【再録】When They Were There.
3
ふら、と屋敷の裏手に在る丘に立ち寄ったのは、単なる気紛れだった。作戦と罠の配置の最終確認だ。手前の部下の仕事を疑う訳では勿論無かったが、その仕事振りを事前に見ておくのも、悪くないと思ったのだ。
丘の上からは、海が一望出来た。大きな水溜まりに沈み行く太陽が、ゆらゆらと揺れて、空を橙に染め上げている。丘の上を見渡すように立った俺は、傍らに、その夕陽を偏に浴びる、苔生した大ぶりの石の在ることに気付いた。
何か文字が刻まれている、石。……いや、墓、か?
「それはね。昔マフィアに居た子の墓だよ」
嗄れた声に振り返ると、其処には見知った老婆が花を手にして立っていた。俺はん、と記憶を手繰る。この街に初めて足を踏み入れたときに、林檎を呉れた婆さんだ。携えられた白百合の花束から、ふわりと花の香りが漂う。
「如何した、婆さん。此処は危ないぜ」
「危ないことなんて在るもんかね」老婆は『墓』に花を供え、手を合わせてから振り返る。「まさか坊やも、幽霊なんぞの話を信じとるんか」
「まさか」
肩を竦める。同時に、何時か聞いた噂を思い出す。
「何だっけ、逢引きの約束が果たせなくて、夜な夜な化けて出て来るんだっけ?」
「そうだねェ。今の若いモンの間では、そう伝わってるみだいだね」老婆は、至極愉快そうに肩を震わせた。「その、待ってた方の子の墓だよ、これは。最も、逢引きなんてそんなロマンチックなもんじゃなかったけどねェ。あの莫迦共、好き合ってることすら自覚してなかったろうから」
「婆さん、其奴等のこと知ってンのかよ」
「ああ、よぉく知ってるよ」まるで昔を懐かしむかのような口調だった。海をじっと見つめる老婆の脳裏には、きっと当時の光景が、ありありと蘇っていのだろう。
「アンタも漢前だけど、待ってた方の子は特別二枚目でねえ。アタシゃ何度も交際を申し込んだんだけど、アレは頑として首を縦に振らなかった。自分には彼奴だけで手一杯だ、なんて。……結局、その相手は待ち合わせには来なかったが」
俺はこじんまりとした墓石を覗き込む。俺の知らない名前が、其処には刻み込まれていた。
「裏を見てご覧。約束したは良いものの、待てども待てども来なかったモンだから、あの子は最期に手紙を託して行ったんだよ。彼奴はきっと来るから、俺が死んだら此処に墓を立てて、それに刻んで於いてくれとね。……その内抗争が激化して、本当に命を落としちまった。だから遺言通り、其処に埋めてやったのさ」
「ふぅん」
俺は云われるままに、墓石の裏を覗き込む。
「……結局来なかった子の方は、一体如何したんだろうね」
裏に刻まれたその一文は、恋人に宛てるには、些か勇ましすぎる文である気もした。
「だからね、此処をあんまり戦場にして欲しくないんだよ。その子達はせめて、安らかに眠らせてやって呉れないか」
その言葉に、俺は舌を巻いた。本当に、この街の住人は察しが良すぎる。
老婆に敬意を表して、俺はその墓に静かに脱帽した。
「努力するよ」
◇ ◇ ◇
「……ん」
屋敷に向かう足を、俺はぴたりと止めた。仕事帰りの、人も既に寝静まり、ただ波の音だけが響く夜半だ。星が今にも降って来そうな夜とは云え、地上は空と比べてまだまだ昏い。揺蕩う海が光を飲み込み、暗闇を映し出している。
だと云うのに、目の端にちらりと灯りが映ったように見えたのだ。俺は屋敷への坂道を少し戻り、脇に逸れる道を覗き込む。道、と云えるほどの轍も無い。鬱蒼と茂った木々が、真夜中のその先を益々暗黒たらしめている。然し、それを僅かに掻き分けて行くと、確かにちろちろと揺れるランプの光が見えた。建物の影が在る。こじんまりとした小屋で、灯りはなるほどその中から漏れているようだった。
