【再録】あの日とそのあと
十五歳(2)
『——選手、二体目はズルズキンだ——ッ‼︎』
急いで客席に回れば、ちょうどダンデの相手が二体目を繰り出したところだった。キバナは適当に、建物から客席に繋がるゲートに寄りかかってその光景を眺める。関係者用の観戦席もあるにはあるが、そちらまで降りると単純に控室まで戻るとき面倒だ。それに選手が一人、一般客席に出てきたところでどうせ誰も気づきやしない。
みんなダンデに釘付けだ。
彼が指示を出し、ポケモンがそれに応えるたびワッと歓声が湧き上がる。キバナも気づけば見入っていた。
(ギルガルドの技構成、変えてきてんな……)
影打ちで先制し、痛手を負わせて退場。次も同じ構成で来るだろうか。この試合をキバナが見ていることはきっと意識しているはずだ。
だがダンデの対策はこのあとの休憩時間でやるべきだ。キバナは名残惜しさを感じながらも無理矢理視線を引き剥がし、意識を相手選手へと向けた。パフォーマンスの派手な彼は悪タイプのジムリーダーだ。年はキバナたちより少し上くらいの。キバナも何度か話したことはあって、もしアイツがわざと負けるなんて真似をすればショックだろうなくらいには思う。
(いや——でもそれはないのか)
賭博で八百長をするなら、オッズの高い方に賭けなければ旨味はない。そしてこの試合は多分、これまでの戦歴からしてダンデが勝つ方に賭ける人間が多い。だから仮に八百長を持ちかけられて敗北を願われるとすればダンデの方だ。その方が賭け金が多くもらえるから。
考えながら、今更ながら自分が格下と見られていた事実にギリ、と噛み締めた奥歯に力が籠る。下馬評など気にする必要はないと、理解はするが収まりはしない。世間の目は実力でねじ伏せていくしかない。
(……そう言えば)
キバナはふと、以前に起きた事件のことを思い出す。何年か前、ダンデが攫われたあの事件も、犯人が賭博で団の金を使い込み、マクロコスモスからの身代金で穴埋めをするつもりだったのだとキバナたちには知らされている。
あのときはどこか遠い国の話のように聞いていたが、今ならわかる。
オレさまたちの真剣勝負を。
金儲けのために踏み躙っている人間がいるのだと。
(…………)
ガタガタッ、と不意に腰のボールが二つほど揺れた。のろのろと手だけでそれらを探り当てて労わるように撫でると、振動は不承不承といった様子で微弱になる。多分、ヌメルゴンとサダイジャだ。キバナの手持ちの中でもその二体は特にキバナの調子に敏感だ。
「問題ないぜ。大丈夫だ、なんも問題ない」
落ち着かせるように言葉をかける。
「大丈夫だ……」
けれどポケモンたちにそう伝えるキバナの背を、さする人間は誰もいない。
そのとき、ふと影が差した。
眼前にぬっと現れた人影により曇り空が遮られ、キバナは一瞬身構える。この歳で既にジュラルドンに迫るほどに身長を伸ばしていたキバナの視界を遮るなんて芸当ができる人間は限られている。
しかし警戒はすぐに解けた。
「お! なんだキー坊じゃねえか! ダン坊の応援か? 控え室にいなくていいのかよ!」
「……はがねの大将?」
元気してたかガッハッハ、とラフなトレーナーとスウェット姿で大口を開けて笑うのは、元チャンピオン、鋼ジムリーダーの男だった。初対面時にピオニーさん、と呼べばやめろやめろと身を捩られたのでそれからは大将と呼んでいる。思わぬ遭遇に先程までの憂鬱も忘れてポカンとその姿を眺めていると、親愛の情を込めてバンッ、と背中を叩かれた。流石のキバナも思わずよろめく。
「痛った! 相っ変わらず加減しねえな大将!」
「こんくらいがちょうどいいだろうが! それよりよ、さっきの試合、ド・うまかったじゃねえか! 特に雨技持ちにヌメルゴンをぶつけたのは痺れたぜ、雷が効いてた」
「……オレさまの試合、見ててくれたんだ」
「ああ、なんせかわいい後輩の試合だからな!」
ピシッ、と両親指を立てられて、いつものキバナなら飛び上がって喜んでいたはずの言葉だった。ピオニーは、キバナがジムトレーナーになる前には既にチャンピオンを引退した身だったが、その戦績を埋もれさせるには惜しくて引退後もたびたび稽古をつけてもらっていた。その豪快なバトルスタイルにキバナも憧れたものだった。そんな男に褒められて、嬉しくないわけがない。
正攻法で勝っていたのなら。
堪え切れずに訊いてしまう。
「相手、本気に見えた?」
「……あン? そりゃ……」一瞬、ピオニーの視線がぶれる。ガシガシと、気まずそうに頭を掻く。「……客席からは、そう見えたぜ。一応はな」
