【再録】あの日とそのあと
あの日
なんてこともあったよな、とキバナは自嘲気味に相手に語りかけた。そうだなとあるはずの相槌は返ってこない。
がらんとした病室に響くのは、ピッ、ピッ、と無機質なモニターの電子音だけだ。
ムゲンダイナに敗れたチャンピオン・ダンデは、一晩明けてもまだ目を覚さない。
昨晩の判断を、間違っていたとは思わない。
「おい、あれ……!」
「ナックルシティのスタジアムじゃないか……⁉︎」
ローズの宣言と共に、各地のパワースポットが暴走したのを目にした瞬間、キバナは客席から弾かれたように立ち上がっていた。
「ルリナ、悪い。コイツをダンデに届けてやってくれないか」一緒にチャンピオンマッチを観戦していたバウのジムリーダーに預けたのはドラメシヤだ。ダンデとは顔見知りだから、案内くらいはできるだろう。「こんな状況でアイツに道に迷われると厄介だ。バウも怪しいとこ悪いが」
「わかった。お互い気をつけましょう」
「ああ——フライゴンッ」
客席から直に飛び立ち、ナックルまで全力で飛ばす。空は赤みを帯びて澱み、雲が不気味にエネルギーを溜め込んで終末の様相を呈していた。しかし雪が降っていなかったのは幸運だった。お陰でナックルまで最短ルートだ。フライゴンには無理をさせたが、フライゴンにも緊急事態だということは伝わったのか、懸命に飛んでくれたのが誇らしかった。リザードンもすぐに追ってくるだろう。
十番道路を抜けた瞬間、ナックル城の上空に禍々しいポケモンの気配を感じた。
キバナはそれを一瞥し——しかしすぐ街に視線を戻す。
住民の避難が先だ。
フライゴンで降り立つと、気づいたジムトレーナーの一人が駆け寄ってくる。
「キバナ様! よかった、今街中大混乱で……」
「まず状況報告!」
ピシャリと告げれば、ジムトレーナーが慌ててピシリと背筋を伸ばす。
「はッ……はい! 現在ジムメンバー総出で住民の避難に当たっています! ただダイマックスしたポケモンの相手をしながらなので、今どれだけ避難が進んでいるか把握できるほど統制が取れていません!」
「オーケー、わかった! 上出来だ!」
キバナは素早く思考を巡らせた。幸い街を見てもダイマックスポケモンが闊歩している割に大きな混乱になっていないのは常日頃からの避難訓練の成果だろう。ナックルシティで主に想定される災害は二つある。一つは自然災害なんかで街が被害を受けた際、ナックル城を避難場所とするケース。もう一つは——ナックル城の地下プラントで何か事故があった際に、街の外に避難するケースだ。
「よし、これから指揮はオレさまが取る、ジム関係者は三チームに分かれろ! 二チームはそれぞれ街の東・西エリアを担当して各両側の道路に避難誘導と状況報告、残り一チームはワイルドエリアからのポケモンを警戒! 街中でダイマックスしたヤツは——」
右手に三つと左手に二つ、ボールを構える。
複数体バトルは得意分野だ。
「オレさまたちが対処する!」
今日はあいにくチャンピオンマッチにも参加していないのでどいつも元気いっぱいだ。休ませているフライゴンを除く五体それぞれに指示を出して散開させる。
そのとき、キョダイマックスしたジュラルドンの向こう側、遥か遠くからの豆粒大の何かの飛来を視認した。
ダンデだ、とキバナは確信する。
果たしてリザードンとその主は、浮遊する未知のポケモンを視界に捉え、ゆっくりとその周囲を旋回し——しかし直接ナックル城の屋上には降りず、スッと降下してきた。
キバナのところに向かって。
「ダンデ」
リザードンを降りたダンデと視線を交わす。
それだけで十分だった。
「下は任せていいか」
「ああ」
短いやり取りだった。だが互いにやるべきことははっきりしていた。
キバナが下で住民を避難させ。
ダンデが上で問題のポケモンを押さえる。
キバナの気が改めて引き締まる。ダンデに任されたのだ。一人の怪我人も出すわけにはいかない。
そのときのキバナは、己の感情をダンデへの信頼であると位置づけていた。
背中をキバナに任せておけば、人的被害を気にせず謎のポケモンと戦うことに集中できる、とダンデがキバナに信頼を置くように。
謎のポケモンをダンデに任せておけば、速やかに鎮圧することができるだろう、という信頼。