昏い夜の中で、その小屋だけが夢の国から切り取られて来たかのように薄ぼんやりと存在している。人も居ない筈なのに、何ともおかしなことだった。
「あんな処に、小屋なんか在ったか……?」
然し、不思議と警戒心は働かなかった。誘われるように、足を踏み出す。一歩、二歩。三歩目を踏み出しかけた処で、唐突に背後から声が掛かった。
「ねえ」
正直、心臓が喉から飛び出るくらいには驚いた。気配も何も無かったからだ。びくりと体を震わせるだけで済んだのは僥倖だったとしか云い様が無い。反射的に銃を抜きそうになる手を抑える。いきなり肩を叩かずに、前以て声を掛けたのは、きっと此奴なりの礼儀だ。あまり格好の悪い処を見せずに済んで良かった、と俺はひっそりと溜め息を吐く。
「……太宰。珍しいな、手前がこんな処に居るのは」
声を抑えて振り返ると、其処には予想通り、長身の男がふらりと立っていた。太宰、太宰治。この男には不思議と夜が好く似合う、と知ったのは極最近のことだ。星の落ちて来る夜空を背に、その藍に溶けるように立つ太宰。穏やかに微笑むその瞳は、星の海に寄せる波そのものだ。光の吸い込まれる暗闇の中で、太宰の表情だけは不思議と良く見えた。
その太宰が、薄っすらと口を開く。
「それで、大事な話ってなに?」
「大事な話?」
そんな話をしていただろうか、或いは、そんな話をすると約束していただろうか。記憶に無い唐突な問い掛けに、俺はどきりと胸を震わせた。別に疚しいことなんざ無い。ただ、その問い掛けをする太宰の表情が何時に無く真剣だったから、思わず息を飲んだだけだ。夜の海の色をした目が、見透かすように此方をじっと見つめる。
「今此処でしてよ。だったら、あの丘に行かなくて済むでしょ」
「……何の話だ?」
「ねえ、お願いだから、私をひとりにしないで」
「太宰、なあ、太宰」
俺を見ているようで居て、その実俺を通して何処か遠くを見ている太宰を、俺は思わず乱暴に掴んだ。その華奢な躰を前後に揺さぶる。
「それ、俺と、話したことか?」
記憶違いじゃないか、と俺は太宰を揺さぶった。ぼやりと海に浮かぶ海月のように漂っていた視線が、はっと俺を見て、周囲を見回す。それから目の覚めたように、太宰はことんと首を傾げた。
「私、今何て云ってた?」と太宰が怪訝そうな顔をする。俺は今太宰の云ったことをすべて復唱しようとして、少し考え、「……『私をひとりにしないで』だとよ」敢えて其処だけを選んで伝えた。悪戯心半分、もう半分は、きっと怖くて聞けなかったからだ。俺じゃない、誰か他の奴と此奴がしていた約束の話を、聞くのが怖かった。だから触れなかった。
太宰は俺の言葉をゆっくりと咀嚼した後、は、とまるで生娘のようにかあっと耳まで赤くして、「そ、の恥ずかしい言葉、無かったことに、して呉れないかな……」と消え入る声と共に縮こまった。ちり、と胸が痛む。
俺だったら。俺だったら、此奴をひとりになんてしないだろう。胸を焦がすこの感情は、きっと嫉妬だ。それが判るから、ひどく苛立たしく、然りとてその感情を太宰にぶつける訳にもいかず、俺は太宰から目を逸らした。
「そう、ひとつ、如何しても君にお願いしたいことが在って」
暫くして落ち着いて来たのか、太宰が俺の方へと向き直った。その目元は涼しさを取り戻していて、先程の動揺は欠片も見当たらない。それでも念を押して、確認する。「俺に、か?」「君に、だ」宵闇の中で、熱っぽい視線が此方に向く。
「明日、明日はそう、何日だっけ」
俺は腕時計を確認する。時刻は零時を過ぎていて、日付の窓には『20』の数字が覗いている。
