし監視も付く。一般用の端末は取り上げられているし、これでは生存確認の探りを入れることも出来やしない。
 ポートマフィアを相手取って、滅ぼすなんて大言を吐く組織の頭首は嘸や有能なのだろうと期待した男は、抱かれてみれば何のことはなかったし。しゃがんだまま、体に残る性交の痕をなぞる。感慨も無い。高揚感はすっかり冷めている。体は冷えるばかりで、太宰はそっと自分の体を抱き締める。
 反響するように蘇る、相棒の腹を刺した感触。はて、あのとき手の平を濡らした血の色は何色だったか。見詰める手は透明の飛沫を浴びるばかりで、鉄錆の匂いも薄れていく。
 後悔なんてしていない。刺さなきゃ良かったなんて思うくらいなら最初から刺してない。
 ただ、覗き込んだその奥底に有ったのは慣れ親しんだ空虚だ。失われる命を、ただじっと眺めるだけの、空虚。
 鏡に目を向ける。きゅ、となぞると其処だけ水滴が拭われて、自分の体がクリアに映る。刺し傷やら切り傷やら火傷の痕で歪に覆われた体の表面で、生来見慣れたそれらよりひどく目立つのは真新しい痣だ。青黒く変色したそれは、古傷に負けず劣らず自己を主張して太宰の体を痛めている。腹のは確か、この前恩人を殺す任務の際に殴られたもの。肘に残るのは拳銃自殺をしようとして止められて。
 痣をそっとなぞる。何処ぞの馬の骨とのセックスの痕なんかよりもずっと、それは色濃く太宰の体に残っている。
 全部全部、あの凶暴な相棒から与えられたものだ。
 なのに、今は何故だかそれが色褪せてくすんで見える。受けた痛みを、はっきりと思い出せない。凡て記憶の濁流の向こうへ消えていき、ゆっくり灰色の水底に溺れていく感覚。
 それは己の半身が死んだ後の世界の色だ。
「中也……」
 呟きは、打ち付ける水の音に掻き消える。

 銃はペイント弾だった。けれどナイフは本気で刺した。命を落としてしまうか如何か、一人ロシアンルーレット。
 選りに選って中也を巻き込んで。

 がちゃ、と遠くで部屋の扉の開けられる音がした。太宰は浴室で身構える。何? 鍵を掛けていたと思っていたけれど、如何やらプライベートなんて有って無いようなものらしい。太宰は息を潜めた。銃は流石に脱衣所だったし、今は布一枚纏っていない。反撃するには分が悪い。
 これが頭首の取り巻きであれば善い、けれど派閥の異なる――例えば今腹心の地位に居る、野心の強い補佐役なんかだと太宰の命を狙って来た可能性も有る。今死ぬ心算は無いんだけどな。虚ろに笑って、差し込む影を窺い見る。
「……太宰殿。これから作戦会議が有る。頭首がお待ちだ」
 声を聞いて肩の力を緩めた。前者。頭首の取り巻きだ。
「……十五分だけ待って」
 そう切り付ける風に告げて、きゅっと蛇口を捻って締めた。ぴちゃん、と雫の音が反響する。足元で跳ねた水には、何の色も映っていない。