だが今は信頼と慢心の区別がつかない。
「キバナさんッ!」
「助けてくれ、アニキが」
泣きそうな顔をした子どもたちが降りてきたのを見て心臓の凍りついた感触を、今でもまざまざと思い出せる。
命に別状はないのが不幸中の幸いだった。
だがいつ意識が戻るかは定かでない。
「大丈夫だ」
キバナはそう口にするしかなかった。真っ青になって震えながら、それでも痛々しい姿で病院のベッドに横たわる英雄から視線を逸らせないでいる子どもたちの肩をポンポンと撫でて笑う。
「オマエの兄貴は強いだろ? だからきっと大丈夫だよ」
その言葉が空虚に響くことは、キバナが誰よりもよく理解していた。だが、だからと言って子どもたちを心配させるわけにはいかなかった。
それはきっとダンデの望むところでもなかっただろうから。
「オレさまがついてるから、オマエたちも休みな。そんなひどい顔で、ダンデが起きたら心配させてしまうだろ」
病室から送り出し、深く長く息を吐く。明日にはハロンの家族も来ると言う。早く目を覚ませよ、ダンデ、と固く閉じられた瞼をじっと見る。ここにはオマエを愛し、オマエの無事を願ってやまない人間がたくさんいるんだ。
「キバナくん」
「……カブさん」
ガラリと横開きのドアの向こうから差し込む夕焼けと共に現れたのは、エンジンのジムリーダーだった。他のジムリーダーを代表して、ホップに頼まれて様子を見にきたのだろうかと思う。キバナは流れで入ってしまったが、一応家族の了解を取らないと入室できないものらしい。
猫背気味に座り込んだ姿勢から顔を上げると、気遣わしげなカブと視線が合った。
「ひどい顔だ。少し休んだ方がいい」
いつもなら、労りに満ちたカブの声は、キバナを鼓舞し励ますものであったはずだ。
けれどキバナは頑なに首を横に振った。
「いえ、いいです。体キツいのは慣れてるんで」
「……。ダンデなら、きっと大丈夫だよ」
その言葉に、キバナはハッとして年長のジムリーダーの顔を見た。
大丈夫。
その言葉が空虚に響くことは、誰よりもカブがよく理解しているのだろう。
それでも、そう言うしかない。
「きっと大丈夫だよ、キバナくん」
う、とバンダナを握り締めてずり下ろす。情けない顔を見られたくはなかった
「じゃあ少し、お願いします。……夜には戻るんで」
一人になりたくて、立入禁止になっている病院の屋上にこっそり空から忍び込んだ。
コンクリートで固めた床に大の字で寝そべると、穏やかに日の落ちていく中で気の早い星が微かに瞬き始めているのが見える。雲がゆったりと流れている。香ばしい匂いが漂ってくるのは、街のどこかで夕食の支度が始まっているからだろうか。
(……もし)
もし、ダンデがこのまま目覚めなかったら。
そのことを考えると、思考がキャラメルのようにぐにゃりと歪んでうまく前が見えなくなる。オレさまは泣くのだろうか。それとも、勝ち逃げじゃねえかと怒るのか。そもそも、ダンデがいなくなるというのが現実味がない。今階段を降りていけばすぐにでも目が合って待たせたな! とバトルを挑んでくる気さえする。だがダンデは目を覚さない。なんだか悪い夢のように思える。
夢なら早く覚めてほしい。
「オレさま、かっこ悪いな」
腰に連れたボールが、否定するように揺れる。けれど、オマエたちだって知っているだろう、とキバナは思う。
「オレさま、いつもアイツを助けられねえんだ……」
昨晩の判断を、間違っていたとは思わない。
だが、他に可能性はなかったのか。
そればかり考えてしまう。
◇ ◇ ◇
微動だにせず視線を注いでいたダンデの瞼がピクリと動いたのは、病院中が寝静まった深夜のことだった。モニター音と窓の外から聞こえるホーホーの鳴き声がなければ、月の瞬きすら聞こえてきそうな静けさだった。
病室には、キバナ以外見舞い客は誰もいない。
「……ダンデ?」
呼びかけると、睫毛が震えたあと、パチリと目が開いた。キバナはドッと息を吐いた。全身から力が抜ける。
ダンデが目を覚ました。
「…………キバナ……?」
「そう。そう……!」
キバナは己のライバルを抱き締めたい衝動に駆られながら、なんとかベッドの柵を掴むに留めた。よかった。よかった……!
