【再録】あの日とそのあと
十五歳(1)
何かがおかしい、とキバナが確信を持ったのは、チャンピオントーナメント一回戦第四試合の、相手が五体目の手持ちを繰り出したときのことだった。
体力の残り少ないサダイジャの背中越しに、飛び出してきたランターンの姿を認める。キバナは眉を顰めた。どちらかと言えば特殊受け運用のポケモンとは言え、ある程度H値には振っているだろうし一発で持っていけるかは微妙なところだ。だがキバナの控えにはまだフライゴンとジュラルドンがいる。このペースのままならば勝てる。
だが。
(……さっきのシザリガーだって、あの構成ならアクアジェットを持ってたはずだ。撃てば確実にオレさまのサダイジャは倒れていた。そうすれば足の遅い五体目に手痛い一撃を喰らうことは免れたはずだ——なのになんで来なかった?)
そのつもりで、キバナも五体目を出す準備をしていたのだ。 だが実際には、先手を取ったのはキバナのサダイジャの方だった。決まる地震、先制技を見せずにあえなく倒れるシザリガー。虚を突かれたキバナを置き去りに、相手は想定内であるかのようにボールを手に取り次を出す。
(ただの凡ミス——なのか?)
だが、そう流してしまうことはキバナの矜持が許さなかった。負けるつもりはないとは言え、キバナにとって相手は格上のジムリーダーだ。焦って先制技を出し損ねたのだろうなんて、ご都合主義にもほどがある。
それに
キバナはぎゅっとバンダナを深く被るように握った。サダイジャが微かに身体を揺らし端々に緊張を走らせる。ああ、だめだ、と首を振る。トレーナーの動揺をポケモンに伝えるなど、三流のやることだ。息を深く吸う。
「サダイジャ——地震だ!」
あり得るとすれば可能性は二つ。
アクアジェットが来るというキバナの読みが外れたか。
それとも——わざと手を抜いているのか、だ。
(けど何のために?)
わからない。
サダイジャがランターンの水技を受けて倒れる。ボールに戻し、よくやったな、と労りの言葉をかけてやる。
キバナが次のボールを放つと同時に、フィールドに残っていた砂嵐が晴れた。クリアになったスタジアムのバトルコートをふっと見渡す。
相手の選手とポケモン。
大波のように揺れる観客と、嵐のような歓声。
自分達を映すディスプレイ、所々焼け焦げと擦り切れの残る、鮮やかな草のコート。それをフライゴンの流星群が吹き飛ばしていく。
神聖なコート、なんて言うつもりはない。コートは単なるコートに過ぎない。
だがここが選ばれた一握りの人間しか立つことができない場所であることもまた事実だ。オレたちジムリーダーはこのチャンピオンリーグの頂点に立つ人間で、今まで倒してきた選手たちの勝敗まで背負っている。そりゃあそうだ。誰だって、弱い相手に負けたと思いたくないし思われたくない。そう思わせるような中途半端なバトルは、間接的に今まで戦って倒してきた者たちの格を下げることになる。だから誰もが負けられないし。
ましてや手を抜くなんてことはあり得ない。
「接戦を制し、一回戦を見事勝ち取ったのはキバナ選手だ——ッ‼︎」
実況の声がスタジアムに大きく響き渡る。
キバナはわずかに切れた息を整えながら、フライゴンをボールへと戻してやった。結局、ジュラルドンのキョダイマックスを見せるまでもなかった。手の内を明かさずに済んで有利に進める、と喜ぶべきところだろう。
本来ならば。
割れるような歓声が、薄膜一枚向こう側で聞こえている気がする。二人の善戦を讃える声だ。目の端に滲む汗を拭う。念願の勝利であるはずなのにおよそ実感がなく、コートの中心へ向かう地面がスポンジでできているかのようにふわふわと足元が覚束ない。握手をし、軽く挨拶を交わした相手が控室へ戻っていく、その背中をじっと見る。
勝った。
違う。勝たされたのだ。
この勝利は、オレさまが勝ち取ったものではない。
ふつりと煮えた腹の底が収まらず、急いで選手用の通路まで戻った。ガン、と苛立ち紛れに壁を拳で殴りつける。
こんなバカな試合があるかよ。