「次は何処を攻めれば善い」
「そうだね……」
 呼び出されたのはアジトの中でも広い会議室だ。照明は少し落としてあって、周りの人間の表情は佳く見えない。太宰は頭首の傍らに寄り添って、腰に回る下卑た手を拒みながら、じっくりと組織内を吟味する。
 此処に来て数日、ざっと見た限りでは組織は二つの派閥に分かれていた。頭首派閥と、補佐役派閥。一見、頭首は補佐役に絶対的な信頼を寄せていて、補佐役も佳く働いている。互いの信頼の上に成り立つ清く正しい上下関係。けれど内実は違う。その表層の下では、下克上だの昔の恩だのでどろどろと根腐れを起こしている。良く在る構図だ。太宰は薄っすら笑う。自分の、ともすれば頭首の愛人枠も兼ねているこの位置から組織の根幹を揺さぶるのに、こんなにも簡単な話は無い。何せ下準備が要らないのだから。
 補佐役側から向けられる心地の好い殺気を感じながら、太宰は乾き切らなかった濡れた髪の先を弄る。そうして指差すのは地図の一点。「次攻めるなら、此処。あと此処と此処」確か、そう、名簿上はそうだった筈。
「根拠は」
「先日攻めた処と同じだよ。マフィアの中でも、首領に忠誠の薄い人間が守っている拠点だ。本気を出せば直ぐに崩せる。但し此処だけは」とん、と指差すのは見慣れた場所。「違うけど。何せ担当はやたら尻尾の勢いの良い忠犬だったから……マァ、今は死んで手薄になってるから攻め易いよきっと」
 成る程、と頭首が深く頷いて部下に指示を出すのを、太宰はほくそ笑みながら聞いていた。殲滅と粛清と。大きい仕事の二つを同時に熟せるのは楽で良い。

 作戦会議も解散し、組織の人間共がぞろぞろと退室する、その途中。
「あ、ねえ」
 太宰はその中の一人を呼び止めた。頭首と対立している、補佐役派閥の一人だ。太宰の見立てでは、補佐役に意見するだけの地位を確立している男の一人。だから声を掛けた。
「包帯の巻き直しをお願いしても善いかな?」
「はァ? そんなもの、自分で……」
 他の全員が出て行ったのを見届けて、太宰はするりと躊躇無く外套を脱いだ。ベスト、シャツも。真正面から太宰の裸体を捉えた男が、息を飲む気配が在った。しどけなさを唇に乗せ、「ねえ、」と吐息混じりに囁く。
「先刻慌ててね、巻き直したんだけど、ずれてしまって……。それとも何時もみたいに、君達の頭首に頼むのが善いかな」
 小首を傾げる。補佐役派閥の人間が頭首に抱いている感情が、何も敵愾心だけでは無いことを知っていた。其処に眠るのは子供のような自尊心、負けたくないと云うプライドだ。それを敢えて擽って、揺さぶった。案の定、男の目の色が変わる。けれど理性で以ってじり、と後退る男の腰を捕らえる。
「善いでしょう?」
「……な、んの心算だ……」
「ふふ。何、なんて。野暮なこと訊くんだね」
 風呂の最中に呼び出されたのは幸運だった。御蔭で太宰の髪の隙間からはシャンプーの匂いが色濃く漂っている。じっとりと、瞳と声を熱で湿らせて男の体へと寄り掛かって、ふと息を掛けて少しの下心を煽ってやると、ころりと理性の転がり落ちた音がした。そのままシャツを脱がされ、強い力で肩を掴まれる。
 部屋で二人きりになれれば、籠絡するのは易い。それから其処に付け入って崩す。情報を引き出すも善し、既成事実を盾に脅迫するも善し。思いのままだ。
 そう、相手があの男以外なら。
 乱暴に押し倒され、背に会議室の机の硬さを感じながら、瞼の裏に相棒の鮮烈な亜麻色の髪を思い描く。
 果たして君は今、生きているのだろうか。

     ◇ ◇ ◇

「先日は三件ほど襲撃が有りました」
「ふぅん?」
 中也は寝台の上で、バサリと読んでいた新聞をサイドテーブルへと放った。腹の傷の所為で体が鈍って仕方が無かったが、動けないことを理由に情報収集を怠る訳にはいかない。部下の報告に耳を傾ける。
 聞けば、襲撃はどれも中也のテリトリー内ではない。然し一般構成員の被害が少ない割に、その拠点を取り仕切る幹部がきっちり殺されているのが如何にも中也の気に掛かった。鉄砲玉なら兎も角、幹部級が殺害されるなど由々しき事態だ。無造作に報告書のコピーに目を通す。敵は逃がしたとのこと。
「上層部は大わらわか?」
「いえ、それが不思議なことにあまり……首領が抑えているようです」
 部下の不思議そうな声に、中也も首を傾げる。そんな、ポートマフィアを舐めたような行為、首領ならば即座に反撃に出そうなものだ。敵対した密輸入業者に、自分達双黒をぶつけたように。徹底的に潰すのが、最適解だとうっそり笑って。なのに今回はその動きが無い?
 この襲撃は――この襲撃に拠って幹部級の人間が殺されたことは、首領にとっての予定調和だったとでも云うのか。