「もう今日になっちまったが」俺は答える。「二十日だ」
「だよね。今日、あの丘に行かないで欲しいんだ」
「あの丘って、あの、ちっせえ墓の在る丘か?」此処らで丘と云われれば、俗に約束の丘と呼ばれている、屋敷の裏のあの丘しか俺には思い浮かばなかった。然し太宰は首を傾げる。
「墓……? そんなもの在った? いや知らないけど、まあ多分、兎に角其処だ」知らねえのかよ、と俺は眉間に皺を寄せた。あの墓が幾らひっそりと在るとは云え、太宰がこの街のことで把握していないことが在るなんて珍しい。「其処に行かないで」
しかも、今回の作戦の要所に行くなと云う。
「……幾ら手前の頼みでも、そいつは出来ねえ相談だ」
「なんで」
「逆に、なんで駄目なんだよ」苛立ちを出来る限り抑え、俺は淡々と言葉を吐く。「俺達は、奴等を壊滅させる為にあの丘で罠を張って奇襲しなきゃなんねえ。それを止める合理的な理由が手前に在るか?」
「君を殺させたくないんだ」
一瞬、空気が水を打ったように静かになった。
「……俺が、あんな奴らに負けると?」
「奴らはね、君が一人で居る処を狙って来るんだ。君が幾ら強いとは云っても、一人じゃ無謀でしょう」太宰は懇願するように云う。「ねえ、お願いだよ、私のことなんか忘れてくれて善いから」
「……太宰。手前、疲れてんじゃねえのか」
云ってることが支離滅裂だ。今日はもう帰って寝たら如何だ。そう云いかけて、はたと気付く。
俺は、太宰の帰る家を知らない。
俺は太宰を見た。太宰は寂しそうに微笑むのみだ。
「……ちっ」
俺は数秒迷った末、外套から携帯端末を取り出した。操作三つで部下を呼び出す。
「……俺だ。明日の作戦を変更する。あの丘じゃなく、奴等の本部を直接叩くぞ。ああ、作戦時刻を二時間早め……あァ? 甘えたこと云ってんじゃねえぞ、手前等なら出来るだろうがそンくらい……」
そんな急に、無理ですよぉ、と泣き付く部下を言葉の勢いのみで叩き伏せ、それから作戦の詳細を出来るだけ詰める。ぴっと通話終了の電子音が響くまで、太宰は無言だった。俺は苦々しく振り返る。何故自分は、こんな奴に良いように振り回されているのか。
「これで満足かよ」
「うん」
太宰は笑った。その笑顔は、満たされたものとは程遠い、まるで欠けた月のような、薄っすらとした儚さのみを宿していた。幾つか嫌味を並べ立てようとしていた俺は、その姿を目にして言葉に詰まる。
「……ねえ、絶対、生きて帰って来てね。私は此処で、ずっと待ってるから」
◇ ◇ ◇
ぱん、と銃声が響いた。それで、全部終わってしまった。
三体の死体と一緒に、代わり映えのしない、街中の民家の一室に俺は居た。だから嫌だったのだ、と俺は独り言ちる。少し待てば、此奴等が奇襲を仕掛けて来ることは判っていた。あの丘なら、誰にも被害は及ばない。正面衝突には、持って来いだった。俺は足元に転がった死体を蹴り飛ばしながら、「大体、手前等がこの街なんか狙うからこんな面倒臭えことになる」、悪態を吐く。靴にべとりと血糊が付く。
こんな昼日中から、街中でドンパチなんざ起こしたものだから、きっと民間人にも被害が出たことだろう。死人が出てなけりゃ良いが。俺はこの街に来てから世話になった人間の顔を一人ひとり思い出しながら、端末の通話釦を押す。程無くして、外で残党を狩っているだろう部下が出た。
「俺だ。被害は?」
『ありま……うわ、ちょっと貴方達未だ出て来ちゃ駄目、』
『ねえ、ちょっと! お兄さん、彼奴等やっつけて呉れた!?』
『アタシらのことは気にせず、存分に叩きのめして呉れて善いんだからね!』