◇ ◇ ◇
「なぁアンタ」
控室からちょうど出るところを呼び止めた。あれ、キバナくん、と振り返った相手の人畜無害そうな表情に、キバナはポケットに手を突っ込んだまま憮然とした顔を返した。先程までは同じジムリーダー仲間だと思っていた相手だ。キバナは苛立っていた。
「さっきの試合、一体どういうつもりだ」
「……どう、って?」
「サダイジャをわざと倒さなかったろう」
「……何の話かな」
相手は心底訝しげに眉根を寄せた。それが演技なのか素なのか、キバナには判断がつかない。詰め方を間違えたか、と表情を歪めながら「アクアジェット」と端的に告げる。「撃たなかったのはなんでだよ」と。
相手がしばらく視線を巡らせ、ああと手を打つ仕草さえ白々しい。
「いや、実はアクアジェットは持ってなかったんだ。そうだな、入れるべきだったが」照れ臭そうに口元を隠して笑う。「完全に私の読み不足さ、キミの完勝だよ」
「……」
キバナは黙り込んだ。どうすべきか考えて——。
掌をくるっと返してニコリと笑った。
「……そうか? オレさま、やっぱりダンデを倒して最強になる男だからな。アンタも運が悪かったぜ」
「ああ。悔しいが、私はここまでだ。私の分も頑張ってくれよ、キバナくん!」
ニコニコと、友好的な言葉を交わす。じゃ、とお互い軽く手をあげて、今度こそ廊下の向こうへ去っていくユニフォームの背番号を見つめる。
そうだ、最初からこうしておけばよかったのだ。
「——ロトム」
『ロト』
「ヤツのこと尾けれる?」
『つけ……?』
「尾行だよ、尾行! こっそり後ろから追っかけんの!」
『ああ! この前キバナが観てたドラマでやってたやつロトね! お任せロト〜』
「んあー‼︎ わかったなら一々言わないでいいんだよ、かっこつかないだろ!」
——言われたとおり、負けてきましたよ。
——約束どおり取り分は山分けで……。
——賞金? ああ……ここで勝ったって、どうせチャンピオンには勝てませんから……。
(八百長、ね……)
ロトムの録ってきた音声を聞きながら、どうしたものかとキバナは唸った。怒りはもうない。いや、あるにはあるが、いつまでも負の感情に拘泥していても仕方がない。相手がそういう人間で、見抜けなかったのは未熟さ故だ。
しかし、流石に単なる一ジムリーダーであるキバナの手には余る状況だった。取り分は山分けだと言っていた。つまり選手の勝敗如何で金を得る人間がいるということだ——多分賭博だ。それも大金の動いている。個人間の数万円の賭けじゃあ、チャンピオンリーグでわざと負けるに足る利益が得られるとは思えない。
だが賭博は厳しく取り締られている。
それに。
(……。『どうせチャンピオンには』……か)
キバナはジャージのポケットに両手を突っ込み、それを揺らしながら思案する。
放置するわけにもいかないだろう。
誰に相談するのが得策だろうと考えながら、キバナは客席へと足を向けていた。その頭上を、トーナメント二回戦、第一試合を始めます、選手は控室で待機してください、というアナウンスが通りすがる。スタッフが慌ただしく行き来する。キバナの出番はまだ先だ。ちらとスマホロトムを見るが、映し出されるバトルコートにはまだ誰も入場していない。
ローズ委員長……に相談するのがやはり一番無難だろうか。選手が違法な利益供与を受けて興行が失敗することは、彼の望むところではないだろう。それに他の誰が関与していても、彼はそういった不正には手を染めない気がした——キバナはこの数年間、自分が間近で見てきたローズという男の言動を思い返す。きっと彼は、唇に人差し指を当ててこう告げるに違いない。「キバナくん」声まで鮮明に聞こえるようだ。「悪いことというのは必ずバレるものです。そして信用は、一度失えば取り戻すのに大変な労力と時間がかかる。そのコストを賭ける価値のある悪事かどうか、よく考えた方がいいですよ」
(言いそうー……)
すべてはキバナの想像だったが、当たらずとも遠からずではないかと思う。目的のためにはきっと手段を選ばないこともできるひとだが、今の彼は信用を支払う価値を金銭には見出さないだろう。