 瞑目した中也の耳の奥に、不意に蘇る衣擦れのような声。
 ――名簿なら有る。安吾印のだ。
 腹の傷が疼いた。同時に中也は直感する。
 太宰の策だ。
 忽然と眼前に垂れた糸電話の糸の切れた片方を、反射的に手繰り寄せる。根拠など無かった。けれどそれは今から確かめに行けば善いことだ。飛び起きて外套を引っ掴む。
「中原さん!? 未だ安静にと、医者から……」
「構うな。安静に動くから問題無え」
「あんせいにうごく!? って何だ!?」
 思わず敬語の外れた部下の脛をすれ違いざまに蹴り飛ばし、中也は部屋の戸をがちゃりと開けた。動くと脂汗がじわりと滲み出たが、その程度のことには構っていられない。
 体を不調を押してでも、行かなければならない処が有った。

 訪れたのは、薄暗い、十二畳程度の執務室だった。昼間だと云うのに締め切ったカーテンが風に揺れもせずに垂れていて、唯でさえ日当たりの悪い部屋の空気が墓場の土のように澱んでいる。その地位の重要性から云えばもっと上等な部屋を割り当てられても善いのだろうに、部屋の主は断固として此処を動く意志を見せないらしい。
 曰く、情報員が目立って如何するんです。
「坂口安吾」
 その名を呼ぶ。執務机に掛けた人物の手元で、ぱたん、と帳簿が閉じられる。
「……来ると思っていました。中原中也君」
 落ち着き払った声音が、室内に染み渡った。中也は全身を強張らせて警戒を露わにする。異能さえ使われなければ坂口自身には然程脅威を感じない。然しその実力差を差し引いてなお、蠢く何かがその分厚いレンズの奥に在る。
「……驚かねえんだな。対外的には俺は未だ意識不明の重体だった筈だが」
「僕を誰だと思っているんです」さして自慢する風でもなく坂口安吾はさらりと告げる。「マフィアきっての情報屋だ」
「なら俺が欲しい物も判るな? 名簿を寄越せ、情報屋」
 中也は部屋の主をじろりと睨め付ける。然し返った答えは中也の想定とは異なっていた。眼鏡がくいと上げられて、歪んだ輪郭の向こうの黒い瞳と目が合う。
「お断りします」
「……あァ?」
 坂口の薄い唇が嫌味に持ち上げられる。
「何の名簿だか知りませんが、僕は首領直轄の情報員、君はただの一般構成員です。従う義理は――」
「彼奴の欠点は」そんな御託は聞きたくない。言葉の途中で遮ると、坂口の眉が不機嫌そうに寄せられる。知ったことではないが。「少し頭が回り過ぎる処だ。今回も恙無く目標の首を落とすんだろう。けどそれじゃあ、向こうの戦力は落ちねえ。手前等が負ってる仕事の二つを効率良くやるんなら、此方でも兵を動かす必要が有る」
 判るだろう、情報屋。「そして兵を動かす権限は、手前には無く、俺には有る」賢いアンタなら如何すべきか。坂口が、ひとつ深い溜め息を吐くのを聞く。
「もう一度云う。名簿を寄越せ、情報屋。彼奴の為に、だ」
 じっと中也は坂口を見た。坂口も中也を見た。それからちら、と視線をスライドさせ、詰まらなさそうな目を傍らの観葉植物の辺りに向ける。それで「ああ」と納得した。「命が惜しくねえなら殺してやるよ!」そう宣言して派手に異能を発動させると、ぱきん、と鉢の破片と一緒に壊れた機械がまろび出た。恐らくは盗聴器。首領か、或いは坂口の失脚を狙う何者かか。「――アンタも大変だな」「マァ、慣れてますよ」坂口が急に、肩の荷の下りたようにくすりと笑う。
「……まったく、君と太宰君のチェスの駒にされる人間は堪ったものじゃないですね。彼等に心底同情します」
 そう云いながら渡されたのは、A4用紙二枚の名簿だった。それは坂口安吾の作成した、首領への反逆を企てている者の目録だ。ぺらりと其処に書かれた名前を確認し、矢張りか、と中也は直感を確信に変える。
 矢張り先日の襲撃で殺された幹部は全員この名簿に載っている人間ばかりか。
 太宰は入り込んだ敵組織を使って、マフィア内の反逆者の粛清もやってのけていると云う訳だ。ならば此方も、相棒が動き易いようその舞台を整えてやるだけだ。
 端末を取り出し部下を呼び出す。
『はい』
「俺だ。今から云う拠点の人員の配置を減らせ。出来るだけ内密にだ。浮いた人間は近場の警備に付けろ」
『……襲撃が有ったのに、ですか』躊躇う部下の声。
「だからだよ。今晩も確実に襲撃は有る。幹部が殺されでもしたら、そのときは」幹部が殺されることを前提に。「鏖にしろ。俺も出る」
 そう告げると、部下は案外素直に頷いた。伊達に長く、中也の――太宰の側で動く中也の部下をやっている訳ではない。幾つか指示を出してから通話を切る。物分かりの良い部下を持つと何かと助かるものだ。端末を仕舞う。