電話口から突然聞こえた呑気な声に、俺は思わず苦笑した。幾ら此奴等が罪も無い善良な市民を大勢殺しているからと云って、それは俺達が此奴等を殺して善いことの正当な理由には成り得ない。俺達は所詮、人殺しだ。それを肯定して貰っては困るのだ。善良な一般市民は一般市民らしく、ただ何も考えず人殺しの罪をマフィアに負わせておけば善い。
「……善いから、もうちょっと家から出るんじゃねえぞ。流れ弾に中っても知らねーからな」
笑って終話釦を押す俺の耳に、唐突に蘇る一つの言葉。
『私をひとりに、しないで』
「……太宰?」
俺は振り返る。其処には誰も居なかった。
当然、呼び掛けに対する返答も無く、ただ打ち寄せる波の音が何処か遠くに聞こえていた。
◇ ◇ ◇
「太宰!」
俺は入り口の錆びた錠を蹴破って、その寂れた小屋に飛び込んだ。彼奴が居るとしたらもう此処しか無いと、方々の心当たりを探し回った、その最後の選択肢だった。あの夜に、太宰と会った小屋だ。あの日と同じように、日はもうとっぷりと暮れていた。だから、太宰が居るような気がしていた。
然し、其処に太宰は居なかった。
部屋にして十畳ほどの、手狭な小屋だった。虫も寝静まる夜更けであるにも拘らず、小屋の隅ではゆらゆらとランプが灯っている。一人分の影が、その炎に合わせて壁に映ってゆらりと揺れる。太宰どころか、誰も居ない。
と、小屋の隅に青いビニールシートに覆われた何かを見つける。否、青、と表現するには些か元の染料の色が褪せていて、こびり着いた泥の色が濃い。まるで何年も使い古されたかのような其処だけが、時間に置き去りにされて土埃に埋もれ、薄汚れていた。
それが、人一人分くらいの大きさに膨れている。
俺はその汚れたビニールシートを思い切り引き剥がした。
白骨死体が其処には在った。
俺はその黴の生えた空気に、思わず口を押さえて一歩後退る。死体に慣れていない訳ではない。寧ろ死体の山を築くのが仕事の一つと云っても善いくらいだ。けれど、血と肉の付いた未だ体温の残る死体と、それらが全て虫と土に食われ、ただ眼窩が黒々と空き、吸い込まれるような真っ黒い穴が此方を見据えている死体では、どうも勝手が違うようだった。過去の遺物がぎょろりと容赦無く俺を見据える。手と足と思わしき部位には、無造作に鉄の枷が転がっていて、それが壁に繋がれていることが、この人物が死ぬまで此処に監禁されていたことを暗に示していた。
そのときふと、俺は骨の傍らに落ちている金属の欠片を見つけた。まあるいブローチのような、夜空を閉じ込めた青の石の嵌め込まれた留め具だ。俺は目を瞬く。それは、そう、あの男が何時も身に着けているループタイの一部に、色も形も良く似ていた。然しそれにしては、風化が酷い。まるで何十年も、この場所に置き去りにされていたかのように、縁がぼろぼろに欠けている。……なら。この死体は。
「そっかあ」
がたん、と背後で壊れた扉が軋んだ。振り返ると、其処には静かに太宰が立っていた。一瞬、夜の音が無に還る。虫の音も、遠くに寄せる波の音も、ランプの火の揺らめく音さえも、皆が皆しんと黙った。聞こえるのは、俺の息の音だけだ。
何故だか、太宰にその死体を見せてはいけない気がした。そうしてビニールシートを翻そうとした俺の手を、太宰が無言で制する。傍らに歩み寄り、じっとその白骨死体を見つめる太宰。その表情には、何処か諦めが漂っている。
そうして太宰が、静かに口を開いた。
「これ、私なんだね」
「……何、云ってやがる」
非現実的だ。有り得ない。喉から出る声が、掠れる。
