【再録】When They Were There.
エピローグ
その晩、俺は夢を見た。太宰の夢だった。
正確には、俺が太宰にこう云うのだ。明日、あの丘で待ってる。必ず来いよ。そして太宰は、判った、とこくりと頷く。
次の日、太宰は来なかった。
次の日も、その次の日も、太宰は来なかった。俺は晴れの日も、雨の日も、風の日も、毎日丘を訪れては太宰を待ち続けていた。理由の判らない焦燥の中で、急に視界が暗転する。瞼の裏が、真っ赤な血の色に染まる。
「――!」
俺はその名を叫びながら飛び起きた。あまりに勢い良く起きたものだから、寝台から落ち、がんと膝を強かに打ってしまう。痛みの為に、一瞬息を詰める。
膝を押さえる俺の手の平には、じっとりと汗が滲んでいた。
「ねえ、何処行くの?」
「手前に良いモン見せてやんだよ。どうせ手前、此処に来たことなんざ一度も無えんだろ」
「……ふふ。良く知ってるね」
次の朝、俺は太宰の手を引きながら、丘を空へと登っていた。空は今日も御機嫌なホリゾン・ブルーだ。さくさくと、足元で朝露に濡れた草が擦れ合う。太宰は何も云わない。ただ、繋いだ手から熱さが伝わって、じわりと体温が交じり合う。潮の匂いを含んだ柔らかい風が、俺達の間を過ぎ去って行く。
約束の丘。
其処には海を見下ろすように、寂れた墓が一つ在る。誰からも忘れ去られたまま、来ぬ人を待ち続ける墓。その裏には、待てども待てども来なかった、約束の人に宛てた手紙の一文が彫られている、とはあの婆さんの言葉だ。
若し読まれなかったら、と墓の下の彼は生前に云ったらしい。若し俺が死ぬまでの間に、この手紙が読まれなかったら、きっとこの言葉を俺の墓に確りと刻んで於いてくれ。そうしたら、彼奴は何時だって読みに来れるだろう。そう云った彼が本当に逝ってしまうまで、相手の男は終ぞこの丘に姿を現すことは無かったと云う。
この丘には、ただ約束だけが置き去りにされていた。
最初に見たときには、果たしてその一文が誰に何を宛てたものなのか、俺にはとんと判らなかった。けれど今の俺になら、その意味が判る。
俺は太宰の手を引いて、その墓の前に立った。それからぐるりと後ろに回って、土汚れを払う。長い間潮風に曝されていた所為か、風化が激しい。それでも、何とか読める状態にする。現れた文字の前に、「ほら」と太宰を押し出す。
太宰の目が、石に彫られた文字をなぞる。太宰のくちびるに、その言葉が静かに乗せられる。
『手前より先に逝くことを、如何か許せよ、相棒』
は、と太宰が息を飲んだのが判った。俺にはその価値は判らなかったが、それだけで多分、此奴には十分だったんだろう。彼等の間には、多分、他にどんな言葉も要らない。
「許すも何も。君を恨んだことなんて、一度だって――」
太宰はそう呟き、じっと瞑目したまま動かない。
俺は、太宰から離れてゆっくりと墓の正面に回った。其処に眠っているであろう人物に、そっと心の中で呼び掛ける。
なあ、聞こえてるか。アンタの大事な相棒、ちゃんと連れて来てやったからな。
俺は其処に刻まれた名に、帽子を脱いで深く頭を垂れる。
『中原中也、此処に眠る――』
其処に刻まれていたのは、俺の知らない男の名前だった。
きっと、太宰がずっとずっと想い続けていた男の名。
「……あーあ、手前等どっちも、結局死んだ後だって、互いのことばっかなんじゃねえか」
帽子を被り直して太宰を見ると、太宰はその顔を微かに綻ばせていた。今まで見たことの無いような、擽ったそうな、それでいて凪いだ海を思わせる穏やかな笑みだ。「そっか。そっか……」愛おしげに呟かれたその言葉は、今にも青空に溶けて行きそうだ。
「おい、太宰」
俺は咄嗟に、太宰の手を掴んだ。その肌に、既に体温は無い。
徐々に、太宰の存在が薄れて行く。太陽の光がその体を透き通り、地面に落ちる影が、まるで水を通したように揺らめく。彼特有の、存在の希薄さが戻って来る。
太宰の姿が、消え始めていた。
「……いくのか」
「うん。もういかなきゃ」太宰が、眉尻を下げて笑う。「如何やら、相棒が待って呉れてるみたいだから」
「……そうか」
名残惜しくないと云えば嘘になる。生きてるとか、死んでるとか。そんなもの関係無く、きっと好い関係になれると思っていた。けれど実際、俺は太宰の相棒にはなれなかった。太宰には、もう既にその身を待って呉れている人間が居た。それだけのことだ。
見上げた空は、何処までも遠い。
「良かったじゃねえか、或る意味、自殺嗜癖の手前が一番望んだ展開だろ。ま、俺ももう手前のその鬱陶しい面を見ないで済むと思うとせいせいす――」
その続きを云うことは叶わなかった。ふわりと、太宰に抱き締められたからだ。在る筈の無い、甘い煙草の匂いがする。
煙草は変わらず好かないが、此奴から漂う煙草の匂いは、案外嫌いじゃあなかったな、と俺は静かに目を閉じた。
抱き締められる力が弱くなる。鼓動の音が、薄れる。
「ありがと、■■■■、」
さよなら。最後に俺の名を呼んだその声は、太宰の姿と共に、波の合間にただひっそりと掻き消えた。
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