「……君には迷いが無いのですね」
 唐突な坂口の問いに、「迷いィ?」と中也は片眉を跳ね上げた。何を云い出すのか。見れば坂口が顔に浮かべているのは、純粋な疑問の感情だ。
「だってそうでしょう? 君は太宰君に刺されたと聞きます。なのに、彼が裏切ったんじゃないと、如何して云い切れるんです。どうせ彼からは何も聞いていないのでしょう? 如何して、彼が他の組織に在って、ポートマフィアの利益の為に動いていると判るんです」
 中也はその問いに少し考える。そうだ。太宰からは何も聞いていない。側に居ない現状では、あの男が何を考えているのかも判らない。これは凡て中也の推測だ。
「……判らねえよ」自嘲する。「彼奴のことなんざ、何一つ判らねえ。今もこうやって探り探りだ。苛々する。彼奴がどんな意図で動いていようと、首根っこ引っ掴んで引き摺り戻さなきゃ気が済まねえ」
 そうだ。太宰の意図だとか、そんなものは如何だって善い。どうせ全部気紛れだ。中也を刺したのだって、発作のようなもの。
 だったらお望み通り、ぼこぼこにしてやるだけだ。
 何故ならそれは。
「俺が、彼奴の相棒だからだ」
 吐き出すように告げて、中也は部屋を後にした。
 
