【再録】あの日とそのあと


十五歳(4)


「いやヨロイ島まで一気には無理だろ」
 いくら頑強なアーマーガアでも、もう大人と体格の変わらない子ども二人を無理な姿勢で背に乗せていれば疲労も溜まる。まして今日は向かい風で、これから日も落ちてくる。灯台の光だけを頼りに夜を飛ぶのは危険が伴うと判断し、キバナは適当な島にアーマーガアたちを着陸させた。
 雪山の側を越えてきたからか、抱き締めた自分の体が上空の風に冷やされて人心地がしない。
「見てくれ、キバナ!」
 なのに同乗者はどうやらその寒さを意にも介していないらしかった。何でそんな元気なんだよ、と半ば諦念を滲ませながらはしゃぐダンデの声に振り返ると、今まさにガラルの地平に太陽が燃え落ちているところだった。
 シンボラーを象ったナックルの街の輪郭が、夕焼けに縁取られて黄金のように輝いている。
 ダンデの瞳の色みたいだ、と思った。
「すごく綺麗だ!」
「……そうだな」
「少し眠っていくか? キャンプ用具ならアーマーガアに持たせてきてる」
「……ああ」
「……怒ってるか?」
 ダンデのその問いに、キバナは答えなかった。キバナは確かに怒っていた。だが何に対する怒りなのか、頭を冷やしてもまだ整理がつかずにいた。テントを立て、寝袋を並べながら、ぼんやりとダンデに問いかける。
「ダンデさあ」
 何だ、とダンデも神妙に返す。
「ハロンの家族は大丈夫なのかよ」
「……ああ。摘発の情報源がオレだとバレないよう、ローズさんがうまく立ち回ってくれるみたいだし——念の為、家族には少しハロンを離れてもらってるんだ」ニカッと笑って手元だけでリザードンポーズを見せる。「キルクスらしいぜ。もしかしたら今行ったら会えるかもな」
 それはよかった、とキバナは安堵の息を吐く。
 けれどどうしたってダンデと同じようには笑えない。
「オレさまがどうするって訊かなきゃ——もっと言えば、オレさまが八百長のこと知らなかったら、こうして逃げるつもりなかっただろう。どうするつもりだったんだよ」
「どうなってもいい——と思ってたのは事実だ」
「……っ」
「フフ、そんな怖い顔しないでくれ、ちゃんとローズさんが現場を押さえてくれたじゃないか。それに失敗したってみすみす痛めつけられるつもりもなかったぜ。万一のときにはリザードンたちもいたし——まあキミにだいぶ消耗させられたから、かなりギリギリだとは思っていたけど——別に、進んで痛い目を見ようと思ってたわけじゃないさ」
 本当に、何でもない風に言うのだ、この男は。自分が危険な橋を渡っていたこと、我が身を顧みずガラルの平穏のために尽くしていたこと。
 いつだってキバナは後手後手だ。
「でもキミとの勝負に、余計ないざこざを持ち込んじゃったな。それは謝るぜ」
「……別に。オマエの所為じゃないだろ」
「そう言ってもらえると、気が楽だ」
 少しの沈黙が落ちた。波が断崖に打ちつけられる音、どこかで響くアオガラスの鳴き声。カゴ色に染まった空が、夜の帷を下ろして段々と暗くなっていく。
 テントを背に、二人で肩を寄せ合って座り込む。
「……でも、やっぱり怒ってるだろう」
「……少し」本当は『少し』では済まなかったが、それを伝えたところでダンデの反応は変わらなかっただろう。「オマエが厄介なことに巻き込まれてたのはわかったよ。でもちゃんと話してほしかった」
「そうだな。でも、オレが話したくなかったってことも、キバナならわかってくれるんじゃないかと思ってるぜ」
「……ズルいこと言ってんのわかってる?」
「ああ」
 そう少し済まなそうに頷かれればキバナは怒るに怒れない。元々、怒りを持続させるのは苦手だ。キバナはダンデのことを既に許しかけていた。
 けれどあと一つ、確かめておかなければならないことがある。
「……訊いときたいんだけど」目を閉じ、テントをバタバタと煽る風の音を聞く。試合中についた傷が、膿んでじわりと痛む感覚。「オマエが負けないと危険な目に遭う、ってオレさまに思わせれば、オレさまがもっと本気で戦うとか、思った?」
 ダンデは最初、その問いの意味がわからないようだった。隣でキバナの発した言葉を咀嚼し、みるみる体を強張らせる気配がある。