急いで報せようとナースコールのボタンを手に取ろうとしたところで、強く手首を掴まれた。
触れたダンデの手の平は驚くほど冷たい。
「ムゲンダイナは」
開口一番、この男の気にする事項はそれだった。目が覚めた直後くらい、自分の心配をしろとキバナは八つ当たり気味に苛立った。一つ息を吐き、言葉短かに答える。
「ユウリたちが捕まえた」
「リザードン」
「そこにいる。オマエの手持ちは皆無事だ」
「そうか……」
ダンデが目を閉じる。わずかに落ちる沈黙。次の瞬間、ガバリとシーツを跳ね上げる。
「チャンピオンマッチは⁉︎ 今何日だ‼︎」
「安静にしろ怪我人! チャンピオンがここにいんのに開催できると思うか⁉︎」
肩を押さえて再度横になるよう促しながら、キバナは言いようのない不安に襲われていた。
ダンデのひたりと前を見据え、思考を巡らせているその様子が、バトル中のときのそれそのものだったからだ。
コイツ、何考えてやがる。
「オレは何日眠っていた」
「……丸一日だ」
「そうか。じゃあ明日やろう。オレの都合でチャンピオンマッチをこれ以上延ばせない。ロトム、ローズさんに電話を……」
「ダンデ」
威圧を込めて、名前を呼んだ。
ダンデがその声色に気づいて流石に動きを止める。キバナもパチリと読み合いの回路を開く。
チャンピオンマッチを明日開催する? 滅茶苦茶だ、オマエ今怪我人なんだぞ、わかってんのかよ。
様々な言葉がキバナの脳内を渦巻いては消えた。
何を言えばいい。
何を言えば、この男を止められる。
「……ローズ委員長なら、ブラックナイトの件で事情聴取されてる。あのあと騒ぎの元凶だってんで自首したんだ。今電話には出られないと思うぜ」
「……そうか。そうだったな」
ダンデが嘆息した。だが悲しいかな、キバナはダンデという男をよく知っていた。
それくらいで諦める男ではないことを。
「なら、委員長代理でオレの宣言が必要だな」
即座に切り替えて立ち上がろうとする。どこにそんな胆力があるんだよ。フィジカルもメンタルも強いヤツはこれだから始末に負えない。
寝かしつけることは諦めて、先回りしてドアの前に立ち塞がる。
「なあダンデ」
ダンデがキバナを見上げる。キバナは無言の圧を感じながら、言葉を噛み砕くように続ける。
「そう急がなくてもいいだろう。ユウリとの試合が楽しみなのはわかるが、だからこそ体調は万全に整えるべきだ」
「いいや」
ダンデがもどかしく首を振る。
こンの聞かん坊。
「ユウリくんが捕まえたんだろう、ムゲンダイナを? そして今はまだ彼女の手持ちにいる」ダンデがぎゅ、と入院着の胸元を握り締めて苦しそうに言葉を紡ぐ。「だが、急がないとムゲンダイナがそのまま彼女の手持ちでいられるかはわからない。彼女の手に渡ったのは特殊な経緯だ、彼女から引き離す動きがあってもおかしくない。それに彼女もそれを望まないとも限らない」
よくもまあ、寝起きでそこまで頭が回るものだと感心する。確かにリーグ委員の一部からはそういう提言は出ているらしい。危険なポケモンなのだから、未成年の手に任せておかず保護するべきだと。
実際はムゲンダイナの様子を見て判断すべきだろうが、確かに確実に手持ちであるのは今しかない。
納得できないんだ、とダンデが呻く。
「いや——オレが負けたのは動かし難い事実だ。そのことに文句を言うつもりはない。だが、あのときあの場所にあったのはただの暴力だ。災害と言ってもいいか。そこには戦略も戦術もない。オレはそんなバトルじゃ満足できない」
段々と、ダンデの声が熱を帯びてくる。力を込めすぎてかふら、とよろめくものだから慌ててその腕を支えてやるが、ダンデが気づいた様子はない。