「ああ、訊くんじゃありませんでした……」ばたん、と扉の閉まった後で、坂口は独り言ちた。「のろけなど、この世で最も価値の無い情報の一つですよ。中原君」

     ◇ ◇ ◇

 じ、と太宰は煙草の先に火を点けた。煙が喉に染みる。先刻まで酷使していたから当然なのだけれど。少し噎せながら「あ」と発声しても出るのはひどい声嗄れだけ。がっつき過ぎでしょ。体中、べたべたとしていて気持ち悪い。
 先日、会議室で自分に無体を働いた補佐役派閥の男を思い出す。否、顔は良く思い出せなかったけれど、痕だけは残っていたから御蔭でバレて散々な目に遭った。頭首の男に突かれながら誰にやられたと問われたから、勿論正直に告げた。「補佐役の部下の、あの男に無理矢理」と。今頃頭首は、自分の物に手を出された不信感でいっぱいだろう。ふーっと紫煙を吐き出す。煙草の方が、飲み込んだ液体よりずっと美味しい。当然だ、相棒とのキスの味だもの。そうしてまた、煙を口の中で転がす。
 その頭首は、今まさに傍らで、部下の報告を受けている処だった。
「今晩の襲撃、三件中一件が壊滅状態です。味方はほぼ凡て死亡、生き残った者も損傷がひどく、意識の無い状態で……」
「何ィ!?」
 ――来た。
 太宰は寝台の中で瞑目した。
 太宰が指示した戦力量ならば、多少の損害は有れど壊滅と云うことは無い筈だ。本来ならば。何か、圧倒的な場違いじみた怪獣に、一気に潰されでもしない限りは。
 例えば中原中也とか。
「……ふふ」
 矢っ張り生きてたんだ。ぱちりと一つ瞬く。途端、ぼんやりとした電球色の灯りに照らされていた室内が、くっきりと輪郭を縁取られたような錯覚が有る。窓から入る夜風に揺れる、カーテンの衣擦れ。その向こうに見える、木々のざわめき、星の煌き。日の沈んだ後の湿った匂い。
 嗚呼、夜の空気はこんなにも美しい。
 急速に呼吸を取り戻し始めた世界を堪能していると、強い力で寝台に押し付けられて突然首を絞められた。何、と顔を顰めるけれど、息が詰まって上手く出来ない。
「ッぐ……や、ぅ……」
「貴様の、貴様の作戦の所為で! 俺の部下が!」
「私の所為……?」ふふ、と笑う。ぽろ、と口元から零れた煙草が、うっかりシーツを焼いてしまわないかだけが心配だった。頸を絞める腕に、手を這わせる。「わ、たしは……私が持っていた情報を元に、作戦を立てただけだけど……?」
 困惑を隠す――仕草をしながら、心の中で舌を打つ。
 この男に絞められても、ちっとも興奮しない。駄目だ。てんでなってない。力を掛けるばっかりで、気道が上手く塞がっていないのだ。御蔭で何とか息が出来てしまっている。下手糞、と太宰は内心悪し様に罵る。
 扼殺にはコツが要る。もっと、気道を塞ぐように。
 確実に息を止めて呉れないといけない。
 射殺す勢いで貫いてくる、あの凶悪な金の瞳のように。
「私を責めるのは、筋違いじゃない……? そうでしょ? 相手の戦力が私の知ってる通りなら、壊滅なんてことは無かったのに」一瞬瞼の裏に思い描いた色をゆっくりと掻き消して、太宰はなおも囁く。「私が抜けてからのマフィアの戦力の変動を、誰かが故意に隠したんだ。貴方の近くの人間が、私を嵌めようとしてるのかな……」
 その言葉に、男がはっと我に返る素振りを見せた。「あの野郎……」普段なら太宰に疑いの目が向くのだろう。然し今は違った。そうそう。頭首の男が頭に思い描いた人物が手に取るように判って、太宰は笑う。そう、あの男は信用ならないでしょう、何せこの間自分の物に無断で手を出した男だ。
「私、未だ会ったこと無いんだけど、その内通者ってのと直接話す必要が有るんじゃない……?」
 漸く首に置かれた手の力が緩む。げほ、と咳き込んでいる内に、男が怒ったように出て行ったから、太宰は慌てて着衣を身に纏った。風呂は後だ、仕方無い。せめて臭いだけはと香水で紛らわせる。これから内通者を呼び出すのなら、録画でも録音でもしないといけない。きっと向こうで必要になるだろうから。
 何せ反逆を企てていたとは云え、マフィアにとっては身内が殺されたのだ、落とし前をつける必要が有る。そして内通者にはその役割を担って貰わないといけない。内通している証拠が取れたら、上手く安吾にでも渡そう。
 それか、この作戦に感付いた誰かさんにでも善い。
 この先のことを考えると、鼻歌でも歌い出せそうなほど愉しかった。
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