それを聞いてもキバナはなお追求をやめなかった。無言で半眼になり、ジッ……と少し目線が上にあるピオニーの顔を見つめる。ピオニーの視線が海を彷徨うヨワシのように右往左往する。
やがてピオニーは根負けしたように肩に手をやり溜め息を一つ、吐いた。
「……ところどころ、指示に違和感はあった。だが、わざとって言えるほどでもねえ。実力はおまえさんの方が上だったよ」
「そーだね。でもオレさま、八百長で勝っても嬉しくねえのよ」
「そんな言葉どこで覚えてくんだよ」
「大将、オレさまもう十五だけど」
「誰かからなんか聞いたのか……いや」
唐突に、ピオニーがスッと身を屈めた。背中を丸め、辺りの様子を伺いながらキバナに向かってコソコソと囁く。
「……今そこにシャクちゃんいねえよな?」
「シャクヤ?」
キバナもひょいともたれかかっていた壁から身を離し、首を伸ばして湧き上がる客席を見渡した。彼の元気なわんぱく娘、シャクヤの姿はどこにもない。
「いないよ。一緒に来てんだ……一人で回らせてんの?」
「そんなわけあるか、今はハニーと一緒だ」
ピオニーが何故か声をひそめたままで言う。キバナは、いや大将とオレさまの図体じゃ隠れないでしょ、と言おうかどうか迷った末に黙っていた。
ピオニーの顔がいつになく真剣だったからだ。
「だって、こんな話聞かせたくねえだろ、シャクちゃんはああ見えてポケモンバトル大好きなんだよ。子どもの夢を壊すわけにはいかねえ」
「……オレさまもそうだよ」
その言葉は、不意にキバナの口を突いて出た。
瞬いたピオニーに、キバナは思わず口を押さえ、恥じ入るように俯いた。違う、そんなことを言いたかったわけじゃない。シャクヤはまだ守られるべき子どもで、試合の裏側の汚い取引なんて知らなくていいのだ。でもオレさまはもうコートに立っている。もう子どもではない。
「……オレさまも、ポケモンバトル好きなんだよ……」
「……そうだな」
キバナが顔を上げられずにいると、クシャ、と大きな掌が遠慮がちに髪を乗せられた。それから少し乱暴に、だが優しさの籠った力でわしゃわしゃと頭を撫でられる。そうだ、オレさまもポケモンバトルが何より好きなんだ。ジャージの裾を握り締める。繊維越しの爪が手の平に食い込んで痛い。
「オレのとこにも来たことはある。そのふざけた話は」
ピオニーのぽつりと呟くような声に、キバナは弾かれたように顔を上げた。
「じゃあ……?」
「ド・断ったぜ。当たり前だろうが」
ピオニーが面白くなさそうに鼻を鳴らすので、キバナは思わず肩を撫で下ろした。そうだよな。誰もが皆、勝負より自分の利益を取るわけじゃない。
「……だが、それは運がよかっただけなんだろうと思うぜ」
再びピオニーを見上げ、言葉の真意がわからない、と目で問うキバナにピオニーはただ肩を竦める。
「断り切れない奴がいることも、今となっちゃあわかるんだよ。昔はな、ふざけんなと思ってた。そんなもん、受けてんじゃねえよってカブちゃんと二人でな。けど」
一瞬遠くなったピオニーの目は、今ここにいない家族の姿を映したのだろうか。
「例えば今、シャクちゃんを人質に取られでもしたら——オレはきっと、わざと負けることを選ぶんだろうぜ」
わあっ、と一際大きな歓声がスタジアムを揺るがした。二人の視線が同時にコートへ向く。鮮やかなグリーンの中央ではリザードンがタチフサグマをKOしたところだった。どちらもダイマックスをしていなかったから気づかなかったが、どうやらお互い今のが最後の一体のようだった。悔しそうな相手の選手と、満面の笑みで勝利を讃えるダンデが歩み寄って握手をする。
希望に満ちた光景だった。
ピオニーの目が眇められる。
「オマエらの世代に残しちまったのは、情けねえ限りだがな……」
◇ ◇ ◇
何だか急に、ダンデと話をしたい、とキバナは自身の二回戦を終えてふと思い至った。
試合は快勝だった。相手も本気だった——と思う。スタジアムのディスプレイには、最終試合が三十分後に行われることが大々的に表示されていることだろう。王者ダンデvs.挑戦者キバナ。図らずも去年と同じ対戦カードとなった決勝戦に、客席は盛り上がりに盛り上がっている。
何か話したいことがあるわけではない。試合前の対戦相手の控室に押しかけるなんて非常識だ。それでもキバナはライバルの元へ向かう自分の足を止められなかった。
多分、変わらないものを見て落ち着きたかったのだ。
例えこの大会に不正があったとしても、オレさまとダンデの試合だけは真実、恥じるところのない勝負なのだと。
『——では、先日から申し上げているように』
『——ああ。そう何度も来なくてもわかってるぜ』
(……?)
