【再録】あの日とそのあと
十五歳(3)
『あーっと、キバナ選手一体目がダウン——ッ‼︎ 一方ダンデ選手のギルガルドはほぼ無傷です、これは厳しい戦いになるか——⁉︎』
実況の声が響き渡る。キバナは無言で一つ目のボールを腰に収めた。
ダンデが何か声を張っている。
「どうした、キバナ! キミの実力はそんなものじゃないだろう!」
「どうしたって——クソ!」
オマエが心配だからだろうが!
思わず怒鳴りたくなったが、ここでペースを乱せばこのあと総崩れになるのは目に見えている。それに対戦相手が心配だから力を出せずに負けました、なんて流石にインタビューでは答えられない。
ダサすぎる。
(切り替えろ……)
次のボールを手にする。息を吐く。
荒れ狂う感覚を取り戻せ。
だがどうしたって心の内に一度根を張った不安は振り切れない。脳裏を過ぎるのは、今もこの試合を見てるであろう元チャンピオンの男の言葉だ。
——断り切れない奴がいることも、今となっちゃあわかるんだよ。
——例えば今シャクちゃんを人質に取られでもしたら。
ダンデはハロン出身だと言っていた。地元には大事な人間もいるだろう。自分の控室に戻る道すがらでキバナが辿り着いた、一番納得のできる結論がそれだった。ダンデ自身は八百長など望んでいないが、嫌々そうさせられている。それならばいくらか納得がいく。
なのにコイツ。
(勝つ気満々じゃねえか!)
ギルガルドがブンッ、と幅広の刀身を振る。切れ味は一ミリも鈍っていない。腕を組んで次を待つダンデの余裕も揺らがない。
その事態が、今のキバナの内心に旋風のように混乱を巻き起こしていた。八百長はいいのか。キバナ自身も望まないはずのその行為がないことを焦ったく感じること自体がまるで喜劇のようだ。それとも——まさか八百長を受けたことを忘れてるんじゃないだろうな。
どちらにせよここでオレさまが勝たないと、ダンデやダンデの大事な人間が酷い目に遭うんじゃあないのか。
焦りが生じていた。ボールを握るグローブの内側が蒸れて暑い。目尻に垂れる汗が滲みる。
(オレさまが、勝たないと)
そうでないと、ダンデが——いや。
ふと風が止んだ。
顔を上げる。晴れたコートの向こうで、王者がじっと手の内を見透かすようにこちらへ視線を投げかけている。
そこには勝利を捥ぎ取ることへの迷いなど寸分もない。
ダンデは何故勝とうとしている?
キバナは自問する。それは当然——ヤツがバトルトレーナーだからだ。コートに立つ人間ならば誰だって、勝利を渇望するのが摂理だ。その闘争心を根っこに飼っている人間だけが生き残ることができる。ヤツなどはその最たるものだ。
なら、今のオレさまは——一体何のために勝とうとしている?
(……だって、オレさまが勝たないと、ダンデが)
よく考えろ、ドラゴンストーム。
オマエの答えはそれでいいのか。
それで——腹を決めたダンデに勝てるのか?
——ジムチャレンジャーは自分のため、ポケモンのために戦いな。
そのとき、不思議と思い出されたのは、いつかダンデとアラベスクを訪れたときの記憶だ。ジムチャレンジを並んで見学していた。チャレンジャーの頃には見えなかったものもよく見えた。後輩たちの善戦。そのときに告げられたアラベスクの魔術師の言葉。
「……ああ」
何故今それを思い出したかって、隣でそれを聞いていたダンデが妙に嬉しそうにしていたからだ。キバナはそのとき、ふぅんと興味なく眺めていたように思う。だってそうだろう。
なんでそんな当たり前のことを。
「……そうだ。オレさまは、オレさまと、オレさまのポケモンたちのために戦うんだ」
頰をピシャリと打つ。世界に音が戻ってくる。その単純だが明確な事実を忘れてはならない。
「オマエのためじゃない、ダンデ……」
そう。オレさまが得る勝利は、オマエのためのものではない。オマエのためのものであってはならない。
「オレさまが、ただ勝ちたいから勝ちにいくんだ——ヌメルゴンッ!」
二体目を繰り出す。ダンデがわずかに眉を顰めた。ああそうだ、いくらブレードフォルムでもヌメルゴンは貫けまい。ここで王の騎士は沈めさせてもらう。
「地震だ!」
「……てっていこうせん!」
ダンデの指示の方が遅かったが、先攻はギルガルドだ。手痛い一撃を貰いながらも、ヌメルゴンの地震がギルガルドを落とす。昂った軟体ドラゴンの勝利の咆哮が響く。ダンデが悔しそうに口元を歪める。
だがそれも一瞬だった。
『ここでダンデ選手も一体目ダウン——ッ! さあ、無敗の王者は次は何を出してくるのでしょうか⁉︎』
「……それでこそだぜ、ドラゴンストーム!」
手持ちを倒されたばかりだというのに、ダンデは興奮を隠しもせずに獰猛に笑った。掲げる次のボール。観客を沸かせるパフォーマンスをしながらその実、対戦相手しか眼中にないような表情を見せる。