 ダンデが弾かれたように立ち上がって、肩にかかっていた重みが消えた。
「……思うわけない」告げる声は岩よりも硬い。キバナに触れようと伸ばしかけた手が、下りてグッと握り拳になる。「そんなこと、思うわけない。そんなことしなくったって、いつだってキミは全力でオレに向かってきてくれるじゃないか。そんな、キミの本気を疑うような真似、オレがするわけがない……オレはただ、キミが余計なしがらみを吹っ切って、バトルに集中してくれることが嬉しかった、ただそれだけで……けど、ああ、そうか……」
 ダンデの肩が、力なくだらんと垂れる。
「そうだな。確かに、そう見えても仕方ないよな」
 ダンデの傷ついたような声に、キバナものろのろと顔を上げた。そのときのダンデの姿に、魂の抜け落ちたような表情に、普段のチャンピオンの威厳を見ることはできなかった。
 ここにいるのは不器用なまでに誠実さを曲げられない一人の子どもだ。
「キミに本気を出させたかったから、わざと囮だと知らせなかったんだ」吐き捨てるように言う。「我ながら最悪なシナリオだ……」
「いいよ。もうわかったから」
 キバナは思わず立ち上がってダンデの背中を抱き締めた。震える背をさする。
「わかったから、ダンデ……」
「オレはバトルが好きなんだ」
 ダンデがぽつりと呟く。
 遠くの水平線に向かって叫び出すような小さな呟き。
「ただ、楽しくバトルができればそれでいいだけなんだ。なのに、なんでだろうな……」
 ダンデが掻きむしるようにキバナのユニフォームの背中を握り込んだ。布ごしに触れ合って初めて、ダンデの体も驚くほど冷えていることに気づく。
「なんでみんな、バトルに余計なことを持ち込むんだ」
 声に滲む、普段の彼の振る舞いからはかけ離れた悲痛さに、キバナはなんと言葉をかけるべきかわからなかった。
 ああそうだ。オレたちは皆バトルが好きなだけなのだ。
「……さっき、ラジオニュースでローズさんが喋ってたよ。もう賭博はさせないって」
 恐らくダンデの情報を元にしてだろう、大規模摘発で元締め組織が逮捕されたこと、カントーの犯罪組織のガラル支部のようなものだったから、幹部逮捕で活動は縮小するだろうこと。リーグは国際警察と手を組んで、今後も犯罪防止に努めていくこと。
 それと選手に対する保護の体制の発表。選手たちの身の安全を守る用意があること、通報窓口を設けること。直接的に八百長に触れられていたわけではなかった。だが心当たりのある一人一人には届いただろう。
 だが、だから今後はこんなことは起きねえよ、と言えるほどキバナも楽観的にはなれなかった。
 ダンデが憂いているのは、何も今回の事件に限った話ではない。純粋なポケモンバトル、なんてものは存在しなくて、トレーナーには必ず何かしらのしがらみが付き纏う。勝敗による優劣、チャンピオンやジムリーダーとしてあるべき規範、生み出す利益と価値、周囲の期待、それによる葛藤と挫折。普段はそれらを上々の気分で乗りこなしているダンデですら、他人に降りかかるそれを制御することはできない。
 バトルが好きでその大海に身を投じているだけだというのに、実際は四方からの荒波にもみくちゃにされ引き裂かれて、ただ単にバトルを楽しむということがこの世界では思いのほか難しいのだ。
 少なくとも、今のオレたちには。
 波の音だけがただただ静かだ。
「……オマエさあ」
「……うん」
「オマエのさ。その王冠についてくる余計なもん、オレさまも一緒に引き受けてやるからさ……」
「うん……」
「だから、オマエはずっと……バトルを好きでいろよ」
「…………。ああ。そうだな……」
 ダンデの返事はそれきりだった。だがキバナは知っていた。どれほどバトルを好きでいても、ダンデの言う『余計なこと』に飲み込まれてバトルの第一線を退いた先人が何人もいることを。
 キバナは祈るようにぎゅっと目を瞑る。
 ああ、神様。
 どうかコイツから、バトルを奪わないでやってほしい。
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