控室のドアの前で、キバナはノックをしようとした手をピタリと止めた。珍しい、相手を邪険にするようなダンデの声。だが試合前に誰と何の話を?
そのまま微動だにせず待つ。足音が近づいてくる。扉を開け、中から出てきたのはスーツ姿の男だ。
「……失礼」
部屋の前にいた予想外の人物に男は微かに目を見開き、しかし冷たく硬い声でそれだけを告げて立ち去っていく。
「……よお。ダンデ」
「キバナ?」
男と入れ替わるように入室すれば、部屋の奥のベンチに掛けていたダンデは驚いたような声を上げた。それはそうだ。ダンデの中のキバナは、今この瞬間反対側の控室で絶対今日こそダンデをぶっ倒すと息巻いているところだったろうから。少し離れたところで丸まって意識を集中させていたリザードンも、微かに反応して首を擡げる。
戸惑いを見せたダンデは、けれど無碍にするつもりはないのかすぐに切り替えて人懐っこく笑う。
「さっきは助かったぜ。スタジアム内で迷子になって、危うく不戦敗になるところだった」相変わらずの無邪気さを見せる白い歯が眩しい。「そんなのは御免だからな」
だが試合前にしては、どこか上の空だ、とキバナは思った。いつものピリピリとした空気のひりつきがない。集中できていないのだ、このあとの勝負に。
この男にしては、珍しいことに。
そしてそれは、キバナの来訪に起因するものではない。
「……ダンデ。さっき出てったヤツ、誰?」
「……リーグ委員の人だぜ? ただの業務連絡だ、気にしないでくれ」
「ふぅん?」
キュッ、とスニーカーのゴム底で床を鳴らし、キバナは膝を突き合わせるようにダンデの前に立ち塞がった。前傾姿勢で腰掛けるダンデの帽子の鍔の先に、キバナのジャージの裾が触れる。
息の詰まるような距離。
だがダンデはキバナの方を見もしない。
「単なる連絡でそんなお偉いさんが来るわけねえよな」
視線が合わない。
「ダンデ」
「……ああ」ダンデがふ、と息を吐いた。「そうだ、バトルしないか? ちょっと退屈してたんだ」
「は? 退屈も何も次試合」
「いいだろ。ロトム、電磁波!」
『はいロト!』
「おい、聞けって——」
急な展開についていけないキバナを待たず、ダンデのバッグから飛び出したロトムがくるりと回ると、バリッとキバナの全身に軽い痛みに似た痺れが走った。帯電したまま金属のドアノブを触ったときのあの感覚だ。思わず数歩後退って距離を取れば、ダンデの髪の毛も裾野が静電気でぶわりと広がっているのが見えた。いやポケモンも出してねえのになんなんだ。思いながら、自分のスマホロトムを確認する。問題なく起動する。
特にロトムの入っていない精密機器なんかは、静電気で調子の狂うことがよくあるから。
「……いや。おい」
「キミも気づいたんじゃないかとは思った」
ダンデが人差し指でスマホロトムをくるりと撫でてやりながら言う。
「わざと負けてる選手がいる」そう告げるダンデの声には感情が籠っていなかった。表情らしい表情もない。キバナはヒヤリと背筋の冷える思いを抱く。「いや、それ自体は彼らの自由だ。オレは感心しないが、そういうこともあるだろう。オレが彼らに、直接何かを言うつもりはない」
それが本当なら、そんな怒ってねえだろと思う。わざと負けるなんて真似を目の前でされようものなら、相手の胸ぐらを掴んで本気でやれと凄むくらいのことはしかねない男だ。チャンピオンという立場がなければ。
ダンデはキバナの胡乱な視線を気にせず続ける。
「けれど、それを他人に強要する人間は許されるべきじゃないし、何より」
皮肉げに口の端を持ち上げて。
「それをオレに持ちかけて、通ると思われているのは癪に障るよな」
キバナの耳元で、さあっと血の気の引く音がした。
さっきのヤツ。よりにもよって、コイツにその話を持ちかけたのか。
自分の汚い利益のために、故意に負けろ、と。
キバナは突如目眩に襲われたように自分の視界が回る錯覚を覚えた。平衡感覚を失って吐きそうだった。思わずユニフォームの胸元を握り締める。ダンデに。言ったのか、よりにもよって、この男を、この男のバトルを土足で踏み躙って汚すような真似をしやがったのか。