「オレは強いトレーナーの優れた戦略で戦うポケモンたちと戦いたいし、負けるのならバトルで負けたい、最強のトレーナーと、最強のポケモンに、だ! もちろん負けるつもりはないし——そもそもユウリくんがムゲンダイナを連れてくるかはわからないんだが。けど彼女が使うムゲンダイナは、きっとオレとの限界を超えるほどの強さがあるぜ、楽しみじゃないか——」
「ダンデ」
手を、離した。ダンデはもう一人で問題なく立っている。
多分、想定より元気そうで安心したからだ。心配の反動でやってきたのは、じわじわと燻るような怒りだ。
「流石にオレさま、笑って行かせらんねえよ」
どれだけ心配したと思ってやがる、もっと自分を大事にしやがれという、ダンデに対する怒り。
そしてそんなダンデを止められない、自分の無力に対する怒り。
「なあ、ダンデよ」
胸の締めつけられる思いだった。
ダンデは無表情だ。意識的に表情を消している。そして傲岸にキバナを見上げた。
「キバナ。オレは謝らないぜ」
「……ああ。ああ、オマエは昔っからそうだよ」
キバナはよく知っていた。
ダンデはこうと決めたことは頑として曲げないし、謝らない。
「そうだ。謝らない。キミに心配をかけることも、オレが今後戦い得るだろう全てのバトルより、今この一瞬を優先することも」言葉を切って、ダンデがわずかに目を伏せる。菫色の睫毛が震える。「……だがオレは、キミがオレのバリヤードになることも望まない」
何、とは訊ける雰囲気ではなかった。「オマエの相棒はリザードンだろ」と言えば「ああ……そうだな。そしてキミは、オレのリザードンではないんだぜ」と言う。
「だからキミも、キミが言うべきことを優先してくれ」
随分と勝手な言い草だった。思わず拳を握る手に力が籠る。ここで殴ってでも止めるべきだろうか。だがオレさまはダンデが大事だ。そう、大事なんだ。なのにどうしてそれが止まる理由にならない。「わかるか、ダンデ」なんとか声を絞り出す。
「オレは」息を吸い込む喉が痛い。「オレは、オマエの願いを損いたいわけじゃあない、オマエを束縛したいわけでもない。オマエがどれだけバトルを愛しているかを知っている、勝負の熱を身を焦がすほどに求めていることを知っている。だが言わねばならない、オレはオレであることを捨てられない」
「ああ、わかっている。わかっているとも、オレはオマエがオレを繋ぎ留めていてくれて、オマエのおかげで今のオレが在ることをわかっている。オマエがいてくれて感謝してるのは嘘じゃない、オマエがどれほどオレを理解してくれているか、どれほどオレを愛してくれているか、オレは痛いほど知ってる」
これからお互い、ひどいことを言わなければならないことをわかっている。
キバナは唇を噛み締めた。
神様、どうかコイツからバトルを奪わないでやってほしい、と。
いつかそう願った他ならぬ自分が、ダンデからバトルを取り上げようとする側に立っている。
キバナはまっすぐにダンデを見た。
「行くな、ダンデ」
ダンデは一瞬、微笑んだように見えた。
だがキバナを刺し貫いたのは、冷え冷えとした金の瞳だ。
「そこを退け、キバナ。オレはチャンピオンマッチを開催する」
ばさ、と彼の背後でマントの翻った錯覚があった。王の威厳を示す装飾の何もかも、今のダンデには不要だった。そんなものがなくても、彼は今この瞬間、ただ勝利を希求する孤高の王だった。入院着の裾を翻し、覚束ない足取りでけれど堂々とキバナの横をすり抜ける。
キバナは動けない。
やがてスリッパを擦るダンデの足音が聞こえなくなった頃、キバナはズルズルと床にしゃがみ込んだ。
病院の床が、無機質に冷たい。
「はは…………」