そういう意味では——人間性を考えれば不正に関わっていないだろうとキバナが断言できるのは、リーグ関係者で数えればローズの他にももうあと一人。
だがそちらに相談することはキバナには躊躇われた。別にプライドが邪魔をするというわけではなく、単純に八百長が起きているという事実を知られたくなかったし。
何より、あの言葉を聞かせたくはなかった。
アイツにだけは。
「キバナ」
「うおっ!」
耳元で急に名前を呼ばれ、キバナは思わず髪の毛も逆立つほど飛び上がった。その勢いで体を反転させ距離を取り、通路の壁にビタリと張りつく。バクバクと心臓が破裂しそうなほど煩く跳ね上がる。
振り返ったキバナが目にしたのは、今まさにその姿を思い描いたライバルの姿だった。
チャンピオン・ダンデ。
「ななななんでオマエここに」
「? そりゃあ、今日ここで開かれてるトーナメントに、オレも出てるからだぜ」ダンデはサラリと自然な動作で随分と伸びた菫髪を後ろに払い、帽子の下に太陽もかくやの笑顔を浮かべた。翻る真っ赤なマントの表側は、今日もスポンサーのロゴで大賑わいなんだろう。「そうだキバナ、今年はトーナメント表、分かれてたよな! 決勝で待ってるんだぜ!」
にっ、と笑うダンデは、自分が勝ち上がることを疑いもしていない。よかった、コイツは何も知らないみたいだ。ほっとする反面、キバナは焦りに焦って叫ぶ。
「オマエ次試合だろうが⁉︎」
言いながら、キバナはトーナメント表を脳裏に思い描いた。ダンデが左端でキバナが右だ。チャンピオンとはいえ優遇措置はないから一回戦から参加をし、そして当然に勝ち上がっている。次は二回戦、第一試合。最近ではあまりにダンデの戦果が目覚ましすぎて、それをあまりよく思わないリーグ委員からチャンピオンの試合は決勝のみに絞ろうなんて議論も出ているらしい。ダンデは嫌がりそうだなと思う。試合数が減るから。だが、ダンデとの圧倒的な力量さを見せつけられて心を折られるトレーナーが減るのなら。そちらの方がもしかしたら、いいんじゃないのか——と一瞬考えてしまった己の頬をキバナは抓る。違う、オレさまがそれがいいのは、どうせダンデと当たるのならせっかくなら決勝でやり合いたいからだ。
いやそんなことよりも。
「実はな」
次の試合の出場選手であるはずのダンデが、声を潜めて内緒話のように囁く。
「トイレに行った帰りに、道に迷ってしまって」
「こっちだこっち‼︎」
ああもう、世話の焼けるチャンピオンさまだ、とその手をグローブ越しに引いてやると、嬉しそうに握り返された。熱心に注がれる視線を首筋に感じながら来た道を二人で足早に戻る。コイツ、面白がってる場合じゃないだろ。チャンピオンが迷子で不戦敗なんて格好がつかない。もしかしてチャンピオンの試合数を絞ろうというのも、試合と試合の合間に迷子になってどこかに行かれたら困るからなんじゃあないか、と疑いもするというものだ。
けれどコートに立てば一変、その立ち姿は相手を圧倒する威厳を纏う。
手繋ぎで控室に駆け込んだ勢いのままダンデをコートへと送り出したその瞬間、キバナは通路から陽光の中に吸い込まれていくダンデの背中を見た。まっすぐに前だけを向く背中。はためく王者のマントに、キバナはじっと目を眇める。
コイツにだけは、選手の中に八百長をしている人間がいるなんて知られたくねえな、と思う。
勝ちを諦めて不正に走っているヤツがいるなんて。
キバナはダンデという男を多少なりとも知っているつもりだった。いつもバトルに全力で、そして相手にもそうであってほしいと常に願っているようなヤツだった。それが分の悪い望みだということを、本人はきっと自覚しているから口にはしない。他人には何も求めない。けれど祈らずにはおれないのだ。
だからこそ、ドラゴンストーム・キバナは、チャンピオン・ダンデの願いを満たしてやりたいと思う。
そうだ。
オレさまはただ、ダンデが傷つくのを見たくないのだ。