ぎり、と噛み締めた奥歯が軋む。
「……さっきのヤツだろ? なんでさっさととっ捕まえて委員長に突き出さない。ローズ委員長だって、そういうの嫌いなはずだろう」
「それはオレが八百長の提案を了承したからだ。了承して捕まえるのは変だろう? しかし彼と言い他の委員と言い、オレをチャンプから下ろせばローズさんを蹴落とせると思ってるんならちょっと見通しが甘いと言わざるを得ないよな——」
「待て。受けた?」
あとの言葉は入ってこなかった。
聞き間違いだと思った。それか、今オレさまの知らない単語がダンデの口から発されたのか。
了承って何だ。
身を硬くするキバナをじっと見て、ダンデは落ち着き払って言った。
「キミにわざと負けろと言われて、わかったと答えた」
「テメエ」
衝動的に手が伸びていた。チャンピオンユニフォームの襟ぐりを掴む。どこか遠くで、やめろ、と自分の声が叫んだ気がするがじきに聞こえなくなった。腰掛けたダンデをベンチから引きずり上げる。マントがだらりと力なく座面を撫でていく。
キバナに胸ぐらを掴まれながら、ダンデは瞬き一つしなかった。怖いくらいの透明度を保った金の瞳を見開き、「いつも言おう言おうと思ってたんだが」とまじまじとキバナの顔を至近距離で覗き込みすらする。
「キミの目、怒ると更に碧が深くなって綺麗だよな」
「……っ」
手が出なかったことを、どうか褒めてほしい、と内心キバナは思ったがそれはボールから飛び出したジュラルドンが咄嗟に振りかぶったキバナの拳を止めたからだ。そうでなければ傷害沙汰になっていた。同時にリザードンが噛みつく勢いで二人の間に首を捩じ込み、ギュア、と力ずくでキバナからダンデを引き剥がす。
よろめいて支えられたキバナは、背に合金の固さを感じながら深呼吸をする。一、二。「……大丈夫だ、ジュラルドン。……悪い」言えば、ジュラルドンは黙ってキバナの腕を離した。同時にダンデが「リザードン。戻れ」と声をかけ、ギッと牽制の視線をキバナへと向けていたリザードンも渋々下がって後方に控える。
「……ダンデ」
呆然と、まだ冷静になり切れないまま向き直る。
ダンデがオレさまにわざと負けようとする?
「……ありえない。オマエがそんな提案を受けるはずがない。そうだろう」
ダンデは答えない。ちらと挑戦的にキバナを見、わずかに首を傾げるだけだ。
そうだ、落ち着けドラゴンストーム。この男が八百長の提案など受けるはずがない。故意の敗北がガラル一似合わない男だ。ここにいるのは、そんなことをするくらいなら舌を噛み切る方がマシだと言い出しかねない男だ。
大体、この男にバトルで手を抜くなんて器用な真似ができるはずがないし。
それに。
「……わざと負けるなんて行為、他の誰よりもオマエ自身が憎んでいるはずだ」
「そうだな」ダンデが頷く。
「だからオマエは、オレさまとの試合で手を抜くなんて真似はしない」
「ああ」
「……受けたのには、何かあるんだよな? 事情が」
「内緒だ」取りつく島もなかった。「言えるのはここまでだ。キミを巻き込みたくない」
「ふざけんなもう巻き込まれてんだよ」
二人の勝負に不純物を持ち込まれて、はいそうですかと納得できるわけがなかった。キバナだって当事者だ。何が起こっているのか、知る権利があるはずだ。
だがダンデはこうと決めたことは頑として曲げない。
「何にせよ、キミのやることは変わらないだろう? 全力でオレを倒す。それだけだ」
話は終わりだとばかりに、ダンデがマントを翻して背を向ける。キバナにはダンデがどういうつもりなのだかさっぱり分からなかった。目の前の男は実はダンデに化けたメタモンで、キバナを騙そうとしているのだ、と言われた方がまだ納得がいく。それとも今見ているのは暗黒ポケモンが見せるという悪夢なのだろうか。
ふらつく足元を膝で支え、何とか言葉を絞り出す。
「……いいさ。何の話があっても、オマエを倒すだけだ」
「ああ、いいぜ」
振り返って帽子の鍔を下げる、その奥で燃える金の瞳。受けて立つと応えて見せる、その目の色に嘘はない。
「全力で来てくれ」