求めたものがここに全部あるみたいな顔。
「ダンデ、オマエ——オレさまを試しやがったのか?」
呻くような声は届いていないだろう。だがダンデは応えるようにうっすらと笑った。その真意は図れない。
キバナはぐ、と迫り上がった感情を飲み込む。
八百長の話が本当なのかはわからない。もしかしたら、オレさまをその気にさせるためのダンデの方便だったのかもしれない。
今は思考を割く余裕がなかった。勝ち負けの先は、あとで考えればいいことだ。ただ少し、不満が心臓の辺りを引っ掻いて、傷をつけていっただけだ。
そんな余計な情報がなくても、オレさまはいつでも本気でオマエをぶっ倒そうとしてるっての。
「——あとで詫び入れろよ‼︎」
ポケモンたちの技と戦略をぶつけ合う。もう余計なものは何もなかった。ここにあるのは互いに向ける剥き出しの闘志だけだ。それだけが自分達を奮い立たせるものであればいい。他には何もいらない。
何も。
「ヌメルゴン——」
八百長を受けたのは事実だぜ、とのちにアーマーガアの背でダンデは語った。
——ああいう賭博は、いくら客を捕まえても意味がないだろう。だが胴元は表には出てこない。そんなリスクを負わなくても、客からの賭け金で利益が出るからだ。
——だがリーグ委員くらい地位のある客なら、受けたふりをすれば情報を引きずり出せないかと思ってな。
そんなことを、あのときのキバナが知る由もない。なら言えよ、という苦言は、悪かったとは思ってるとニコリと笑って躱された。
——でも仮に失敗したときに、事情を知っている人間に危害が及ぶ可能性があるなら、それはオレとローズさんだけでいいと思ったんだぜ。
『勝者——ダンデ選手ッ‼︎ やりました、これで五度目の防衛です! 無敗の王者はやはり強い——ッ‼︎』
キバナは呆然と紙吹雪の舞うコートに立ち尽くした。
本気でやった。
それでも一歩、届かなかった。
キョダイゴクエンで焼けた空気の匂いの中で、切れた息を繰り返し浅く吐いた。地についた膝を受け止める草が柔らかだ。コートの向こう側で菫の髪をはためかせ、憎らしいくらいの笑顔でリザードンポーズを決めてみせるダンデの姿がひどく眩しい。目を焼かれるようなその光を、痛みを、忘れまいと逸らさずに見つめる。 やり切った、という実感はあった。だが五体目までしか引きずり出せなかったのも事実だ。五体目がリザードンで、ダイマックスを仕掛けてきたのは予想外だった……いいや、言い訳だ。だからといって二タテを許す理由にはならない。帰ったら反省会だ。ロトムがパシャ、と写真を撮る音が聞こえる。
……帰ったら?
ハッと我に返る。
オレさまはこのあと、取材やら何やらを適当にこなして何事もなく帰宅するだろう。
だがダンデは?
握手のためコートの中央に歩み寄る。無邪気に客席に手を振るダンデの姿が近づくにつれ、だんだんと指先が冷え、心臓が鉛のように重くなるのを感じる。
そうだ、オレさまがダンデの控室を訪れたとき、現実にあの男がいたじゃないか。方便なんかじゃない。あれは不正の念押しだ。試合中には蓋をしていた思考から、悪い想像がどんどんと溢れてくる。ダンデがわざと負けろと言われていたのに勝ったのだとしたら。最近は刑事ドラマでだってやっているのだ、子どもでも知っている。
そういうの、仕返しされたりするんじゃないのか。
半ば放心しながら、差し出された手を握る。
「おい、ダンデ」
「うん? なんだ、キバナ」
「……このあと、どうすんだよ」
互いに良き試合を讃える握手をしながら、ダンデは困ったように眉尻を下げ「どうしようか」と笑った。
それは明確な返答だった。
どうやって身を守るつもりだ、という問いに対しての。
「実は何も考えてない」
「おい」
握った手に力が籠る。何やってんだ、と思う。だが故意に負けられていたらそれはそれでキバナはダンデを許せなかっただろう。それにキバナが勝っていたら何も問題はなかったはずなのだ。ならこの結果はキバナにも責任があるとも言える。オレさまが守ってやれるだろうか。
いつかのダンデを危険に晒した苦い記憶が蘇ってくる。
やるしかない。
険しい目つきをするキバナに、ダンデは少し迷う素振りを見せたあと、躊躇いがちに切り出した。
「そうだな……じゃあキミに一つお願いしてもいいか?」
「! 何だよ……!」
「このままオレを攫ってほしい。……ヨロイ島まで」
チャンピオンが自分からこの場を離れるわけにはいかないから。
帽子の鍔を下げたその囁きに真意を問いただそうとするのと、ダンデがボールを取り出すのは同時だった。
「頼む、アーマーガア……!」
掛け声と共に、バサッと輝く黒鉄の羽が威容を見せつけ一つ羽ばたいた。見上げるキバナとダンデの体が、二メートルを超える巨体に遮られ客席の視線から一瞬隠れる。