「道理で何回やっても死ねない訳だ。ねえ、知ってる? 首吊りは数十秒間、脳への血液の供給が止まっただけでも脳に重大な障害を残すんだ。だと云うの私と来たら、君と初めて出会ったときなんて四半刻も縄にぶら下がっていたと云うのに、こうしてピンピンしている」
ランプの灯りが、太宰の透き通る肌を照らす。病的なまでのその白さは、まるで死人のそれだ。「……それもその筈だ。もう死んでるんだから」太宰の囁きが、湿った小屋を満たす。
太宰はしゃがみ込んで、その髑髏を拾い上げた。太宰のほっそりとした手に収まる頭蓋は、何処か小さく見える。「ほら、私」とそんな、顔の横に並べて比べられても、判る訳無えだろうが、と俺は呆れを滲ませて吐き捨てた。そうするしか、他に反応の仕様が無かった。四つの目が、此方をじっと見つめる。
太宰は、何処か他人事のようにぽつりと呟いた。目が覚めたとき、如何にもお腹が空いていたから、きっと栄養失調か餓死だったんだろうなあ、可哀想になあ。独り言のように言の葉を口にする、その表情は何処までも平坦だ。
「そうそう、段々思い出して来た。私はその当時敵対していた組織に、攫われて此処に閉じ込められてね。ひどく怖くなったことを覚えている」淡々と、太宰は過去を語る。「何が怖かったってね、小屋が真っ暗闇なことだとか、散々辱めを受けたことだとか、此処でこのまま死ぬことだとか。そんなことは怖くなかった。けれど私、そのときに聞いてしまったんだよね。明朝、私たちの組織に一斉に奇襲を掛けるって。聞いてしまったのに、それを伝えられずに、彼が殺されてしまうのだと云うことが怖かった」
太宰は彼、と云った。ふわりとした親愛の真綿で何重にも包み、愛おしそうに、その言葉を呼ぶ。
「そう、大事な人がね、居たんだ」
そう口ずさむたび、ふ、と太宰の顔が緩む。
「私の云うことなんて、ちっとも聞きやしない、頑固な奴でね。あの前の日に、勝手にあの丘で待ってるなんて約束を一方的に取り付けて行って、でも私は攫われて行けなくて」
そう、彼はちょっと君に似てたな。笑いながら云われ、ずきりと胸が痛む。何となく、予感はしていた。太宰が本当に助言したかったのは、俺ではなく他の誰かだったこと。
そんな俺の内心など構わず、太宰は続ける。その目には、涙の一つも浮かべず、ただ長い睫毛を瞬かせるのみだ。
「彼に会いにも行けなかったし、彼に危機を報せることも出来なかった。彼のことだから、きっと私のことを一晩くらいは待っただろう。若しかしたら、そのときに襲われたのかも知れない。……いいや、そうに違いない。彼は強かったから。……強かったけれど、私が生きている間にこの小屋には来なかったから、きっと命を落としてしまったのだろうね」
若しかしたら、と太宰は密やかにその可能性を口にする。若しかしたら、私を待っていた所為で命を落としてしまったのかも知れない。部下と一緒だったら切り抜けられただろうその場面で、私を待つ為だけに一人で居たのだろうから。
「それだけが、心残りだった」
何時の間にか、窓の外では朝日がぼやりと昇り出していた。空気が白む。
「きっと怒っているだろうな。恨んでいるだろうなあ」
それが太宰を、此処に縛り付けているのだ。俺は静かに瞑目した。此処に縛り付けられた此奴を、解放してやれたら、どんなにか良いことだろう。「彼を、助けてあげたかったんだ」太宰の声が、悲痛に聞こえる。
でもね、と太宰は、此処でこの物語は終いだとでも云う風にその外套を翻した。窓際に置いてあった、ランプの灯りをふっと消す。朝日の差し込む中で、太宰はひっそりと、寂しそうに笑った。
「だからこそ、君が生きて、此処に戻って来て呉れて、本当に良かったと、そう思ったんだ。彼は救えなかったけれど、君は生きて呉れている。それがとても、嬉しかったんだよ」