試合に出なかった六体目。
突然コートにまろび出たポケモンに、しかし観客席からどよめきは起きない。キバナが周囲を見渡せば、紙吹雪の中、既に表彰台の準備がスタッフやポケモンたちによって行われていて、そこに一体加わったところで誰も気にしていないようだった。
カメラに抜かれている二人のやりとりも、試合後の歓談にしか見えていないだろう。
なのでこの場で一番困惑しているのはキバナだった。
思わずダンデの肩を掴む。
「オマエ、何、しれっと温存してやがる……!」
「いや怒らないでくれ、キミも面倒な事実を聞かされて一体目は気もそぞろになるだろうからと、最初から五体で戦うつもりだったんだ、それで慌てて手持ちを替えて……いやでも、このアーマーガアでもキミのジュラルドンを倒す準備はあったぜ? ボディプレス覚えさせてるんだ、調整が中々面白かったんだよ、なあアーマーガア!」
ガアッ、と割れた鳴き声がダンデの呼びかけに呼応するようにスタジアムに響いた。
キバナは何からどう言及すべきかわからず言葉を詰まらせる。
結局、全部オマエの思い通りなんじゃないか。
「ああ、クソ!」
「ダンデくん、キバナくん」
そのとき、表彰台の準備から一人、スーツの男が集団を抜けてこちらへ近づいてきた。「ローズさん!」とダンデが顔を輝かせ、それからハッと何か重大なことに気づいたように表情を強張らせた。慌てて地面を見回し、落ちてくしゃくしゃになったマントを拾い上げて着ける。「……ローズさん」にこ、と笑う仕草に、今のはセーフですよねという冷や汗を見た気がした。
ローズは肩を竦めるに留める。
「それより」と口を開いたのはローズだ。ダンデに向かって悪戯っぽい笑みを浮かべる。「先程警察が現場を押さえましたよ。あとは芋づる式というわけです……んふふ、きみに八百長を持ちかけた彼、ひっくり返ってましたよ。きみにも見せたかったですが」
何の話か、キバナには説明がないままダンデも応じる。
「オレは別に興味ないからいいですよ。はいこれ、今日の分の音声データです。いらないかもしれないけど、一応」
「ああ、受け取っておきましょうか。ではあとはうまくやっておきますので、念のためしばらく身を隠してくださいね。まったく、囮なんて危なっかしい真似、子どものきみには本当はさせたくなかったんですよ!」
「でもそのお陰で元締めの組織に辿り着けたでしょう? 絶対全員捕まえて……試合を選手の手に返したいんですよ、オレは」
キバナにはわからない話を、キバナがついていけないサイクルで回す二人に、口を挟む隙もなかった。手持ち無沙汰に眺めていると気づけば話は終わっていて、「キバナくん」とローズがキバナに向き直る。
「すみませんが、ダンデくんと一緒にいてあげてくれませんか。キミといれば少しは安心ですから」
何だそれ、とキバナは反発を覚えた。ローズとダンデの間にどのような密約があったのかは知らないが、ローズの提案が都合のいいお願いであることはわかった。じっと睨むがローズは相変わらず掴みどころなくにこやかに笑うだけだ。その態度が更にキバナの感情を毒びしを撒くように刺激する。いつかの誘拐事件のときを思い出す。
囮を、させたくなかったらさせなきゃよかったんだ。ダンデを危険に晒すべきじゃなかった。
この人なら、それができたのに。
「それに、一人で行かせてまた変な場所で迷子になられても困りますからね」
「…………」
だがキバナの睥睨は長続きしなかった。ダンデがくい、とキバナのジャージの袖を引いたからだ。振り返ると、太陽みたいな満面の笑みを向けられる。
「キバナ。頼んだぜ、オレの王子様」
するりと首筋に腕を回され、軽く頰にキスされた。突然予告もなく触れた唇の柔らかな感触に一瞬心拍数が跳ね上がったが、すぐにいつもリザードンにやってるやつだこれ、と気づいて脱力する。
これで絆されるのだから、何だか負けた気分になる。
いや実際負けてるんだが。
「……フライゴン」
仕方ない、と手持ちを出して「試合後で悪いな」と労ってやりながら先導を指示する。表彰台が組み上がって、他の選手たちもコートに出てきて、それでようやく二人の様子がおかしいことに段々と周囲が気づき始める。
これから表彰式をボイコットだ。せめてローズが盛大に困るよう、派手に飛び去ってやろう。
そう考えると少しワクワクする気もしたが、けれどそれはキバナの飲み込んだ苦しさを打ち消すほどのものではない。
それでも今は飛ぶしかなかった。アーマーガアの背中にまたがり、しっかりと踏んだ鐙の感触を確かめながらダンデの方へと手を伸ばした。体重の預けられた腕を掴んで引き上げる。
この困ったお姫様を、誰の悪意も届かない、どこか遠くへ。
「……お望みどおり、攫ってやるよチャンピオン」